#女性の声_HappyWomensMap
🌹貴女の毎日を変える #女性の声
日本の女性史・郷土のヒロイン
Celebrate Heroines with Map!
Share Your Love & Story Changing Women's Days !
Happy Women's Map -Japan
日本のヒロイン Japanese Heroines
私たちの歴史は色々な分野で色々なカタチで活躍する女性たちによって彩られています。Happy Women's Mapで全国の地域・社会・世界に貢献した女性たちをお祝いして広く対話を育みませんか?
Our history is coloured with many amazing women who have done special archivement in a particular field. This Happy Women's Map celebrates heroines who made significant contributions to region, society, and world.
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あなたを元気にする女性の逸話をお寄せください!
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東京都 Tokyo-To
「女が女の肩を持たないでどうしますか!」
"Become a good ally for women. What if we don't?"
長谷川 時雨 女史
Ms. Shigure Hasegawa
1879 - 1941
東京都中央区小伝馬町 生誕
Born in Kodenma-tyo, Chuo-ku, Tokyo-to
長谷川時雨女史は日本初また唯一の女性歌舞伎脚本家であり、日本で初めて女性のための思想・文学・芸術に関する雑誌『女人藝術』を発刊。日本の女性の文化芸術活動を支えました。
Ms. Hasegawa Shiguru is the Japan's first female Kabuki scriptwriter, and principal moving force for Japanese women's art by founding a female literary journal "Nyonin Geijyutsu".
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「あんぽんたん」
時雨こと康子は東京日本橋の御用呉服屋の息子で免許代言人(弁護士)の父と、没落士族の娘で苦労人の母親のもと6人兄弟の長女として生まれます。病弱ではにかみ屋の「アンポンタン」として、もと御殿女中で呉服商家を盛り立てた祖母に溺愛されて育てられます。祖母や母の教育方針で学校へは上がらず、寺子屋での読み書きそろばんに裁縫・長唄・日本舞踊・二絃琴・生け花・茶の湯を身に着けます。母・多喜は、康子が読書をすると目の前で本をビリビリに破って燃やし、康子を激しく殴打して蔵に閉じ込めます。祖母・小りんは、康子が下田歌子の私塾に通うのを阻止、かわりに康子を連れて芝居小屋へ通います。14歳になって池田詮政侯爵家に行儀見習い奉公に出されると、康子は給料を書籍につぎ込んで夜分に読書三昧するも、3年目で肋膜炎を病んで家に戻されます。文学に目覚めた康子は父に頼み込んで、著名な歌人で国文学者の佐佐木信綱が主宰する「竹柏園」に通うことを許されます。康子は朝早くに家事を済ませるとご飯もろくに食べずに通りを急いで、嬉々として源氏物語や万葉集の古典を学びます。
「いやだいやだいだ」
18歳になった康子は、両親の命で成金で評判の悪い鉄問屋・水橋家の次男・信蔵と結婚。嫁ぎ先では上品ぶってると悪口を言われ、書きものをするとはばかりに捨てらます。康子は家族の外出時にはひとり留守番をして読書に浸ります。しばらくして、父・深造が水橋家絡みの東京市議会を巻き込んだ贈収賄事件により公職を辞します。康子は離婚を申し出るも叶わず、実家から勘当された夫・信蔵とともに、岩手・釜石の鉱山町に移り住みます。しかし夫・信蔵は東京へ行って放蕩三昧で帰ってこず、康子は釜石で独り小説を書いて明け暮らします。22歳の時に雑誌『女学世界』に投稿した短編『うづみ火』が特賞に選ばれ、投稿を繰り返す中で注目を集めるようになります。25歳で離婚を決意して帰京、隠居中の父・深造と佃島の屋敷に住みながら、築地の女子語学校(今の雙葉学園)の初等科に通って英語を学びます。26歳のときに読売新聞に応募した戯曲「海潮音」が演劇界の大御所・坪内逍遙に絶賛されて入選、新派の喜多村緑郎、伊井蓉峰らによって上演されます。初めての女性脚本による歌舞伎として舞台挨拶に立ったり、ブロマイド写真を売り出して注目を集めます。
「まっしぐら」
康子は逍遙に師事しながら新舞踊劇を創作、日本海事協会に当選した「覇王丸」を「花王丸」と改題して市村羽左衛門と歌舞伎座で上演します。この頃、釜石時代から文通していた中谷徳太郎と交際をはじめ、共同で『シバヰ』を発行。六代目尾上菊五郎らと結成した『舞踊協会』『狂言座』でも彼の作品を公演します。30歳からは、古今の女性を題材にした美人伝・名婦伝を『読売新聞』『東京朝日新聞』『婦人画報』『婦人公論』などに発表して話題を集めます。その頃、ひとまわり年下の作家・三上於菟吉から熱烈な求愛を受けて結婚。献身的に夫を支えながら、甥っ子を引き取り、母と旅館の経営を始め、一家の大黒柱として家事に仕事に追われます。やがて売れ出した夫・於菟吉が妾を囲い芸者を侍らせ放蕩三昧となる中、康子は44歳で岡田八千代との同人雑誌『女人芸術』を創刊。女性作家たちに自由な活動の場を与えるも、関東大震災により2号で廃刊になります。
「女性の力」
放蕩のどぶさらい役をさせてきた夫・於菟吉は、49歳の康子に資金援助を申し出ます。康子は早速、仲間割れで廃刊していた『青鞜』メンバーを迎え入れて『女人芸術』を再興。自伝的作品『旧聞日本橋』の連載を始めて人気を集めます。康子は思想弾圧を受けて困窮する左翼の女性作家を受け入れ、度々発禁処分を受け資金に行き詰まる中、康子は『輝ク会』を結成して機関紙『輝ク』を創刊。「女性の共力がなくて強い国はない」。日中戦争開始とともに『皇軍慰問号』を発行、銃後慰問団体『輝ク部隊』を結成、陸海軍資金援助・監修により3冊の文集『輝ク部隊』『海の銃後』『海の勇士慰問文集』を制作。脳血栓で倒れた夫・於菟吉を看病しながら彼の新聞連載を代筆しながら、『輝ク部隊』を引き連れて中国厦門から広東へ、南シナ海を渡って海南島へ、さらに仏印まで足をのばそうというところで戦況が激化して引き返します。疲れ果てて帰国すると、体に鞭打って日本女流文学者会を発足する中で発病、61歳で没します。「めであがむ質のものではなく、女性一般の真の力が社会的に押し上げてきた来た喜びである。」
岡田八千代、野上弥生子、神近市子、山川菊栄、三宅やす子、島本久恵、富本一枝、高群逸枝、長谷川春子、湯浅芳子、尾崎翠、野溝七生子、宮本百合子、望月百合子、真杉静枝、大谷藤子、戸田豊子、平林英子、林芙美子、中本たか子、村山籌子、佐多稲子、竹内てるよ、平林たい子、円地文子、松田解子、矢田津世子、大田洋子、若林つや、田村俊子、柳原白蓮、平塚らいてう、長谷川かな女、深尾須磨子、岡本かの子、鷹野つぎ、八木あき、坂西志保、板垣直子、中村汀女、大谷藤子、森茉莉、窪川稲子、田中千代、大石千代子、吉屋信子らとともに女性の自由な活躍の場を広げました。
-東京都中央区立郷土資料館 Tokyo Chuo City Museum
「日本の娘さんたちは何という従順しい素直な女なんだろう」
“Japanese girls are so mild and obedient.”
高木 徳子 (旧姓:永井 徳子)女史
Ms.Tokuko Takagi
1891 - 1919
東京都千代田区神田神保町 生誕
Born in Jinbo-cho, Kanda, Chiyoda-ku, Tokyo-to
高木 徳子(旧姓:永井 徳子)女史は日本初のミュージカル女優です。アメリカ・イギリスでショーダンサーとして活躍後、日本で初めてバレエ、スネークダンスを披露。演出家の伊庭孝と「歌舞劇協会」を結成して浅草オペラの種をまきます。「離婚訴訟」ならびに「妻の職業的独立」を主張して話題になります。
Ms. Noriko Takagi (Noriko Nagai) is Japan's first musical actress. After working as a show dancer in the United States and England, she performed ballet and snake dance for the first time in Japan. She formed "the Song and Dance Theater Association" with director Takashi Iba and sowed the seeds of Asakusa Opera. She has become a hot topic by claiming ``divorce litigation'' and ``wife's professional independence.''
「大陸花嫁」
徳子は、沼津藩出身の元旗本武士で明治政府の印刷局技手を勤める父・脆一と、沼津藩評判の美人であった母・タンのもと質素で厳格な家庭で8人きょうだいとともに育ちます。母親が急逝すると、徳子は神田高等女学校3年次の16歳の時、神田宝石店の長男で13歳も年上の高木陳平に嫁ぎます。4か月すると、2人でアメリカ行きの船に乗り込みます。写真結婚で単身アメリカに渡る花嫁達が大勢同船しており、シアトル上陸後に泣き出したりごねたり逃げ出したりする花嫁たちをなだめすかすのに徳子は大奮闘します。汽車で大陸を横断しニューヨークにたどり着いたのはクリスマスイブ当日。ニューヨークの明るい夜の街に目を見張ります。夫婦で住み込みの家政婦の仕事にありつくと、しばらくして友人の誘いで、夏のオハイオ州カントンで日本茶屋を手伝います。徳子は嫁入り道具として持参していた着物を着て給仕をして評判になります。続いて、隣のペンシルバニア州ピッツバーグで冬場の茶店を開きながら下宿屋をはじめたり、再び夏になるとマサチューセッツ州レビア海岸で日本茶店を開きながら雑貨屋を始めたり、冬にボストンに移ってショーウィンドウの生きマネキンをしたり、夫婦で奮闘しますが資金もやがて底をつきます。そこでボストンンの寒い冬を乗り切るために、10年前にアメリカで人気を博した天勝一座の水芸を真似て手品を始めます。徳子は婚礼衣装である紫の振袖で舞台衣装をこしらえると、音楽に合わせて踊りながら縄抜け・当てものなどを官能的にこなし人気者となります。地方巡業とボストンを行き来する1年半に及ぶ旅興行で7千ドルを蓄えると2人はニューヨークに戻ります。
「ショーダンサー」
この頃アメリカでは中流階級向けの洗練された技芸、高度な舞台技術が求められうようになります。陳平は全資金を徳子のダンス修行につぎ込みます。20歳の徳子は本格的なショーダンサーを目指してダンス修行に踏み切ります。マダム・デビビラが主宰するブロードウェー・ステージ・ダンシング学院に入学。18名の年下の生徒たちの嘲笑に耐えながら基礎からダンスを学び始めます。やがてめきめき上達して「マダム徳を見よ」と激励され、教師の代稽古を任せられるようになり、半年後には成績優秀で卒業。マダム・デビビラ主催の舞台で活躍するようになります。するとその舞台を見たアメリカで有名なバレーマスターであるマダム・サラコに気に入られ、内弟子としてバレー、パントマイム、スペイン舞踊、インド舞踊、声楽を学びます。上流家庭に招かれて踊るようになります。陳平も一緒にパントマイムを習ったり活動写真と劇の研究をしながら、街から離れたところに夏場の喫茶店を開業したり、冬場にはホテル兼レストランを経営します。2年の修行を経て徳子と陳平は日本人の手品師・活動役者・踊り手・歌手を加えて一座を結成、アメリカ各地を巡業して周ります。翌年、海を渡ってイギリスロンドンにに降り立つと、貴族また富豪の出入りするのキャバレー・トロコカデロに夫婦で出演を果たします。1週間の給料が75ドルしかなかった手品師時代から1500ドルになり、ロンドン中の新聞に称賛される徳子にモスクワでの1カ月公演の話が舞い込みます。続くベルリン公演を前に第1次世界大戦が勃発。2人は急遽8年ぶりに日本に帰国します。
「オペラ女優」
徳子のもとに帝国劇場から出演依頼が舞い込みます。イタリア人降り付け師のジョバンニ・ローシーのもと、バレエの人形の出てくるシーンを集めたメドレー仕立ての「夢幻的バレエ・人形」で徳子は日本人で初めてトゥシューズを履いてバレエを披露。軽やかにつま先を立てて蝶のように舞い踊る徳子に観客は魅了されます。しかし、クラシックバレエ出身のローシーとの対立がひどく、ローシーの秘蔵っ子・沢モリノが抜擢されると徳子は帝国劇場から締め出されます。徳子と陳平は有楽座で舞台活動を始め、高木徳子ダンシング・ススクールを設立します。この頃から陳平の酒乱がひどくなり、徳子はガス管を加えて自殺を図ったり、就寝中の陳平をカミソリで切りつけたりしはじめます。徳子は陳平と別居、翻訳家で演出家である伊庭孝の後押しで、髙木徳子一座を創設します。横浜から横須賀に渡る旗揚げ公演を行い、アメリカ仕込みのダンス・芝居・声楽で観客の目を引きます。パリのキャバレーで大流行していた「サロメダンス(スネークダンス)」、「白黒ダンス(黒い幕の前で黒服に白帽子・白靴・白蝙蝠傘の男と、白い下着に白手袋の女が躍る)」に観客は大喜び。アメリカ寸劇「恐ろしき一夜」で妻を冷酷に扱う金持家庭を舞台に夫婦また女の自立を問うストーリーは浅草で大歓迎されます。
「問題の女」
次々と徳子のもとに興行依頼が舞い込む中で、陳平から突然興行中止命令を受けます。徳子は「離婚訴訟」を起こすとともに、妻の職業的独立を主張する「身分保全の仮処分」を申請します。すると陳平は「同居請求」を訴えて対抗します。当時の旧民法では婚姻中の同居は夫にとって妻に対する絶対的権利であり妻にとって拒むことのできぬ義務とされていました。徳子はスキャンダラスな「問題の女」として社会問題にされ、徳子の主張は全て退けられます。業を煮やした陳平は徳子一座の興行権を興行師・垣田一に売り渡し、総勢三十人で劇場に殴り込みをかけさせます。徳子は興行師・竹内一郎に仲介役を依頼して難を逃れ、陳平を1000円で興行から手を引かせます。地方巡業を始めると、徳子の人気に目を付けた松竹合同会社と契約を結んで昼夜二回の公演をこなしながら、内弟子達に稽古をつけ、企画・演出・振付けを一人で取り仕切ります。徳子の人気は上がる一方で、徳子の疲労が目立ち始めます。病気を押して舞台に立っていた徳子は公演中に倒れ入院します。それでも竹内は強行スケジュールを次々と勝手に組み、療養中の徳子を置いて一座を連れて巡業に出かけます。
「ミュージカル女優」
徳子はストレス発作を起こすようになり、一座は解散。それでも3か月後には、徳子は伊庭孝と本格的なミュージカルを目指し「歌舞劇協会」を結成します。赤坂・演技座で初日を迎えると、美女が蛇に変身するインドの伝説を題材にした『古塔物語』で徳子はセリフで歌で得意のスネークダンスで、夫に永遠の憧れを抱かせた女神に嫉妬する妻を演じて大盛況。すると舞台上で突然暴漢に襲われ、興行師・垣田一派の執拗な襲撃が再会。興行仲裁役の曾我廼家五九郎の尽力で和解が成立すると、徳子と伊庭は根岸興行部と契約を結んで浅草の常盤座で喜歌劇『女軍出征』を上演。アメリカで人気を博した男装して軍隊に潜り込む少女を主人公にした物語で、徳子の歌う劇中歌「チッペラリーの唄」「ダブリン・ベー」など英語のラブソング、「ペッパーポットダンス」「セーラーダンス」「スコットランドの剣舞」など本場仕込みのショーダンスに大勢の男子学生が押し寄せます。徳子の『サロメ』の人気はすさまじく延長公演を行う中、陳平が連日楽屋に現れて座員に絡んで公演を妨害しはじめます。追い打ちをかけるように、徳子に陳平と同居すべしという離婚訴訟判決が下ります。「米人化した原告の行動は、日本古来の美風良俗に反する」。徳子のストレス発作はひどくなる一方。
「興行主の愛人」
徳子は松竹合同会社との興行契約を結んで中国・試行・九州・関西と6カ月にわたる地方巡業に出発します。松竹が用心棒として雇った嘉納一家親分・嘉納健二のもと、陳平ならびに垣田一派の妨害もなく、徳子と伊庭は各地で熱狂的に迎えられます。長崎では各国領事が馬車で乗り付け、寄港中のアメリカ水兵たちが劇中歌を大合唱します。徳子は松竹合同会社と専属契約を結ぶと、松竹の仲介のもと3000円で陳平とようやく離婚が成立。するとすぐに妻帯者である嘉納健二に愛人関係を迫られます。当時の旧民法では、妻の場合は夫以外の男性と情を通じた場合は直ちに強姦罪が適用されるのに対し、夫の場合は未婚の女であればお構いなし、例え夫帯者であっても夫から告訴されない限り姦通罪は適用されませんでした。公演を続けるために徳子は嘉納の愛人となり、巡業を中心とする国民的創作オペラ運動を目指す伊庭は嘉納に命じられるがまま徳子のもとを去ります。関西はじめ中国・九州で絶大な勢力を振るう嘉納には誰も逆らえません。徳子は嘉納に強いられた過密スケジュールで、観客に女客や家族連れの客の姿がほとんど見られないことに複雑な思いを抱きながら踊り続け舞台上で倒れます。搬送先の大牟田市の村尾病院で29歳の短い生涯を閉じます。「口惜しい口惜しい」「頭が痛い頭が痛い」
-『狂死せる高木徳子の一生』(高木陳平(述)/黒木耳村(執筆)/生文社1919年)
-『舞踏の夫入 新帰朝の高木徳子』(高木徳子(述)/万朝報1915年)
-『舞踏に死す ミュージカルの女王・高木徳子』(吉武輝子/文藝春秋1985年)
「世の中の人々に私共が如何に潔白であったかを知らせて下さいませ。」
"Please let the people of the world know how innocent we were."
浜田 栄子 女史
Ms Eiko Hamada
1903 - 1921
千代田区駿河台 生誕
Born in Chiyoda-ku, Tokyo-to
浜田 栄子 女史は、日本で社会現問題になったミステリー事件の悲劇のヒロイン。若い才女の自殺を巡って、ミステリー小説のように新聞で1か月弱に渡って連載記事が掲載されました。
Ms. Eiko Hamada is the tragic heroine of a mystery case that became a social issue in Japan. The story of the young talented woman's suicide was serialized in newspapers for nearly a month, much like a mystery novel.
「無邪気な8才と21才」
栄子は、産婦人科医の父・浜田玄達と、母・捨子のもとに2人きょうだいとして生まれます。玄達は産婆養成所また日本産婦人科学会を創設、宮内省御用掛また帝国大学医科大学長を退官後は私立病院を経営するなど多忙を極めます。捨子は乳母に2人の子育てを任せたきり、栄子におしゃれをさせることもなく、捷彦が連れてくる友人たちに構うこともなく、自分事に忙しくします。栄子はピアノに熱中しながら学業優秀で、お茶の水付属小学校では昭憲皇太后の前で朗読を披露。兄・捷彦は花柳に足を踏み入れ放蕩を始めます。栄子8歳の時に、母の甥・野口亮が浜田家から早稲田大学商学科に通いはじめます。
「見違えるほど大人びてきた16才と29才」
栄子が12歳のときに父・玄達が逝去。父親の遺言書から親戚筋が外されます。「一家の重大事富富むることは(友人の)緒方正規、(門下生の)松浦有志太郎、(医師)佐伯理一郎、(家政顧問弁護士)尾越辰雄の4名に諮りて決めよ。病院は辻・小畑の両氏で永続すべし、難しい場合は前4氏に諮れ。資産は半額以上を捷彦に、栄子には後日捷彦と捨子にて相当の処置を為し、栄子はこれに快く服すべし。所有地物件は全て捨子に。親族から申し出のあるときは尾越辰雄に諮れ。」兄・捷彦は廃嫡され芸者と結婚して渡米。お茶の水女学校に通い始めた16歳の栄子は、大学を卒業して兵役に就く甥・野口亮との結婚を望むようになります。
「ラスプーチン」
当時、30歳未満の男と25歳未満の女が婚姻をするには父母の同意を得なければなりません。16歳の栄子と29歳の亮は結婚の承諾を得るために、捨子はじめ尾越・緒方・松浦・佐伯の4氏を訪ねます。緒方夫婦から次男坊を、尾越夫婦から知り合いの医学生を結婚相手に勧められた栄子は断固拒否。一度、他家に養女に出てから野田家に嫁入りすることに決まります。なかなか養子縁組先が見つからない中で、栄子が身ごもります。すると尾越弁護士は小畑博士に病院を売却して共同経営者となり、病院に隣接する土地を和歌山の富豪・西村伊作に売却して仲介料を奪い、駿河台の自宅を売却して中野に移します。栄子は長男を出産するも早産で夭折。私生児として届け出ます。4氏は栄子にアメリカ留学を勧めます。「10年修行の後、野口も貴女も立派な紳士・婦人となったことを認めてからお渡しする。」
「18歳の毒りんご」
英子は殺鼠剤を服用して自殺を図ります。父の浜田病院を引き継いだ小畑院長が治療にあたり命を取り留めたはずが、24時間後に突然心臓発作を起こして逝去。アイスクリームとミルクを食べた数時間後でした。栄子は亮と母親・捨子あてに2通の遺書を残します。栄子に遺産は与えられず、遺骨は野口家に引き取られ、婦人矯風会と廊清会に一千円(今の300万円程)ずつ寄付されます。
「恋しき亮様
私は遂に最後の手段を取りました。私は死にます。
そしてあなたに申訳を致します、考へて見れば私は何といふ不幸な女でせう。又あなたは何といふ不幸な男でせう(併し考へて見れば三年間といふものあなたから随分愛されて暮した事は幸福でした) 。母がもう少し理解に富んでいた人でしたら私共は此の様な不幸を見る事は決して決してなかった事と信じます。しかし子として親をうらむ事は出来ません。私は母には充分に同情を致します。私は此の広い世の中に心から私を理解し心から私を愛して下さった人はあなたより外に一人もありません。
私はあなたに最後の御願ひがあります。私の死んだあとは、どうぞ私の考へのシソウを世間に発表して下さいませ。そして世の中の人々に私共が如何に潔白であったかを知らせて下さいませ。後に残ったあなたはどうぞ紳士としての立派な行くべき道にしたがって下さい。さうして、私があなたを一生つれそふ夫に選んだ事に付いて裏ぎらない様にして下さいませ。又あなたに対して男子としての面目をむざむざにふみにじった尾越たちに対しても紳士といふことを忘れずに堂々たるフクシュウをして下さい。相手が如何にヒレツでもあなたは何処までも、紳士といふ事をお忘れ下さいますな。そしてあなたの年老いたる、御母様や御姉妹のことを忘れずに決して早まったことをして下さいますな。私はあなたが男らしいフクシュウが立派に出来る事と、貞淑な奥様を求められ楽しい家庭を得らるる事を神様に祈ります。あなたの将来幸多き事を祈ります。どうぞ私といふものを永久にお忘れなさらないで下さいませ。私の死体はどうぞお引取り下さいませ。私のかたみはあの指輪で御座います。どうぞ御伯母様、おとめ様、みね子様皆々様によろしく。私はあなたの温かい胸に抱かれて死にとう御座います。一人淋しく死んで行く女をあはれんで下さいませ。せめて私の冷たい死体があなたのおそばにまゐりましたらだいてやって下さいませ。
栄子
恋しき夫の君へ」
「御母様私はこの世を去ります。私は死んで御母さまへの不幸の罪と野口への申譯を致します。今さら愚痴を申すようでございますが、御母さまが私の一生のお願いを通して下さったならどんなに幸福だったでしょう。私は死ぬまで野口が立派な紳士であることを証明いたします。将来有望なる青年紳士を罪なくして両目を踏みにじった人々を私は憎みます。私は今頭が何だか分からなくなりました。私は行きましょう。御父様や愛児のそばに。御母様はどうぞ幸福にお暮しください。私の死骸はどうぞ野口にお渡し下さい。私の最後のお願いでございます。どうぞ御母様お願い致します。
栄子
御母上様 御前に」
-『恋は思案の外 : 人生哀話』(水島尺草 著 / 久盛堂1921年)
-『浜田栄子恋の哀史』(椒魚生 著 / 日本社1921年)
-『逝ける栄子の為めに』(野口亮 著 / 誠文堂1921年)
「ごはんで家族も世界も平和に」
"Peace for the family and the world with meals."
田中 愛子 女史
Ms. Aiko Tanaka
1925-2018
東京都荒川区 生誕
Born in Arakawa-Ku, Tokyo.
田中愛子女史はマクロビオティックの先駆者です。日本発世界初マイクロビオティック創始者・桜沢如一の愛弟子として、ベルギー・フランスをはじめとして25か国以上で玄米と季節の野菜と伝統発酵食を中心とする自然食品運動およびオーガニック食品運動を広めながら、王様から道端で転んでいる病気の人まで健康になるように食事療法に取り組みました。
Ms. Aiko Tanaka, as a beloved disciple of Joyichi Sakurazawa, the world's first microbiotic pioneer from Japan, dedicated herself to promoting the natural food movement and organic food movement in over 25 countries, including Belgium and France. She focused on brown rice, seasonal vegetables, and traditional fermented foods. Moreover, she applied dietary therapy to help people from kings to those suffering from illnesses on the roadside to achieve better health.
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「虚弱体質のお嬢様」
愛子は1925(大正14)年に東京都荒川区に建設会社を営む両親のもと4人きょうだいに生まれます。砂糖漬けの毎日で虚弱体質、毎晩窓辺で飽くことなく星空を眺めて過ごします。14歳の時に許嫁を軍事訓練中に破傷風で亡くし結婚はしないと決めます。日中戦争がはじまると父親は満州・羽田の飛行場建設に没頭、その間に母親は病に倒れます。父はドイツから医師を招いたり、東西の薬を取り寄せたり、温泉療法に連れていったり、家族の努力も空しく母は3年で逝去。愛子は母の最後の夜に、桜沢如一氏と出会い食養指導を受けます。棚にはご飯茶碗とみそ汁椀と小さな漬物皿のみ、僧の様な食事で愛子はじめ家族は元気を取り戻します。父は如一の活動を支援するべくビル・土地・資金を提供。愛子は東京家政大学に通いながら、如一先生の講義を聴講しに京都に九州に出かけます。
「武者修行」
日本の敗戦間近、愛子は桜沢如一はじめ賛同者とともに山梨県にPU(Principal Unique)村を建設、晴耕雨読の生活をしながら健康を土台とした平和運動を続けます。畑を耕し玄米を育てる傍ら、野草はじめ漢方の研究に従事、次々と送られてくる病人を食事療養と手当で介抱します。その頃、愛子は父の喘息を西洋手術で治そうとする2番目の母を追い出し、食事療養で完治させます。終戦後、20代半ばの愛子はマクロビオティックを世界に広める修行に出ます。ベルギーではブリュッセルの市民広場に隣接したビルの提供を受け、茶道・華道・合気道・東洋哲学とともに自然食を広めます。ベルギー薬科学会会長夫妻、フビラオ皇帝の叔母はじめたくさんのインテリ層・富裕層の患者を治療します。フランスのパリでは貴族議員はじめ財界人、若きプリンス・プリセス、俳優また歌手・俳優を治療します。インドでは石谷上人の寺で、カースト制のもとひどい扱いを受ける孤児の世話をします。
「マクロビオティックの妖精」
帰国後、愛子は桜沢如一・リマ夫妻とともに食養病院に従事する傍ら、たくさんのマクロビ道場生を世界に送り出します。さらに、禅の廃寺を復興して欧州の麻薬中毒の若者を受け入れ治療したり、料理教室を開いたり、マクロビオティックの懐石料理を考案。如一の死去、愛子はリマ夫人とともに如一の遺言「精神文化オリンピック」開催に奔走。世界14か国100人余りの参加者と一緒に1日1ドルの予算で 禅寺に寝泊まりしてマクロビオティック菜食をしながら日本を1か月かけてめぐり、最終目的の広島まで平和行進をします。その後も、愛子はリュックサックをしょって世界を飛びまわり、具合の悪そうな人を見つけては食事を提供して元気にしてまわります。
「人間らしさに徹底せよ!」
"Be Humane!"
緒方 貞子 女史
Ms. Sadako Ogata
1927 - 2019
東京都麻布区 生誕
Born in Asabu-ku, Tokyo-to
緒方 貞子 女史は女性初の日本女性初の国連日本政府代表部公使、女性初の国連難民高等弁務官、JICAの初代理事長、日本における模擬国連活動の創始者です。難民救済と人間の安全保障のために世界中を駆け巡りました。
Ms. Sadako Ogata was the first woman in Japan to serve as the Ambassador of Japan to the United Nations, the first female UN High Commissioner for Refugees, the inaugural Chairperson of JICA (Japan International Cooperation Agency), and the founder of Model United Nations activities in Japan. She has been tirelessly working around the world for refugee relief and human security.
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「私の友達がいた国が何であんなことをするようになったのだろう」
貞子は外交官の家庭に育ち、米国、中国で幼少期を過ごします。4歳のとき、曽祖父・犬養毅の突然の死をサンフランシスコで知ります。「軍部はよほど悪い人たちに違いない」。身体を動かすことが大好きなおてんばで、いちばん楽しみなのは運動会。長距離は苦手でも短距離は得意中の得意。外をたくさん走り回って活発に過ごしていると、日中戦争が勃発、勝手に歩き回ることさえできなくなります。8歳の時に一家で帰国、まもなく日米戦争が始まって空襲で焼き出され、疎開先の軽井沢で終戦を迎えます。聖心女子大学入学すると、午前中に授業をすませて午後はテニスに打ちこみます。初代学長キャサリン・エリザベス・T・ブリットから女性としてリーダーシップをとるよう背中を押され、米ジョージタウン大やカリフォルニア大バークレー校の大学院で学びます。「一体日本はどういう国だったのだろうか、どうしてああいう戦争になったのだろうか」、満州事変に関わる政策決定過程について論文を書いて政治学の博士号を取得します。その最中に、後の日本銀行理事・緒方四十郎と結婚。夫に伴って大阪・ロンドンで子育てに奔走、しばらくして国際基督教大学の非常勤講師として外交史の教鞭をとります。1週間に1日の講義のために、家事を終えて子供を寝かしつけた後に毎日猛勉強します。ある日、市川房枝女史が突然訪ねてきて、「どうしても行ってほしい」、強い推薦により国連総会の日本政府代表団に参加、女性初の国連日本政府代表部公使に起用されます。子育て中でためらう貞子に、「みんなでやれば何とかなるから、行きなさい」父と夫も全面的にバックアップします。
「一番大事なことは苦しんでいる人間を守り、彼らの苦しみを和らげること」
貞子は国連総会の中の人権委員会の特別報告者として、軍事政権のもとで人権侵害が非常に大きいと考えられていたビルマ(現在のミャンマー)に人権交渉に向かいます。さらに、上智大学教授として研究をしながら、日本政府カンボジア難民救済実情視察団団長としてタイ国境の難民キャンプを視察します。その頃、日本からの拠出金ならびに日本人女性への期待が高まり、64歳の貞子は1991年に第8代国連難民高等弁務官にアジア初・女性初として就任、さらに2度再任され10年間にわたって従事します。貞子は難民問題を抱える紛争地を防弾チョッキ・ヘルメットで積極的に訪れる「現場主義」を貫きます。1年の半分は現地で過ごしながら、難民たちがどんな経験をしてここに至ったのかを理解するために、ひたすら彼らの声に耳を傾け、さらに地域の政治的なリーダーとも交渉します。湾岸戦争では、「内政干渉」と反対する各国外交官を説得して回って、トルコへの入国を拒否されイラク国内にとどまるクルド人を国内避難民として支援します。ボスニア紛争では、国連安全保障理事会から厳しい批判を浴びながらも人道支援の政治利用を断固拒否、サラエボへ食料の空輸を決行します。ルワンダ内戦では、武装集団だった人々を支援することに避難を浴びながらも、 アフリカ諸国の協力による治安維持軍を組織、「和解」と「共生」のために難民の武装解除をしながらルワンダ難民を母国に強制送還します。それから貞子はボスニアならびにルワンダで女性を中心とした様々なグループの出会いの場(難民と非難民、対立する民族同士など含む)、いろいろな職業訓練の場、ならびに新しい社会作りの中心勢力として「ボスニア女性イニシアチブ」「ルワンダ女性イニシアチブ」を組織します。
「1人だけよくなる時代はもうあり得ない」
貞子が難民高等弁務官時代にいちばん多くの難民を発生させた国アフガニスタンからは、600万人が周辺のパキスタン・イランに流出。アフガンの難民のための支援金が毎年減っていく中、貞子はタリバン側に女子の教育また女性の就業に努力してほしいという交渉をしにいきますが、なかなか国際的な支援は得られません。アフガニスタンは「忘れられた国」となっている状況で9月11日にニューヨークでテロが起こります。その後、かなりのタリバンが追放されると難民400万人は帰っていきます。2000年に約10年間務めた国連難民高等弁務官を退任すると、小泉純一郎政権で、アフガニスタン戦争後の支援政府特別代表に就任。貞子は難民の人たち、ならびにアフガン側と交渉、受け入れのための地域をつくるなど調整に動きます。2002年に東京で最初のアフガン復興支援国際会議が開催され、貞子はカルザイ暫定政権議長(後の大統領)とともに共同議長を務めます。貞子は、文民が中心になった支援をしてきた日本はじめ、オバマ政権のアメリカ、それを支援してきた多くのヨーロッパの国々、また関心をもっている国々との間のいろいろな話し合いを調整します。地元警察によって治安をおさえると同時に、復興援助によって少しでもいい生活ができる可能性を人々に分かってもらえるよう尽力します。2003年に新たに発足したJICAの初代理事長に就任。「開発援助による復興支援というのはなんて遅いものなんだろう」危険に対応するいろいろな訓練をしたうえで、防弾車を広範囲に使いながら、若手をいち早く開発途上国の現場に送り込みます。晩年もテニスに打ち込みつつ世界を駆け巡りながら92歳で逝去。
-聖心女子大学 University of Sacred Heart, Tokyo
「1人で見る夢はただの夢、みんなで見る夢は現実になる」
"A dream you dream alone is only a dream. A dream you dream together is reality. "
ヨーコ・オノ・レノン
Ms. Yoko Ono Lennon
1933-
東京都千代田区富士見 生誕
Born in Fujimi, Chiyoda-ku, Tokyo
ヨーコ・オノ・レノン女史はコンセプチュアル・アート、マルチメディア・アートの先駆者です。1960年代初頭からニューヨーク、東京、ロンドンに住みながら、コンセプト・アート、パフォーマンス・アート、映画製作、実験音楽で世界で先駆的に活躍。日本女性で初めてグラミー賞・金獅子賞を受賞。
Ms. Yoko Ono Lennon is a trailblazer in conceptual art and multimedia art. From the early 1960s, she has been at the forefront of conceptual art, performance art, filmmaking, and experimental music, living in cities such as New York, Tokyo, and London. She has made groundbreaking contributions worldwide. She was the first Japanese woman to receive the Grammy Award and the Golden Lion Award.
「おそらく自分の最初のアート作品」
安田財閥の大屋敷に洋子は誕生します。父親・英輔は日本銀行総裁の息子として横浜正金銀行サンフランシスコ支店に勤務。母親・磯子は安田財閥の孫として大屋敷で数十人もの使用人を采配して社交に大忙し。洋子は両親の愛情表現またスキンシップを受けることなく育ちますが、かつてピアニストまた画家を目指した父親また母親によってピアノまた芸術の教育を授けられます。まもなく父親の転勤に伴って、洋子は日本とニューヨークを行き来しながら育ちます。学習院初等科、ニューヨーク・ロングアイランドのパブリックスクール(公立小学校)、学習院女子中・高等科を経て、学習院大学の哲学科に入学。太平洋戦争が激しくなった折には、疎開先の田舎で自分の持ち物を食べ物と交換しながら空腹をしのぎ、弟とふたりで夕食に何が食べたいかを想像して過ごします。
『踏まれるための絵画(Painting To Be Stepped On)』
やがて敗戦後の日本でアメリカのポップカルチャーが流行する中、洋子は先進的な校風で知られるサラ・ローレンス女子大学に入学して英文学・作曲・芸術などを学びます。まもなく洋子は、ジュリアード音楽院で学んでいた前衛作曲家でピアニストの一柳慧と出会い、前衛芸術に傾倒していきます。同大学を退学して結婚すると、2人は反対する両親から離れて、バーのピアノ弾きと日本協会での事務仕事をしながら、ジョージ・マチューナスらはじめ前衛芸術家集団「フルクサス」と共に活動を開始。27歳のとき、洋子と慧はマンハッタンのアパートをスタジオ兼居住スペースとして借り、若手アーティストに発表の機会を与えたり、社交力を生かしてマックス・エルンスト、イサム・ノグチ、マルセル・デュシャン、ペギー・グッゲンハイムらを招いてアートイベントを開催します。ここで洋子は、床に置かれたキャンバスを観客が踏みつけることで完成するコンセプチュアルアートを発表します。さらにカーネギー・リサイタルホールで、フルクサスのメンバーと実験音楽会とアートパフォーマンスを発表します。
『カット・ピース(Cut Piece)』
29歳の洋子は、一足先に帰国していた慧を追って日本に帰国。草月会館にて洋子は、観客に自身の衣装をはさみで切り取らせるパフォーマンスアートを発表。慧の実験的音楽作品は日本の音楽界に熱狂的に迎えられる一方、洋子は当時の日本の評論家らに執拗に酷評されます。「時代遅れ」「彼女のアイデアはすべてニューヨークの人々の借り物だ」。深く傷つき自殺未遂を起こした洋子は精神病院に入院。するとアメリカの映像作家アンソニー・コックスが毎日のように花束を持って洋子の病室に通ってきます。やがて洋子は精神病院を退院、アンソニーと結婚します。2人で東京渋谷の外人村で通訳・翻訳をしながら暮らし始め、表現活動を始めます。翌年には娘のキョーコをもうけるも、母親になることに戸惑いのある洋子は夫と娘を日本に残してひとりニューヨークに戻ります。
『グレープフルーツ(Grapefruit)』
洋子はアメリカに亡命していたドイツ人作曲家シュテファン・ヴォルペと彼の3人目の妻で詩人のヒルダ・モーリーと親しくなります。バウハウスで学んだ2人からアートセラピーの概念を活かした進歩的な音楽また芸術教育について学びながら、詩を共作します。31歳のときに、セルフケアとしてアートを捉えなおした詩集を東京から発表。「叫びなさい。一、風にむかって。二、壁にむかって。三、空にむかって。」。やがて英語版が世界中で発売されると熱狂的に受け入れられ、人々を元気づけます。洋子は自分を立ち直らせるように、自ら「インストラクション・ピース」と呼ぶセルフケア・アートに傾倒、ジェンダーや人種の偏見に直面しながらアーティストとしての基盤を形成していきます。
『No.4 通称ボトムズ(bottoms)』
洋子は33歳のときに、ロンドンの現代芸術協会に招かれて渡英。夫のアンソニー・コックスと一緒に、ロンドンの知識人365人の服を脱がせてお尻のクローズアップショットを撮影。1時間あまりの長編実験映画作品として発表すると、町を歩いていても通行人がヨーコヨーコと声をかけてくるくらい話題となり、家族3人でロンドンに活動拠点を移します。洋子は仕事で忙しくする中、夫と娘に「ママ、公園に一緒に行こう」と催促され仕方なしに一緒に出かけるも淋しくて退屈します。家族の南フランスへの長期休暇も洋子は仕事を優先させ、夫と「ママ、ママ」と泣き叫ぶ娘の二人だけを送り出します。
『天井の画 (Ceiling Painting/Yes Painting)』
そんな中、ロンドンのインディカ・ギャラリーでの個展「未完成の絵画とオブジェ」の準備中に訪れたジョン・レノンと出会います。地下室の展示室に案内されたジョンは、天井に張り付けられた画を見ようと梯子を登って天井から吊された虫眼鏡を覗くと小さな「YES」という文字を見つけ大興奮。ヨーコはジョンに寄り添うように他の作品を案内して廻ります。2人は文通を始め、洋子のロンドンのリッソン・ギャラリーでの全オブジェが半分の形で展示された個展「ハーフ・ア・ウィンド・ショー」の後援をジョンが引き受けます。
『平和のためのベッド・イン(Bed in for Peace)』
洋子とジョンはベトナム戦争に対する抗議運動を立ち上げます。洋子はジョンの妻の留守中に彼の自宅を訪れ、前衛的なテープループセレクションを一晩中録音。2人の最初の共作アルバム『Unfinished Music No. 1: Two Virgins』として 2 人の未修正ヌードの表紙とともに発表します。洋子はビートルズのアルバムにも追加ボーカルまたサウンドコラージュを提供。洋子は35歳のときにジョンとジブラルタルの登記所で結婚式を挙げ、新婚旅行をアムステルダムで過ごしながら1週間にわたる平和のためのベッド・インを敢行。米国で入国を拒否された2人は、モントリオールのクイーン・エリザベス・ホテルの部屋でコンサートを開催しながら『Give Peace a Chance』を録音します。プラスチック・オノ・バンドを結成して、クリスマスのロンドンでユニセフ主催『ピース・フォー・クリスマス』コンサートに参加。「WAR IS OVER! IF YOU WANT IT」を発表しながら、ニューヨークのタイムズスクエアなど世界11都市で一斉に看板を設置、ポスターまた新聞広告を出して平和キャンペーンを敢行します。
『ウィッシュツリー(Wish Tree)』
「ビートルズを解散させた女」として数多くの非難と中傷が洋子に浴びせられる中、洋子とジョンはニューヨークに移り住みます。洋子はエバーソン美術館で回顧個展『ジス・イズ・ノット・ヒアー』を開催する一方で、ジョンと2人で反戦文化人の即時保釈を求める集会や北アイルランド紛争に抗議するデモへ参加、刑務所で起きた暴動の被害者また知的障害を持つ子どものための救済コンサートに出演。そんな中で洋子は42歳で息子・ショーンを出産、ジョンは育児と家事に専念するも5年後に洋子の目の前で暴漢に射殺されます。直前に発表したジョンとの共作アルバム『ダブル・ファンタジー』がグラミー賞年間最優秀アルバム賞を受賞します。しばらくして56歳の洋子はホイットニー美術館で回顧展を開催、アート活動を再開します。これまでの作品を石化したブロンズとして青銅で鋳直す一方、全白のエナメルを施して敵味方の区別のつかないブロンズのチェスセット『Play it by Trust』を鋳造します。さらに観客ひとりひとりが願い事を書いて木に吊るす参加型アートプロジェクトをフィンランドから開始。近年はソーシャルメディアを活用してメッセージをさらに幅広い聴衆に伝えています。「自分を信じれば世の中を変えられる」。
「下に置かれている女性は変革を求めて社会を変えていく。
男性は後から追いかけてくる。」
'Women, positioned beneath, seek to bring about change in society. Men, they come trailing behind.'"
晴野 まゆみ
Ms. Mayumi Haruno
1957 -
東京都大田区 出身
Born in Ota-ku, Tokyo-to
日本初のセクハラ裁判「福岡セクシュアルハラスメント事件」の原告。日本のすべての企業と公務職場にセクシュアル・ハラスメント対策を求める男女雇用機会均等法の改正を促進しました。現在、株式会社チームふらっと代表取締役社長。
Ms.Mayumi Haruno is the plaintiff in Japan's first sexual harassment lawsuit, known as the "Fukuoka Sexual Harassment Case." This landmark case prompted the amendment of the Equal Employment Opportunity Law, advocating for the implementation of sexual harassment prevention measures in all Japanese companies and public workplaces. Currently, she serves as the President and Representative Director of the company Team 'Furatto'.
「変な噂」
まゆみは福岡の西南学院大学を卒業後、ブライダルコーディネーターの仕事をするも、3度目の転職を経てようやく希望する出版社に入社。社員3名の学生向け情報雑誌を発行する会社で、福岡のエンタメ・グルメ情報を取材・編集する仕事に打ち込んで猛烈に働きます。取材予定を度々すっぽかしたり、締め切り前の繁忙期でも家庭優先でさっさと帰宅する男性編集長をフォローしながら、まゆみは取引先との付き合いを優先して男女の別なく食事また飲みに行ったり、深夜遅くまで原稿を執筆したり、1/3の給与で3倍の仕事量をこなします。「編集長ではなく、晴野さんに取材して欲しい!」取引先からの信用が篤くなる一方、直属の上司である男性編集長から性的なからかいを言われるようになります。「結婚もせずに夜遊びか」「お盛んだな」最初は軽い冗談、くだらない冗談として受け流して平気な振りをします。変な噂を立てられても平然としていればそのうち消えるだろう。」ところが男性編集長の嫌がらせは逆にエスカレートします。ある日、会社に出入りするアルバイトの学生がコーヒーカップをまゆみの机に置きかけて言います。「おっと、汚れた女の机に置いたらいかん。」まゆみの仕事を評価する係長から昇給が言い渡されると、「男女の関係」「できとっちゃろ」男性編集長は外部に吹聴してまわります。まゆみの仕事を評価する専務が男性編集長の給与を削ってまゆみの給料を上げようとすると、「ふしだらな女」「男関係にだらしない」男性編集者は悪評を立ててまゆみの昇給を阻止します。まゆみが婦人病で入院することを伝えた直後、男性編集長は社外に電話を始め「実は晴野が入院するんですよ。男遊びが激しくて、婦人病にかかったんです。」ある時、まゆみがスポンサーの既婚男性と恋愛関係にあったときに、男性編集長に言われます。「スポンサーへのギフト代わりに、この女をだれが落とすかゲームしたんだ。」「不倫を黙っておいてやるから会社を辞めて欲しい」
「セクシャルハラスメント(性的嫌がらせ)」
「自分の好きな仕事を失いたくない!」まゆみは、意を決して社長に直訴します。「大人の女なんだから、笑ってやり過ごしなさい」あげくにケンカ両成敗としてまゆみは即日解雇にされる一方、男性編集長は3日間の自宅謹慎。食い下がるまゆみに「女性は仕事を辞めても結婚がある。男はそうはいかない。」「君は優秀だが、男を立てることを知らない。次の就職先では男を立てることを覚えなさい」まゆみは2年半セクハラに耐え、最後の3日間会社に通って残務整理を全うします。まゆみはかつての関係者をまわってフリーライターとして生計を立てながら、「どうして女性だけが仕事を奪われ、存在価値を汚されるのか?」祖父が弁護士で法律が身近にあったまゆみは、労働基準監査局に出向いたり、民事調停に持ち込んだりします。簡易裁判所で男女の調停員は言います。「相手は優しそうで大人しそうな男性で、ひどいことを言うようには見えない。」「女は浮いた噂のひとつやふたつ流されるうちが華ですよ」「そんなことで名誉棄損で訴えるなんて前代未聞」女性弁護士に相談しても物的証拠がないと難しいと断られます。途方に暮れたころ、福岡市に「女性の女性による女性のための法律事務所」が開設されたことを知り訪ねます。代表の辻本育子弁護士は言います。「会社があなたを性差別している。訴えましょう。」「女性差別を禁じる民法の規定はないけれども、日本国憲法第14条「全ての国民は性別により差別されない」に反する不法行為にあたる」まゆみは裁判を起こす決意をします。そして、電車の中で「もう許せない!実態セクシャル・ハラスメント」という女性『MORE』の特集広告を目にします。早速雑誌を読んで、アメリカでの「雇用における性差別を禁止する」裁判判決を知ります。続いて福岡アメリカセンターで文献を調べて「セクシャルハラスメント(性的嫌がらせ)」に焦点をあて、フェミニストグループにコンタクトを取ります。
「クリーンな裁判」
まゆみのもとに女性だけの弁護士事務所とフェミニズム団体が結集、「職場での性的嫌がらせと戦う裁判を支援する会」を結成されます。支持者を集めるために女性の知人40人からアンケートを集めると、「まだ結婚しないの?」「次の生理はいつ?」「あいさつ代わりに胸をお尻を触られる」など、全ての回答用紙に性的嫌がらせの体験が書かれています。まゆみは性的嫌がらせは全ての女性の問題として確信します。会報を刊行したり裁判資金を募ったりしながら、ようやく解雇から1年3か月後の1988年8月5日、まゆみは「原告A子」として、「元上司」と「会社」を相手に360万円を請求して福岡地方裁判所に提訴、日本初のセクハラ裁判を起こします。匿名裁判にマスコミから野次が飛び交います。「やましいことがあるんだろ?」「男関係が派手な女性らしい」「ブスでもてない女が騒ぐんだ」出版社で働いていた学生アルバイトの女性たちが証言台に立つ中、まゆみも意見陳述を代理人に任せず自分で行います。公判の席で被告側弁護士は飲酒についてしつこく聞きます。「週に何回、何時まで飲みに行っていましたか?」「あなたは、女性がお酒を飲むことに罪悪感はありませんか?世間的に恥ずかしいとは思いませんか?」。弁護団が反論します。「どうしてそれがいけないのか?」被告側証人が言い立てます「原告は男関係にだらしのない女だ」「性的な話題が好きな女だ」。まゆみが性的中傷を繰り返し受ける中、原告団から「意義あり」の声が上がらないことにまゆみはさらに苦しみ、ついにこの被告側証人を裁判所の廊下で平手打ちします。支援者はまゆみに詰め寄ります。「あなたひとりの裁判じゃない!」係争2年8カ月目の1992年4月16日、川本隆裁判長は判決文を読み上げます。「主文。被告および、被告株式会社は、原告に対し、連帯して金165万円を支払え」裁判所は元上司による性的中傷を違法と認定、会社も使用者責任としてセクハラに対応する責任があると判決を下します。
「さらば、原告A子」
まゆみは裁判を通じて、そして男性の思い描く女性像と実際の女性との間に大きな乖離があることを痛感します。さらに、元上司は「女に負けるな」「男が上に立たなければならない」という男社会の被害者であると考えるようになります。裁判はマスコミの注目を集め社会問題として広く取り上げられる一方、バラエティ番組で「色物」として扱われたり、アダルトビデオに「セクハラもの」が制作されたり、興味本位で扱われます。まゆみが男性週刊誌から手記の執筆依頼を受けると支援団は猛反対します。「クリーンな裁判を汚さないで。」ライターであるまゆみは仮名で自分の率直な気持ちを綴りはじめ、本名で取材に応じるようになり、勝訴10年目には本名で『さらば、原告A子』を出版します。「男女を対立させるのではなく互いに理解し合って差を埋めたい。」しばらくしてまゆみが福岡の屋台で飲んでいると、「そういう言葉はセクハラになりますよ」若い男性が年配の男性に注意するのを耳にします。1997年10月改正男女雇用機会均等法21条に事業主に対してセクシュアル・ハラスメントの防止配慮義務が規定(1999年4月施行)、同年11月13日人事院規則10-10で管理者に対しセクシュアル・ハラスメントを防止する責務を定められ、すべての企業と公務職場にセクシュアル・ハラスメント対策が求められています。
-晴野まゆみ『さらば、原告A子 : 福岡セクシュアル・ハラスメント裁判手記』海鳥社
-弁護士法人女性協同法律事務所
-西南学院大学
-福岡アメリカセンター
-株式会社チームふらっと
「落ち込まない、がんばりすぎない、でもあきらめない、いつかならずできると信じる」
"Not get discouraged, not try too hard, not give up, and believe that you can do it someday."
田中百合子 女史
Ms. Yuriko Tanaka
1947 - 2019
東京都世田谷区 出身
Born in Setagaya-ku, Tokyo-to
田中百合子女史はスモン訴訟の東京地裁原告団事務局長で元東京スモンの会会長。20代でかかった薬害スモンに苦しみながら、薬害スモン訴訟はじめ薬害根絶運動・薬事法の改定と医薬品副作用被害救済基金の設立に奔走。
Ms. Yuriko Tanaka is the executive director of the Tokyo District Court plaintiff group in the SMON lawsuit and former chairman of Tokyo SMON. While suffering from drug-induced harm in her 20s, she worked hard to fight drug-induced harm, including lawsuits against drug-induced harm, to revise the Pharmaceutical Affairs Law, and establish a relief fund for victims of adverse drug reactions.
「しびれ」
百合子はバスで通学しながら、東京オリンピックが開かれる駒沢公園の工事現場を見て通っている内に、建築家を目指すようになります。やがて武蔵工業大学の建築学科で150人のクラスでたった一人女子学生として充実して勉強に励みます。製図製作のために毎晩12時頃まで研究室に残る生活を続けるうちに、ストレスと疲労で下痢をしたり便秘をしたり血便が出るようになります。虎ノ門病院に駆け込むと、ファイバースコープで胃の検査をするも原因不明。2週間分の整腸剤キノホルム(エンテルビオフォルム)を処方されます。1日粉末3gを飲み始めて1週間目、腹部全体が腹痛に襲われ、食べたもの全てを嘔吐し便も尿も出なくなります。虎ノ門病院で緊急入院すると赤痢と疑われ隔離されます。抗生物質クロロマイセチンを注射されると症状はじきに消えて2週間ほどで退院します。担当医が百合子にたずねます。「しびれはないか?」
「スモン」
その二年後、大学の四年生になって就職活動を始めたり、卒論を書き始めるとまたストレスと疲労が溜まって下痢に悩まされるようになります。東京都職員として就職が決まると、完治を目指して再び虎ノ門病院で診察を受けます。過敏性腸症候群と言われて同じキノホルム剤を処方されます。今度も腹痛と嘔吐がひどくなり再入院します。担当医はキノホルムを毎日投与し続け、百合子は腹部の激痛、下痢が良くなっては悪くなることを繰り返します。緑色の尿や便が出たことを医師や看護婦に報告しても何も答えてくれません。やがて足の裏からびりびりしたしびれが膝・大腿部・お腹へ・胸まで数日ごとに上がってき、突然歩くことすら困難になります。それでもキノホルムは飲まされ続け、同時にステロイドを投与されます。4ヵ月が過ぎてやっと退院する時にも、下痢ばかりして、足はやせ細り、おへそから下の足全部がしびれたまま。「一体自分は何の病気なのか?」リハビリ通院を続ける百合子はある時カルテをのぞき込むんで「スモン」の3文字を見つけます。
「辞職」
医者にもらう薬は全く効かず、体力は全く回復せず、下痢を繰り返し、少し無理をすれば神経痛と足のしびれが強くなります。全身の疲労感と足の痛みに苦しむ百合子は就職を10月に延長してもらい、職場を都庁から自宅に近い世田谷区建築部営繕課に移動してもらいます。朝は家族に職場まで車で送ってもらい、帰りは上司の車に最寄り駅まで乗せてもらってあこがれの建築の仕事を必死で続けます。日本全国各地である日突然猛烈な腹痛に襲われて、やがて足の先からしびれて全身麻痺・失明・死亡する患者が増えて亜急性脊髄視神経末梢神経症(Subacute Myelo-Optico Neuropathy)、略してSMONと呼ばるようになっていました。そして“スモン=ウィルス説”が突然新聞で断定的に報道されます。同僚に感染を不安がられるようになり、百合子は1年半後に涙をのんで辞職します。しかしすぐにこのウイルス説は学会で完全に否定され、替わって“スモン=キノホルム説”の新聞記事を見つけた百合子は愕然とします。担当医に質問すると「キノホルムがスモンの犯人と決まったわけじゃない。勇気を出してもっと飲んだら良くなるかもしれない。」
「賠償金」
百合子はスモン=キノホルム薬害訴訟に関わるようになり、まもなくスモン訴訟東京地裁原告団事務局長に就任します。足を引きづりながら武田薬品・田辺製薬・日本チバガイギー社に直接交渉に出かけて行ってはひと月寝込み、原稿を必死になって書いては熱を出し、「もうどうでもいい」と叫びたくなりながらも告発闘争・訴訟に体をすり減らします。「賠償金をいくらもらっても私の一生は台無しになってしまった。全国で3万人のスモン被害者全員に賠償金を払って会社がつぶれるならそれでいいじゃないか。一体どうしてそのくらいの責任がとれないのか?」「医者ははっきり責任を持って自分が投与した証明を出すべきだ。人間としてすまなかったという態度を一度として見せてもらったことがない。」「医療は人の健康を食って儲けている。社会のための人間のための医療制度がなくては。」それでも少し体調がよくなると、3万人のスモン患者にうしろめたさを感じながら20代を楽しみ、心身障害者のための住宅造りを少しづつ研究します。7年後、全国十一地方裁判所で国と製薬会社の責任が認定され、百合子はじめ約6500人のスモン患者は和解観告に応じて賠償金を受け取るとともに、薬事法の改定と医薬品副作用被害救済基金の設立を後押しします。
「ステロイド」
友達の紹介で鍼治療を始めた百合子は少しずつ体調が安定、結婚して2児を授かります。夜もほとんど寝ないで母乳を与えて子供を育てていると、ひどい下痢が続いて全身の関節がはれ上がり、トマトケチャップのような血便と貧血に苦しみます。入院すると潰瘍性大腸炎と診断され、輸血を避けて鉄剤を注射し、鼻から胃に通した管から栄養を取ります。あまりのつらさに絵を描かきはじめます。そしてステロイド(副腎皮質ホルモン)の長期投与が始まると、ムーンフェイス・月経異常と不正出血・気管支拡張症・肋骨13カ所と脊椎腰椎3箇所の骨折・副鼻腔炎(蓄膿症)・侵出性中耳炎・日和見感染症・鬱病・多幸症・大腸がんと人工肛門手術といった考えられないような副作用に苦しみます。そんな中でも二人の子供を育て上げ、旅と絵を楽しみ、その苦労と喜びを講演また著書にまとめて発表します。「一人の人間が病気という苦境のなかにあっても、あきらめてその中に沈み込まず、命をはぐくみ、つむぎつづけて、前を向いて歩いてきた事、それがテーマでした。」
-「この命、つむぎつづけて」(田中 百合子 著 / 毎日新聞社2005年)
-「この命、つむぎつづけて」ウェブサイト
-社会福祉法人 全国スモンの会
「私の想像するハーレムとは全然違っていた」
“It was completely different from what I imagined a harem to be like."
田中 優江 女史
Ms. Masae Tanaka
1942 -
東京都世田谷区上野毛 生誕
田中 優江女史はモロッコ国王・ハッサン2世(HASSAN II)専属マッサージ師として12年にわたって国王はじめ国王ファミリーに仕えながら、モロッコならびに日本の親善に貢献します(1987年~1999年)。
Ms. Yue Tanaka served as the exclusive masseuse of the King of Morocco, Hassan II, for 12 years, serving the king and his family while contributing to the friendship between Morocco and Japan (1987-1999).
「1億円結婚詐欺」
優江は大地主の5女として誕生。2000坪の邸宅で裕福に育ち、結婚して娘を授かると離婚して父親の遺産で暮らし始めます。まもなく世間を賑わす1億円結婚詐欺師・クヒオ大佐に娘の将来の学費まで貢いで一文無しとなります。しばらく精神的に病んで入院するも、娘のために手に職をつけようと友人の援助を得ながらエステティシャンの資格を取ります。続いて、当時最先端のリフレクソロジーを研究するために、麻布十番にある阿部常正治療院に入門します。
「政治家のマッサージ師」
政界・芸能界・大手企業の社長などの治療に従事する優江は、ある日モロッコ大使の平岡千之氏(三島由紀夫の弟)の指圧をしているときに「モロッコの王様が2年契約で日本人女性のマッサージ師を探している」と聴くやいなや立候補します。「私!ハーレムを見てみたい!」娘の了承を得ると、続いて常連患者・羽田孜から推薦状を書いてもらい、数か月のうちに娘と一緒に王様の誕生パーティーに出席する準備を整えます。
「王様専属マッサージ師」
優江は国中をあげてお祝いするイルミネーションとパレードと数百mもの赤い絨毯を通り抜けてカサブランカの宮殿でハッサン2世にご挨拶。1週間後には王税の従者とともに王様のイギリス公式訪問に同行してバッキンガム宮殿でエリザベス女王夫妻とダイアナ皇太子妃にご挨拶。帰国後は季節ごとに宮殿を移動しながら、陽気なフィリピン人の同僚たちと一緒に、夫人はじめ王族たちの様々な思惑を乗り越えながら、王様ならびに夫人らのマッサージに従事します。
「モロッコ王国のハーレム」
優江は王様から高価な贈り物はじめ信頼と支援を得て、自身の住居のランクアップと給料の賃上げの交渉をしながら、娘をアメリカ・フランス・モロッコ・日本で勉強させたり、ファーストクラスでバカンスに出かけたり、皇子と一緒に日本天皇の大喪の礼に出席したり、王様と羽田孜副総理との会談を取り持ったり、モロッコ王族と日本の宮家はじめ商社・芸能関係者との親善に貢献しながら過ごします。ある日、JICA所長から王様の逝去を知らされた優江は、国家を歌いながら行進する人垣を通り抜けて宮殿に入ると王様の棺の傍を何時間も離れずに過ごします。新国王に他の専属スタッフと一緒に即日解雇された優江は12年振りに日本に帰国します。
-『王様と母と私 モロッコ国王のマッサージ師となった母のシンデレラストーリー』(田中 由紀子著 / 幻冬舎メディアコンサルティング)
「人々に他の集団を理解してもらい、もっと敬意を持ってもらいたいのです。」
"I want people to understand other groups and have more respect for them."
にしお ちえ 女史
Ms. Chie Nishio
1930 -
東京都 生誕
Born in Tokyo-to
にしおちえ女史は、1990 年代初頭にニューヨークのブルックリンでルバヴィッチ派・ハバッド派のユダヤハシディズム共同体の日常生活を初めて記録した報道写真家です。
Chie Nishio was the first photojournalist to chronicle the lives of the Lubavitch-Chabad Hasidim in Brooklyn, New York, in the early 1990s.
「報道写真家」
ちえは鉄道整備士の娘として誕生。第二次世界大戦で荒廃した東京で育ちます。両親と気が狂いそうになる差別をうけながらも、大学に行く余裕がなかったためOLとして働き始めます。1960年代初頭、30代になってから写真専門学校を見つけて入学。そこで報道写真に夢中になります。男性の職業であったこの仕事で成功しようと奮闘するちえは、通信社の速報ニュースに写真を採用してもらえるように、東京オリンピックや中国の文化大革命など大きな出来事を取材して撮影します。大恐慌を記録したアメリカ人報道写真家ドロシア・ラングの作品に感銘をうけたちえは、1969年に渡米してニューヨークマンハッタンのダイヤモンド地区近くに引っ越します。毎年ニューヨークのギャラリーで作品を発表しながら、そこで彼女は「長いあごひげを生やし、黒い帽子をかぶってロングコートを着た」正統派ユダヤ教徒の男性たちを見てから、彼らに興味を持つようになります。
「ユダヤ人コミュニティー」
やがて彼女は、コロンビアに正統派シナゴークを創設した移民のラビを曽祖父に持つユダヤ人作家ジェームズ・トレーガーと結婚。ますます正統派ユダヤ教、ニューヨークのユダヤ人コミュニティーに興味を持つようになります。無神論者の夫は信仰派の家族と分裂しているため、ちえが満足する情報を得ることができません。そこで、ウィリアムズバーグの正統派コミュニティーの写真を撮ろうとしますが、誰ともコミュニケーションが取れずにうまくいきません。友人の勧めで、部外者に対してオープンでフレンドリーなクラウンハイツ、チャバド派またルバビッチ派コミュニティーをたずねます。そこでは杉原千畝の通過ビザで渡米してきた人達が日本女性のちえに好意的で、自宅に招待し話しかけてくれます。何年もかけて粘り強く交流を深めるうちに、路上で遊ぶ子供たちから、宗教儀式、親密な家族の集まりまで、コミュニティの生活を広く撮影する機会を得ます。
「歴史の証人」
まもなく仕事をやめて夫の長い闘病を支えるうちに20年が慌ただしく経過。夫を見送って数年後、大切に保管してきたクラウンハイツで撮影した写真の展覧会を企画します。「私にはまた時間がある。私の時が来たのだ。」ブルックリン公共図書館で、家族、学校に通う子供たち、結婚式、正式な肖像画、儀式など、ハシディズム派ユダヤ教徒の日常生活の様子を白黒写真200 枚を展示します。日本女性として自分もアメリカで誤解されることが多かったとしながら、「私は人々に彼らが誰であるかを知ってもらいたいのです。」最後のルバビッチ派ラビの晩年を含め、歴史の証人として関心が寄せられる中、90年代初頭のクラウンハイツ暴動*は描かれていないと指摘されると、ちょうどニューヨークを離れていて立ち会っていなかったとしながらも「私のポイントでも写真の焦点でもない」。「人々に他の集団を理解してもらい、もっと敬意を持ってもらいたいのです。」
*クラウンハイツ暴動:
ユダヤ教超正統派ハシディーム派の指導者が運転する車に、黒人の少年が舗道ではねられ、現場へ急行した同派の救急隊が宗教上の理由からけがをした運転手のみを救出、少年は後続の救急隊によって病院に搬送され死亡。不満を募らせた黒人住民らはデモで抗議、その渦中でハシディーム派の学生が刺殺され、3日間にわたる大規模な民族間暴動へと発展。
-Samuel G. Freedman, "Brooklyn’s Lubavitch Community: A Culture Captured by the Ultimate Outsider" New York Times, Nov. 28, 2014
-"View From Within: Photos Documenting Chassidic Community"Chabad Org News Oct. 14, 2014
北海道 Hokkai-Do
「胸に燃ゆる烈火の焔に我身を焼き給え、泉とほとばる熱血の涙に我身を洗う。」
"Let my body be burned by the fierce flames that blaze within my heart, let my body be cleansed by the tears of passionate blood that well up from the spring."
知里 幸恵 女史
Ms. Yukie Chiri
1903 - 1922
北海道登別市登別本町2丁目 生誕
Born in Noboribetu-city, Hokkai-Do
知里幸恵女史は日本で初めてアイヌの物語『アイヌ神謡集』を社会に発表したアイヌ女性作家です。
Ms. Yukie Chiri is the author of "Ainu Kamuy Yukar" (Ainu Divine Songs), the first written collection of Ainu narratives by an Ainu person.
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「亡国のアイヌ」
知里幸恵女史はアイヌの両親の父・高吉と母・ナミのもとに生まれます。
幸恵の父・高吉は南部藩侍の血を引き、登別温泉開発者・滝本金蔵夫妻に奉公して可愛がられ、読み書きそろばんを学んで山林や土地の払い下げを受け、知里牧場をアイヌの仲間と経営を始めます。日露戦争では旭川第七師団に入隊して203高地攻略の激戦を戦い抜いて金鵄勲章を受章するも、満足に働くことが出来ない状態になって戻ります。幸恵の母・ナミは姉のマツとともに、函館に出てイギリス人宣教師ジョン・バチラーによる愛隣学校でキリスト教や英語を学びながら伝道師の資格を得、日高の教会で伝道活動に従事していました。幸恵の母方の曽祖父・吉蔵は登別でアイヌと和人の両者に人望と財力を持ち、ジョン・バチラーの後援者として教会建設に協力するも、やがて和人に騙され全財産を奪われていました。ナミは高吉と結婚して農場の開拓に従事、重労働のできない体となった高吉の代わりに開墾・農作業など重労働を担って一家を支えます。知恵が生まれる少し前の1899年に明治政府は『北海道旧土人保護法』を制定。アイヌの土地の没収、収入源である漁業・狩猟の禁止、アイヌ固有の習慣風習の禁止、日本語使用の義務、日本風氏名への改名による戸籍への編入、など次々と実行に移され、アイヌ民族の生活・アイヌ伝統文化は消滅の危機に瀕していました。
「おお滅びゆくもの・・・、それは今の私たちの名前、何という悲しい名前を私たちは持っているのでしょう。」
「アイヌ讃美歌 YESU EN OMAP」
知恵は室蘭の登別川沿いで生まれ、6歳のときに祖母・モナシノウクと暮らす母の姉・マツの養女として引き取られます。マツは日本聖公会で布教活動をしながら日曜学校を開いてアイヌ女性に裁縫・読書・ローマ字等を教えており、幸恵も子供たちと「アイヌ讃美歌」を歌ったりしてマツを手伝います。モナシノウクは吉兆を占うアイヌの巫女、そしてアイヌの口承叙事詩 “カムイユカラ" の謡い手。幸恵はモナシノウクから自然の神々の神話や英雄の伝説を学びます。幸恵は母方の叔父・太郎が政府と直接交渉して建設したキリスト教系アイヌ学校で学びます。太郎はアイヌ学校の教師に就任するも、アイヌ自治を目指す嘆願書を国会に提出しに行く過程で行方不明となっていました。幸恵は同化教育のもと必死で日本語を勉強して、アイヌ子女で初めて北海道旭川高等女学校を受験するも不合格。その後、14歳の時にアイヌ子女で初めて旭川区立女子職業学校に110人中4番で入学。唯一のアイヌ生徒として、同級生から差別やいじめに遭いながらも、片道6kmの道のりを歩いて通いながら勉学に励みます。「私に今まで友達といふものが真にあったであらうか」。やがて、知恵は心臓病を患い学校を休みがちになります。そんな中でも、日曜学校で出会ったアイヌの青年・村井曾太郎とアイヌの将来について語り合いながら結婚を約束します。
「時は絶えず流れる、世は限りなく進展していく。激しい競争原理に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からでも、いつかは、2人3人でも強いものが出てきたら、進みゆく世と歩を並べる日も、やがては来ましょう。」
「アイヌ叙事詩」
幸恵が15歳の時、言語学者の金田一京助が幸恵の祖母・モナシノウクを訪ねてきます。「世界五大叙事詩」と絶賛してモナシノウクの謡うユーカラを夜遅くまで熱心に聞き取って記録する金田一。幸恵は通訳を手伝いながら決意します。「私のため、同族であるアイヌ民族のため、アイヌ語を研究している金田一先生のため、学術のため、日本のため、世界万国のために私は書くのだ」。京助と手紙のやり取りをしながら、幸恵は "カムイユカラ" のローマ字筆記を始めます。心臓病が悪化する中、幸恵はノート3冊にわたって日本語に翻訳した「アイヌ伝説集」を金田一に送付します。出版を計画する金田一から上京の誘いを受けた幸恵は、反対する両親を説き伏せ、恋人・曾太郎の実家で仮祝言を挙げます。「必ず務めを果たして帰ってきます。チカップニの水辺に帰って来る渡り鳥のように」。東京・本郷の金田一宅に迎えられた幸恵は、東京で好奇の目にさらされながらも、教会に通ったり、産後鬱で伏せる京助の妻・静江と一緒に子供たちの世話をしたり、『女学世界』に寄稿したりしながら、京助と協力して翻訳・編集・推敲作業を続けます。ある日、幸恵はマツの便りで和人の女郎屋に売られた友人・やす子の死について知らされ激昂して金田一に諭されます。「だから、アイヌは、見るもの、目の前のものが、すべて呪わしい状態にあるのだよ」。上京して4か月余り、幸恵は心臓発作を起こしながらも『アイヌ神謡集』を完成させます。まさにその夜に、2度目の心臓発作を起こして19歳で死去します。
「試練!試練!!胸に燃ゆる烈火の焔に我身をやきたまえ、泉とほとばる熱血の涙に我身を洗う」。
-『銀のしずく : 知里幸恵遺稿』(知里幸恵 著 / 草風館1984年)
-『アイヌ神謡集』(知里幸恵 編 / 郷土研究者1976年)
-知里幸恵 銀のしずく記念館 Chiri Yukie Memorial Museum
-北海道新聞 Hokkaido News
トネ・ミルン(旧姓 堀川 トネ)女史
1860 - 1925
北海道函館市 生誕
Borin in hakodate-city, Hokkai-do
トネ・ミルン女史は、日本地震学の父ジョン・ミルンの妻。函館の自由で最先端な女を貫きながら、日本ならびにイギリスにおいて夫の地震学の基礎研究・耐震建築の研究・地震計の開発に助力。
Ms. Tone Milne is the wife of John Milne, known as the father of Japanese seismology. While embodying the progressive spirit of Hakodate, she supported her husband's foundational research in seismology, seismic-resistant architecture, and the development of seismographs in Japan and Britain.
「大火と文化大洪水の函館」
トネは願乗寺(現在 本願寺函館分院)の僧侶・堀川乗経の長女として誕生します。父・乗経は、青森から小樽・函館に渡った開教開拓者で、西本願寺本山ならびに函館官吏の許可を得て、新渠を開き亀田川の水をひいて港内に転注させ、通称・願乗寺川また堀川を完成。函館市内に飲料水を供給、湿地の排水をよくし居住地を広げ、小舟運輸の便を助け、函館の発展の礎を築きます。トネ誕生の1年前には函館は国際貿易港として開かれ、各国の居留外国人との交流が盛んになり、衣食住にわたる西洋の風習が浸透します。トネは乳幼児から、近所に住むアメリカ人医師・ヘーツならびにロシア人眼科医・ゼレンスケの診療を受けすくすくと育ち、イギリス人貿易商人・鳥類学者・探検家であるトーマス・ブラキストン邸に通って英語・西洋文化を学びます。コーヒー・パン・直輸入のレコード・写真・ダイヤモンドなど日本の流行を先取りしながら、強風と大火と文化の大洪水の吹き荒ぶる港町で函館戦争・廃仏毀釈運動をくぐり抜けた12歳のトネは、ブラキストンのすすめにより、北海道の開拓を指導するホーレス・ケプロンが推進する東京府開拓使女学校に入学します。
「きかない函館女」
東京住まいの士族出身の女生徒ばかりの中、寺の娘で口数の多いトネは蝦夷の野卑な女とからかわれます。地理・天文・化学・植物学・世界史などで良い成績を修めるものの、「夫がどんな浮気をしようとも女は決して嫉妬心を持ってはならぬ、嫉妬は女の恥じ」といった修身学の作文を断固拒否して先生たちに異端視されます。函館の自由な女のありようを貫くトネは、「卒業後は北海道開拓者と婚姻すべし」「途中退学するには官費を返納すべし」という新校則に憤慨する女生徒をまとめてストライキを起こします。まもなく皇后皇太后の行啓を理由にストライキはうやむやにされます。西洋裁縫・編み物などの展示作品作りの中で裕福な士族の娘たちは、全国平均収入20円のなか300円と高額な退学金を払って次々と退学していきます。トネは芸子代わりに着飾ってお酌をするよう強要されたり、考えもしなかった荒野の街・札幌に移転した開拓女学校で気の進まない西洋裁縫・養蚕・開墾作業に取り組まされ、やがてチフスで体調と精神を崩し「脳の病」で退学。1年後に開拓女学校は、開拓事業に教養ある女性は必要ないこと、開拓使官吏員が女生徒を襲う不祥事が後を絶たないことを理由に閉校になります。
「最先端の女」
トネは神経症を患いながらも郷里・函館で英語塾を開こうとブラキストンのもとで再び英会話を学び始めます。その矢先、開拓使官吏との縁談を断ったことを理由に寺に集まる人々にさえ「脳病の娘」と悪評を流されます。そんな中、ブラキストンの紹介でスコットランド人のジョン・ミルンに出会います。彼は本国イギリスでスコッチと軽蔑されながらも造船所で働いて夜学に通って地質学・鉱学を学び、日本の美しい風景を支える火山・地震の研究に取り組みはじめていました。翌年トネはミルンと東京・赤坂の雲南坂教会で式を挙げ事実婚をはじめます。日本語の文献の翻訳、日本の歴史調査など、陰ながらミルンの地震学の基礎研究・耐震建築の研究・地震計の開発に助力します。やがて、日清戦争の勝利に沸く中、イギリス領事官で婚姻届を提出、夫婦で南イングランドのワイト島シャイドに地震観測所と居を構えます。世界各地からひっきりなしに訪れる専門家・新聞記者たちをトネとミルンは仲睦まじく楽しくもてなします。ミルンが死去すると、第一次世界大戦を経てトネはミルンの遺髪と遺産を携えて帰郷。トネは美術好きな甥っ子を可愛がり「私が学費を出すから東京に出てデザインと建築を勉強しなさい。」
-函館市文化・スポーツ振興財団
-北海道新聞社
-『女の海溝 トネ・ミルンの青春』森本貞子(著)・文芸春秋
「結婚だけは清潔にやりたかった」
"I just wanted to keep marriage pure."
高峰 秀子 女史
Ms. Hideko Takamine
1924 - 2010
北海道函館市若松町大手町 生誕
Born in Wakamatsu-tyo, Hakodate-city, Hokkai-do
高峰秀子女史は日本初のフリー女優第一号です。5歳から50年に渡ってたくさんの映画界の養父母に育てられながら、日本初の総天然色映画はじめ300本を超える作品に出演しました。ギャラは当時の首相・吉田茂の月給の25倍。女優引退後はエッセイストとして活躍しました。
Hideko Takamine is the first pioneering freelance actress in Japan. From the age of 5 and over the course of 50 years, she was nurtured by numerous "adoptive parents" in the film industry, all while appearing in well over 300 films, including Japan's first full-color movie. Her earnings were 25 times the monthly salary of then-Prime Minister Shigeru Yoshida. After retiring from acting, she had a successful career as an essayist.
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「元祖子役アイドル」
秀子は1924年(大正13年)北海道函館市音羽町(現在の若松町大手町)に蕎麦屋料亭・劇場・カフェなどを経営する裕福な地主のもと5人きょうだいとして生まれます。4歳の時に母親が結核で亡くなり、葬儀の翌日に父の妹・志げの養女となって東京に移り住みます。志げは17歳の時に函館に来た活動弁士・荻野市治と駆け落ちして結婚、高峰秀子の名で女活弁士になっていました。まもなく養父・市治は旅回りの一座の興行ブローカーとなって家には滅多に帰らず、内職の針仕事で生計を立てる養母・志げとは母一人子一人の生活をはじめます。5歳のある日、養父に連れられて蒲田撮影所を見学に行き、野村芳亭監督の『母』の子役オーディションに飛び入り参加、養母・志げの芸名である高峰秀子で出演を果たします。作品は大ヒット、秀子は松竹に入社します。初任給は35円で家計は苦しく、養母は六畳一間のアパートで人形の着物を縫う内職をしたり、同じアパートに住む大学生の賄いをして暮らしの足しにします。人気子役となった秀子は、毎日のように養母と一緒に撮影所通いをはじめ、蒲田の尋常小学校に入学するも、徹夜の撮影も多くほとんど学校には通えません。10歳の秀子は流行歌手・東海林太郎に「歌とピアノをみっちり仕込む」と説得され、志げと東海林家に移り住みます。次第に養女として溺愛され地方公演先まで連れ回され、レッスンはじめ志げまた撮影所から遠ざかります。耐えかねた秀子は志げを促して東海林家を出ます。12歳の秀子は溺愛される五所平之助監督のメロドラマ『新道』に田中絹代演じるヒロインの妹役に抜擢。絹代にも可愛がられ、鎌倉山の「絹代御殿」と呼ばれる豪邸に泊まり込んで撮影所通いをするようになります。13歳の秀子は宝塚歌劇団入りを水谷八重子に相談、宝塚音楽学校校長の小林一三から無試験で入学を許可されます。同時に、東宝社長の植村泰二から月給100円と撮影所近くの家の提供、女学校への進学を条件を提示されます。秀子は東宝に移籍、御茶ノ水の文化学院に入学します。その頃、養母・志げは函館大火で破産した実父一家を東京へ呼び寄せ、秀子の肩に9人の生活がのしかかります。東宝ではアイドルとしてますます売れっ子となり、文化学院は入学1年半にして退学を余儀なくされます。
「フリー女優第1号」
16歳の秀子は豊田四郎監督の『小島の春』でハンセン病患者を演じた杉村春子を見てから演技と発声を学び直します。17歳のときに、山本嘉次郎監督の『馬』に主演、3年を費やす撮影中に31歳の助監督・黒澤明とスキャンダルを起こします。戦時中は千葉・館山の航空隊を慰問講演、戦後はアーニー・パイル劇場で占領軍相手の慰問公演に出演。東宝争議では日本映画演劇労働組合に反対して東宝従業員組合を脱退、他の脱退者らとともに新東宝映画製作所の専属となります。25歳のとき、島耕二監督『銀座カンカン娘』主題歌を歌ったレコードは50万枚の大ヒット。阿部監督の『細雪』で花井蘭子、轟夕起子、山根寿子に続く末娘役を演じ、原作者の谷崎潤一郎と交流を始めます。その頃、20歳以上年上のプロデューサーで結婚を前提に交際していた会社の重役が後援会費を使い込んで他の女性と交際していた事が発覚、秀子は新東宝を退社してフリー女優第1号となります。26歳の時に日本初の総天然色映画で木下惠介監督『カルメン故郷に帰る』に主演。留学生としてフランスに渡り、6ヶ月間パリに滞在します。帰国後、木下惠介監督『二十四の瞳』に出演、当時の女優賞を独占します。31歳の時に木下の助監督で『二十四の瞳』の撮影で出会った松山善三との婚約を発表。木下が自ら報道各社に電話をして日本で初めて芸能界の結婚記者会見を開きます。40歳以降は映画出演が減少、テレビドラマにも出演するようになります51歳で自伝を出版、養母・志げを「ブタ」と罵り、同じ境遇ながらも家庭教師をつけてもらえた美空ひばりを羨む心境を吐露します。53歳のときに親族による養母・志げの「拉致」事件に巻き込まれ、双方の弁護士を介して交渉にあたります。54歳で木下監督の『衝動殺人 息子よ』に八千草薫の代役出演を最後に、女優業を引退します。引退後はエッセイストとして活動しながら86歳で逝去。
-松竹 Syotiku
-国立映画アーカイブ National Film Archive of Japan
「俺はミズノーエ・ターキーだぁ!」
「I am Mizu-no-e Ta-key, yeah!」
水の江 瀧子(本名 三浦ウメ子) 女史
Ms. Takiko Mizunoe
1915 - 2009
北海道小樽 生誕
Born in Otaru-city, Hokkai-do
水之江 瀧子(本名 三浦ウメ子) 女史は日本初の女性映画プロデューサーです。松竹歌劇団で男装の麗人「ターキー」の愛称で活躍後、日活の女性プロデューサーとして、岡田真澄・浅丘ルリ子・石原裕次郎ら新人の俳優また監督・スタッフを起用して70本以上の映画を企画。プロデューサーが絶対的権力を持つ構造を作り上げます。やがて甥の三浦和義の「ロス疑惑」に巻き込まれ芸能界を引退します。
Ms. Takiko Mizuno, also known by her real name Umeko Miura, was Japan's first female film producer. After gaining renown as the cross-dressing beauty "Turkie" in the Takarazuka Revue, she later became a female producer at Nikkatsu. Mizuno played a pivotal role in planning over 70 films, featuring emerging talents such as Masumi Okada, Ruriko Asaoka, and Yujiro Ishihara as actors, directors, and staff. She established a structure where producers held absolute power. Eventually, she retired from the entertainment industry, getting entangled in her nephew Miura Kazuyoshi's "Los Angeles scandal."
「ターキー」
ウメ子は2歳の時に家族で一家で東京の千駄ヶ谷・目黒と移り住み、ベーゴマ・チャンバラ・洞窟探検など活発に遊んで過ごします。ある日、ウメ子は姉に連れられて浅草の東京松竹楽劇部第1期生試験会場に連れ出され、言われるがままに試験に臨み合格します。10カ月あまりの基礎訓練を受け、「水の江瀧子」の芸名で浅草松竹座に出演。ウメ子の身長は163cmと当時大柄で群舞でひとり目立つため出番が与えられず度々楽屋で待機さえられます。ある時、『先生様はお人好し』で舞台装置の転換する間を繋ぐために、急遽断髪して男子学生として幕前で踊らされると大ヒット。『メリー・ゴーランド』で扮したカウボーイ「ターキー」の愛称でたくさんの女性ファンを獲得します。芸の未熟さとパーソナリティを絶賛されます。
「ガイドホステス」
やがて不況で劇団部員の解雇が相次ぎ、待遇改善を求める劇団部員と経営陣の争議労働争議が勃発。共産党員が加わってウメ子は委員長に担ぎ出され世間の話題を集めるも解雇されます。その頃、国産航空機「ニッポン号」が難航路の北回りルートでニューヨーク万博を目指す計画が持ち上がり、贔屓筋である外務省職員の手配により、ウメ子は「ニッポン号」乗務員を現地ニューヨークで出迎えるガイドホステスに抜擢され渡米します。ブロードウェイを観劇すると「自分が少女歌劇でやってきたことは、どう贔屓目に見てもプロとはいえない」と思い知らされます。帰国後、当時ウメ子のマネージャー兼恋人であった松竹宣伝部の兼松廉吉とともに新たな劇団「たんぽぽ」を創設。戦後も浅草を拠点に活動します。
「女性映画プロデューサー」
ある日、兼松廉吉が借金6000万円(現在の9億円相当)を苦に自殺。ウメ子は兼松の遺書を持って読売新聞の深見和夫を訪ねます。ウメ子の今後を託された深見は、松竹・大映・日活の社長に会いに行き、ウメ子の希望する月二十万円の交渉に奔走します。ウメ子は晴れて日活の1年更新契約の日本初の女性プロデューサーになります。読売新聞の連載小説を映画化すべく、ウメ子は見様見真似でプロデューサー業を始めるも、同僚らは俳優・スタッフを囲い込み貸し出してくれません。そこでウメ子は街に繰り出し、日本劇場ミュージックホールに出演していた岡田真澄、銀座のクラブでドラムを叩いていたフランキー堺、映画オーディションの新人・浅丘ルリ子、芥川賞作家石原慎太郎宅でぶらぶらしている弟・石原裕次郎を見出し抜擢、ならびに若手の監督・脚本家を積極的に起用します。ウメ子のプロデュースする映画は日本国内でのヒットのみならず国外でも高く評価されるようになります。
「ロス疑惑」
ウメ子は70本以上の映画を製作しながら、たびたび暴力団と交渉して横浜港にオープンセットを建てたり、浅丘ルリ子の父親の借金を半分にまけさせたり、石原裕次郎に代わって撮影妨害を止めさせたりします。監督の権力が絶大だった他の映画会社と異なり、ウメ子はプロデューサーが絶対的権力を持つ構造をつくりあげます。やがて石原裕次郎が自身のプロダクションを設立して独立すると、ウメ子は映画界から引退して大阪万博の仕事に専念しながらテレビのバラエティ番組に出演し始めます。そんな中、甥の三浦和義が保険金目的で妻を殺害した疑念「ロス疑惑」で世間が騒ぎだし、和義にウメ子が実母だとずっと信じていたと告白されスキャンダルに巻き込まれます。ウメ子は和義の父であるウメ子の実兄と絶縁、本名を水の江瀧子に改名して芸能界を引退します。
青森県 Aomori-Ken
羽仁 もと子 女史
Ms. Motoko Hani
1873 - 1957
青森県八戸市 生誕
Born in Hatinohe-city, Aomori-Ken
「私どもは志を同じうする女性の団結によって、愛・自由・協力による新社会の建設に努力します」
"We will strive to build a new society based on love, freedom and cooperation through the unity of women."
羽仁もと子女史は日本における女性ジャーナリストの先駆けであり、家計簿ならびに主婦日記の考案者です。また、夫婦で自由学園および婦人之友社を創立。家庭と社会をつなぐ全国組織を展開します。
Motoko Hani is a pioneer among female journalists in Japan and the inventor of household account books and housewives' diaries. Together with her husband, she founded Jiyū Gakuen and Fujin-no-Tomo-sha. They developed a nationwide organization that connects women-centric households and society.
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明治時代の新しい女性文化の源泉『女学雑誌』を熱心に読んでいたもと子は、16歳で上京。キリスト教主義による明治女学校で学ぶため、築地明石町教会で洗礼を受け、『女学雑誌』主筆で明治女学校校長の岩本善治に学費の免除を手紙で懇願します。入学許可と共に女学誌の仮名つけの仕事をもらい、寄宿料に当てます。爆発的な人気を獲得した、岩本夫人である若松賤子女史による日本初訳のバーネット『小公子』は彼女が校正しています。また規則正しい寄宿舎生活は清々しく進歩的で深い印象を彼女に与えます。もと子は入学翌年に帰郷して尋常小学校や盛岡女学校の教員をします。家族の反対を押し切って結婚するもまもなく離婚。再度上京し、同窓生である女医の吉岡弥生の家事手伝いをしながら、報知社(現・報知新聞社)の校正係に応募して職を得、日本で初めての女性ジャーナリストとなります。3年後に同僚の羽仁吉一と結婚。ふたりは同じ境遇の若い家庭にむけて、家庭生活誌『家庭之友』(後に「婦人之友」と改題)を創刊。家計簿、主婦日記を創案、予定と予算で筋道の立った生活を広めます。もと子は読者に、身近な人を集めて自主勉強会・読書会を開催することを呼び掛け支援。各地に友の会が生まれ、さらにもと子を中心に「全国友の会」が設立され、農村生活改善運動、北京生活学校、終戦後の引き揚げ者援護事業、各種展覧会や講習会の開催など、社会へ向けた様々な事業を展開します。さらに娘のために文部省の高等女学校令によらない女学校自由学園を創立し、もと子は園長に就任します。詰め込み教育と子供自由主義教育を批判、本当の自由主義の教育を目指します。83歳で逝去するまでたくさんの著作を残しています。もと子の発想の実現には経営面で支える夫吉一のサポートが常にありました。
-羽仁もと子記念館 Motoko Hani Memorial Museum
-婦人之友社 Fujin no Tomo Sha
-自由学園明日館 Jiyugakuen Myonitikan
-自由学園 Jiyu Gakuen
太祖婆
Ms. Taiso-Ba
1700頃 - ?
青森県八戸市 生誕
Hachinohe-city, Aomori-ken
太祖婆は目の見えない女性の仕事としてのイタコの創始者です。江戸時代中期に青森県八戸市周辺で盲目の巫女として活躍。熊野巫女・比丘尼に学びながら、山伏惣禄・鳥林坊とその妻・高舘婆に祈祷また口寄せなど巫技を継承、盲目の女性をイタコとして組織化させました。
Taiso-ba is the founder of Itako as a profession for visually impaired women. She was active as a blind priestess in the vicinity of Hachinohe City, Aomori Prefecture, during the mid-Edo period. While learning from Kumano shrine maidens and nuns, she inherited the techniques of divination and spirit possession from Yamabushi ascetic leader Tōryōbō and his wife, Takadachi-ba. She organized visually impaired women into Itako, following their traditions.
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古代のシャーマンを起源とする巫女は、男性の神職による神社の組織化に比例して、社会的地位は段々と低下。神がその時々に巫女に憑って託宣をして祭らせたものが、男子の神職によって日時と場所を一定させた儀式として行われるようになり、巫女の本来の職務は失われ軽視され経済的に圧迫され、多くの巫女は神社を離れて古き伝えの呪術を以て世に処すようになります。民間の巫女には特に盲目の女性が重用され、太祖婆も村から村へまわって活躍します。一方、平安期に朝野を通じて熾烈なる信仰を集めていた熊野信仰は鎌倉期に衰え始め、社僧神人等の生活を維持するために修験者は護摩ノ灰を頒布して諸国を勧進、巫女達は口寄せの呪術師または地獄極楽の絵解き比丘尼として日本国中に向って漂泊の旅に出るようになります。巫女又は比丘尼は売色比丘尼と化し多大な収益を得るようになるも風紀を乱していました。太祖婆は、オシラ神はじめ熊野巫技に学びつつも、性的職業婦と化した巫女の末路を憂えます。一方、巫女から祈祷と呪術を取り入れた男性修験者は、道教・仏教を交えて拡張、多くは巫女を妻として民間信仰を味方につけて圧倒的な支持を得ていました。太祖婆は、山伏をまとめる支配頭で合った鳥林坊とその妻・高舘婆にこれまで培った巫技を継承、視覚障害の女性の生業としてイタコを組織化・確立させます。師匠のイタコについて修行し、経文や巫業の作法を学び、厳しい入巫式を経て一人立ちします。以降、青森南部のイタコは民間の巫女ならびに地域の人々のカウンセラーとして大切に継承されていきます。
-青森県立郷土館 Aomori Prefectural Museum
「わたしは母の胎を裸で出た、また裸で母の胎に戻ろう。」-ヨブ記1:21
"Naked I came out of my mother's womb, and naked shall I return there." -Job 1:21
岡見 京子 (旧姓 西田 京子)女史
Ms. Kei Okami / Nishida Keiko
1859 - 1941
青森県むつ市大畑町 生誕
Born in Ohata-machi, Mutsu-city, Aomori-ken
岡見 京子 女史は、日本で初めて米国MD(Medical Doctor)を取得した女性医師。女性宣教師メアリー・トゥルーと共に、日本で最初に看護婦派遣事業と女性による女性のための療養所を創始。
Ms. Keiko Okami is the first female doctor in Japan to obtain an American MD (Medical Doctor) degree. With female missionary Mary True, she founded Japan's first nurse dispatch business and sanatorium by women for women.
「メアリー・トゥルー」
けいこは、全国各地からの物産の集積地である大畑の大商人の父・西田耕平と、武家の出身である母・みえの長女として生まれます。けいこは幼少時からしばしば母方の江戸藩邸で過ごしたり、父の商売相手の英国人家族と交流したりします。明治維新に、横浜で貿易業をはじめる父に従って一家で上京します。けいこは横浜共立女学校に入学すると、宣教師メアリー・トゥルーを慕って横浜海岸協会で洗礼を受けます。「自分のつとめを怠ったり、自分に力があるのに他を助けなかった時、苦痛を感じるような女性になりなさい」。竹橋女学校で英語を学んで英語教師として桜井女学校に着任。そこで宣教師メアリー・ツルーが奔走する看護婦養成事業を手伝いながら、麹町教会に通って貧民伝道活動に従事するようになります。
「ペンシルベニア女子医科大学」
25歳のけいこは、頌栄女学校の絵画教師で中津藩江戸家老の末裔で資産家の岡見千吉郎と篤い信仰心で結ばれ結婚します。2人はアメリカ留学を計画。夫・千吉郎を新渡戸稲造とともに米国のミシガン農科大学に送り出すと、けいこも渡米して世界最初の女子医大であるペンシルベニア女子医科大学でアメリカ人はじめインド・シリア・ロシアから来た留学生らとともに学びます。後見人である富豪のモリス夫妻からは「顔色青く躰瘠て気力なく、かゝる人が学問の研究特に学問の中でも難渋なる医学を研究するは大なる誤にて、到底むつかしい事と思ひました。」と心配されるも、午前9時から夕方6時まで化学・薬物学・産科学・婦人科学・解剖学・外科学・病理学・生理学・組織学・内科学・治療学・耳鼻咽喉科学・眼科学・解剖実習・診療研修に励み、4年後には「全く変つて、顔色も充分に紅みを保ち、肉つき、実に壮運なる人となり、学問も進歩致しました。」と称賛されるほど優秀な成績で卒業します。
「女性による女性のための療養所」
けいこは夫とともに帰国すると、日本で5番目の女医として医術開業免許状を取得。高木兼寛医師が貧民救済を目的に設立した東京慈恵医院の産婦人科主任に就任します。育児をしながら、4番目の女性医師・本多銓子はじめ女性看護婦らとともに医療活動に従事、唯一の女医養成所であった救済学舎の女子学生を支援します。ところが3年目を前にして、明治天皇が慈恵医院を行幸する際に拝謁を遠慮するよう指示する宮内省に抗議して辞職をします。けいこは赤坂の自宅で医院を開業、岡見家が経営する頌栄女学校の教頭として教壇に立ちます。まもなく恩師であるメアリー・トゥルーと一緒に、夫はじめモリス夫妻の援助のもと、新宿角筈に女性のための結核療養施設「衛生園」と看護婦養成所を開設。2480坪の敷地に2階建ての洋風建築、2階に病室13室、1階にサンルーム・ホール・食堂・診療室・薬局を置いて、一家で移り住みます。けいこは園長として予防と快復期の看護に重点を置く新しい医療に取り組みます。日本女性がゆっくり休養をとること自体に理解と認可がなかなか得られない中、けいこは看護婦の派遣事業をはじめ、赤坂病院のW・ホイットニー院長の協力のもと「赤坂病院分院衛生園」を設立。やがて経営が立ち行かなくなり13年面で閉鎖すると、けいこは岡見家の頌栄幼稚園園長を務めたり、女子学院で英語と生理学を教えながら敬虔なクリスチャンとして過ごします。
-『日本女医史』(日本女医会本部, 1962)
-女子学院
-頌栄女子学院中学校・高等学校
-東京慈恵医院
-高井戸教会
「力いっぱいの、その女の戦いの苦しさに、私はときどきわあーっと喚声をあげたくなることがある」
"In moments like these, I sometimes feel the urge to let out a heartfelt cheer for the strength and struggles of that woman's fight."
淡谷 のり子 女史
Ms. Noriko Awaya
1907 - 1999
青森県青森市 生誕
Born in Aomori-city, Aomori-ken
淡谷のり子女史は日本のシャンソン歌手の先駆けです。特に戦時中の弾圧下でも美しい化粧また衣装を身にまとって死地に赴く兵士また家族の心を慰めるように歌い続けました。
Ms. Noriko Awaya was a pioneering Japanese chanson singer. Especially during the wartime oppression, she continued to sing, adorned in beautiful makeup and costumes, offering solace to soldiers in the battlefield and their families.
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「ごんぼ掘り」
のり子は青森屈指の豪商の呉服屋「大五阿波屋」に2人姉妹の長女として生まれます。30人を超す奉公人を抱え店先はいつもにぎわい、のり子は当時は珍しい西洋人形や洋菓子を与えられ何不自由なく育ちます。のり子3歳の時に青森大火で店は焼失、父・彦蔵は再建を目指して商売に奔走するもまもなく店は人手に渡ってしまいます。次々と「差し押さえ」の紙が家財がに貼られていく中でも、のり子は気に入った布地・帯を「ゴンボ掘り」する大のおしゃれ好き。リボンをひらひらさせて女学校に通い出し始めるころ、親戚からも見放され酒と女に溺れていた父は家族を置いたまま別の女性と姿を消してしまいます。「女だって必死になったら飢え死にすることはないでしょう」黙って夫に従って耐えてきた母・みねは、故郷を離れ2人の娘を連れて上京します。のり子と妹・とし子は母の勧めで、三浦環のような歌手また音楽教師になるべく東京音楽学校(現東京芸術大学音楽課)また青山学院所学部のピアノ科に通います。のり子はクラシック音楽の基礎を徹底的に学びオペラ歌手を目指します。実家が徐々に貧しくなるとともに、妹・とし子が目を患い高額な治療費の工面に奔走します。のり子は学校を1年間ほど休学、絵画のヌードモデルを務めるなどして生活費を稼ぎます。なかでも画家・田口省吾からは学費・治療費など献身的なサポートに加え求婚を受けますが、妹・とし子の目が快復すると、のり子は復学して再びオペラ歌手を目指します。声楽の指導法を確立したリリー・レーマンの弟子でもあるソプラノ歌手・久保田稲子の指導を受け、のり子は29歳の時に東洋音楽学校を首席で卒業、声楽家としての一歩を踏み出します。「どんなに苦しくても生活に負けないことよ。本当の芸術を極めていかなかったら音楽をやった甲斐ないじゃないの。」
「からきじ」
世界恐慌が始まる頃、のり子は卒業後もそのまま母校に残って研究科に籍を置きます。母校主宰の演奏会ではクラシック歌手として活動するも、家計を支えるために「久慈浜音頭」「マドロス小唄」など流行歌も歌い、東京・浅草の「電気館」のステージに立って映画館の専属として歌います。「低俗な歌を歌った」ことが堕落と見なされ、母校の卒業名簿から抹消されます(後年復籍)。レコード会社でシャンソンのカバー曲「ドンニャ・マリキータ」「暗い日曜日」を吹き込むと大ヒット。日本にシャンソンブームを巻き起こします。続いて「別れのタンゴ」「傷心の歌」のヒットでタンゴの女王、「別れのブルース」「雨のブルース」のヒットでブルースの女王と呼ばれ、売れっ子歌手となります。レコード会社のセクハラ男達から逃げ回る中、ジャズピアニストの和田肇と結婚するもまもなく離婚。酒好きが高じて酒場を経営したり、漫才師を引き連れて上海で豪遊したり、恋愛をエンジョイしながら「淡谷のり子」楽団を結成。第二次世界大戦中では、どんなに婦人会はじめ軍部に強制されてもモンペをはかず、細い眉を描き、濃い口紅をつけ、パーマをかけ、美しい衣装を身にまとってステージに上がります。戦後は、米軍のキャンプまた将校クラブで歌い始め、妹・としこのピアノとともに各地を巡業します。レコード会社と宣伝屋のセクハラ男達による「新人あさり」はじめ新人歌手による「女の切り札」が入り乱れる中、のり子は自らの楽団と舞台はじめラジオ・TVで歌い続けます。のり子は「じょっぱり」ならぬ「からきじ」気質を通して、歌手として音楽批評家として大活躍しながら92歳で逝去します。
岩手県 Iwate-Ken
「愛は寛容であり、情深い。愛は妬まない、高ぶらない、誇らない。」(新約聖書「コリント人への手紙第一」13章4-8節)
"Love is patient, love is kind. It does not envy, it does not boast, it is not proud." -1 Corinthians 13:4-8 NIV
淵沢 能恵 女史
Ms. Noe Fuchizawa
1850 - 1936
岩手県花巻市石鳥谷町 生誕
Born in Ishidoriya-tyo, Hanmaki-city, Iwate-Ken
淵沢 能恵女史は韓国女子教育に献身した女性です。日韓婦人会を創設、李朝厳皇貴妃の支援のもと、李貞淑女史と協力して淑明女学校(のちの淑明女子高等普通学校)を設立・運営しながら近代韓国女性の指導者を育てました。
Ms. Noe Fuchizawa was a dedicated woman who devoted herself to women's education in Korea. She founded the Japan-Korea Women's Association and, with the support of Lady Yi Cheong-wan, the Empress Consort of the Korean Empire, she cooperated with Ms. Yi Jung-suk to establish and operate Shukmyeong Women's School (later known as Shukmyeong Girls' High School) while nurturing modern Korean female leaders.
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「勉強がしたい」
能恵は奥羽の貧しい士族の8人目の娘として生まれ、口減らしのために川に流されるところを下級武士の父・武一と母・カルの養女として育てられます。幼いころは父が教える寺小屋で学んで家事をするときも本を手放さず、履物屋に奉公人に出されてからも個人宅に漢文を習いに通います。23歳で結婚するも酒癖の悪い夫とすぐに離婚、日本初の近代製鉄所で発展していた釜石にいる兄の元に身を寄せます。能恵は福沢諭吉の『学問のすすめ』『西洋事情』を読んで西欧文化にひかれ、29歳のときにお雇い外交人鉱山技師G・パーセルのメイドになり一緒にアメリカに渡ります。5人の子守をしながらロサンゼルスで1年、さらにサンフランシスコのミス・プリンスの元で2年メイドとして働きながら、洗礼を受けて英語と家政を学びます。帰国後、同志社女学校に入学。年長の能恵は寄宿生活をしながら同期生の面倒をよくみるも、宣教師との意見衝突また学費工面のため退学。上京して東洋英和女学校、一橋高等女学校、下関洗心女学校、福岡英和女学校で教師となりますが、病気のため辞任します。
「愛くるしい朝鮮子女の為に」
50歳の能恵は東京で塾を開きながら梅屋文具店を開店、学校運営に関わる様々な人々と人脈を築きます。55歳の時に、貴族委員でサンフランシスコ領事の子爵岡部長職夫妻と韓国視察旅行に赴き、余生を韓国の女子教育に捧げる決心をします。内房に閉じ込められて短い娘時代を過ごし、13~15才になると両瞼に蝋を塗られて嫁に出されていました。能恵は韓国皇室へ働きかけ日韓婦人会を創設、李朝厳皇貴妃の支援を受け、1906年明信女学校(後に明新高等女学校、淑明高等女学校と改名)を開校。韓国初の女性校長の李貞淑と相互に信頼関係を結んで学校運営を行います。能恵は学監兼主任教師に任じられ、5名から300名に増えた生徒らと寝食をともにしてキリスト教精神の下に献身的に教育に当たります。「愛は妬まず高ぶらず誇らず(コリント第1・13)」韓国併合後も、皇民化政策を拒否、3・1独立運動に参加、 抗日示威運動で連行された生徒を体を張って守ります。韓国女性の指導者を養成するための女子専門学校の設立ならびに大学課程の設置を準備をしながら86歳で永眠。淑明の校庭でキリスト教式による学校葬が行われました。
-いわての文化情報大事典 Iwate Cultural Information Encyclopedia
-同志社大学 Doshisya Univ.
-『婦人新報』(日本キリスト教婦人矯風会 1990-04)
-『朝鮮公論』(朝鮮公論社 1914-09)
宮城県 Miyagi-Ken
「一の弓 まずうち鳴らす初音をば このむらの神々まで請じ入れ申さうや
二の弓の音声をば 所の神々まで請じ入れ申さうや
三の弓をば 日本は六十六箇国のかずのすうさく 和光同塵まで請じ入れ申さや」(神寄せ)
朝日和歌神子
Asahi-Waka-Miko
1200 頃 - 1300 頃
宮城県栗原市高清水 生誕
Kurihara-city, Miyagi-ken
朝日和歌神子は出羽奥州の神子(盲巫)の創始者です。125歳で逝去するまで、出羽奥州の盲目の女性達に祈祷また口寄せなどの巫技を伝え組織化しました。葛西氏家臣・志津川城主の千葉大膳太夫の妻となって、中世の豪族・葛西氏の滅亡に伴って盲目となった朝日姫と同一人物とする伝承も語り継がれています。
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「朝日姫の誕生」
人王八十二代御鳥羽院の御治世、源頼朝公の御時、奥州大崎栗原郡高清水に比久太郎という人がいた。元は源家の侍であったが、民家に下った。富貴に暮らしていて一人の娘が生まれ、正月元旦に朝日を受けて誕生したので朝日と名づけた。7歳の頃から学問をはじめ聡明であったが、十六歳の春に盲人となり、両親は神社に祈ったが甲斐がなかった。娘は出羽奥州五国には自分のような盲目の女もいるだろう、末世に至るまで世を渡るための方法はないかと考えた。
「月山権現と梁川八幡宮の神力」
十六歳の七月十六日、湯殿山へ行き、月山権現の御前で通夜したところ、権現が枕上に立って、四寸四方の箱の中に十二の巻物がある、急いで伊達郡梁川の八幡宮へ行き、百日通夜して渡世の道を祈るがよいと告げた。夢から覚めて枕元を見ると箱があったので、梁川の八幡宮へ行き、通夜して祈ったところ、八幡宮が枕上に立って箱を開けて巻物を取り出し、学問して法を広め渡世しなさい、座頭の妻になるがよい、朝日そうし和歌神子と名乗り、弟子を大勢取って和歌神子と名乗らせるがよいといった。
「行者修行」
朝日は朝も夜も学問した。1の巻は心経、2の巻は錫杖経、3の巻は日本紀国がけ、4の巻は東方らく、5の巻は北方らく、6の巻は祈立、7の巻は羽黒の祓、8の巻は月山の祓、9の巻は梁川八幡の祓、10の巻はさわぐり、11の巻はもの神正し・草木揃え、12の巻は浄土さがし・地獄探し・大よせ口・小よせ口である。神子の道具である7尺3寸の弓・3尺1寸の打竹・数珠・錫杖・れい・かなまりを持った。それより空を飛ぶ鳥や地を走る獣も祈り落とす妙技を身に付けた。
「朝日和歌神子」
朝日和歌神子は出羽奥州へこの法を広め、梁川に2人、米沢に1人、坂田に1人、秋田に2人、津軽に1人、南部に1人、弟子を持った。本国に帰っって大崎でも2人以上弟子を持った。弟子たちに和歌の法を学問させ、和歌の道具を譲り、祈念、祭礼、口寄せを習わせ、孫弟子彦弟子いずれも座頭の妻となった。和歌神子は座頭中老引きの妻となり、座頭妻を神子と名乗らせ、和歌の譲りを得るときは100日の精進、7日の断食、3度の垢離を行うこと、和歌神子代々伝えられた。
「朝日和歌神子による盲人渡世のはじまり」
朝日そうし和歌神子は125歳で亡くなり、文禄3年7月10日に高清水の丸田沢というところの和歌神子大神宮と現れ、11月18日を知恵第一の神として祭礼を末世まで勤めさせた。朝日姫は千手観音の化身であり、衆生済度のため、盲人となり諸々の神仏へ祈り、末世に至り盲人渡世のことを願い、湯殿山、月山の神力をもつ行者となって和歌神子を名乗り給うこと、奥州栗田郡の役人国主・藤原秀衡に伝えた。秀衡は将軍頼朝公に言上し、末世に至るまで何国でも盲人は朝日和歌神子と名乗って、口寄せ、祈祷を勤めてもよいという国主秀衡殿の印紙を載いた。
-『巫女の習俗:東北地方』(文化庁文化財保護部 編 / 国土地理協会)
-八戸市・新山神社旧蔵『梓神子の由来』
-『日本巫女史』(中山太郎 著 / 大岡山書店1930)
「女子体育は女子の手で。」
"Women's physical education by women"
二階堂 トクヨ 女史
Ms. Tokuyo Nikaido
1880 - 1941
宮城県大崎市三本木町 生誕
Born in Ozaki-city, Miyagi-Ken
二階堂トクヨ女史は、日本初の女子体育専門学校の創立者です。男性と対等であり平等である「女性」のための教育に尽力。イギリスのクリケットとホッケー、チュニックを日本に持ち込みました。
Ms. Tokuyo Nikaido was the founder of Japan's first women's physical education specialized school. She dedicated herself to education for women, emphasizing equality with men. She introduced cricket, hockey, and tunics from England to Japan.
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「女性教師不要論」
トクヨは鳴瀬川の清流を前に春は菜の花畑が大地を彩り、秋は黄金の稲穂が波打つ宮城県志田郡三本木に、もと仙台藩士の父・保治と母・きんのもとにトクヨは生まれます。二階堂家が明治維新に土地・家禄を没収され開墾をはじめてから10年余り過ぎた頃でした。運動嫌いで文学少女に成長したトクヨは、15歳で准教員検定に合格すると地元の三本木小学校で准教員となります。正教員の資格を目指す矢先に、休みが多い・能率が上がらないという理由で宮城県で女性教員廃止論が持ち上がります。そこでトクヨは福島の新聞「福島民報社」に手紙を書いて福島県の尋常師範学校(現・福島大学)への斡旋を入学を嘆願します。福島民報社の社長・小笠原貞信の養女となったトクヨは、晴れて福島県尋常師範学校へ入学。高等小学校正教員の資格を得て卒業後、油井尋常高等小学校で教員になります。そこで見合い話を断ったトクヨは女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)に入学。文科で尾上紫舟の和歌の授業に熱中しながら、チフスはじめ養父・実父の死を乗り越え、教育・倫理・体操・国語・地理・歴史・漢文の7科目の師範学校女子部ならびに高等女学校の教員免許を取得して卒業します。
「女性体操教師無能論」
石川県立高等女学校(現・石川県立金沢二水高等学校)で国語教師として採用されたトクヨは、校長から体操を教えるよう通達され落ち込みます。当時の女性体操教員は専門外・無資格で、おもに行進遊戯を教える者が多く社会的評価が低かったのです。嫌々ながらもトクヨは体育専門学校を出たアメリカ人宣教師のもとで技術を教わり、毎朝夜明けとともに浅野川の橋のふもとで自分で号令をかけながら体操の練習に取り組みます。はじめは心身ともに疲弊するも、数か月すると心身ともに明るく元気を増していき体操に熱中するようになります。夏には井口阿くり女史が講師を務めるスウェーデン体操を受講、続いてカナダ人宣教師フランシス・ケイト・モルガン女史のもと独自の体操レッスンを受けます。ダンスに体操にスポーツに、トクヨの授業は大評判となって参観者が絶えず、学校の運動会には大勢の観客が押し寄せ、押すな押すなの大盛況。ついには石川県を回って小学校教師向けに体操の指導を行うようになります。
「女子体育は女子の手で」
30歳で二階堂姓に戻ったトクヨは、井口阿くり女史に見いだされ母校の東京女子高等師範学校の助教授に就任します。寿退職する女史の後を継ぐべく、トクヨはイギリスのキングスフィールド体操専門学校に留学。女性参政権擁護者である校長マルチナ・バーグマン=オスターバーグ女史のもと、生理学・解剖学・衛生学の理論、教育体操・医療体操・舞踊・競技の実技、教授法を学びます。管理の行き届いた寄宿舎、1日5回の食事、動きやすいチュニックの制服、ホッケー・ラクロス・水泳・ダンスなど運動の楽しさを実感するとともに、女性体育教師の社会での活躍ぶりに驚きます。第1次世界大戦勃発とともに帰国したトクヨは母校の東京女子高等師範学校の教授に就任。当時の日本の体操界では男性教師に全ての決定権があり、女性教師は男性教師に従うものとされる中、上司の永井道明らが推し進める「学校体操教授要目」に反対します。号令と呼唱による訓練と規律、軍隊体操・行進遊戯をもっぱら重視する「男子本位に考えられた体操で女子には甚だ不適切である」。
「二階堂体操塾」
トクヨは自ら体操講習会を開催して日本各地を飛び回ります。さらに女性体操教師に呼び掛け「全国体操女教員会」(後の体育婦人同志会)を立ち上げ自ら会長に就任します。「女らしい体操家が女子の世界には勝利を収めなければならない。」そして雑誌『わがちから』を創刊して、女子体育の重要性を社会に訴えます。「女子の特徴とする身體の優美、行動の雅致、精神の円滑を図ることで心身ともに美しい女性を育成しよう」。1922年41歳の時に私財を投げ打ち、女子体育の研究機関と女子体育家(女性体操教師)の養成機関を兼ねた塾「二階堂体操塾」を開校します。「この学校ではチャイムがなりません。出席簿もありません。何の資格も取れません。しかし、体育の教員としての指導力をつけて卒業させることだけは、私が責任を持ちます。」トクヨは母親と二人で住み込んで校長・共感・舎監・事務員を務め、毎日滋養の有る食事と良い湯加減の風呂を準備します。1926年日本初の日本女子体育専門学校に昇格・改称。人見絹枝はじめオリンピック選手を育て上げながらも、晩年、教え子の戸倉ハルの尽力により母校・東京女子高等師範学校に体育科が設立されると大きな花束を抱えてお祝いに駆け付けます。
-日本女子体育大学・二階堂トクヨ資料展示室 Tokuyo Nikaido Memorial Museum
-「二階堂トクヨ伝」(二階堂清寿・戸倉ハル・二階堂真寿 著 / 不昧堂書店1960年)
「流行に敏感であるように。中心にいなくても、端っこにはいるように」
"Stay aware of trends. You don’t have to be in the center; just be on the edge."
土浦 信子 女史
Ms. Nobuko Tuchiura
1900 - 1998
宮城県仙台市 生誕
Sendai-city, Miyagi-ken
土浦信子女史は日本女性初の建築家です。同じく建築家の夫・土浦亀城とともにフランク・ロイド・ライトの元で修業、モダンデザインならびに都市住宅の先駆けをたくさん手掛けました。
Ms. Tsuchiura Shinko is Japan's first female architect. Alongside her husband, architect Tsuchiura Kameki, she trained under Frank Lloyd Wright and worked on numerous pioneering projects in modern design and urban housing.
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「吉野作造の娘」
信子は1900年に宮城県仙台市で政治家・吉野作造の長女として生まれます。母・たまのは信子を育てながら仙台で小学校勤務を続け、父・作造が東京帝国大学で政治学を勉強するのを支えます。信子が6歳の時に、父は母と末の妹を連れて、袁世凱の長男・袁克定の家庭教師として天津に赴任、北洋法政專門学堂で教鞭を執ります。信子が10歳の時にようやく母らと再会するも父は欧米留学へ。ようやく帰国して東京大学で政治史講座を担当する父のもとに母と7人きょうだいそろって上京します。信子は東京市誠之尋常小学校、東京女子高等師範学校附属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属高等学校)に進学。卒業後は父の勧めでアテネ・フランセに通ってフランス語を学びます。
「フランク・ロイド・ライトの弟子」
その頃、父・作造の講演を聞いたことがきっかけで自宅に出入りするようになっていた東京大学建築科の学生・土浦亀城と知り合います。信子は夫・亀城とともに帝国ホテル設計を任されていたフランク・ロイド・ライトの手伝いを始めます。やがて建設費の問題でライトは帝国ホテル設計の任を解かれアメリカに引き上げます。夫の大学卒業を待って結婚した信子は夫婦で渡米、カリフォルニア州ロサンゼルスとウィスコンシン州スプリンググリーンにあるライトの事務所で2年あまり働きます。信子は基本的な製図の知識と技術を身に付けながら、アメリカの文化や暮らしを夫婦で体感。大陸横断旅行を経て夫婦で帰国します。
「土浦亀城の妻」
夫・亀城は大倉土木(現・大成建設)に勤めはじめ、信子はアメリカの通信教育で建築設計の勉強を続けます。土浦信子の名前で朝日新聞社主催「新時代の中小住宅」(1929)また『婦人之友』主催「グループ住宅懸賞」(1930年)に入賞を果たします。やがて夫婦で土浦亀城建築設計事務所を開設、自邸を含む多くの住宅を設計します。ライトの厳格なスタイルはじめ国際的・近代的なスタイルを反映、ブロック積みを木枠の漆喰パネルに置き換え、材料や間取りの標準化といった建設の効率化・経済性を通じて日本住宅全般の改善に努めます。信子35歳のときに竣工した夫婦の邸宅は、採光と換気を考慮した大きな開口部や、合理的に考えられた間取り、システムキッチン、ボイラー給湯、水洗トイレなど最先端設備を導入した住宅で、当時の雑誌記事等にも積極的に取り上げられます。
「日本唯一の女建築家」
信子は「日本唯一の女建築家」として、蔵田周忠とブルーノ・タウトによる「世田谷等々力ジードルンク(共同住宅)」建設計画(1935年)に夫・亀城、谷口吉郎、堀口捨巳、前川國男らと一緒に名前を連ね、報知新聞社主催「山の住宅設計図」(1935年)に佐藤功一また吉川清作らと共に審査員として参加。注目を集めるとともに、主婦向けの雑誌で現代のインテリアデザインまたライフスタイルについて解説して人気を集めます。しかしながら信子はまもなく建築の仕事をあきらめ、写真・抽象画の創作活動に従事するようになります。彼女の作品のほとんどは夫の名前で登録され、信子が女性として建築分野で直面したであろう課題については何も示されていませんが、当時はまだ女性は穢れており神聖な建築現場から排除すべしという風潮がありました。
-国際女性建築家会議日本支部 Union Internationale des Femmes Architectes Japan
-『ビッグ・リトル・ノブ ライトの弟子・女性建築家 土浦信子』(小川信子 著 / ドメス出版2001年)
-土浦亀城邸
-吉野作造記念館
秋田県 Akita-Ken
「日本従来の古訓は、もっぱらに女性一般の心身に制圧を加えて、衛生的美容術を十分に講じさせなかった。身心の健康美が十分に発揮されなければ,本当の美人とは言えない」
``Traditional Japanese precepts exclusively suppressed the mind and body of women in general, and did not encourage them to take sufficient hygienic beauty techniques. If health and beauty of body and mind are not fully demonstrated, one cannot be called a true beauty. ”
井口 阿くり 女史
Ms. Akuri Inokuti
1870 - 1931
秋田県秋田市 生誕
Born in Akita-city, Akita-ken
井口阿くり女史は日本の女子体操教育のパイオニアです。アメリカで普及していたスウェーデン体操・ダンス・バスケットボール・体操服を日本に導入・指導・実践しながら、日本の女子体育を定着させました。
Ms. Akuri Iguchi is a pioneer in women's gymnastics education in Japan. While introducing, teaching, and practicing Swedish gymnastics, dance, basketball, and gym uniforms that were popular in the United States, she established women's physical education in Japan.
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「錦の旗下」
佐竹藩主のもと尊王攘夷派として、幕府側につく東北諸藩の中で錦の御旗を守って戦った久保田藩(後の秋田藩)。阿くりは、戊辰戦争に功績のある勤王士族で秋田藩士の父・井口糺と母・ミエの四女として生まれます。父は学問を好んで私塾を開き、阿ぐりを厳しく育てます。姉妹揃って近くの旭川で熱心に泳ぎ、秋田音頭が得意で、相撲や義太夫芝居が大好き、学業もすこぶる優秀、明治天皇の東北巡幸の際には朗読・手芸・席書を披露します。秋田県女子師範学校中等師範科を卒業して小学校の先生になるも、数年で秋田県尋常師範学校女子部に再入学。同級生・茂木ちえと二人で上京して東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)に無試験入学。服装やことばづかいいを田舎者扱いされたことに発奮して終始一番・二番を取り続けます。卒業後は助教諭を務めながら、付属高等女学校で国語・地理を担当。やがて山口県の私立毛利高等女学校の教頭に就任します。
「ボストン体操師範学校」
日清戦争の勝利に伴い、男性社会を支え、強い日本人を産み育てる良妻賢母教育が定着します。母校の恩師の要請で、女子高等師範学校に国語体操専修科を新設するために、阿くりは3年間の米国留学を命じられます。スミス・カレッジに入学すると、スウェーデン王立中央体操学校に学んで米国女性体育の先駆するセンダ・ベレンソンに体操科を、ブルスター博士に生理学を学びます。健康診断・姿勢教育・スウェーデン式体操を学び、バスケットボール・テニス・ボート・自転車など数多くのスポーツを経験します。設備の良い体操教室で体操服に着替えて臨み、身体の強弱に従って適当な教材を用い、熱心で注意深く指導力の高い女性教師のもと、生徒が規律よく敏捷に優美に運動を行う様子に、阿くりは日米の女子体育のへだたりを強く実感します。1年後、ボストン体操師範学校に入学。創始者で校長のアミイ・モーリス・ホーマンズ女史のもと、少数精鋭の厳しい校則と学科に耐え、入学者50人のうち卒業者20人として修了。2年間で「運動理論学」「解剖学」「生物学」「体操科」「医術体操科」「舞踏」「遊戯法」「競走運動家」「体育実地法」「心理学」「教育学」「人体測定学」を学びます。
「女子体育」
米国各地の女学校・師範学校・体育館などを視察してまわって帰国した阿くりは、女子高等師範学校教授となり国語体操科を担当。黒のつば広の帽子に黒い絹糸のベールを顔に垂らし、ローズ色のブラウスに黒のスカートのいでたちで、自転車にのって颯爽と通勤。女学生のあこがれとなります。東京女子高等師範学校・同付属高等女学校、日本体育会体操学校(現日本体育大学)女子部、東京音楽学校(現東京芸術大学)女子部でも指導しながら、『各個演習教程』を執筆してスウェーデン体操を全国に広め、女子・男子を通じた体育教育における第一人者となります。阿ぐりが導入した、バスケットボール、全身を美しく動かすギルバート・ダンス「ファウスト」「ポルカセリーズ」、運動服としてセーラブルーマー(セーラー襟の上衣に膝下チュニック)は、阿くりの教え子達によって全国の女学校に広まります。8年間で88名の女性体育教師を育て上げた阿くりは、宮内省御掛となり皇女の体操指導をしてからまもなく、永井道明と対立しながらも二階堂トクヨを後任に抜擢、京都大学出身の法学士・藤田積造と結婚して渡米。晩年は関根ゲン・木下ツナら教え子らと東京高等実習女学校を設立して運営に奔走します。
女子体育は「女らしくない」「出すぎる」など批判される中、阿くりは訴えました。「姿勢をよくし、身のこなしを敏捷にし、優美沈着の気を涵養するのも体操の目的である。」「人間の運動というのは3度の食事と同じようにしなければならないもので、男女の区別はない。」「女性の美は必ずしも西施や小町のような雨に悩める海棠の花といったような、優しい風情あるばかりと断言されぬものである。」「心身の健康美が十分に発揮されなければ、真性の美人とはされぬ。」「日本従来の古訓は、もっぱらに女性一般の心身に制圧を加えて、衛生的美容術を十分に講じさせなかった。」「女も進んでいかなくてはならない。一人残らず最初の十字軍にお加わりなさらねば私は承知しません。」
-「女子体育 18(5)」(日本女子体育連盟, 1976-05)
-「近代日本女性体育史 : 女性体育のパイオニアたち」(女性体育史研究会 編著 / 日本体育社1981年)
-秋田県立博物館
山形県 Yamagata-Ken
田澤 稲舟 女史
Ms. Inabune Tazawa
1874 - 1896
山形県鶴岡市鶴岡五日町川端 生誕
Born in Tsuruoka-city, Yamgata-Ken
「男程おそろしくけがらはしきものはなし」
"Nothing is more terrifying and ugly than a man."
田澤稲舟は樋口一葉と並ぶ明治の女性作家。近代的な女性の複雑な自己主張を表現している、フェミニズム文学の先駆者です。
Tazawa Inafune is a female novelist of the Meiji period, who admired as much as Ichiyo Higuchi. She is a pioneer to expresse modern women's desires or complex identities on literatures.
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錦は医師の長女として生まれるも、新聞や雑誌に投書をする文学好きでした。朝暘小学校高等科を卒業後、上京して共立女子職業学校(後の共立女子大学)図画科に入学。投稿をきっかけに山田美妙に師事、美沙の指導を受けた小説「医学修行」で田澤稲舟として21歳でデビュー。樋口一葉に続く女流作家として評判となります。続いて「しろばら」を掲載、男嫌いの変わり者のヒロインは、頼りにする乳母の手引きで華族の放蕩息子にクロロホルムを嗅がせて犯された末に投身します。近代的自我に目覚めた不幸な女性を描くも、森鷗外や内田不知庵ら当時の男性作家らからは非難を受けます。この年に2人は結婚するも、錦は夫の女性問題で苦悩します。郷里に帰って病床にありながら小説を発表します。22歳の時、肺炎と睡眠薬過剰摂取で死去。自殺未遂として新聞で報道され、山田美妙は文壇から駆逐されます。同じ年に彼女の遺稿「五大堂」が発表されます。流行男性作家が子爵令嬢と逃避、クライマックスで男は我に返って迷うも可憐な箱入り娘が物の怪のように男を死地へ誘因、二人で投身します。さらに翌年の彼女最後の遺稿「唯我独尊」では、伯爵の妻となった女が自殺を図るも愛する男による開腹手術の末にハッピーエンドで結ばれる男女を描いています。
-庄内日報社 Shonai News
佐藤 千夜子(本名 佐藤千代)女史
Ms.Chiyako Sato / Chiyo Sato
1897 - 1968
山形県東村山郡天童村(現:天童市)生誕
Born in Tendo-city, Yamagata-ken
佐藤千夜子(本名 佐藤千代)女史は、日本初のレコード歌手第1号。レコード第1号『波浮の港』『鶯の夢』、映画主題歌第1号『東京行進曲』コマーシャルソング第1号は『初恋小唄』、地方小唄第1号『須坂小唄』『三朝小唄』。
Ms. Chiyako Sato (Chiyo Sato) is Japan's first recording singer. She recorded the first Japanese record hits, "Nami Ura no Minato" and "Uguisu no Yume", the first movie theme song "Tokyo March", the first commercial song "Hatsukoi song", and the first regional folk songs "Suzaka song" and "Misasa song".
「歌行脚」
千代は、天童屈指の問屋を営む父・吉三郎、母・マツの長女として生まれます。母親の影響で4歳の頃から天童教会の日曜学校に通って、キリスト教と讃美歌の感化を受けて育ちます。天童小学校高等科を卒業後すると上京、英語の通弁士(通訳)になるため普連土女学校(普連土学園の前身)に入学。すぐに歌や音楽の勉強をする機会を求めて青山学院に編入します。オペラを鑑賞した千代は、音楽教師の個人指導を受けて音楽の勉強を続け、4年目に念願の東京音楽学校(東京芸術大学の前身)に入学を果たします。しかし、授業は物足りなく、東京の中央会堂教会に出入りして聖歌隊員となります。讃美歌を独唱する千代は、売り出し中の作曲家・中山晋平に見出されます。詩人の野口雨情を加えて新しい歌を宣伝して周る「全国歌の旅」に参加します。全国各地で「新民謡・新童話コンサート」を開催します。「こがね虫は金持ちだ」「かねぐらたてた くらたてた」千夜子の歌をみんなが追掛けます。「俺は河原の枯れすすき 同じお前も枯れすすき どうせ二人はこの世では 花の咲かない枯れすすき」みんなが千夜子の東北なまりの歌声と親しみやすいメロディーに熱心に耳を傾けます。
「小唄ブーム」
ラジオ放送が開始されると、千代は29歳のときに、NHK愛宕山放送局から中山晋平作品集をラジオを通して歌います。佐藤千夜子の芸名で、日本ビクターから『波浮の港』『鷲の夢』でレコードデビュー。「磯の鵜の鳥ゃ 日暮れにゃ帰る 波浮の港にゃ 夕焼け小焼け 明日の日和は ヤレホンニサ なぎるやら」「梅の小枝で 梅の小枝で 鶯は雪の降る夜の夢をみた 野にも山にも雪ばかりサラ サーラと雪ばかり」レコード第1号は飛ぶように売れて15万枚の大ヒット。翌年、菊池寛原作の小説『東京行進曲』が日活で映画化され、主題歌を千代子が歌います。「昔恋しい銀座の柳 仇な年増を誰が知ろ ジャズで踊ってリキュルで更けて 明けりゃダンサーの涙雨」映画主題歌第1号は25万枚を売り上げ、「歌謡曲」というジャンルを確立。次々とヒット曲を発売、全国の老若男女が千夜子の歌声を真似て口ずさみます。続いて、病薬イメージから脱却したいカルピスの社長・三浦海雲に依頼されコマーシャルソング『初恋小唄』(北原白秋作詞)を日比谷公会堂で歌唱。「いとし前髪 李(すもも)の花よ せめて初恋また一と目 汲めよカルピス 命の泉 春はみなぎる 血はたぎる」。「初恋の味カルピス」が大ヒットすると、地方観光の宣伝に『須坂小唄』『三朝小唄』をレコーデイング、地方小唄ブームを起こします。
「古事記オペラ」
日比谷大音楽堂での講演後、楽屋の千夜子を高松宮殿下(宣仁親王)が訪ね、ドイツ語翻訳した古事記のなかの歌謡を歌唱するよう依頼されます。古事記のドイツ語訳事業の目玉、『三諸歌』プロジェクト。雅楽の造詣の深い古い神官の家系の木下祝夫(後の香椎宮)が楽譜とドイツ語訳を担当。千夜子は一世一代の名誉として、声楽の本格的な研鑽の為にイタリアに旅立ちます。現地ではオペラの勉強の一方で、日本の民謡を広めることに尽力。イタリア政府から功績を称えられます。5年後に自信満々で帰国すると、流行歌を控えて『三諸歌』の完成を待ちます。やがて戦争に突入。千代子が南方戦線の慰問をして周る間に、東京大空襲で『ドイツ語訳古事記』『三諸歌』は消失。終戦後は芸能界を離れ、荒廃した東京にオペラと歌曲の花を咲かせようと「音和会」に参加。音楽家仲間たちと無料で慰安発表会を開催してまわります。千夜子の死後7年後にようやく『ドイツ語訳古事記』が完成、さらに20年を経てオペラ『古事記』がドイツで上演されます。
-『天童市史 別巻 下 (文化・生活篇)』天童市史編さん委員会 編1984年
-『あゝ東京行進曲』結城亮一
福島県 Fukushia-Ken
「美徳を以て飾とせよ」
"Adorn yourself with virtue."
新島八重 女史
Ms. Yae Neesima
1845 - 1932
福島県会津若松市
Born in Aizuwakamatsu-city, Fukushima-ken
新島八重女史は幕末・明治時代に女性砲術師、女性教育者、従軍看護婦、女性茶人として活躍、新しいライフスタイルを実践しながらリーダーシップを発揮した近代女性の先駆者です。
Ms.Yae Neeshima is a pioneer of modern women in the late Edo and Meiji periods, actively engaging in various roles such as female artillery officer, female educator, military nurse, and female tea practitioner. She practiced a new lifestyle and made significant leadership.
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「女砲兵隊」
八重は会津藩の砲術師範を勤める父・山本権八と母・佐久にもとに生まれ、裁縫よりも家芸の砲術に興味を示します。父はじめ兄・覚馬から洋式砲術の操作法を学び、八重は13歳になる頃には四斗俵(約60キロ)を持ち上げして22貫(約80キロ)の体に鍛えあげ、裁縫場に通っても稽古が終わるやいなら自宅に戻って射撃稽古に明け暮れ、元込式7連発スペンサー銃を操作できるまでになります。まもなく兄が江戸から招いた優秀な洋学者で藩校日新館の教授を務める川崎尚之助と結婚します。オランダ語の原書を読んで機械や弾薬の製造まで手掛ける夫・尚之助について八重はさらに砲術を学びます。やがて郷里会津は鳥羽・伏見の戦いでの敗北を機に新政府軍から『逆賊』として扱われ、戦火は会津各地から鶴ヶ城に広がり籠城戦となります。大砲隊を指揮する夫・尚之助に続いて八重も断髪・男装して会津若松城に籠城、自らスペンサー銃を持って奮戦します。城内の砲兵隊として最前線の北出丸に銃を据え、土砂を詰めたよろいびつを並べて、肉薄してくる官軍を日々撃退します。しかしながら同盟諸藩とともに会津も降伏します。
「女学長」
敗戦後、八重は捕虜となった夫と生き別れ、夫の教え子で米沢藩士・内藤新一郎の世話で1年ほど米沢で母・佐久と兄嫁・うらとその子供たちと過ごします。あるとき薩摩屋敷に捕らわれている兄の噂話を耳にした八重は、京都府顧問となっていた兄・山本覚馬からの手紙を頼って上洛します。八重は兄の勧めで英語と聖書を学び始め、靴に履き替え、京都に新設された新英学校及女紅場の権舎長・教導試補として働きはじめます。八重は機織りや礼法・習字などを教えながら、京都府知事・槇村正直のもとに乗り込んで学校運営に関して頻繁に交渉に行きます。あるとき、アメリカン・ボードの宣教師ゴードン夫妻のもとを訪ねた八重は靴磨きをするアメリカ帰りの宣教師・新島襄と出会います。やがて兄のもとに寄宿してキリスト教主義の学校建設(後の同志社大学)に奔走する新島襄に賛同した八重は洗礼を受けキリスト教式の結婚式を挙げます。八重は西洋料理を覚え、洋装に靴を履き、「八重さん」「襄」と呼び合って常に連れ添って、クリスチャンホームを実践します。八重は私塾デイヴィス邸での女子塾、同志社分校女紅場、同志社女学校、京都府看病婦学校と同志社病院の創設にも携わります。
「女茶人と看護婦」
夫・襄が急逝すると八重は体調を崩し寝込みますが、やがて日本赤十字社の正社員となります。日清戦争が始まった年、日赤京都支部と京都看病婦学校から看護婦40 名を率いて広島第三予備病院に行き4ヶ月間の救護活動を行います。看護婦取締役として、怪我人の看護ならびに看護婦の地位向上にも努めます。その後、八重は日赤の補習科で看護を学び、 看護学修業証を得て看護学校の助教師を務めます。日露戦争時には、再び各地の病院を精力的に慰問、大阪陸軍予備病院で2ヶ月間救護活動を行います。 これらの功績によって勲七等宝冠章ならびに勲六等宝冠章が授与されます。八重は女紅場で茶道教授・円能斎の母である伊藤幾久寿と知り合ってから茶道に親しみ、49歳で茶道裏千家に入門、若い女性たちに茶道を教授し始めます。さらに京都府立第一高等女学校と京都市立第一女学校に八重は「茶義科」を開設。教授に圓能斎と幾久寿を迎えます。それまで男性中心だった茶道は、女子教育の一環として復活します。86歳で逝去するまで女子教育また社会奉仕に活発に活動を続けました。
田部井 淳子 女史
Ms. Junko Tabei
1939 - 2016
福島県田村郡三春町出身 生誕
Born in Tamura-gun, Miharu-machi,Fukushima-ken
「女子だけで海外遠征を」
"Overseas Expeditions for Women Only"
田部井淳子女史は女子登攀クラブを設立し、女性として世界で初めて世界最高峰エベレストおよび七大陸最高峰への登頂に成功しました。生涯で76か国の最高峰・最高地点に登頂しながら、安全で楽しい登山の指導・山岳環境保護の啓蒙活動に力を注ぎました。
Ms. Juneko Tabui is the founder of the Women's Alpine Club and the first woman in the world to successfully climb both Mount Everest, the highest peak on Earth, and the highest peak on each of the seven continents. Throughout her life, she climbed the highest peaks and points in 76 countries while dedicating herself to promoting safe and enjoyable mountaineering, as well as environmental conservation efforts in the mountains.
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「ワァー登ったんだなぁ。」
淳子がはじめて山に登ったのは小学校4年の夏休み。山好きの担任の先生に引率されて学友4人と一緒に2泊3日で栃木県の茶臼岳1915mを大冒険。歩くうちにだんだん草や木がなくなって砂と岩だらけ。硫黄の変なにおいがして、地面がぶつぶつと煮たっている。病気がちで運動も苦手にも関わらず、わくわくどきどきしながら、先生また学友と励まし合ってゆっくり一歩一歩進んで頂上に立ちます。淳子は頂上から見下ろす風景の美しさに感動します。順位を競うこともなく選手の交代もなく、体育が得意な友だちと苦手な自分も一緒になって登り途中の風景も頂上にたどり着く達成感もともに味わう。淳子はすっかり登山に魅了されます。中学・高校の山岳部は女子禁制で入部を断念、年の離れた兄と一緒に安達太良山・磐梯山・吾妻山に登ります。
「どうしても白い山へ登りたい雪の山を歩いてみたい 」
上京して昭和女子大学の英米文学科に進学すると、寮生活のストレスで体調を崩します。ふさぎこんでいた淳子は友人に誘われて奥多摩の御岳に登ります。 ただ ひたすら一歩一歩登りながら頂上に立つと、確かな満足感と山を取り巻く自然の広がり・空気・あらゆるものが体中の臓器にしみわたります。それから友人2人で東京周辺の山々からはじめ、谷川岳・中央アルプス・八ヶ岳・北アルプス・南アルプス・北海道の山々を歩き回ります。雪山を登りたい淳子は、女性を受け入れている社会人山岳部を雑誌で探しだして入部。日本物理学会に就職して論文編纂に従事しながら、毎週末ヘルメットを被りロープを体に巻きつけて岸壁にへばりつきます。「白嶺会」では富士山での雪上訓練からはじめ冬山の五竜岳・谷川岳一ノ倉沢を目指し、「龍鳳登高会」では日本最大の岩場、谷川岳一ノ倉沢の奥壁・衝立岩、穂高岳の屛風岩を目指します。
「女同士で衝立山を登ろう」
本格的な登山にのめりこんでいく中、ヨーロッパ三大北壁の一つアイガー北壁をドイツ人女性が初めて登頂した話を聞きます。早速、淳子は佐宗ルミエと女性ペアを組んで谷川岳一ノ倉沢の衝立岩に雪期登攀します。女同士の登山では、歩く速度も岸壁をつかむ位置も同じ、着替えやトイレなど気を遣う面倒もない。淳子は今までにない満足感を味わいますが、数か月後、谷川岳で仲間を助けようとして転落死したルミエの訃報が届きます。淳子は登山家・田部井政伸と出会い結婚・出産。淳子は退職金で夫・政伸をヨーロッパのマッターホルンに送り出します。政伸はヨーロッパ三大北壁のグランド・ジョラス北壁・マッターホルン北壁の登頂に成功するも凍傷で足の指4本を切断します。淳子は夫とザイルを組む一方、女同士で何度も登攀合宿を行い、猛烈な勢いで山に登り続けます。
「女だけでヒマラヤへ行こう」
1969年「女だけでヒマラヤへ行こう」を合言葉に、淳子は宮崎英子、関田美智子とともに「女子登攀クラブ」を設立。気兼ねのない女性だけの海外遠征の登山隊「アンナプルナ日本女子登山隊」(隊長:宮崎英子、副隊長:田部井淳子、 隊員:平野栄子、漆原知栄子、平川宏子、佐藤礼子、真仁田美智子、山崎茂利江、 医師:大野京子)を結成。女性には登れないという世間の偏見に向き合いながらスポンサー集めに奔走、猛者達の統率に苦心しながら選出メンバーとトレーニングや登山計画を練ります。1970年、高山病・スリップ事故・荷揚げでメンバーが紛糾する中、アタックメンバーに選ばれた淳子はヒマラヤ山脈アンナプルナⅢ峰(7555m)に登頂を果たします。さらに、「エベレスト日本女子登山隊」(隊長:久野英子、副隊長:田部井淳子、 隊員:真仁田美智子、奈須文枝、渡辺百合子、 平島照代、三原洋子、中幸子、種谷由美、塩浦玲子、永沼雅子、荒山文子、北村節子、藤原すみ子、ドクター:阪口昌子)を結成。1975年、雪崩に巻き込まれ胸部圧迫・打撲を負いながらも下山を断固拒否、アタックメンバーに選ばれた淳子は世界最高峰エベレスト(8848m)の女性世界初の登頂を果たします。
「一緒に富士山に登ろう」
さらに淳子は女性登攀クラブを率いて、1992年女性世界初で7大陸最高峰登頂。さらに、アイガー、マッターホルン、グランドジョラスとエネルギッシュに登り続け76か国の最高峰・最高地点の登頂を記録。還暦前には、キルギス共和国のポベーダ峰(7439m)・イスモイル・ソモニー峰(7495m)、レーニン峰(7134m)、コルジェネフスカヤ峰( 7105m)、ハン・テングリ(7010m)の天山・パミール高峰五座に登頂を果たし、現地で「雪豹」の称号を贈られます。東日本大震災後、淳子は故郷福島はじめ東北の高校生たちを連れて富士登山をはじめます。仲間同士で日本一の富士山に楽しく登れるように、内気な子には声をかけて疲れた子は励まして、勇気や元気を持って前に進めるように頂上に立たせます。
-田部井淳子基金 Junko Tabei Foundation
-時事通信 Jiji Press Ltd.
「中身を守るために、捨てられてしまう卵の殻になってなってもいい。」
"I'm okay to become the egg shell thrown away to protect the contents."
星 三枝子 女史
Ms. Mieko Hoshi
1949 - 1992
福島県南会津郡田島町(現在の南会津町) 出身
Born in Tajima-machi (Now MinamiAizu-machi), Fukushima-ken
星 三枝子 女史は薬害スモン闘病記の著者で薬害スモン福島の会発起人。薬害スモン闘病記録を点字で機関紙はじめメディアに寄稿して薬害スモン訴訟を牽引します。
Ms. Mieko Hoshi is the founder of the Sumon Fukushima Society for Drug Harm. She led the Sumon litigation, contributing her SUMON journey article to media.
「青春」
三枝子は、空気は新鮮で山の緑が美しい国鉄会津滝原線終着駅の会津滝原に生まれます。中学校を卒業すると地元の南会高等洋裁学院に入学、会津若松市の呉服屋「上野屋」に就職します。20歳の三枝子は生まれて初めて親元を離れアパートで自炊しながら、客の注文服の仕立てを担当して寸法を取り裁断を仕上げます。毎日がとても充実して働くことの喜びを満喫します。従業員一同で大騒ぎして楽しんだ社員旅行から戻ると、とても暑い日が続いてアパートは蒸し風呂のようになり、水を多く飲むうちに水あたりで下痢が続いて食欲も体力も減退、仕事も休みがちになります。三枝子は近所の竹田総合病院に勤める看護婦の叔母に予約を頼んで消化器科で受診します。赤痢の検査を受けて筋肉注射と2・3日分の薬を処方されて帰宅します。薬をきっちり飲んでも下痢が続くので何回か外来に通います。赤痢ではないことが分かってほっとしますが、同じ様に筋肉注射と2・3日分の薬を処方され、同じ様に薬を欠かさず飲んでも吐き気また下痢が止まらず体は衰弱する一方。実家に戻って療養しても良くならず、入院することになります。
「しびれ」
三枝子は病院でも点滴と同じ薬を引き続き処方されます。その夜中に歯が食いしばっているような感じがして目が覚めるも気にしないで寝入ると、翌朝口が開かない話すことができない唸り声しか出ないことにびっくり仰天します。駆け付けた医師たちはヒステリー症と診断。お昼に心配する家族に介抱されて牛乳を飲ませてもらっても唇からよだれのように流れます。吐き気をもよおして背中を叩いてもらって薬のようなものを吐き出すと歯の食いしばりが治って話ができるようになります。夕方には足のしびれを感じます。日に日に足のしびれが重くなって白く変色していきます。三枝子は回診のたびに看護婦また医師に訴えますが「気のせいだから」と言われます。歩くのが苦痛な三枝子はベッドの上で本を読んだり外を眺めて過ごします。入院して3日後、しびれは膝まで広がり足は鉄の靴でも履いているように重くなります。4・5日目にはつかまってもくにゃくにゃ座り込んでしまい歩けなくなります。排泄機能もしびれてお腹が張って苦しいのに自力排泄ができなくなり導尿を通されます。しびれや痛みは容赦なく上へ上へと広がり首に到達。全身の激痛と耳鳴りに苦しみます。
「スモン」
入院から2・3週間目に新潟大学から医師が来て診察を受けるころには手の指を曲げて胸にあてたまま動かなくなっていました。ATP点滴をはじめると視界がぼやけ始めます。三枝子はすぐに医師に訴えますが「気のせいですよ」と言われます。三枝子は歯を食いしばって痛みに耐えながらリハビリに励みます。そんなある日、仙台市の患者から一通の手紙を受け取ります。「スモンで8年寝たきりです。あなたもスモンらしいですね。」三枝子はハンガーストライキをして医師から病名を聞き出します。「スモン(SMON)Subacute Myelo-Optico-Neuropathy:亜急性脊髄・視神経・神経症」三枝子は聞いたこともない治るのか治らないのかも分からない病名に愕然とします。「来春あたりまでには見えるようになる」祈るような気持ちで来春が来るのを待つ三枝子は、入院して3か月後の秋に完全に失明して21歳を迎えます。父親の急逝と自殺未遂を経て、母親と妹に連れられてリハビリに通う三枝子は「スモンはキノホルムが原因らしい」という報道を耳にします。通院中に1日4錠、入院してから1日6錠のキノホルム含有メキサホルムを連続投与されていたことを医師から聞き出した三枝子は愕然とします。
「卵の殻」
全国スモンの会から手紙を受け取った三枝子は母・兄・叔父と一緒に訴訟説明会に出かけます。三枝子は同じ苦しみを乗り越えた様々な人達の話を聞いて力強く感じます。三枝子は福島県のスモンの会の発起人となって名簿を頼りに母親と一緒に手紙を送り、福島民報新聞の取材を受けます。機関紙「スモン」に闘病記録を寄稿したり、署名運動をしたり、カンパを募ったりしながら、リハビリに行ったり、点字の本を読んだり、点字を打って手紙を書いたり、編み物をしたり、長い入院生活の中で楽しみを見つけます。発症から2年後ようやくスモン訴訟第1回目の公判が始まると、三枝子は法廷での証言を務めます。「闘いはこれからだ。スモン訴訟。病気との闘い。自分自身との闘い。孤独との闘い。」病室で裁判官による臨床尋問を受けた後に、三枝子はラジオ福島のインタビューの中で「夢は何ですか」と聞かれて働いていたころに持っていた明るい楽しい夢を思い出します。「残された機能を活かして少しでも私なりの幸せをつかめるように努力したい。」母親のつきっきりの看病に支えられながらも、やがて三枝子は少し体を動かすだけでも顔をゆがめるほどの激痛に全身をさいなまれ始め、体はますますやせ細っていき、食事もほとんど咽喉を通らず、下痢や嘔吐発熱に苦しめられ、栄養注射また輸血に頼るようになります。「残る短い人生を、子供たちの為に、薬害の生き証人として、卵の殻になってもいい」。発症から10年後、東京地裁は国と田辺製薬・武田薬品工業・日本チバガイギーの責任を認定、和解が成立します。その後も三枝子はキリスト教の信仰に生き、俳句に生き、愛に生き、23年に渡る長い闘病生活の末に43歳の生涯を閉じます。「限りある命 誰がために恋しけり 愛あればこそ 我の道しるべ」
-『春は残酷である スモン患者の点字手記』(星 三枝子 著 / 毎日新聞社1977年)
-社会福祉法人 全国スモンの会 | - 小平市
茨城県 Ibaraki-Ken
山下 りん 女史 Ms. Rin Yamashita
1857 - 1939
茨城県笠間市 生誕
Born in Kasama-city, Ibaraki-ken
「死なば死ね。生きなば、生きよ」
"If I die, die. If I live, live."
山下りん女史は日本初のイコン画家・女流聖像画家として東京神田のニコライ堂ほか各地の正教会教会堂の作品を手掛けました。
Ms. Yamashita Rin was Japan's first icon painter and female religious portrait artist. She worked on artworks for Tokyo's Nikolai-do Church and other Orthodox churches in various locations.
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「家の犠牲になってたまるか」
りんは笠間藩下級士族の父・重常と母・多重のもと兄と弟の3人きょうだいに生まれます。幕府軍と尊王攘夷派の天狗党の戦闘が繰り広げられる中、りんは寺小屋を開く祖父のもとで日本画また浮世絵を描いて過ごします。この頃、りんと同じ下級士族の娘の多くは豪農に嫁ぐも辛い生活に耐えかねて乳飲み子とともに心中していました。やがて、農家との結婚話を勧められたりんは画業を志して単身上京します。一度は家族に連れ戻されますが、夢を捨てきれずに再上京。家事雑事を一手に引き受けながら、豊原国周という浮世絵師に学び、次に川上冬崖に洋画を学んだ中丸精十郎に師事します。日本画の落日を目の当たりにしたりんは、親戚の伝手をたよって明治政府が創設したばかりの工部美術学校を受験、見事合格すると笠間藩より月謝の支援を取り付けます。
「こんなに感動させるのはなぜだろう」
りんは日本初となる女性美術学生6人のひとりとなって、イタリア人画家アントニオ・フォンタネージの指導を受けます。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ、ミレー、絵画の技法だけでなく反映されている西洋哲学・思想を説くフォンタネージの指導のもと、りんは新鮮な驚きまた喜びとともに無我夢中で学びます。やがて、政府の予算削減のあおりをうけフォンタネージが辞任、後任として無名の画家が雇われると学生たちは次々と自主退学して美術団体「十一会」を旗揚げします。その頃、りんは同窓生の山室政子の影響でキリスト教のロシア(ハリストス)正教に入信。来日していたニコライ神父からイコンを学ぶためにロシア留学を勧められます。
「民衆の叫びや祈りが聴こえる」
横浜を発ったりんは香港・サイゴン・シンガポール・セイロン・アデン・アレキサンドリア・コンスタンチノープルをスケッチしながら経由、ウクライナのオデーサから入港して汽車でペテルブルクにたどりつきます。ノヴォデーヴィーチ修道院に住み込み、フョードル・イヴァノヴィッチ・ヨルダーンの指導のもとイコン制作に従事します。西洋美術の影響に葛藤するロシアのビザンチン伝統美術を目にしながら、りんは独自のイコン描画を模索します。りんは日本画や肖像画を描いて馬車台を工面、エルミタージュ美術館に通います。社会の矛盾を告発し新時代を希求する闘争が渦巻くロシアで、修道院はじめ取り巻く周囲との軋轢を体験しながら、りんは5年の留学を2年できりあげて帰国します。帰国後は日本正教会の女子神学校にアトリエを構え、ニコライ堂はじめ関東地方や東北・北海道を中心に300点あまりの聖像を残します。生涯独身をとおした山下りんは61歳の時に帰郷、81歳で永眠します。
-白凜居 山下りん記念館 Hakurinkyo Rin Yamashita Memorial Museum
「女子の地位を男子同等に進ませるの覚悟なり」
"I am determined to advance the status of women to the same level as that of men."
園 輝子 女史
Ms. Teruko Sono
1846 - 1925
生誕地:茨城県土浦市
Born in Tuchiura-city, Ibaraki-Ken
日本初の女性代言人(今でいう弁護士)として活躍。アメリカで自伝を出版後アメリカで講演を行って寄付を募り、東京麻布で倚松園女塾を開校しました。
Teruko Sono was Japan's first female Daigennin (now called a lawyer). After publishing her autobiography in the United States, she gave speaches in the United States, solicited donations, and opened the Koshoen Jojuku school in Azabu, Tokyo.
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「お姫様代言」
輝子は、医師の父のもと裕福な家庭で育ち、水戸藩士と結婚し娘を出産。まもなく離婚するも夫の酒乱がひどくなると娘を引き連れて実家に戻ります。女子学校を経営する妹・春子の指導の下、茨城で教師として働きます。まもなく娘を育てるために、明治政府下で新しく導入された代言人(弁護士)になることを決意。上京すると、親戚のつてで代書の仕事からはじめ、続いて代言人を手伝い始め、自ら弁護活動を始めます。12年目の28歳で日本初の女性代言人となって、政治家はじめ多くの裕福な顧客を持ち活躍します。小倉袴に靴で元祖束髪の輝子を見るために裁判所にはたくさんの見物客が押し寄せます。代言人を続けながら、浅草並木町で氷店を開いて顧客を広げます。この頃、代言人規則が制定され試験による免許制に、さらに弁護士法が制定され弁護士は成年男子のみとなります。
「メイド」
39歳の輝子は福沢諭吉の勧めでアメリカで女子教育を学ぼうと決意。貯金と支援金をかき集めると単身アメリカに渡ります。サンフランシスコに到着すると銀行が破産、メイドとして働きながら小学校で英語を学び始めます。サンフランシスコ福音会の美山貫一牧師はじめ世界クリスチャン婦人矯風会WCTUの女性達に助けられ、カリフォルニア大学を卒業。自伝『テル・ソノ:日本の改革者』を出版します。サンフランシスコ婦人会(園輝会)を創立、日本にキリスト教に基づいた女子教育のための学校を建設する資金を集めるため、ボストンのWCTUはじめアメリカ国内で講演活動を始めます。さらにロンドンに移り、学術や講演活動に従事し、女性参政権新聞やサフラジェット紙と交流を持ちながら、さまざまな教会で講演を行います。さらにイギリスに渡った先で、マクレーン婦人と寄付金を巡る裁判を起こして熱弁をふるいます。
「婦人教育改革者」
49歳で帰国した輝子は、自宅横に倚松女塾を開講。美山貫一牧師、呉大五郎、渋沢栄一がスピーチを行い、キリスト教徒はじめ津田仙・津田梅子、政治家の婦人らが来賓します。毎年 30 人の生徒を受け入れ、2 人の女性教師で、読書、習字、作文、算術、英学、家計簿記、修身、家事経済及び衣食住に関する事、衛生及び育児法の要旨、礼儀法、和洋裁縫、和洋料理、和歌及び挿花等、を教えます。この頃、女子学生のバイブルと言われた『女学雑誌』で、イギリスのマクレーン婦人との寄付金をめぐる裁判について、宗教家・軍人・政治家を巻き込んで論争が起こります。輝子は法廷に訴へ、新聞社に記事の掲載を中止させ名誉毀損の謝罪をさせます。まもなく日本のキリスト教会の指導者らと対立、アメリカ園輝会を解散され支援が途絶え、学校は閉鎖に追い込まれます。その後、輝子は伊豆伊東で伊東婦人会を結成、女性教育活動を続けます。晩年は私財を教育事業・福祉事業などに寄付、池上本門寺で出家、日輝法尼となって余生を過ごします。
-国際日本文化研究センター International Research Center for Japanese Studies, Kyoto, Japan
-Tel Sono, "The Japanese Reformer", Hunt & Eato 1890
「里に入りてまた一聲(こえ)や杜鵑(ほととぎす)」
"Entering the village, another cry of the cuckoo"
奥原 晴湖 (本名 池田 せつ子)
Ms. Seiko Okuhara
1837 - 1913
茨城県古河市 出身
Born in Koga-city, Ibaraki-ken
奥原 晴湖女史は日本の代表的な男装の女流文人画家です。彼女の「詩書画一致」の作品は幕末から明治の激動の世にいきる人々に熱狂的に支持されました。
Ms. Seiko Okuhara is the most renowned female Literati Painter in Japan. Her "Harmony in Verse, Script, and Brushwork" were enthusiastically supported by the people living in the tumultuous times spanning the end of the Edo period to the Meiji. She is acclaimed alongside Noguchi Shohin as a pair of distinguished female Southern-style painters of the Meiji era.
「墨吐煙雲楼」
せつ子は、古河藩士の父・池田繁右衛門政明、蘭学者を伯父にもつ母・きくの間に生まれます。幼い頃より男勝りの性格で、学問より柔道・剣道・絵を好みます。10歳から叔父である古賀藩家老で蘭学者の鷹見泉石のもと学問を学び、17歳から古賀藩の南画家・枚田水石に書画を学びます。せつ子は男達からの縁談また口説きを切り捨てては投げ飛ばし、名文・名画を片っ端から模写しながら生涯独身を決意。江戸で画家として身を立てようと考えるようになりますが、古賀藩は女子が単身で江戸はもとより旅に出ることを禁じていました。29 歳のとき、猛反対する家族を説得して、叔母の嫁ぎ先である奥原家の養女となって江戸に出ます。文人墨客の住む上野の下谷に居を構え、「墨吐煙雲楼」と看板を掲げ、「晴湖」と号します。
「不忍池集」
せつ子は自筆書の扇子を名刺代わりに、先輩書家・画家らのあいさつ回りを始めます。外見の美しさと覇気縦横の筆力と談論風発の応対ぶりが評判となり、同年の暮れに不忍池の三河屋で盛大なるお披露目会を開催します。詩人の大沼枕山・鱸松塘・上村蘆洲、書家の関雪江・高斎單山・山内香溪、画家の鈴木鵞湖・松岡環翠・坂田鴎客・福島柳圃・服部波山など25名もの大家の参加と合筆「不忍池集」を受けます。せつ子は他人の書画会にも努めて顔を出しながら、清の画家の鄭板橋を発掘して研究、豪快洒脱な即興書画で人気者となります。父からの支援金25両が尽きると、兄から米を送ってもらい、質屋通いをしてしのぎながら、男達と対等の交際をするための酒代にあて、せつ子は酒豪としても男子と角逐して一歩も引けを取りません。
「容堂攻略」
明治維新の混沌時代、知識階級の中で文人画が流行。特に大権政家の山内容堂の一面風流文雅の雅宴へ参会しようと文人墨客が先を争います。せつ子もようやく招待を受けると、当日主席する先輩大家をひとりひとり手土産とともに訪ねてまわり、自分の席順を最上席にすること、ならびに自分の画を褒めるよう約束をとりつけます。会の当日、他の出席者が勢揃いして着席した頃、せつ子は鮮やかな黄八丈の2枚重ねの上に黒ちりめんの羽織とだるまがえしの粋な髪型で参上。一同のどよめきの中を最上座に着席。会が始まると、せつ子は得意の啖呵とダイナミックな筆また先輩大家の援護評価で容堂を圧倒します。容堂はじめ木戸孝允の贔屓を得たせつ子は、皇后の御前揮毫の機会を得、南画家として一躍有名になります。総勢300人以上の門人を抱えながら、鷲津毅堂・小長井小舟・市河萬庵・川上冬崖らと雅会「半間社」を結成、文人画の研究と隆盛に尽力します。
「繍佛草堂」
男子の断髪廃刀令が出ると、女子の断髪は禁止じられるも、44歳のせつ子は持病のためと申し立て散切り頭にします。黒羽二重で五つ紋の男羽織に仙台袴、男の様に振舞います。おびただしい数の来客と揮毫依頼に、せつ子の借家は大豪邸に、せつ子の体は相撲取りのように、せつ子の筆はますます豪宕無類となります。やがて、岡倉天心とフェノロサが始めた新日本画運動が盛り上がって美術学校創設に発展。文人画非芸術論におされ、せつ子ら文人書家・画家らは人々から顧りみられなくなります。せつ子は55歳の時に、埼玉県熊谷の草深い川上村に画室付きの住宅「繍佛草堂」を建て、同じく散切り頭の女弟子・晴嵐(せいらん)と共に隠棲します。2人で長期にわたって北越方面松島、東北方面、関西方面を旅をしながら風光また名書画を研究の資とします。日露戦争がはじまると、せつ子のもとに俄かに揮毫依頼や訪問客が増え、門前の草は踏み絶やされます。一変して神韻で雄渾蒼潤な書画を描き続けながら、せつ子は77 歳の生涯を閉じました。
「おいしいワインを造るには、善い人間にならないと」
“Good wine, Good person.”
ラドクリフ・小林 敦子
Ms. Radcliffe Atsuko Kobayashi
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茨城県下妻市
Born in Shimotuma-city, Ibaraki-ken
ラドクリフ・小林敦子女史は日本女性初の醸造家でワイナリー経営者。醸造コンサルティングを介して日本ワインの基礎を築く。2013年にオーストラリ ア・アッパーハンターバレーにてワイナリー「Small Forest」を設立。
Ms. Radcliffe Atsuko Kobayashi is Japan's first female winemaker and winery manager. Build the foundation of Japanese wine through brewing consulting. In 2013, she established the winery "Small Forest" in Australia's Upper Hunter Valley.
「日本発の女性ワイン醸造家」
敦子は当時話題のバイオテクノロジーの道に進むべく東京農業大学に進学、長い伝統と発酵という生物学的作用で生み出される日本酒の研究を何となく始めたところ、深い関心を抱くようになり、大学卒業後は日本酒醸造の道に進みたいと考えるようになります。しかし当時の日本酒業界に女性が進むのは難しく、協和発酵に入社して新商品の試験・日本酒やワインなどのサンプル分析などを担当します。やがて友人が経営する栃木県のワイナリー「ココ・ファーム」に転職。知的障害者厚生施設「こころみ学園」の親たちが立ち上げたワイナリーで障害者と一緒に生活しながら、ワイン造りに本格的に携わり始めます。経験と知識を得るため、カリフォルニア州のナパやソノマに何度も出掛けます。「日本初の女性ワイン醸造家」 としてメディアなどで取り上げられてから3年後、同業の友人達と醸造コンサルティング会社を起ち上げます。都農ワイン・シャトー酒折・安曇野ワイナリー・奥出雲ワインで、ワイン造りのための機器選定・テストラン・新しいワイナリーの起ち上げの支援などを行います。女性という外面にばかり注目が集まり仕事の中身を見てもらえずフラストレーションがたまる中、取引先また先輩醸造家に「あの底抜けに明るいワイン造りを見てきたら」。敦子はワイン造りの本場フランスのボジョレー・ミュルソー・ボルドーを回ります。フランスで子供を育てるように愛情をかけてワインを造る人たちの生き方に感銘を受けます。さらに世界の先端をいくオーストラリアに渡ってヴィンテージワイン造りを学びます。やがてオーストラリアを代表するワインの製造会社ロー ズマウント社に入社。敦子は価格帯の高いワインのブドウから瓶詰めまでの工程管理を担当。畑とセラーを出入りして3万樽のワインの面倒をみながら、1日に200〜300樽の試飲をしてブレンドします。収穫時期には他州また海外から集まる300人を超える従業員とチーム一丸となって、ジュースや発酵中のワインで服や髪をベタベタにしながら24時間2交代体制で3カ月以上かけてワインを造ります。「日本の小規模なワイナリーでやっていたのはいったい何だったんだろう。」
「日本初の女性ワイナリー経営者」
ダイナミックなワイン造りに魅せられ7年後、他社との合併によりローズマウント社は本拠点アッパーハンターバレーから撤退、オーストラリアの鉱山会社マラバー社がワイナリーの土地を買い上げます。敦子はロー ズマウント社を退社。浦霞醸造元から誘いを受け、1年半の間だけ宮城県塩竈市で念願の酒造りに携ります。大先輩2人と酒造りの工程の各部署を1週間ずつ経験する研修を経て、日本酒の「酒母」を造る担当「モト屋」に。敦子は、東北の短い夏・厳しい冬の寒さ、そこに住む住民の格別な温かさ、新鮮な魚介類や豊富な野菜をあつかう商店、信仰のもと「塩竈神社」などから本当の豊かさを実感します。「このような環境で生活している人たちが造るから、この日本酒はこういう風においしいのだ」「ワインは所詮、ただの飲み物でしかない。飲みやすい。おいしいをつくろう」酒造りの経験をきっかけに、ロンドンのワイン・コンペ「インターナショナル・ワイン・チャレンジ」で日本酒のジャッジを任され、ワインのジャッジも始めます。一方、アッパーハンターバレーでは、鉱山会社マラバー社は環境影響の調査ならびにブドウ栽培農家はじめ地元住民との調整を経て、「露天掘り」ではなく「地下堀り」で炭田開発を行って地表でワイナリーの継続を決定、日本人の敦子に白羽の矢が立てられます。オーストラリアのワイン発祥の地アッパーハンター・バレーはローズマウント社の撤退を皮切りに、最盛期8社あったワイナリーは撤退や閉鎖を余儀なくされ2社に激減。「地域に貢献できるのでは」と考えた敦子は「スモール・フォ レスト」を起ち上げます。マラバー社とリース契約を結び、前のオーナーが残していったワイナリーの設備を受け継ぎ、ワイン原料のブドウをマラバー社の農園から購入します。内陸部からやってくる夏場の嵐・ヒョウ、-3~45℃の気温変化、山火事・野焼の煙害など、9月(発芽)~11月(開花)~1月(収穫)の間ブドウの品質管理から目が離せません。「醸造はその時にしかしてあげられないことの連続。毎日愛情をかけ、細かい部分に気を配って、小さなことでもやれることはすべてしてやることでワインは素晴らしいものに仕上がっていくのだという確信がある。」失敗また試行錯誤を経てようやく自社畑のブドウで仕込みをすることができるようになると、オリジナルブランド「By Atsuko」でインターナショナル・ワイン・チャレンジで銀賞を受賞します。
群馬県 Gunma-Ken
向井千秋 女史
Ms.Chiaki Mukai
1952 -
群馬県館林市
Born in Tatebayashi-city, Gunma-ken
「好きなことを好きと言える社会の空気を醸成したい。」
"I want to foster a social atmosphere where people can say Like what they like."
向井 千秋女史はアジア人初の女性宇宙飛行士です。1994年にスペースシャトル「コロンビア号」に搭乗、ライフサイエンスや宇宙医学などに関する実験を実施しています。
Ms. Chiaaki Mukai is the first female Asian astronaut. In 1994, she flew aboard the Space Shuttle Columbia, where she conducted experiments related to life sciences and space medicine.
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彼女は幼いころ母親が営むカバン店の売れ残りのモスグリーンのランドセルあてがわれ学校でいじめられます。「どうして私だけ緑なんだろう、嫌だ」。ところが、ある時ふと気づきます。「みんなのランドセルは黒と赤なのに、緑は私しか持っていないじゃない?」自分のユニークネスに気づいたらなんだか自信が持てるようになったと言います。休みの日には中学校の理科教師である父親と一緒に学校に行って実験器具を用意する手伝いをしたり、冬には学校がある日でも家族でスキーに出かけます。弟の足が悪くてみんなにいじめられていたため、「病気などを理由にいじめられる人がいるならその病気を治してあげたい。みんなで楽しく生きていきたい。」と医師を目指します。弟の通院する東京大学病院を目指し、両親のつてを頼り都内に下宿。猛勉強の末、慶應女子高校に入学、慶應義塾大学医学部医学科に合格。またスキー部に所属、東日本医学部スキー大会の回転部門で優勝、大回転部門で3位の成績を収めます。慶應義塾大学出身者として女性外科医第一号となり、石原裕次郎の担当医の一人を務めています。
日本人宇宙飛行士募集の記事を目にしてすぐに応募、1次書類選考を通過すると、仕事帰りに毎日プールで1時間泳ぎ、英会話教室に通います。筆記試験と心理検査、医学検査と負荷検査、米航空宇宙局(NASA)のジョンソン宇宙センターでの最終選考をクリア、実験担当のペイロードスペシャリスト(PS、搭乗科学技術者)の3人に採用されます。訓練を開始して4カ月後に米スペースシャトル・チャレンジャーが爆発、7人の乗組員が死亡する大惨事が起きます。スペースシャトルの打ち上げ再開に日本人は選ばれず、4年後のエンデバー号には毛利衛氏のみ選ばれ、向井氏は後方支援部隊に配属されます。彼女は次のスペースシャトルに搭乗するために、各国の研究者のもとへ足を運んで面談、自分に投票してもらえるよう交渉、現地の技術者と一緒に実験に取り組みます。毛利衛氏の帰還後1週間でスペースシャトル・コロンビア号への搭乗が決まります。1994年、ペイロードスペシャリストとして参加、女性の宇宙最長滞在記録を更新しながら宇宙酔いにも睡眠障害にも悩まされることなく、各国の研究者から託されたやり遂げます。特に「宇宙メダカ」の誕生は話題になります。さらに帰還4年後2度目のスペースシャトル・ディスカバリーに搭乗。
帰還後に宇宙教育プログラムを独自に開発。「夢実現のツール」教育活動に従事しています。ならびに東京理科大学副学長として、国際化・女性活躍・宇宙教育プログラムなどの推進に貢献。宇宙航空研究開発機構(JAXA)の技術参与として、宇宙の平和利用や国際関係の調整に奔走。日本学術会議副会長を務めています。
-日本宇宙航空研究開発機構 JAXA
「私は指図がましいことをさせられない時に、最も能く私の義務を果たすことができる」
``I am able to fulfill my duties best when I am not told to do anything.''
原口 (旧姓 新井)鶴子 女史
Ms. Tsuruko Haraguchi / Arai
1886 - 1915
群馬県富岡市一宮町 生誕
Born in Tomioka-city, Gunma-ken
原口鶴子女史は日米女性初の心理学博士Ph.D。精神疲労に焦点をあてた産業心理学の先駆け。心理学はじめ新しい家庭の実践について執筆活動を行って日本における女性権運動に影響を与えました。
Ms. Tsuruko Haraguchi is the first woman to recieve a Ph.D. in psychology, and a pioneer in industrial psychology that focuses on mental fatigue in Japan and the United States. Her writings on psychology and new family practices influenced the women's rights movement in Japan.
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「工女たちのための精神医学」
豪農でコメ・肥料・線路枕木・養蚕の商いを営む父・新井廣三郎と母・たねのもと4人姉妹の次女として生まれます。鶴子は富岡製糸場に集う工女たちの過酷な長時間労働・劣悪な労働環境を幼心に悲しむようになります。一ノ宮尋常高等小学校に入学すると「医学博士になってきちがいの学問をする」とまわりに宣言します。群馬県高等女学校(現在の群馬県立高崎女子高等学校)に進学すると、草履にたすき掛けと茶色の袴をつけてテニスを楽しみながらも飛び級をして、精神医学を目指して日本女子大学英文学部に進学します。
「心理学」
試験もなく成績表もなく落第もなく卒論だけという、自由を重んじた校長・成瀬仁蔵の自主自学の教育方針のもと、鶴子は水を得た魚のように教師また学友と滔々と弁論をして一歩も譲らず、運動会でバスケットボールのチャンピオンになって教師たちにしつこく体育教師に勧誘されます。日清・日露戦争と続けざまに戦争を経験して動揺する中、日本最初の心理学実験室を東京帝国大学に開設した松本亦太郎心理学教授が赴任してきます。鶴子はその魅力的な心理学の方法論に意欲をそそられ講義に欠かさず出席するようになります。
「M.A.(修士)から Ph.D(博士)」
日露戦争後の不況で女子高等教育が無用また有害とされる誹謗中傷が台頭する中、鶴子は研究を続けるために松本亦太郎教授ならびに学監・麻生正蔵の推薦を得ると、英国に帰国する英文学部教授ミス・フィリップに伴われて渡米します。コロンビア大学の著名な心理学者で女性心理学者の育成に力を注ぐソーンダイク教授をたずねた鶴子は、「M.A.(修士)」を「Ph.D(博士)」に書き換えられて恐る恐る入学手続きを済ませます。ソーンダイクはじめ、アメリカ最初の心理学者キャテル、新進ウッドワースらの発達心理学・実験心理学・生理心理学の講義また演習を受け、ゼミでは一生懸命に単語を聞き取ってノートを取ります。
「米国男性も失神するタフな疲労実験」
鶴子は5 年かけて博士論文「Mental Fatigue(精神的疲労)」を完成させます。4桁と4桁の乗算暗算を朝11時から夜11時まで12時間行うのを4日間続け、前後に疲労転移を調べる英語と同義の独語の記憶テストを行うというタフな実験を自ら被験者となって実施。問題を解くのにかかる時間の長さが徐々に増加する疲労曲線がきれいな曲線を描いて100%となり、被験者群に2時間行った同様のテストの24%と差異を提示。後に産業心理学の始祖と呼ばれるミュンスターバーグをも驚嘆させ、産業心理学の基礎を切り開きます。鶴子の追試実験を実施した研究者は疲労でしばらく意識を失った上に、4桁の計算が出来なくなると3桁と3桁の計算もできなくなったと結論します。
「日米初の女性心理学博士」
鶴子は厳しい口頭試験に合格して晴れて日米初の女性心理学博士となります(1912年)。卒業式に出席した鶴子は、コロンビア大学神学長のブラウン博士宅にて、学位論文を書き上げる途中で体調を崩した鶴子を献身的にサポートした神学留学生の原口竹次郎と結婚式を挙げます。イギリスを旅行してまわったのち帰国。腎臓結核を発病して療養・手術しながら、日本で初めて設立された心理学学会で講演を行い、母校で教壇に立ち、『心理研究』誌に「心的作業及び疲労の研究」を、『児童研究』誌に「精神薄弱児の心理学的研究」を、『女学世界』『新婦人』などに「楽しき思いで出」を、『婦人画報』に「日々の暮らし方の改良」を執筆。夫と2人の子供と一緒に新しい家庭像を提案しながら、帰国後わずか3年後の29歳で夭折します。
-「原口鶴子 : 女性心理学者の先駆」(荻野いずみ 編著 / 銀河書房1983年)
-日本女子大学心理学科 Japan Women Univ.
-Teachers College, Columbia University
-Psychology's Feminist Voices
「自然水陸にめでる草花は数々あるが、私は泥から生えて泥に染まらず清水の浄めを受けても素朴さを保ち、遠ければ遠いほど香り漂い、けっして近寄れない蓮が好きだ。」 -周敦頤『愛蓮説』
"There are many flowers that prosper both in water and on land, but I admire the lotus, which grows from the mud yet remains unstained by it. It receives the purification of clear water and retains its simplicity. The farther it is, the more its fragrance wafts, and I am fond of the lotus that one can never approach." -"The Discourse on Loving the Lotus" by Zhou Dunyi
島 隆 女史
Ms. Ryu Shima
1823 -
群馬県桐生市梅田町一丁目 生誕
Born in Kiryu-city, Gunma-ken
島隆女史は日本最初の女性写真家です。江戸で夫・島霞谷とともに様々な西洋の知識はじめ写真技術を身に付け、女性として写真師の活動を開始。彼女の作品はフォト・アートの先駆けと言われています。
Ms. Ryu Shima is the first female photographer in Japan. Together with her husband, Kasumiya Shima, she acquired various Western knowledge and photography techniques in Edo. She began her activities as a female photographer, and her works are considered pioneers in the field of photo art.
「大奥の秘書」
隆は、桐生の旧家・岡田家に9人きょうだいの長女として生まれます。徳川幕府の大奥秘書を務めた田村梶子の主宰する「松声堂塾」に6歳の時に入塾、読書・書道・和歌・作法を学びます。15歳で父を19歳で母を亡くした隆は20歳で決められていた婚約を蹴って、菜の花の咲くころ馬に乗って単身江戸に出て、師匠の推薦により一橋家の書記係として奉公をはじめます。やがて、そこで通訳として同家に出入りしていた島霞谷と出会い結婚します。隆33歳、霞谷は29歳の再婚でした。
「和製ダビンチ」
夫・霞谷は、時の将軍・家定の御前揮毫により注文が殺到する南画家となりながら、横浜で西洋人からオランダ語・英語・写真技術・油絵・音楽を学び、時の将軍・慶喜の湿板写真を撮影して幕府の洋学研究所に入所。オランダ語文献を翻訳しながら天文学・医学・地理学など西洋の研究に没頭します。夫婦で好奇心と向学心を共有しながら、やがて江戸下谷久保町に写真館を開業します。ガラス板の表面にコロジオン溶液をむらなく塗り、硝酸銀溶液に浸して感光性を持たせホルダーに装填、構図やピントを調整したカメラに設置、レンズを開いて数十秒露光、乾かないうちに撮影・現像をその場で行う、という薬剤調合の知識また現像処理の繊細な作業が求められる「湿板写真」をまもなく身に付けた隆は写真師を名乗ります。多忙な夫に代わって写真店を切り盛りします。
「フォトアーティスト」
幕末の戦乱を生き延びた二人は自宅に活版製造所を開設。夫・霞谷は自ら発明した活版印刷用鉛活字で医学書を大学東校(現在の東京大学医学部)から刊行して、わずか1か月足らず43歳で死去します。隆はしばらく東京で写真業を続けながら身辺整理をして55歳で郷里に戻ります。「近頃写真師は多くなったが、技術にはそれぞれ優劣がある。」「私は写真技術を極めているので、情感ある奥深い仕上がりになる。私の写真館に確かめに来て!」隆は自信満々の広告文を出して写真館を開業します。高額でなかなか繁盛しないものの、江戸の人脈を活かして後輩を育成したり、小口の金融業を営んだり、和歌・書・琴を友としたり、村議会に減税を求めたり、用水路開墾に反対したりし、マンガン160俵を東京に売りに行ったりしながら、77歳で他界。隆が肌身離さず持ち歩いていた、カボチャを掲げて扇子を広げて笑う霞谷をカメラに収めた隆の作品は、フォトアートの先駆けと言われています。
澤 モリノ(本名 澤 千代)女史
Ms. Morino Sawa
1890 - 1933
群馬県前橋市 生誕
Born in Maehashi-city, Gunama-ken
澤モリノ(本名 澤千代)女史は日本初のバレエダンサーです。帝国劇場歌劇部第1期生として「天国と地獄」のキューピッド、「猟の女神」の女神ダイアナ、「瀕死の白鳥」などを踊り、モダンダンスはじめ浅草オペラが盛んになる中でもクラシックバレエにこだわって踊り続けます。
Ms. Sawa Morino (Sawa Chiyo) is Japan's first ballet dancer. As a member of the first generation of the Imperial Theater Opera Department, she danced Cupid in ``Heaven and Hell,'' Diana in ``The Hunting Goddess,'' and ``The Dying Swan,'' and even though modern dance and Asakusa Opera were becoming popular, she kept dancing classical ballet.
「音楽家の父と母」
千代は東京音楽学校出身の両親である父・深澤登代吉と母・たけ子の長女として生まれます。一家で音楽修行のために渡米、カリフォルニア州サンフランシスコに移ります。妹・美代が生まれると夫婦仲が悪くなり母は幼い姉妹を残して家出。父は2人の子ども千代・美代を抱えて帰国。地方の師範学校や女学校の音楽教師を務め、作曲しながらピアノ・ヴァイオリンを演奏して生計を立てます。後に軍歌「日本陸軍」のオリジナルメロディーが話題になりますが、千代が11歳の時に無名のまま没します。ほどなく再会した母親は再婚しており、遺された姉妹は日本橋の問屋に引き取られます。お茶の水高等女学校を卒業したた千代は21歳のときに、開設したばかりの帝国劇場歌劇部に応募。親類・恩家の反対を押し切って、応募数400名のうち選抜15名の研究生に加入します。千代は自分の名前に妹の美代の名を合わせた美代を芸名に決めます。
「帝国劇場歌劇部」
イタリア人舞踏家で振付師のG・V・ローシーにクラシックバレエの才能を認められ「澤モリノ」の芸名を与えられた千代は、喜歌劇「天国と地獄」のキューピッド、夢幻的バレー「猟の女神」の女神ダイアナ、「瀕死の白鳥」などの公演で次第に舞踏家としての頭角を現します。千代は、帝国劇場管弦楽部で第一ヴァイオリンを弾く小松三樹三と結婚、子供にも恵まれます。帝国劇場歌劇部が解散すると、早々にローシーの元を離れてモダンダンスに取り組んでいた石井漠・伊藤道郎らの「新劇場」、ローシーが赤坂に会場させた「ローヤル館」、高木徳子と伊庭孝の「歌舞劇協会」の公演に参加。続いて、石井漠らの「東京歌劇座」旗揚げに参加、浅草の日本館を拠点に活動を始めます。メンバーは舞踊組に石井漠、澤モリノ、河合澄子、服部清子、内山惣十郎、歌唱組に小島洋々、杉寛、天野喜久代、千賀海寿一、宇和間百合子、桂弥太郎、小知情吉ら。千代は3週間の旗揚げ公演で、ミュージカル「女軍出征」、オペレッタ「目無し達磨」、ミジカルコメディ「海辺の女王」に出演。人気に火が付くと、熱狂的な男子学生らが千代はじめ女優の後援会を結成、浅草の興行師らも次々とオペラ公演を始め、千代30歳目前で浅草オペラが幕を開けます。
「瀕死の白鳥」
ローシーを師として仰ぐ千代はモダンダンスに目もくれずにクラシックバレエに邁進します。しかし公演中に千代の子どもは病気で夭折。さらに夫までも急な病気で世を去ります。千代の不幸な私生活が世間に広く知られるに従って、千代はますます真面目な求道者として観客を引き付けます。関東大震災を経て浅草オペラは終焉を迎え、千代は旅周りの一座に加わって踊り続ける中で俳優・根元弘と再婚して子供をもうけます。ところが旅役者の夫は生まれてすぐの子どもを次々と他人の手に渡し、40を過ぎた千代を捨て満州に渡ります。千代は何とか息子・弘文を取り戻して東京に戻ると、浅草の舞台仲間を頼って浅草式レビューや喜劇の悪ふざけに耐えながら舞台に立ちます。それを見かねた石井漠が千代のために後援会を発足して引退公演を主宰。千代は「瀕死の白鳥」「アヴェ・マリア」を踊ります。まとまった生活資金も集まり、石井漠の研究所の教師として息子と暮らす手はずを整えた矢先、突然夫が現れて千代を大連公演に誘います。千代は妹に預け7・8人で一座を汲むと周囲の反対を押し切って満州へ渡ります。満州事変間もない大連は客入りが悪く、朝鮮の平壌に渡って松竹映画館の舞台金千代座で興行を始めます。その初日の「瀕死の白鳥」を踊るうちに心臓麻痺で倒れて息を引き取ります。享年43歳。
-『浅草オペラの生活』(内山惣十郎 著 / 雄山閣出版1967)
-『私の舞踊生活』(石井漠 著 / 大日本雄弁会講談社1951年)
-『女盛衰記 : 女優の巻』(三楽流子 等著 / 日本評論社1919)
-『歌劇と歌劇俳優』(藤波楽斎 著 /文星社大正1919)
栃木県 Totigi-Ken
石塚 倉子 女史
Ms. Kurako Ishizuka
1686 - 1758
栃木県栃木市藤岡町富吉 生誕
Born in Totigi-city, Totigi-ken
「吹き送る 風のたよりも 誰が里の庵に匂ふ 梅の初花」
"blow off A scent from Whose village first flower of plum"
近代前期の代表的な在野の女性歌人です。家督を継ぎながら、和歌や紀行文を綴り、『室八嶋』『花短冊』を華麗に上梓しました。江戸期の浮世絵師・喜多川歌麿「近代七才女詩歌」で紹介されています。
Ms. Kurako Ishizuka is a representative out-of-field female poet of the early modern period. While taking over the family estate, he wrote waka poems and travelogues, and published "Muroyashima" and "Hanatanzaku" brilliantly. Introduced in Edo period ukiyo-e artist Utamaro Kitagawa's "modern seven-year-old female poetry".
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倉子は江戸時代中期に舟運でにぎわう巴波川下流の豪農の家に生まれます。先祖は皆川藩主(栃木県)の和歌の朋友になるほど代々和歌に通じ、倉子も若い時から和歌や文章を綴り親しんでいます。ならびに、実家は江戸の文人や画家がたびたび宿泊していたことから江戸花壇の重鎮の荷田在満や儒学者の服部南郭などと親交を深め、多くの作品を残しています。六人兄弟ながら、兄の貞基と倉子の二人を残して兄弟は若死にし、兄も家督を倉子に譲り佐渡に渡って没します。倉子は二十二歳で鈴木度易を婿に迎え、家督を継ぎながら、「春秋亭」と号して季節のうつろいを歌い続けます。36歳と37歳のときに旅日記、『日光 紀 行』 『 妙義紀行』を書き残します。70歳の時に「室八嶋」を出版、水墨画の挿絵が添えられ、序文には荷田在満から田舎で和歌の道に励んだ才女を称賛する言葉が寄せられています。晩年の作品「花短冊」は和歌とともに春夏秋冬四季折々の花や鳥を色鮮やかに立体的にあしらった華麗な作品を出版。後に浮世絵師・喜多川歌麿「近代七才女詩歌」に「下野室八嶋倉子女」の美人画とともに倉子の和歌「吹き送る 風のたよりも 誰が里の 庵に匂 ふ 梅の初花」が添えられて残されています。
-栃木市藤岡町歴史民俗資料館 Tochigi-Fujioka Historial Museum
-栃木市教育研究所 Tochigi municipal institute for education research
-NHK・ETV特集「告白 満蒙開拓団の女たち」(2017年8月5日)
『乙女の命と引き換えに 団の自決を止める為 若き娘の人柱 捧げて守る開拓団』
"In exchange for the maiden's life, in order to stop Team's suicide, the Manchurian Pioneer Team sacrificed the human pillar of a young girl."
安江 善子 女史
Ms. Yoshie Yasue
栃木県白川町黒川村 生誕
Born in Kurokawa-mura, Sirakawa-machi, Tochigi-ken
1924 - 2016
佐藤 ハルエ 女史
Ms. Haure Sato
栃木県白川町黒川村 生誕
Born in Kurokawa-mura, Sirakawa-machi, Tochigi-ken
1925 - 2024
安江 善子 女史ならびに佐藤 ハルエ 女史は、これまでタブーとされていた満州開拓団での戦時下性暴力を日本で初めて証言。日本で唯一の引揚げ時の性暴力被害を伝える慰霊碑「乙女の碑」を建立。
Ms. Yoshiko Yasue and Ms. Harue Sato are the first women in Japan to testify about wartime sexual violence in the Manchurian Reclamation Group, which had been considered taboo 70 years after the war. They erected "Maiden Monumen", the only memorial monument in Japan, to commemorate the sexual violence suffered during repatriation.
「タブーとされてきた引揚時の性接待」
89歳の善子と88歳のハルエは2013年、長野県阿智村に日本で初めて開設された満蒙開拓団平和記念館の「語り部講演会」でそれまで秘めてきた元岐阜県黒川開拓団の満洲地域からの引揚体験について語ります。「自分の命を捨てるか、開拓団の子ども、皆さんをお救いするかは娘達の肩にかかっている。なんとしても日本へ帰りたい。命を救いたい。」「私どもは悲しかったけども、開拓団の命を救うために娘たちは皆泣きながら、ソ連の将校の相手をしなければいけないことになって。そんな目にあって帰ってきたハンデはボロボロになって、心の中に寝ても覚めても忘れられない。時々夢にうなされ飛び起きる。」「犠牲になった私は生きていますけれども、亡くなった人たちはどんなに苦しい悲しい思いをしたやろうか。」と証言します。
「大陸の花嫁」
世界恐慌で不況のどん底の日本から「満州農業移民百万戸移住計画」のもと、善子とハルエは家族と一緒に郷里・岐阜県黒川村から吉林省の鉄道京浜線の陶頼昭駅付近に入植。合計129世帯661名の黒川開拓団は、中国現地住民から強制的に家や畑を安く買い上げて使用人として使い、関東軍の保護下で暮らします。また、「大陸の花嫁」である女性たちの養成所「女子拓殖訓練所・開拓女塾」では、開拓の心構え・農業・裁縫・手芸・家事と並んで「日本人女性として恥じないように最後を務めよ」と教えられます。「王道楽土」の暮らしは長くは続きません。やがて中国大陸と太平洋での戦線が激化、多くの関東軍や成年男子団員が根こそぎ徴兵され、老人・女性・子どもが残されます。遂に日本は敗戦。関東軍の主力部隊は開拓団を見捨てて逃走、開拓移民は置き去りにされます。中国現地住民の襲撃の恐怖と食料難に襲われる中、両隣の広島県髙田村開拓団と熊本県来民村開拓団が集団自決します。黒川開拓団も生か死かの選択を迫られ、「どうかしてここを切り抜けて日本へ帰らなきゃならん」。陶頼昭駅付近に駐在するソ連兵に警護を頼み襲撃を逃れます。ところが、ロシア兵から女性を要求されます。関東軍が連れていた慰安婦は関東軍の武装解除とともにいなくなっていました。開拓団長は徴兵に取られて不在、副団長はじめ男性幹部、さらに外部から避難に合流した医師とロシア語通訳者で話し合います。「第1次世界大戦後のベルリンに処女なしと言った。敗戦に女性の犠牲はつきものだ。」「私が性接待後の避妊また洗浄の方法を指導しよう。」
「開拓団の犠牲」
開拓団の独身女性15人は広場に集められます。「全員を内地に連れて帰るまでその身を預けて欲しい。みんなの将来は必ず面倒を見る。」「どうか頼む。奥さんは頼めん。(夫が)兵隊に行って一人でも頼めん。けどあんたら娘だけはどうか頼む。あんたら10人ほどは犠牲になってここを守らにゃならん。」。20歳のハルエは副団長である父親に説得されます。「命があって日本へ帰らないかん。辛くても頑張れ。」出征兵士の妻よりも下に置かれた独身女性たちの無駄な抵抗はどうにもなりません。「悔しいけれどどうしようもない」。「悪いけど出てくれ」呼び出し係の男性の合図で、女性達は開拓団が避難所にしていた国民学校の裏に設けた広い板の間に布団がずらっと並べてあるだけの「接待所」または陶頼昭駅近くのロシア部隊キャンプ場に代わる代わる毎晩連れていかれ、性接待を強いられます。性接待の意味が分からない10代の少女たちはウォッカを飲まされ、互いに手を握り合って耐え忍びます。「泣いても叫んでも誰も助けてはくれない。お母ちゃんお母ちゃんと声が聞こえる」。泣きながら帰ってくる女性たちは接待所近くの零下30度の医務室で、軍隊のうがい薬を冷たい水で薄めた洗浄液をホースに流して体を洗浄され、開拓団から用意された風呂と餃子鍋を食べながら「がんばらなね」「我慢しなね」涙を流して励まし合います。両親があまり裕福でなく開拓団内の地位が低い最年長21歳の善子は、4歳年下の妹ひさこを守るため他の女性よりも多く接待を引き受け、「お嫁に行けなくなる」と泣きじゃくる年下の少女たちを気丈にひとりひとり抱きしめます。「結婚できなかったら日本に帰ってみんなでお人形の店を出そうね」それでも、一度だけやけ酒を飲んで「ひさこを殺しても私も死ぬ」妹を追い回します。ソ連兵相手の「性接待」は二か月近く続きます。からかったり高圧的な男性団員もいる中、「性接待」を強いられた15人の女性達は次々と性病また発疹チフスに感染、うち4人は苦しみながら亡くなります。
「汚れた娘」
翌年春にソ連軍が撤退すると、黒川開拓団は二百余名の同胞の亡骸を大陸の土に埋め、生ける者で引揚げを開始します。共産党軍と公民党軍の戦火を潜り抜ける中、鉄橋を破壊された松花江で中国兵達に船を出す代わりに女性を要求されます。開拓団の男性幹部たちは言います。「もうソ連兵に犠牲になってるから、ここを渡るためにあんたら頼むよ」。中国兵たちは川のほとりに並ぶ日本人の中から、小学校高学年から中学生の若い女性達を選んで兵舎に連れて行きます。5人の少女達が泣く泣く連行される中、日本人男性は沈黙します。徳恵から列車に乗った一団は、新京の旧陸軍宿舎で難民生活を送りながら引揚げ手続きを済ませ、葫蘆島から米国船で博多港に向かいます。陶頼昭を出発して1か月半後、黒川開拓団の661人のうち451人は日本の地を踏みます。辿り着いた「性接待」を強制された女性達は博多港近くの診療所で性病治療また中絶手術を受けます。引き揚げ者のみんなは自分の生活で精いっぱい。村に戻って隠れて病院に通う善子またハルエたちには悪い噂が流れます。「満州帰りの人はろくなことがない。女はいろいろなことにあっとる。」ハルエの弟さえ「ふるさとでは満州から帰ってきた汚れた娘は誰ももらってくれん。」ハルエはふるさとを離れ人里離れた山奥で山林を開拓します。まもなく満州帰りの男性と結婚。夫婦で酪農を始め4人の子どもを育て上げます。「外国であんな目にあったらここでどん底まで落ちたって苦しいとは思いません」。善子は満州で両親を失い、洋裁の仕事できょうだいを育て上げると、満州帰りの男性と結婚。すぐにこどもができないことが分かり妹から養子を迎え入れて大切に育てます。「前向きに生きていくことが幸せに生きる一つの道しるべ。私の大切な家族を暗い家庭に育てたくない。」
「乙女の碑文」
「性接待」を強いられた女性達は、あれだけ苦しい思いをしながらタブーにされるどころか、「ソ連兵と仲良かったな」「使っても減るものじゃない」元開拓団男性幹部に冷やかされるようになります。被害女性達はトラウマに悩み、ひっそり集まっては涙を流して酔いつぶれます。「なかったこおとにはできない」日中国交正常化を経て陶頼昭を再訪した善子とハルエたちは、「性接待」当事者女性の集い「乙女の会」を結成。戦後40年を経て強硬に反対する遺族会に強く働きかけ、由来が隠された「乙女の碑」建立にこぎつけます。そして戦後70年を経て、長野県阿智村に日本で初めて満蒙開拓団平和記念館が開設されると、善子とハルエは証言を決意。「本当に悲しかったけれども鳴きながらソ連将校の相手をしなければいけない。辱めを受けながら情けない思いをしながら自分の人生を無駄にしながら。」「伝えて欲しい。そういうことがあって生きてきたんだって。平和平和できたんじゃない。」聞いていた人たちが話が終わったとたんに寄ってきて握手を求めたりねぎらいの言葉をかけてきます。取材や講演依頼が相次ぎ、全国に大きな波紋を広げる中、まもなく善子は92歳で逝去。NHK「告白 満蒙開拓団の女たち」で92歳のハルエは実名で証言。「ソ連兵にひっぱりまわされました。めちゃくちゃ頭の中めちゃくちゃ。」「どんどんな苦しい思いしても悲しい思いしても生きなきゃと思いました。」黒川開拓団女性達の性接待が全国に知れ渡り、遺族会の中でもようやく「乙女の碑」の碑文をつくる動きが起こります。黒川開拓団のこどもたちは全員が全員世間に広めて欲しい人ばかりではない中で、ハルエは訴えます。「若い人に知って欲しい。伝えていかなきゃならん。」。戦後80年を前にして碑文に記されます。『乙女の命と引き換えに 団の自決を止める為 若き娘の人柱 捧げて守る開拓団』『私たちがどれほどつらく悲しい思いをしたか、私らの犠牲でかえってこれたということはお終えておいて欲しい』。
-満蒙開拓平和記念館
-NHK・ETV特集「告白 満蒙開拓団の女たち」(2017年8月5日)
-「封印された記憶 岐阜・満州開拓団の悲劇 」(『岐阜新聞』連載2018年4月24日~11月 19日)
-「満蒙開拓団 “戦争と性暴力”の史実を刻む 語り継ぐ “戦争と性暴力”」(ANN2020年3月9月)
埼玉県 Saitama-Ken
「医は女子に適せり。只に適すというのみあらず、むしろ女子特有の天職なり。」
"Medicine is suitable for women. It's not just suitable for women, it's a calling unique to women."
荻野 吟子 女史
Ms. Ginko Ogino
1851 - 1913
埼玉県熊谷市俵瀬 生誕
Born in Kumagaya-city, Saitama-ken
荻野吟子女史は、近代日本における日本人女性初の国家資格を持った医師であり女性運動家です。
Ms.Ginko Ogino is a physician and women's rights activist, becoming the first Japanese woman to hold a national medical license in modern Japan.
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「奥原清湖」
吟子は裕福な庄屋・萩野綾三郎と母・嘉代のもと7人きょうだいに生まれます。幼いころから向学心旺盛で寺小屋に学び、私塾・両宜塾で儒学を身に付けますが、吟子の意思と関わりなく17歳で豪農・稲村貫一郎に嫁ぎます。すぐに夫に淋病を移されると、元夫の妹となって両家の仲を保ちつつも離婚。吟子は順天堂大学病院に入院、複数の男性に囲まれ下半身を晒す恥辱的な診察を経て女性医師になることを決心します。退院した吟子はその足で、尊敬する女性文人画家・奥原清湖を訪ね助言を請います。協力者を得た吟子は、郷里で療養しながら、両宜塾に通って漢方医学書物を読み漁ります。父が逝去した年に母親と家督を継いだ兄を説得して22歳で上京。奥原清湖の推薦を得て、国学者で皇漢医の井上頼圀に師事します。一回り年の離れた師匠の求婚を固辞すると、甲府で私塾を開く内藤満寿子女史の助教を勤めます。
「女学雑誌」
やがて女子教員養成学校である東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)が創設されると、吟子は一期生として入学します。地理・歴史・物理学・化学・数学・修身学・経済学・体操などを5年かけて学び成績優秀で卒業。母校の恩師のつてにより、宮内省侍医・高階経徳が教える私立医学校・好寿院に特別入学を果たします。男性に混じって3年の修養後、抜群の成績で卒業すると、32歳の吟子は東京府に「医術開業試験願」を提出します。試験に備えて準備する吟子のもとに「願書却下」の通知が届きます。納得できない吟子は翌春の受験に向けて再び東京都と郷里・埼玉県に「医術開業試験願」を提出するもまたもや「願書却下」の通知が届きます。吟子は『女学雑誌』に投稿して訴えます。「進退これ谷(きわ)まり。百術総て尽きぬ。肉落ち骨枯れ果てて心身いよいよ激昂す。」
「令義解」
実業家の高島嘉右衛門ならびに恩師・井上頼圀の協力を得た吟子は、奈良時代から女医が存在していた事実を示す文献『令義解』を探し出し、内務省衛生局局長の長与専斎の支援を取り付け、女性の医術開業運動を始めます。奈良時代の法令解説集・令義解には「女医」の二文字が記され、8世紀前半には女医を養成する「女医博士」という職種が設けられていたことが伝えられています。2年後に公許女医が認められ、ようやく室町時代から封建制度の下で禁止されていた女医が解禁されます。前期試験の物理・化学・生理・解剖、後期試験の内科・外科・産婦人科・眼科・薬理衛生・細菌学を突破、吟子は34歳で公許女医第1号となります。郷里で母・嘉代の埋葬を済ませた吟子は、東京湯島に診療所「産婦人科荻野医院」を開業します。
「産婦人科荻野医院」
「日本最初の女医」として新聞・雑誌で連日取り上げられ、吟子の医院にはたくさんの女性が詰めかけます。翌年下谷に移転する頃には、女医志望者がにわかに増え、吟子の自宅にも複数の女医学生が下宿するようになります。「医は女子に適せり。只に適すというのみあらず、むしろ女子特有の天職なり。」診療を続けるうちに、次から次に押し寄せる婦人病患者が語る体験談、診療を受けることさえできない女性たちの実情に、吟子は女医の限界を感じます。吟子は本郷の教会でキリスト教の洗礼を受けます。矢嶋楫子が主導する日本基督教婦人矯風会の創設に参加、風俗部長として診療活動に加え衛生教育を広めます。そんな中、吟子が通う本郷教会の牧師のもとでキリスト教伝道に従事する志方之善と知り合います。40歳の吟子は27歳の志方之善と結婚すると、キリスト教による理想郷の建設を目指す夫を北海道に送り出し、開拓資金を送り続けます。
「インマヌエル」
診療の傍ら明治女学校で校医を兼ねて生理学・衛生学を講じるようになり、知的障害児教育の先駆者・石井亮一に賛同して荻野医院を子供たちに開放すると、明治女学校の舎監となって学校内に移り住みます。夫から待ちに待った救援要請の手紙を受け取るやいなや、43歳の吟子は未亡人となった義姉の娘・トミを養女にすると、再び奥原清湖を訪ね助言を請い、夫が奮闘する北海道の開拓地インマヌエル(現在の瀬棚郡今金町神丘)に向かいます。久遠郡瀬棚町に診療所を開設すると、往診の傍ら吟子は村長婦人や警察署長婦人などを集め「淑徳婦人会」を結成。自ら会長となって女性達に応急処置医療を教えたり、不作のときに義援金募集を行ったり、女性の予防医療はじめ女性運動の推進に努めます。続いて「瀬棚日曜学校」を創設。キリスト教の布教に力を入れながら、子どもたちに勉学を教えたり、村の人徳の高揚に努めます。まもなく同志社大学に帰学して牧師となった夫・之善と伝道自給の生活に励みます。夫・之善が逝去して数年後、54歳の吟子は東京の墨田区小梅町で「婦人科・小児科 萩野医院」を開業、晩年まで診療を続けます。「人その友のために己の命を捨てる。これより 大いなる愛はなし」(『聖書』ヨハネ伝第15章13節 )
-荻野吟子記念館 GInko Hagino Memorial Museum
-『萩野吟子』(荻野吟子女史顕彰碑建設期成会(編)/ 瀬棚町1967年)
千葉県 Tiba-Ken
佐藤 志津 女史
Ms. Shizu Sato
1851-1919
千葉県佐倉市 生誕
Born in Sakura-city, Tiba-ken
「医術も美術も同じく人の心を癒します」
Both medicine and art heal people's hearts.
佐藤志津女史は、現在の女子美術大学の基礎を築くとともに、その経営に才腕を発揮しました。
Ms. Shizu Sato laid the foundation for the current Joshibi University of Art and Design, demonstrating her talent for its management.
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志津は、佐倉の蘭医学塾・順天堂第二代堂主となる佐藤尚中の娘として生まれ、幼いころから漢籍・国学・薙刀を習い、点茶・琴・手芸・礼儀作法を修めます。家に忍び込んだ盗賊を追い払った逸話が評判になり、佐倉藩主の娘・松姫の女中として採用され、城中で武家子女としての素養も身につけます。母の危篤により、父の愛弟子・高和東之助(後の佐藤進)を婿に迎え、第三代堂主・佐藤進の妻となって家業を支えます。戊辰戦争で夫は新政府軍の軍医となり、明治以降ドイツに留学。志津も日本赤十字社の活動を通じて婦人会活動にも積極的に参加、女性の自立支援を積極的に行いました。女性医師の高橋瑞子や吉岡弥生を支援します。父・尚中が亡くなると進が順天堂病院院長に就任、院長夫人となった志津は翌年に開館した鹿鳴館で社交性を発揮して人脈を広げていきます。さらに、私立女子美術学校創設者である横井玉子を支援、財政難で廃校の危機に瀕していた女子美術学校の校主となって経営建て直しに奔走します。「芸術による女性の自立と女性の社会的地位の向上を目指す」理念に共感した志津は、自ら教壇に立って修身や礼儀作法を教えます。まもなく校舎・寄宿舎が全焼する大事件がおこるも、事後処理に全力を尽くして翌年には新たに本郷区菊坂に新校舎を建て授業を再開します。さらに志津は私立女子美術学校を専門学校に引き上げるべく学則を改正、美術教師養成のための高等師範科を設けます。学生の作品が評価されるようになり、志津の死後から10年後に女子美術専門学校に昇格します。
-女子美術大学歴史資料室 Joshibi University of Art and Design History Museum
「正解はひとつではない 」
"The answer is not singular."
山崎(旧姓 角野) 直子
Ms. Naoko Yamazaki / Sumino
1970 -
千葉県松戸市 生誕
Born in Matsudo-city, Tiba-ken
日本女性2人目の宇宙飛行士。宇宙飛行士の訓練ならびに子育てのマルチタスクをこなしながら、世界各国と連携して宇宙ステーションでの様々なミッションを成功させました。
The Second Japanese Woman in Space. Juggling astronaut training and parenting, she successfully collaborated with nations worldwide, accomplishing various missions on the International Space Station.
「私が宇宙船を造る!」
直子は自衛官の父と専業主婦の母と兄と一緒に、幼いころから星の観察会またプラネタリウムに出かけたり、宇宙戦艦ヤマト・銀河鉄道999・スターウォーズなどSFアニメや映画を見て宇宙にあこがれます。女性高校教師で宇宙飛行士のクリスタ・マコーリフさんの宇宙授業を楽しみにしていた直子は、1986年スペースシャトル・チャレンジャー号が打ち上げから1分で空中爆発する報道を見て、「私が宇宙船を造る!」と決意。
「私が宇宙飛行士になる!」
直子はお茶の水女子大学附属高校に進学、次に東京大学工学部で女子3人のみの航空学科を専攻。自然科学系の実験をこなしながら機械操作の技量を磨きます。卒業研究では、円形に並べた客室を回転させ人工重力を楽しむ宇宙ホテルを設計。さらに航空宇宙工学修士課程に進んで宇宙ロボットの自己学習機能ソフトを研究します。湾岸戦争を理由に猛反対する両親を1年かけて説得、1年間を宇宙ロボットの研究が盛んなアメリカのメリーランド州立大学にも留学します。直子は留学先で70代の現役ヘリコプター操縦士の女性に出会い、「私も宇宙飛行士になる!」決意します。
「宇宙飛行士ママと呼ばないで」
大学院卒業後、当時のNASDA(宇宙開発事業団)、現在のJAXA(宇宙航空研究開発機構)に就職。エンジニアとして、米国やロシア・カナダ・欧州諸国の様々な分野の技術を一つのシステムにまとめ上げます。3年目に「宇宙飛行士候補者」に応募。つくば宇宙センター内専用施設で1週間外部から遮断され、ライバル8人で共同生活しながら試験官が繰り出す課題に取り組みます。2回目で合格すると、訓練期間中に妊娠・出産を経てマルチタスクをこなしながら、11年目にようやくスペースシャトルのディスカバリー号に乗り込みます。
「日本から宇宙へ扉を開く!」
秒読み終了後、すさまじい轟音とともに8分30秒で地上から高度400kmの宇宙に到達。体がふわっと浮き上がって、塵や埃までもが宙に浮き美しく光に照らされます。直子は、地上管制官のサポートのもと、イタリア製・多目的補給モジュール『レオナルド』を、カナダ製・ロボットアームを使って、国際宇宙ステーション内アメリカの実験棟『デスティニー』に接続する作業を成功させます。地球帰還後は、宇宙での滞在経験を踏まえて、宇宙旅行の実現はじめ、常識を疑い発想の幅を広げながら多様な分野で多様な人々と宇宙への道を開拓し続けています。
「自分に似合う服、日本の女性に似合う服をつくりたい」
"I want to create clothes that suit me and Japanese women."
杉野 芳子 女史
Ms. Yoshiko Sugino
1892 - 1978
千葉県山武郡横芝光町 生誕
Born in TYokoshimahikari-machi, Sanbu-gun, Tiba-ken
杉野芳子女史は日本初のファッションデザイナーです。日本で最初にファッションショーを日比谷公会堂で開催、日本女性に洋裁技術ならびに洋装文化を広く普及させました。「ドレメ式洋裁」の創案者、杉野女子大学学長、杉野学園ドレスメーカー学院創立者。
Ms. Yoshiko Sugino is Japan's first fashion designer and held the first fashion show in Japan at Hibiya Public Hall, widely promoting Western dressmaking techniques and culture among Japanese women. She is the creator of "Doreme-style Western-style dressmaking," the president of Sugino Women's University, and the founder of the Sugino Academy Dressmaker School.
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「新しいもの珍しいもの美しいものを心ゆくまで知りたい見たい」
芳子は地主の家に生まれ、婿養子の父親を離縁した母親のもとで育ちます。6歳の芳子は近所の遊び仲間が学校へ行くようになったのがうらやましくてたまらず、親にねだって教科書を買ってもらって、まわりより2歳早く小学校に通いはじめます。山の中の田舎ののんびりした寺小屋式の小学校で、たった一人の先生が村の子供を集めて教えてくれます。先生は小さな芳子をおんぶして山にの登って海を見せてくれます。果てしなく広い太平洋、その向こうにたくさんの国がある、何という不思議。芳子はアメリカやヨーロッパの事を想像しては胸がうずくように楽しく憧れるのです。芳子は人形づくりや東京土産の西洋童話に熱中しながら、村で一番えらい人・先生になろうと考えて、年齢が足りないところを頼み込んで隣村の千葉高等女学校を卒業に進学。女学生のあこがれ海老茶袴を大得意で身に付けて学校へ通います。「新しいもの珍しいもの美しいものを心ゆくまで知りたい見たい」芳子は鉄道省初の女性職員となり、その後3年間小学校教師として働きます。
「アメリカへ行けば何かあるに違いない」
1913年に念願叶って着物に袴姿で単身渡米します。芳子はニューヨークで自分に合う服をつくろうと決意、洋裁技術ならびに活動的で手軽な洋装生活を身に付けます。やがて自分で作ったドレスを着た芳子は建築家・杉野繁一と出会い結婚、夫と共に帰国します。関東大震災を経て、女学校の制服また女子の職場の制服に洋服が取り入れられるようになると、主婦業に専念していた芳子は日本女性に洋装の楽しさを教えたいという思いが日々募ります。夫をやっとのことで説得し、1926年3人の生徒から洋装塾・ドレスメーカースクールを自宅で始めます。それぞれの体型に合う洋服を仕立てる芳子の技術が評判を呼んで生徒が押し寄せるようになります。ドレスメーカー女学院の教師また経営者として苦労する芳子を、夫が理事長として学校運営を担って助けます。
「日本と欧米のファッションの架け橋」
芳子は「ドレメ式原型」を開発、洋服に仕立て服(オーダーメイド)しかなかった時代に、標準的な型紙を使ったセミオーダーメイドや既製服(レディメイド)といった効率的な製作方法を教育します。1926年から読売新聞家庭面に子供また婦人の服・小物などの「型紙」付き記事を34回にわたり連載。1936年日本初のファッション専門誌『D・M・J会誌』(ドレスメーカー女学院会誌)を創刊。1935年日本で最初のファッションショーを日比谷公会堂で開催。やがて太平洋戦争が始まると、校舎は国に接収され分校舎も空襲で焼失、戦時下の物資不足の中でも芳子は様々なデザインを提案、国家が強制する更生服でもファッション展覧会を開催します。終戦後、再び自宅から授業を再開すると入学希望者が最寄りの駅まで長蛇の列をつくります。1957年ベニスで行われた「国際コットン・ショー」で日本人デザイナーとして初めて海外進出した芳子は、ピエールバルマン、クリスチャンディオール、ジャックファットなどに学院生のデザイン審査を依頼するなど親交を持ち、日本と欧米のファッションの架け橋を務めます。
-杉野記念館 Sugino Memorial Museum
-ドレスメーカー学園 Doress Maker Gakuin
-『娘の頃 : 女性はいかに生きるべきか』(宝文館1952年)
-『自伝 炎のごとく』(杉野芳子 著 / 講談社1976年)
「大和撫子の真価を世界に広めましょう。日本女性の海外勇躍の時勢を。」
``Spread the true value of Yamato Nadeshiko to the world. This is a time for Japanese women to venture abroad.''
黒田 雅子 女史
Ms. Masako Kurota
1912 - 1989
千葉県君津市久留里 生誕
Born in Kimitu-city, Tiba-ken
黒田 雅子 女史は幻のエチオピア王妃。エチオピア皇族リジ・アラヤ・アベバ王子と婚約するも、イタリアのエチオピア占領により破談に。
Ms. Masako Kuroda is the phantom queen of Ethiopia. She was engaged to Prince Rigi Alaya Ababa of the Ethiopian royal family, but the deal broke off due to Italy's occupation of Ethiopia.
「久留里藩主の娘」
雅子は、旧久留里藩主・黒田広志子爵の次女として誕生。父親の事業の悪化により、久留里尋常高等小学校5年時に北海道の竹下浩(北海道拓殖鉄道創立委員長)の養女となって、山鼻尋常高等小学校、私立藤女学校、帯広大谷高等女学校に進学。海外経験のある養父の影響で、雅子は海外に興味を持つようになり英語学習に力を入れます。全国中等学校英語大会に唯一の女学生として参加を果たします。16歳で東京の両親のもとに呼び戻されると、親戚の松平浜子が創立した関東高等女学校を卒業します。「意義のある結婚をしたい」と日頃から言い続ける中、エチオピア王子の来日に伴って「神秘帝国」「ライオン帝国」エチオピアブームで日本中が沸き立ちます。
「ライオン帝国の王子」
ヨーロッパ植民地に囲まれ独立を脅かされていたエチオピアと日本は使節団の派遣を介して修好通商条約を締結。日本公使がエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世の戴冠式へ参列、外務大臣ヘルイ・ウォルデ・セラシエ(Heruy Wolde Selassie)率いるエチオピア使節団が来日します。天皇裕仁に謁見後、2か月に渡って日本に滞在します。欧米経由の野蛮で獰猛な黒人像とはほど遠い、教養高い使節団はじめ同行するリジ・アラヤ・アベバ青年王子の品の良い動静が雑誌・新聞の紙面で詳細に報道されます。ハイレ皇帝から贈られたライオン・キリンのいる上野動物園に人々が押し寄せ、大学ではアフリカ研究会が発足、エチオピア貿易を促進する民間団体が誕生します。早速、雅子は図書館でエチオピアの地理風俗について調べ始めます。
「日本人エチオピア妃の募集」
ヘルイは帰国後に「光の場所 日本という国」を出版。「日本には製糸、製紙、機械、製造、飛行機製作、造船、兵器、新聞及び印刷等数え切れぬ程の大小工場がある。」「日本人は快活で勤勉で意志が強い。真面目で正直で皇室をあがめ老人や目上のひとを尊敬する。非常に向上心に富み、忍耐強く勇敢で、いったん緩急あれば義勇に奉じる念をだれでも持っている。」日本でも翻訳本「大日本」が刊行され話題になる中、アラヤ王子は新聞広告で日本人花嫁を募集します。「エチオピア皇帝の従弟が妃に日本人を希望」「淑やかな日本婦人をお妃にご所望。エチオピアの若き皇族」花嫁の条件として①美人で英会話ができること②年齢19歳から21歳までの2点。縁談がまとまり次第、支度金一切を送金の上で王子自ら花嫁をジブチまで出迎えること、皇帝から広大な土地を下賜され新居の設計中であること、結婚式は来年早々を希望する書簡が公開されます。雅子は頑迷に反対する両親を説き伏せ応募します。
「妃修行」
「ひとずれしない素直な、まるで童話の中に出てくる王子のよう」「エホバの神に誓ってアラヤ殿下の純情には駆け引きが無い」身内の同意を得た申込者が20名に達し、中には女官でもよいと言うもの、血書を送りつけるものもあります。結婚仲立ち人で、汎アジア主義者・頭山満の顧問弁護士・角岡知良の訪問を受けた雅子は答えます。「海外雄飛へ先達をつけるべく、日本とエチオピア両国の契りとなり国際的に活躍し、両国の幸福のために尽くしたい。」エチオピア王妃として正式な決定が下されると、アラヤ王子の礼装姿の署名入り写真が雅子の許に届けられます。黒田家はアラヤ王子の再来日に備えて宮内省また外務省との打ち合わせを重ね、世田谷区の住居を引き払って芝白金に居を構えます。雅子は妃修業に邁進しながら、グラビア雑誌に登場したり、座談会に引っ張りだこになります。
「ワルワル事件」
ところがなかなかアラヤ王子は来日せず、電報が途絶えます。そんな中、毎日新聞の夕刊一面トップ「黒田雅子嬢との縁談エチオピア側で解消 怪・某国の干渉の魔の手」で大騒ぎとなります。同紙朝刊では某国をイタリアと名指し、エチオピアを巡って錯綜するイタリア・フランス・イギリス参加国の利害関係を報じます。雅子は「取り消しが事実となってっも落胆はしません。日本女性の海外勇躍の時勢だということをはっきり日本女性に認識してもらっただけでも意義がある」と心境を述べます。すると一転して、解消劇ばかりか婚約そのものにまで非難の声が上がるようになります。イギリス人に嫁いだ恒子・ガントレット夫人は「一種の英雄的憧れ」、青鞜社員・神近市子は「あまりに軽率」。雅子は「御伽話のような国の王妃を夢見たのではない。国際的センセーショナルの犠牲となって今度の結婚話に敗れるのなら本望です。」まもなく、イタリアは「ワルワル事件」を起こしエチオピアへ派兵して占領。日本は満州の利権の代償にイタリアのエチオピアでの利権を認め、雅子はエチオピアの幻の王妃となります。
-「明け行くエチオピア」(黒田雅子 著 / 国際経済研究所 1934)
-『マスカルの花嫁―幻のエチオピア王子妃』(山田一廣、朝日新聞社 1998)
「STAP細胞研究の進展がいつか正当に科学論文の最前線に戻り、私たち全員が恩恵を受けるようになること、私の心からの願いです。」
"It is my sincere wish that STAP cell progress research will someday rightfully return to the forefront of scientific publications, so that we all may benefit."
小保方 晴子 女史
Ms. Hruko Obokata
1983 -
千葉県松戸市 出身
Born in Matsudo-city, Tiba-ken
小保方晴子女史は世界で初めてSTAP細胞(STAP Cells)を発見した女性科学者です。刺激惹起性多能性獲得(Stimulus-Triggered Acquisition of Pluripotency)は世界中の研究者らを驚かせながらも、数か月のうちに論文の不正をインターネットの科学コミュニティで指摘され、のちに特に日本のマスメディアで不当にバッシングされ、十分な検証実験の機会を与えられることなく1年足らずで博士号取り消し・理化学研究所を退職に追い込まれました。
Ms. Haruko Obokata is the world's first female scientist to discover STAP cells. Her proposed Stimulus-Triggered Acquisition of Pluripotency surprised researchers around the world, but within a few months, fraud in the paper was pointed out on the Internet Science Community, and later, especially She was unfairly bashed in the Japanese mass media, and was forced to have his doctoral degree revoked and resigned from RIKEN in less than a year without being given a sufficient opportunity to conduct verification experiments.
「再生医療への道」
晴子は会社員の父親と心理学者の母親のもと、幼い頃から研究者を志し、特に再生医療に強い興味を持ちます。「創成入試(Admissions Office入試)」(現在の特別選抜入試)により早稲田大学理学部応用化学科に入学。「子宮を病気でなくして出産できなくなった人を救えるような技術を開発したい」再生医療研究への意欲を語ります。常田聡教授の指導のもとバクテリアを分離培養する開発方法に取り組みます。帝京平成大学学科長を務める母親を介して、組織工学の研究・事業化に取り組む大和雅之教授ならびに岡野光夫教授の知遇を得た晴子は大学院では再生医療の研究に転身。早稲田大学と東京女子医科大学による日本初の共同大学院・先端生命医科学センター(TWIns)で、患者から採取した生きた細胞を培養・増殖させてシート状にしたものを患部に貼って治療に用いる「細胞シート」の研究に従事します。岡野光夫教授が設立して代表を務める株式会社セルシードから「細胞シート」資材の提供を受けながら、大和雅之教授の指導のもと、研究論文 "Subcutaneous transplantation of autologous oral mucosal epithelial cell sheets fabricated on temperature-responsive culture dishes" をまとめ 『Journal of Biomedical Materials』誌に発表。博士課程に進学するとともに「日本学術振興会特別研究員DC1」に選ばれ、月額20万円の研究奨励金を3年間支給され、年間150万円の科研費を獲得。さらに、文科省グローバルCOEプログラムで半年の短期語学留学として渡米。大和雅之教授の手配でハーバード大学医学大学院教授であるチャールズ・ヴァカンティ医師の下で働きはじめます。
「チャールズ・ヴァカンティ氏 x 組織工学」
チャールズ・バカンティ教授はハーバード大学病院などで麻酔医師として勤務しながら、同じ医師の兄ジョセフ・バカンティ氏と一緒にいち早くティッシュ・エンジニアリング・ソサイティを設立、人工皮膚・人工骨・人工軟骨・人工心筋シートなど生体組織工学に関するたくさんの技術・特許を発表する一方、「胞子様細胞(Spore-like cells)という生物の成体に小さなサイズのごく少数の細胞が休眠状態で多能性細胞として存在する」という仮説を提唱。すっかり魅せられた晴子は、200本を超える文献を読み、「黄金の手」と呼ばれるほど研究室のあらゆる機械と方法を習得。初期化誘導遺伝子Oct4が働くと緑色蛍光タンパク質(GFP)が発現するよう遺伝子操作した生後1週間のOct4-GFPマウスから様々な組織を採取、ガラスの極細管に通して小型細胞を分離して培養する実験に取り組みます。あるとき培養中に塊ができることに気が付き、その中から緑色に光る塊を見つけます。繊細な作業を黙々とこなすうちに、「小さい細胞を取り出す操作をすると幹細胞が現れるのに、操作しないと見られない。幹細胞を取り出しているのではなく、操作によってできている」。晴子は興奮しながら様々な細胞に様々な方法で刺激を加える実験を繰り返して幹細胞が出現するかどうかを探ります。中でも、脾臓由来のリンパ球をガラスの極細管に通して取り出し、30分ほど弱酸性のアデノシン三リン酸(ATP、通称「細胞のエネルギー通貨」)溶液に浸して刺激を与えた後で培養を続けると、多くの細胞は酸の刺激で死んでしまう中、2日後から生き残った細胞(約25%程度)のなかに緑色に光る細胞(約30%程度)が安定して現れ始めます(全体の7~9%程度)。その細胞は元のリンパ球の半分程度に小さくなってお互いにくっつきながら、7日ぐらい経過すると数10個から数1000個の塊をつくるようになり、試験管のなかで環境を整えて培養すると確認神経・筋肉・腸管上皮など三胚葉のさまざまな組織の細胞に分化するのを確認します。晴子は同僚の小島宏司医師と一緒に検証実験を行い、STAP細胞の原型を作り出すことに成功します。マウスの生体内に移植して多能性の強力な証明であるさまざまな組織を含む奇形種・テラトーマを形成させます。バカンティ医師の希望によって半年の留学期間は1年6ヶ月にも及びます。「感性が鋭く、新しいことにどんどん取り組むハルコがいなかったら、この研究は達成できなかった。」
「若山 照彦 氏 x 体細胞クローン技術 」
帰国した晴子は、晴子は研究論文 "The potential of stem cells in adult tissues representative of the three germ layers" にまとめ上げ、2年ごしで『Tissue Engineering 誌』に発表。早稲田大学にも博士論文として提出して工学博士を取得します。晴子はSTAP細胞の万能性(多機能性)を証明するために、大和雅之教授、常田聡教授、小島宏司医師と一緒に神戸市にある理化学研究所の発生・再生科学総合研究センター(CDB)を訪ね、マイクロマニピュレータの名手で世界で初めてクローンマウスを作製した若山照彦教授に実験協力を求めます「STAP細胞由来のキメラマウスを作ってほしい」。「私はそういう不可能な実験が好きです。」それからの晴子は、アメリカのハーバード大学にポスドクとして在籍しつつ、東京の東京女子医科大学・大和研究室と神戸の理研CDB若山研究室を新幹線で往復しながら、若山研究提供のマウスからSTAP細胞を作っては、若山研究室に運びこんでキメラマウスづくりに挑戦する日々が続きます。晴子はキメラマウスづくりの技術習得を希望しますが、「嫌だ。ノウハウを教えたら僕達を頼ってくれなくなる」。約2年間、晴子は失敗すればするほどさらに膨大な実験を積み重ね失敗の原因を突き詰め、次の作戦を持って行きます。「次は絶対いけますので、実験、御願いします!」若山氏も試行錯誤しながらSTAP細胞20個ほどの小さな塊を慎重にマウス受精卵に注入、仮親マウスの子宮に移植して20日後、帝王切開すると緑色に光る胎児と胎盤に「おおっ!」みんなで歓声をあげます。胎盤組織に分化しないES細胞・iPS細胞の多機能性を超えた証明に、晴子は泣いて喜びます。しかし、あるときキメラが異常な兆候を示し晴子が分析しようとすると、若山氏は「母ネズミが子ネズミを食べたことにしましょう」と言ってそのデータを破棄します。やがて若山氏は、増殖能を備えたSTAP幹細胞(STAP─SC)の樹立が不可欠であると主張し始めます。まもなく、晴子から渡された細胞の一部を採取し特殊培養液で細胞の増殖に成功させた若山氏は、驚く晴子に幹細胞株の特許収益を51%を自分に、39%を晴子に、バカンティ氏と小島氏にそれぞれ5%を分配することを提案します。晴子は何度試してもSTAP細胞株を作成できず、自分で作り方が分からない幹細胞株の研究に抵抗しますが、若山氏は晴子にSTAP細胞株の研究の手伝いをするよう強制します。そして若山氏は晴子の指導のもとで脾臓からSTAP細胞を作る技術を習得すると、山梨大学に教授として招聘されます。
「笹井 芳樹 氏 x ES細胞(胚性幹細胞)」
晴子は早速「ネイチャー」「セル」「サイエンス」といった科学雑誌に論文(共著者:チャールズ・バカンティ医師、マーティン・バカンティ医師、若山照彦教授、大和雅之教授、小島宏司医師など)を投稿するも、「あなたの論文は過去何百年にもわたる細胞生物学の歴史を愚弄している。」、3誌とも査読者にリジェクトされます。自信を失いつつあった晴子は、山梨大学に移動が決まった若山教授から報告を受けた理化学研究所の発生・再生科学総合研究センター(CDB)の竹市雅俊センター長ならびに西川伸一副センター長から非公式に研究ユニットリーダー(研究室主宰者)応募の打診を受けます。山中伸弥教授のノーベル賞受賞の興奮が冷めやらぬさなか、晴子はCDB人事委員会による面接に臨みます。「STAP細胞は必ず人の役に立つ技術です」。研究ユニットリーダーとして5年契約で給与とは別に総額1億円の研究予算と実験棟が与えられます。さらに晴子は、半世紀にわたる発生学の謎である神経誘導因子「コーディン」を解明し、ES細胞から神経細胞・視床下部・脳下垂体・網膜の形成を成功させた気鋭の研究者である新CDB副センター長・笹井芳樹氏との知遇を得て、論文投稿ならびに国際特許出願のためのサポートを得られることとなります。晴子の論文を読んだ笹井氏は「まるで火星人の論文だ」。笹井氏ならびに丹羽仁史プロジェクトリーダーの実験指導のもと論文を修正するため、晴子は両研究室メンバーと一緒にライブ・セル・イメージング(顕微鏡下での細胞の自動録画)を実施。分散したリンパ球から万能性遺伝子が活性化して細胞が緑に光り始め、やがて塊を作っていく様子に「おおっ!」「驚くほど高頻度に(変化する細胞が)出現し、感動的だ」歓声が上がります。「STAP細胞(刺激惹起性多能性獲得細胞)」と命名、 "Stimulus-triggered fate conversion of somatic cells into pluripotency" 、"Bidirectional developmental potential in reprogrammed cells with acquired pluripotency" にまとめネイチャー誌に再投稿します。穏やかなストレス要因であるATPをより刺激の強い塩酸に置き換えた改訂プロトコルを組み込み、若山氏の作成した幹細胞株について説明した別の論文も加えられます。続いて国際特許 ”GENERATING PLURIPOTENT CELLS DE NOVO” を出願。厳重にデータ管理しながら、ネイチャー誌からの厳しいコメントや追加データの要求をクリアするために、膨大な追加実験を積み重ねること1年弱、ようやく『ネイチャー』誌に論文が採択されます。
「山中伸弥教授 x iPS細胞(人工多能性幹細胞 )」
2014年1月28日神戸市ポートアイランドにある理化学研究所の発生・再生科学総合研究センター(CDB)の記者会見会場に、新聞・テレビ16社から約50人の記者やカメラマンが集まります。晴子はCDB副センター長・笹井 芳樹氏教授ならびに山梨大学に移動した若山照彦教授と共に臨みます。「体細胞の分化状態の記憶を消去し初期化する原理を発⾒」「細胞外刺激による細胞ストレスが⾼効率に万能細胞を誘導」晴子は、新たな生物学的メカニズムの発見と新規の医療技術の開拓に貢献すると強調します。「細胞核の情報の自在な消去・書き換えを可能とする革新的技術。細胞の分化状態を自在に操作できるようになる」「例えば、生体内での臓器再生脳力の獲得・がんの抑制技術・細胞老化からの解放(若返り)などが可能になる」。翌日から日本のメディアは異様な盛り上がりを見せます。「万能細胞 祖母のかっぽう着姿で実験」「泣き明かした夜も STAP細胞作製の30歳女性研究者」「「間違い」と言われ夜通し泣き、デート中も研究忘れず」「論文一時は却下…かっぽう着の「リケジョ」快挙」「研究室の壁紙はピンク色・黄色、あちこちにムーミングッズ」「お風呂でもデートでも四六時中研究のことを考え」「記者会見にはヴィヴィアン・ウエストウッドの指輪」。一方、 iPS細胞(人工多能性幹細胞 )を発見した山中教授から晴子は呼び出しを受け薫陶を受けます。「iPS細胞が8年前に生まれた時、「こりゃすごい。”小学校一年生”で遠投百メートル投げるものすごい子供がいる」、今度は「”小学校一年生”で時速100キロで投げるやつがいる。また驚いた」。心から誇りに思っています。すごい素質をもった”小学生”をどう育て、どう順調に記録を伸ばしていくか。これがとても大切。」
「ストレステスト1 メディアバッシング」
STAP論文の発表は世界中の研究者に衝撃を与え、2週間も経たないうちに科学論文のオンライン・フォーラム『PubPeer』から「論文掲載画像の重複と切り貼りがある」、他の幹細胞研究室からは「再現できない」と報告が相次ぎます。『ネイチャー』誌ならびに理化学研究所で調査が始まると、晴子はじめ日本人論文共著者らのもとに若山氏から「STAP論文撤回」を提案するメールが届き衝撃が走ります。同時にNHKのトップニュースで「研究データに重大な問題が見つかり、STAP細胞が存在するのか確信がなくなった」と若山氏が独断でインタビューに応じます。すぐに晴子は若山氏に話し合いを求めて電話をかけるも電話に出てもらえず、笹井氏も取り合ってもらえず、丹羽氏は山梨まで出向きます。「STAP細胞疑惑 理研の“勇み足”と追い込まれた「リケジョの星」」「唯一の味方ハーバード大教授も怪しい実績!捏造にリーチ!「小保方博士」は実験ノートもなかった!」「乱倫研究室」「「リケジョの星」転落全真相 小保方晴子さんを踊らせた“ケビン・コスナー上司”の寵愛」「STAP細胞「小保方晴子」高校時代は中の中でちょっとイタい子!」「一途なリケジョ”小保方晴子さんの初恋と研究」。晴子はNHK記者に突撃取材で女子トイレまで執拗に追い回され、転倒させられ全治2週間のケガまで負います。新聞社・テレビ局・週刊誌など記者らが晴子の携帯電話はじめ自宅マンションのインターホンを連日鳴らします。笹井氏のもとには「返事をしなければこのまま報じますよ」という脅迫めいた取材メールの対応に連日追われ研究ができなくなります。
「ストレステスト2 NHK偏向報道」
理化学研究所の調査委員会の発足により、晴子はじめ笹井氏・丹羽氏はサンプルに触れることも禁じられます。一方、調査対象のサンプルを作製し保存していた若山氏本人は自由にサンプルを再解析し、山梨大学から自分の意見を社会に向けて発言し始めます。「若山研究室に保存してあるSTAP細胞株を第3者に簡易遺伝子解析したもらったところ、若山研究室がSTAP細胞を作るために小保方氏に提供したマウスとは系統が異なることが判明した。」「STAP細胞とされてきた物が別の万能細胞である「ES細胞」だと考えると説明しやすい。」まもなく『NHKスペシャル/調査報告/STAP細胞不正の深層』(2014年7月27日)に理化学研究所の遠藤高帆研究員が登場「小保方のSTAP細胞にはアクロシンGFPという遺伝子が組み込まれている。」、続いて若山氏が登場「理研にいたときに若山研究室の留学生がアクロシンGFPを組み込んだES細胞を作製していた」、そしてそのES細胞が晴子の理研研究室の冷凍庫から見つかったイメージ映像が流され、さらにその元留学生が匿名で証言「何でそれが小保方氏の研究室に在るのか考えられない。」。続いて、理化学研究所OB石川智久氏が「ES細胞を盗まれた」として晴子を兵庫県警に刑事告発します。「小保方元研究員は名声や安定した収入を得るために、STAP論文共著者の若山照彦教授の研究室からES細胞を盗み、STAP論文をねつ造改ざんした」。
「ストレステスト3 記者会見」
晴子は弁護士と共に反論会見を開きます。「STAP細胞は捏造」という前提に立つヒステリックな報道記者達の質問に、「論文の提示法について、不勉強で自己流にやってしまったのは申し訳ございませんとしか言いようがない。」「研究室ではES細胞のコンタミ(混入)は起こり得ない状況を確保していた。」「ライブ・セル・イメージングで光ってないものが OCT4 陽性になってくる。そして、その光が自家蛍光でないことも(研究チームで)確認している。」「現在あるSTAP幹細胞は、すべて若山先生が樹立されたもの。若山先生の理解と異なる結果を得たことの原因が、私の作為的な行為によるもののように報道されていることは残念でならない。」一週間後、笹井芳樹理研CDB副センター長の記者会見が開催されます。STAP現象の場合の反証仮説①「ES細胞の混入」と②「自家蛍光現象の見間違い」を挙げ、①「ライブ・セル・イメージング」と②「FACS」装置で検証済みであると答えます。さらに、STAP細胞はES細胞と形状も性質もが異なるので専門家が見ればその違いが分かると指摘。そのうえで「STAP現象は有力な仮説であるといえる。それを前提にしないと、説明できないことがある。有望ではあるが、仮説に戻して検証し直す必要がある。」と結論付けます。「小保方さんは、たしかに実験面での天才性と、それに不釣り合いな非実験面の未熟さ・不注意が混在したと思います。かといって、研究を良心的に進めていたことを否定するのは、アンフェアであると思います。」晴子はじめ若手研究者を育てる必要性を主張します。
「ストレステスト4 検証実験」
調査委員会の一方的な調査結果に対して晴子は不服申し立てを行い、2014年4月1日相澤慎一特任顧問の下でSTAP細胞の検証実験が晴子を除いて実施されます。さらなる晴子の不服申し立てにより、文科省の『研究不正に関するガイドライン』が示され、7月から晴子も検証実験の参加を認められます。11月末日を期限に、あらかじめ研究不正再発防止改革推進本部が指名した者の立ち会いの下で、論文に書ききれない実験のコツ・こだわりなどについて一切認められない厳しい制約のもと実施されます。検証実験は①マウスの脾臓のリンパ球からSTAP細胞を作り、②そのSTAP細胞からSTAP幹細胞とキメラマウスを作製します。①を晴子と発生・再生科学総合研究センター(CDB)丹羽仁史チームリーダーが別々に担当、②を検証実験への参加を拒否するキメラづくりの名手・若山氏の代わりに、ライフサイエンス技術基礎研究センターユニットリーダー・清成寛研究員が代わりに担当します。晴子は、24時間のビデオ監視の下、壁にあった小さな釘穴さえも埋められた部屋で、ポケットのない服を着させられ、監視員にエプロンを毎日締めつけられ、試薬瓶を自由に手に取ることもできず、作成したSTAP細胞を自分で解析することも許されず、実験がうまくいったかどうかさえ分からず、犯罪者のように扱われながら毎日同じ作業を繰り返し行います。満足のいく結果が得られないまま数カ月が経過、健康状態も悪化していきます。【◎晴子による検証結果:弱塩酸処理を行った場合の多くにSTAP様細胞塊が形成されることを確認。出現数は論文よりも少ないものの、緑色・赤色蛍光顕微鏡・定量 PCR法・免疫染色によ多機能性マーカー遺伝子の発現を確認。◎ 丹羽氏による検証結果:酸処理を行った細胞を培養すると特異的に細胞塊が出現、FACS解析においてOct3/4-GFP 遺伝子発現に由来する特異的な緑色蛍光を発する細胞の存在をごく少数確認。肝臓由来の細胞をATP処理するとSTAP様細胞塊の出現を優位に確認、定量PCR法・免疫染色法によりOct3/4の優位な発現を確認。 ◎清成寛研究員による検証結果:STAP細胞株の樹立・ならびにキメラマウス形成は得られなかった。】
「STAP HOPE」
2014年12月19日に情報システム研究機構理事で国立遺伝学研究所長でもある桂勲調査委員長は記者会見を開き「STAP現象を再現できなかった」「STAP幹細胞は残存試料を調べた限りでは、すべて(若山研究室が保有する)既存のES細胞に由来していた。STAP細胞からつくったキメラマウス、テラトーマ組織もその可能性が非常に高い。故意か過失か、だれが行ったかは決定できない。」検証実験の打ち切りを発表。しかしながら、ある記者の質問に桂委員長は答えます。「ES細胞からキメラマウスを作り、そこからSTAP細胞を作れば、かなり似たものができる(元のES細胞の遺伝子とほぼ一致する)。」さらに記者の質問に桂委員長が答えます。「不思議です。STAP細胞ができたというのは、小保方氏以外で操作してできたというのは、我々の確認している限りでは、この若山氏の1回だけです。」続いて2か月後、理化学研究所の野依良治理事長が記者会見で「論文の取り下げを(著者らに)勧告する」と発表します。晴子は「体細胞が多機能性マーカー遺伝子を発現する細胞に変化する現象」という未知の現象は確認され間違いがないと主張するも、STAP研究費用のうち論文投稿費用60万円のみ支払いに応じ、論文撤回に同意、理化学研究所を退所します。晴子はアメリカ『ニューズウィーク』誌のインタビューに答えます。「私はスケープゴートにされた。日本のメディアはすべて、若山先生が犠牲者で、私がまったくの極悪人と断定した。」「ほとんどの人がこの話を信じています。なぜなら、これは日本人にとって最も単純で、興味深く、楽しい話だからです。」
-文部省『研究活動における不正行為への対応等に 関するガイドライン』
-理化学研究所STAP細胞に関する情報・取り組み
-STAP HOPE PAGE
STAP論文共著者の主要インタビュー
-Interview with Dr. Teru Wakayama on STAP stem cells
-"Stress Test" The New Yorker 21th Feb.2016
STAP細胞論文
-"The potential of stem cells in adult tissues representative of the three germ layers"
(共著者:中島宏司、カレン・ウェスターマン、大和雅之、岡野光夫、常田聡、チャールズ・A・バカンティ)
-"Stimulus-triggered fate conversion of somatic cells into pluripotency" Nature vol505, p641–647 (2014)
(共著者:小島宏司、マーティン・A・バカンティ、丹羽仁史、大和雅之、マーティン・A・バカンティ)
-"Bidirectional developmental potential in reprogrammed cells with acquired pluripotency" Nature vol 505, p676–680 (2014)
(共著者:笹井芳樹、丹羽仁史、門田満隆、ムナザ・アンドラビ、高田望、野老美紀子、小島宏司、マーティン・A・バカンティ、大和雅之、寺下愉加里、米村重信 、チャールズ・A・バカンティ、若山照彦)。
STAP細胞特許
-“Generating pluripotent cells de novo WO 2013163296 A1"
(出願人:ブリガム・アンド・ウィメンズ病院 / 発明者:チャールズ・バカンティ、マーティン・バカンティ、小島宏司、小保方晴子、若山照彦、笹井芳樹、大和雅之)
-"Methods relating to pluripotent cells"
(出願人:Vセル・セラピューティック / 発明者:チャールズ・バカンティ、小島宏司)
STAP事件関連書籍
-『あの日』(小保方晴子著 / 中央公論新社2018)
-『小保方晴子日記』(小保方晴子著 / 講談社2016)
STAP細胞類似研究
-"Modified STAP conditions facilitate bivalent fate decision between pluripotency and apoptosis in Jurkat T-lymphocytes"
-"Characterization of an Injury Induced Population of Muscle-Derived Stem Cell-Like Cells"
-Kuroda, Y. et al. Unique multipotent cells in adult human mesenchymal cell populations. Proc Natl Acad Sci U S A 107, 8639-8643, (2010).
-Wakao, S. et al. Multilineage-differentiating stress-enduring (Muse) cells are a primary source of induced pluripotent stem cells in human fibroblasts. Proc Natl Acad Sci U S A 108, 9875-9880 (2011).
神奈川県 Kanagawa-Ken
和田 カツ 女史
Ms. Katsu Wada
1906 - 1993
神奈川県小田原市 生誕
Born in Odawara-city, Kanagaw-ken
「感謝と奉仕と愛の祈りの商人の道」
"A Merchant's Path of Gratitude, Service, and Love Prayers"
日本スーパーマーケット業界初の国外進出を果した八百半デパートの創業者。TVドラマ「おしん」のモデルと言われています。
katsu Wada is a founder of Yaohan, the first Japanese supermarket industry to expand overseas. She is a model of Oshin.
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「子供のために生きる」
カツは小田原の八百屋「八百半」の長女として生まれます。店の台所仕事を引き受けるかわりに、高等小学校から小田原高等女学校(後の神奈川県立小田原城内高等学校)へと進学、当時では数少ない女学生となります。教員に就職するか会社員や銀行員の妻となることを夢見るも、父親の一存で従業員の和田良平とカツを結婚させられ、夫妻で八百屋を継ぎます。カツは泣く泣く子供を立派に育てることを生きがいにすると決意、子供を大学に行かせたい一心で、朝5時に起きて夜12時まで働きづめで積極的に働きます。24歳の時に熱海市銀座の旅館の軒先を借りて「八百半熱海支店」を開店。リヤカーを引いて得意先の旅館への野菜を卸しに行きます。熱海には町一番の八百屋があってトラック1台分の野菜を収納できる冷蔵庫を備えているのに対抗、カツは夜間も野菜を店に並べたままにして夫と交代で販売を始めます。夜露で野菜の新鮮さは増す上に、映画館やダンスホールなどで遅く帰宅する人々が店に寄るようになり、芸妓を連れた男性が見栄を張って高級な物をたくさん買うなど大繁盛します。平均睡眠4時間の生活が、十数年続きます。店もようやく軌道に乗り始め、生活も安定してきた矢先に夫が倒れ、長女が2歳で早世、息子達の子育てに苦悩します。カツは新宗教団体「生長の家」に入信して熱心な信者となります。
「感謝と奉仕の商売道」
「熱海大火」で20年かけて築いた八百半商店が一夜にして全焼。得意先である旅館の好意で、店の再建まで旅館の軒下を売り場として借りながら、さらに仕入先の好意で勘定をツケにしてもらいながら商売を継続します。カツは考えます。旅館相手の野菜卸事業は売上の割に資金繰りが苦しい。御用聞き・配達の手間の割に未回収金も板前への賄賂も負担が大きい。夫を引き連れて、現金正札販売で有名なベニマル(現在のヨークベニマル)を福島県郡山まで見学に行きます。そこでは八百半の10分の1の広さの店舗に客が押し寄せ2倍以上も売り上げていました。早速、株式会社八百半食品デパートとして再出発、主に一般消費者相手に食料品の現金正札販売を始めます。品物を安く販売して世界一物価の高い熱海の住民たちの大評判になります。仕事が多忙を極める中、一部の従業員がストライキを起こして旅館に立てこもる事件が発生。カツは新宗教団体「生長の家」を取り入れた社員教育に力を入れて社員を一つにまとめあげようとします。退職した女子社員の再雇用・育児休業・育児短縮勤務を業界でいち早く導入する一方で、信仰を受け入れない従業員は解雇していきます。まもなく長男に事業を譲ると、カツは日本流通業初の海外進出を果たしたヤオハン社員の教育のために精力的に、シンガポール、コスタリカ、アメリカ、香港、マレーシア、タイ、中国、マカオ、イギリス、など16か国450店舗を飛び回ります。バブル崩壊と時を同じくしてカツが死去するとヤオハンも1997年に倒産します。
-静岡新聞 Shizuoka News
-NHKテレビ小説 おしん NHK TV drama OSHIN
「民事にしても刑事にしても、裁判というものは男と女の両方の正しく見た目で決められていかなければならない。」
``Whether in civil or criminal cases, trials must be decided based on the correct appearance of both men and women.''
「社会全般のことは男女双方の立場から観察・考慮して初めて円満な解決が得られます。」
``Amicable solutions can only be reached when issues in general society are observed and considered from the standpoints of both men and women.''
石渡 満子 女史
Ms. Mitcuko Ishiwata
1905 - 1974
神奈川逗子市 生誕
Born in Zusi-city, Kanagaw-ken
石渡満子女史は日本初の女性裁判官です。婦人法曹普及会はじめ婦人人権擁護同盟を組織して、戦後の日本の女性の社会的自立をバックアップしました。
Ms. Mitsuko Ishiwata was Japan's first female judge. She established organizations such as the Women's Legal Profession Propagation Association and the Women's Rights Advocacy Alliance to support the social empowerment of women in post-war Japan.
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「離婚裁判」
満子は横須賀市桜山(今の逗子市)に、農学博士で養蚕産業を指導をする官吏の父親のもと4人姉妹の長女として生まれます。東京女子高等師範学校(御茶ノ水女子大学)卒業と同時に婿養子を迎えて結婚するも8年後に離婚。結婚生活の不幸、人間の精神的な悩みというものについて、裁判官とか検察官が非常に冷たいもの厳しいものであるというように感じます。「正しい考えというのは男女に違いがあるのではないか。」女性は司法試験に合格しても弁護士以外にはなれず、裁判官・検察官といった司法官に女性がいないことに、満子はひそかに憤慨します。法律を調べてみると、女が裁判官・検事になってはいけないということはどこにも書いていない。女の進出を阻むものは何にもないはずであるのに実際にはなれない。「女性の問題に携わって、人情をもって暖かい気持ちをもって同じ様なことで苦しんだ女性の相談相手になりたい。」
「女性裁判官第1号」
満子は30歳を過ぎて法律の勉強を始め、女性のための法律専門学校を設立していた明治大学に進学します。戦争が激しくなる中も勉学に励み、39歳で卒業、40歳で敗戦後に最初に実施された司法試験を受験して合格。新しく新設された2年間の司法修習を受けて一本立ちします。その中で唯一の婦人であった満子は新しく明記された男女平等の法律のもとで、裁判官を志望して44歳で採用されます。戦後の不況による失業者の増大・生活苦による追い出し離婚の増大・少年少女の人身売買・地方婦人労働者の酷使が激増します。満子は女性弁護士らと婦人法曹普及会を結成、生活に直結した法律講座を開催します。さらに家事調停員また人権擁護委員らと協力して婦人人権擁護同盟を組織、実態調査・法律相談・訴訟・啓蒙活動を行います。女性を受けつけぬ暗黙のルールが存在する中に45歳で女性初の判事補として東京地方裁判所に赴任。56歳で判事となり、関東各地の地方裁判所に赴任。定年退官後は弁護士となり第二東京弁護士会に所属して、家庭裁判所を中心とした婦人・青少年問題に奔走します。69歳で逝去。
-明治大学 Meiji Univ.
-『法律のひろば 3(1)』(ぎょうせい 編 / 1950年)
-『人事院月報 : 公務員関係情報誌 23(5)(231)』(人事院総務課 編 / 日経印刷1970-05)
「女性は35歳以上年を取らない」
"Women don't get old after 35"
山野 千枝子 女史
Ms.Chieko Yamano
1895 - 1970年
神奈川県横浜市掃部山 生誕
Born in Yokohama-city, Kanagawa-ken
山野 千枝子 女史は日本の美容家の先駆者。日本にマーセルウェーブならびに美容法を広めた草分け。国産の化粧品・パーマネント機械・美顔機械を開発。ファッションモデルの前身である「マネキンクラブ」を創設。ファッションショーまた美人コンテストを全国で開催しながら最新の髪型・服飾・美容術を普及させます。
Ms. Chieko Yamano is a pioneer of Japanese hairdresser and cosmetologist, who spread Marcel Wave and beauty methods in Japan. She developed domestically produced cosmetics, permanent care machines, and facial beauty machines. She founded the ``Mannequin Club,'' which was the predecessor to fashion modeling, and held fashion shows and beauty contests all over the country to popularize the latest hairstyles, clothing, and beauty techniques.
「横浜」
千枝子は、鉄道役人の父・三沢覚蔵と、甲斐の豪農の娘である母・ハマのもと5人兄弟の中でただひとり娘として生まれます。白鳥の様に美しい外国の貿易船、貿易美術雑貨また洋装を手掛ける兄たち、山の手にある異人館など、港横浜のエキゾチックな空気に刺激された智恵子は海外へのあこがれと興味を抱きます。戸部小学校の上級生になる頃には、英語の単語帳をいつも懐に忍ばせ、平沼高等女学校への進学を目指します。父親の失業により、鎌倉の師範学校で教員試験を受けたり、三井物産横浜支店の女性事務員の採用試験を受けたりしますが、千枝子は兄に頼み込んで、神戸家政女学校に進学。助手として教壇に立ちながら、大好きな英語の勉強に専念します。まもなく、アメリカの家政総支配人を名乗る山野末松との縁談話を持ち込まれます。「徒手空拳で10万円(現在の1億円)をつくった人です」千枝子は両親の反対を押し切って神社で式を済ませると、アメリカに渡ります。
「アメリカ修行」
全荷物を盗まれ、千枝子は文字通り裸一貫でサンフランシスコの地に降り立ちます。ニューヨークに着くと、夫は白い台所着を着てせっせと水仕事を始めます。千枝子はトイレに駆け込んでひとしきり泣いてしまうと、アメリカ人銀行家の小間使いの1人として素直に働き始めます。千枝子は寝床の準備と子供の世話を担当。月曜と水曜は洗濯、火曜と土曜はアイロン掛け、木曜は大掃除、金曜は裁縫、家政の日課に従って専門家が見事な腕を揮うのを、千枝子は積極的に学びます。夫と共にブルックリン・ニューヨークを転々としながら生活を築き、神戸の兄の援助を得て美術商雑貨の店「ジャパニーズギフトショップ」を開きます。子育てのかたわら、女性雑誌『婦女会』に寄稿したり、アパートを在留日本人に貸したり、社交クラブでお茶をたてたり日本舞踊を披露したりしながら資金をためると、千枝子は世界中の女子が集まるニューヨークのワナメーカービューティースクールに入学。1年かけて卒業すると、メトロポリタンはじめ劇場から回されてくる鬘の手入れに追いまくられながら、師匠の技術を盗み見て最新のカットはじめパーマネントやマーセルウェーブを習得。同僚と独立して化粧品工場に通ったり毛製術・美顔術の勉強会に参加しながら美容院経営を学びます。
「日本の美容開発」
まもなく千枝子は『婦女会』の婦人会の伝手で、帝国ホテルで海外観光団相手の美容室を開業する約束を取り付けます。ところが帰国すると帝国ホテルは火災にあって計画は白紙に。打ちひしがれる千枝子に『婦女会』社長・戸川竜氏の資金援助が舞い込み、東洋一の丸ビル内でアメリカ式美容院を開業します。当時の日本髪50銭(今の1000円)に対し、マーセルウェーブ・フェイシャル(美顔術)・スキャルプトリートメント(頭皮マッサージ)・マニキュアは1円(2000円)均一、カラー・パーマネント5円(10000円)。着物に調和するマーセル・ウェーブは大流行。芸能人はじめ日本中の女性たちの評判となり廊下は連日見学客で人だかりになります。千枝子は渋谷区に山野美容研究所を創設。浅草橋の日本理髪器具株式会社と協力して、美容器具の国産生産に取り掛かります。続いて、桃谷順天堂はじめ小林コーセーの化粧品開発の顧問を引き受けます。千枝子は日本で初めて紹介した、クレンジング化粧法・アストリンゼント(収れん)化粧水を紹介します。そして、発明家・久和原悦山氏の協力のもと国産パーマ機械・ジャストリーを製作。さらに眼科医・安達八乙氏の協力を得て赤外線美顔術を確立。日本の美容に革命を起こします。
「山野千枝子ビューティー・サロン」
千枝子は、1日中幕無しのファッション・ショーとしてマネキン・クラブ(ファッション・モデルの前身)を創設して百貨店協会に派遣をはじめます。左翼運動家の女性に潜入され分裂工作を受けたり、モデルの自殺未遂事件を新聞で非難されたり、自信が尽力した「東京婦人美容協会」から除名されたりしながら、全国各地でファッションショーならびに美人コンテストを開催しながら、髪型・服飾・美容術の講演また実演を広めます。次々と開発する美容技術・美容製品の権益争いに巻き込まれるうちに、戦時中のパーマネント排斥運動を経て敗戦。千枝子は焼き野原になった銀座つづいて横浜で、外国人に慣れた美容家を集めて、アメリカ占領軍婦人たちのための美容室を開業します。すると千枝子は世界一大好きなアメリカ人達の横流しと横領の隠ぺいの為にあらぬ嫌疑をかけられ美容室を追い出されます。千枝子は奮起して、第6回国連総会にオブザーバーとして参加、パリの最新美容を研究して周ります。新橋に「山野千枝子ビューティー・サロン」を開店。続いて渋谷に東京高等美容学校を設立。月に100万円以上を稼ぎ出す女性美容家たちを次々と全国に送り出します。
-『光を求めて―私の美容三十五年史』山野千枝子、サロン・ド・ボーテ1956年
-住田美容専門学校
新潟県 Niigata-Ken
「返らぬ少女の日のゆめに咲きし花のかずかずをいとしき君達へおくる」
"I send to you, my dear ones, a bouquet of flowers that bloom in the dream of a girl who will never return."
吉屋 信子 女史
Ms. Nobuko Yoshiya
1896 - 1973
新潟県新潟市営所通り 生誕
Born in Eisyo-Street of Nigata-city, Nigata-ken
吉屋 信子女史は少女小説・同性愛文学の草分けです。代表作『花物語』『良人の貞操』で女学生はじめあらゆる世代の女性を魅了しました。当時の女性観・女性蔑視・女子教育の実態を描きつつ、日本の父権社会また男女間の恋愛への懐疑ならびに女性の同性愛を正面から論じたフェミニズム文学の先駆者です。
Nobuko Yoshiya is a pioneer in girls' novels and homosexual literature. Her masterpieces ``Flower Story'' and ``Good Man's Chastity'' captivated women of all generations, including schoolgirls. She is a pioneer of feminist literature, portraying the reality of women's views, misogyny, and girls' education at the time, as well as squarely discussing Japan's patriarchal society, skepticism about love between men and women, and female homosexuality.
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「人のために働いた偉い人」
信子は5人兄弟の唯一の娘として新潟県庁官舎で生まれます。父・雄一と母・マサの兄弟5人の中で唯一の女児として生まれます。父・雄一は新潟で県警に務めた後に郡長となって一家で佐土・新発田・真岡・下都賀郡に移り住みます。信子は真岡小学校に入学。近くにキリスト教会があり、信子は牧師の娘たちと親しくなって日曜学校に熱心に通い始めます。この頃、父・雄一は渡良瀬川鉱毒問題にあたり、政府側(古河財閥の足尾銅山側)と農民側の間に挟まり苦悩します。吉屋家には農民側がをしばしば訪れたり、田中正造が直接交渉に赴いたり、緊迫したやり取りを信子は目撃します。やがて、父・雄一は度重なる政府への上申も空しく、谷中村を水底に沈めるため強制土地買収・強制立ち退きの執行官吏として現地に派遣されます。母は家族のすべての荷を引き受け、信子の幼い弟は疫痢にかかって危篤状態に陥り、父は弟が亡骸となってやっと帰宅するも家屋取り壊しのために谷中村に引き返します。これら一連の出来事は信子に強烈な記憶を残します。
「良妻賢母となるよりも」
信子は栃木高等女学校(現在の栃木県立栃木女子高等学校)に入学。新渡戸稲造の「良妻賢母となるよりも、まず一人のよい人間とならなければ」という演説に感銘を受け、少女雑誌に短歌や物語の投稿を始めます。信子は日光小学校代用教員となって家計を助け、まもなく兄弟の就職の目処が立つと父母の許しを得て上京、東京帝国大学に通う兄・忠明宅に身を寄せ作家を志します。信子は山田嘉吉・わか夫妻の「語学塾」「読書会」に参加して『青踏』のメンバーたちと交流を始めます。兄・忠明が外国に旅立つと東京四谷のバプテスト女子学寮に入り、近くの教会に通って婦人問題に関心を深めます。日曜学校の手伝いとして子ども相手に話した童話を集めた『赤い夢』を幼年雑誌「良友」に送り採用されてから、「良友」「幼年世界」に寄稿を続けて原稿料を得るようになります。20歳で「少女画報」編集部に送った「鈴蘭」が採用され『花物語』の10年に渡る連載の開始、女学生から圧倒的な支持を受ける人気作家となります。神田の基督教女子青年会(YWCA)の寄宿舎に移り、津田塾や女子美術の学生たちの人脈を広げる中、父が逝去。信子は父の喪中に『屋根裏の二処女』を執筆、YMCAでの同性愛体験を基にしたで自らの同性愛体験を明かします。
「新しい女たちの世界」
大阪朝日新聞の懸賞小説の応募するため、信子は北海道に勤務する兄・忠明宅に3月間こもって「地の果てまで」を執筆、24歳で文壇デビュー。秘書として採用した、お茶の水大学数学科卒業の才媛・門馬千代と相思相愛となり、作家が集う下落合に新居を建設して同居を始めます。29歳のときに個人雑誌『黒薔薇』を刊行、女性の同性愛を正面から論じます。信子と千代は多額の印税をもとに2人で神戸港から満州、ソ連、ドイツを経由して一年近くフランスのパリに滞在、さらにアメリカ経由で帰国します。40歳で『良人の貞操』で男性の貞操ならびにジェンダーをめぐって大反響、映画・舞台でもブームを巻き起こします。戦時中には『主婦之友』特派員として中国から、「ペン部隊」女性役員としてインドネシア・ヴェトナム・タイなどから、従軍ルポルタージュを発表。並行して東京日日新聞・大阪毎日新聞に連載小説『女の教室』を執筆、戦争を介して古い男たちの世界を乗り越え、新しい女たちの世界を実現する様子を描きます。戦後は自然豊かな鎌倉に新居を建てて門野千代と晩年を共に暮らしながら、『徳川の夫人たち』『女人平家』など女性史を題材とした長編時代小説を執筆。77歳で死去します。
-吉屋信子記念館 Nobuko Yoshiya memorial Museum
「次の世には虫になってもいい。明るい目をもらって生きたい。」
``I don't mind turning into a worm in the next life. I want to live with bright eyes.”
小林 ハル 女史
Ms. Hru Kobayashi
1900 - 2005
新潟県三条市三貫地新田(当時の南蒲原郡井栗村三貫地) 生誕
Born in Sanjyo-city, Niigata-ken
小林 ハル 女史は、最後の長岡瞽女。5歳から瞽女修行を初めて、73歳で廃業するまで、新潟県全域と山形県の米沢・小国地方、福島県南会津地方を巡業してまわります。無形文化財「瞽女唄」の保持者に認定。黄綬褒章を授与。
Ms. Haru Kobayashi is the last Nagaoka Goze. She began training as a Goze at the age of 5, and toured throughout Niigata Prefecture, the Yonezawa and Oguni regions of Yamagata Prefecture, and the Minamiaizu region of Fukushima Prefecture until she retired at the age of 73. Recognized as the holder of the intangible cultural property "Goze-uta". Awarded the Medal with Yellow Ribbon.
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「寝間に閉じ込められた良い子」
ハルは26件軒しかない小さな村の農家に生まれます。両親は田畑をたくさん所有する庄屋で小作人と使用人を抱え、船大工をする親戚は村の区長を務めます。生後3か月の時に白内障を患い両目の視力を失い、2歳で父親が逝去、喘息持ちの母親は大叔父と同居します。「お前は良い子だから寝間でおとなしくしているんだぞ。ハルと呼ばれなかったら声を出すんでないよ。」と言い聞かせられ、家の一番奥の寝間に閉じ込められ、年の離れた兄姉たちはハルを相手にしてくれず、家の者はどこへも連れて行ってくれません。祭りの太鼓の音が聞こえても、子供のお遊ぶ声が聞こえても、ハルは言いつけを守って寝間で大人しくしています。
「瞽女に弟子入り」
やがて、瞽女宿をしていたハルの家族は、村を訪れる瞽女・樋口フジのもとへハルを弟子入りさせる段取りをつけます。5歳のハルは母親から礼儀作法や編み物、縫い物、着物の着方や風呂敷を使った荷造りの仕方、荷物の持ち運び方などを厳しく仕込まれます。7歳になると、瞽女・樋口フジから自宅で唄と三味線を習います。朝8時から11時まで、昼1時から4時まで、フジが後ろからおんぶする様にハルの指をしっかり押さえながら「岡崎女郎衆~岡崎女郎衆は良い女」と歌いながら3日かけて三味線を覚えます。歌の意味が分からないまま夢中で習います。「松がつらいとおおみなおしゃんすけど しのぶ松よな楽しみに せめて松よ二葉の松よ 中に小松と思えども ああそれそれそうじゃいな」12月の1か月間は朝晩の寒稽古が加わります。朝5時から7時までと夜6時から11時まで、さらしの下着1枚に赤い木綿の腰巻をつけ、ネル生地の単衣とカッパを着て、素足に草鞋を履いて、家の前を流れる信濃川の土手に上って、雪の中で杖につかまって唄います。「黒髪のむすぶ おれいたる想いには とけて寝る夜の枕とて 一人寝る夜のあだ枕 夕べの夢の今朝覚めて ゆかしなつかしやるせなさ 積もるとしらで 積もる白雪」
「厳しい子弟律」
9歳になったハルは、母親と一緒に着物を着て子ども三味線を担いで杖をついて歩く稽古を始めます。表に出て村の子供たちと遊びます。「小鳥の鳴き声がいっぱいする」「空気がうまい」「表に出るのはいいもんだ」秋には、師匠の樋口フジと姉弟子のコイ25歳ならびにクニ21歳とともに初めて巡業に出ます。片目の見えるクニの手引きで列をなして村々で門付けをして回ります。道中も唄の稽古は途切れることなく続き、急な山坂を荷物を担いで登るときには一番難儀な唄を練習させられます。6月になると、八十里越と呼ばれる難所を越えて会津へ向かいます。両手で木や石につかまって這って歩き、はるか下でゴオゴオ川音のする橋を光明真言を唱えながら渡ります。会津は余り米が無いところで、師匠・フジの定宿では滅多にご飯は食べられず、芋やとうきびをもらったり、麻の糸揃えや蚕の葉もぎを手伝ってしのぎます。ご馳走に預かってもご飯とみそ汁と漬物以外のおかずに手を付けることを許されず、口答えをして杖で突き飛ばされたり、宿探しに失敗して独り村はずれの御堂で寝かされたり、師匠が教えない歌を歌って山中に置き去りにされたり、撥を踏んで三味線なしで町に立たされたり、師匠の教えられた通りに歌えないと手をついてあやまりあやまり、ハルは14歳で紙張りの二丁三味線と木の撥を許されます。
「長岡の瞽女組織」
まもなく姉弟子のコイならびにクニは嫁入り、師匠・フジは目の見えるキイと組んで、ハルは巡業から外されます。その年の長岡の瞽女屋敷での妙音講に参加したハルは、2階建ての大広間に360人の親方衆が勢揃いする中、大親方・山本ゴイの許可を得て、実家がお菓子屋を営む盲目のハツジサワに正式に弟子入りをします。15歳のハルは瞽女名「チヨノ」を授けられます。「本当の親子だと思って心を合わせて暮らせられればそれでいいんだわね」
目が少し見える9歳のハツイを手引きに、師匠・サワと巡業に出ます。米を出して宿泊したり按摩の仲間宿に止まったりしながら、昼は門付け、夜は宿屋・芸者屋・飲み屋・女郎屋を軒付けをして流して回ります。サワの馴染みの富豪宅では立派なお膳とお菓子をみんなで楽しみます。越後では瞽女は縁起がいいめでたいとされ何人でもまとめて泊めてくれ、米沢では子供連れで歌を聞きに来て夜になると女の年寄りだけが残って宴会が始まり瞽女を大事にしてくれます。
「革張りの三味線とべっ甲の撥」
やがて師匠・サワが体調を崩して寝込むようになり、18歳の時にサヨという男好きでろくに唄も歌えない目の見える瞽女と巡業を始めます。長岡組出身のサヨは、もと三条組出身のハルを下方下方と馬鹿にします。長岡組は男と酒の座に就いたり、男の盛る盃に口をつけることも許されず、三条組・白根組・新津組・新潟組の下方の組は金さえ出せば男を持つことも許されていました。旅中でハルはサヨに陰部を杖でめった刺しにされる暴行を受けても師匠に黙って唄い続けます。ハル22歳のときに師匠・サワが38歳で逝去。妹弟子で盲目のハナヨ12歳を抱えて途方に暮れるハルは、「親方無しのはみだし」「下方のあまり」と馬鹿にされる長岡の瞽女組織を出て、最初の師匠・フジの弟子で目の見えるキイに弟子入りをして巡業に出ます。まもなく23歳のハルは、師匠のキイから革張りの三味線とべっ甲の撥を許されます。
「搾取される親方」
34歳のハルは独立して親方になります。かつての師匠・サワの友人で盲目の瞽女・長谷川スギと組んで、盲目のハルエとシズエ、目の見えるテルヨならびにミドリの妹弟子を伴って巡業に出かけます。ところが、仲間宿としていたスギの夫の60歳近い按摩仲間らがテルヨとミドリをそそのかし妾にします。ミドリが他所に嫁入りしたのを見届けたハルはテルヨを養子として、按摩師・仙吉と正式に結婚させます。スギらと巡業に出ては、夫の按摩仲間にご飯炊きをするテルヨのもとに稼ぎを運びます。仙吉の元妻に家を明け渡すと、仙吉の按摩仲間らとともに女川に移ってスギらと巡業に励みます。39歳のハルはテルヨとの同居を諦め、長岡に戻って天理教の教会に身を寄せます。天理教信者の瞽女と巡業して稼ぎを女川に送ります。やがてアメリカ軍の空襲で大工町の瞽女屋敷が焼失。廃業を余儀なくされる瞽女が相次ぐ中、ハルは盲目の瞽女セツと目の見える少女キミを引き受け、相変わらず稼ぎを女川に運びます。59歳のハルは出湯の華法寺に身を寄せ、女川の仙吉と正式に縁を切り、セツと一緒に家と畑を借りてキミを養女にして楽しく暮らし始めます。やがて74歳のハルは『葛の葉子別れ』を唄い納めて三味線を置きます。「ものの哀れを尋ぬれば 芦屋道満白狐 変化に葛の葉子別れを 事細やかには読めねども 粗々読み上げ奉る」(『葛の葉子別れ』)
-『次の世は虫になっても : 最後の瞽女小林ハル口伝』(桐生清次 著/ 柏樹社1981年)
-瞽女唄ネットワーク
「花の活ける力の経験は私自身の第2の誕生と言ってもよいでしょう。」
"The experience of the power of flowers is my own second birth."
飯田 深雪 女史
Ms. Miyuki Iida
1903-2007
新潟県妙高市(旧 新井市) 生誕
Born in Myoko-city(Arai-city), Nigata-ken
飯田美雪女史は料理研究家ならびにアートフラワー創設者です。
Ms. Miyuki Iida is a culinary researcher and the founder of Art Flower.
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「花が友達」
美雪は平壌に病院を開く医者であり芸術に造詣が深く食道楽であった父の影響を受け、幼児より洋式の生活に親しみます。深雪の生母は埼玉県の下蕨(しもわらび)に300年続く豪族板倉家の出で深雪をお姫さまのように大切に育て、田舎の出ながら常上華族に見習いに勤めた深雪の継母は深雪に行儀見習いはじめ料理を教えます。深雪は旧家の大旦那である祖父についてまわって先々で和食・洋食のご馳走にあずかります。幼少期の深雪はお手伝いさんに見守られながら、古い屋敷の中で落ち椿をつないだり、木蓮の樹の下で実を集めたり、門外の菜の花道を歩いたりして、花を唯一の友達として育ちます。大きくなるとレストランのシェフに家庭出張してもらったり、この頃はじめて出版された西洋料理の本を手本に料理に熱中します。
「神経症」
やがて外交官の夫と結婚。アメリカ・イギリス・インドなどで暮らしながら、不幸な結婚により立ち上がれないような心の苦しみを抱きながらも、料理を研究したり造花を製作し始めます。まもなく敗戦、深雪は廃墟と化した東京の家の焼け跡に呆然と立ち尽くします。戦後の混乱で財産を失ってバラック小屋生活を始める深雪は、ある日、神経症に苦しみながらビロード生地で赤いけしの花をつくります。幼い日を過ごした故郷の土蔵の傍らの木蓮、門外の野原で駆けめぐったスミレやタンポポ、ツクシやレンゲの花々、ロンドンの家で育てたラベンダーや木苺、ヒマラヤ奥地の雪の谷間からあでやかな紅の石楠花の大木が無数の花をくす玉の様に咲かせる壮観な姿を思い浮かべながら、黙々と布で花を作り続けるうちに花の生きる力と希望を取り戻します。
「アートフラワー」
深雪は海外の文化経験を活かして料理や菓子を復興局へ売って生計を立てます。続いて知人の子女等を対象に自宅から西洋料理教室とアートフラワー教室を開きます。評判になると戦後NHKテレビ「今日の料理」に草創期から講師として出演。日本における西洋料理の普及に力を尽くします。アートフラワーは、絹や木綿などの布を染めこてを使ってつくりあげる柔らかくて優しい花で、各国元首夫人を魅了します。イギリスエリザベス女王2世来日の際に迎賓館内の国賓御私室をアートフラワーで装飾、モナコのグレース王妃から招待されモナコ国営展示場で大規模な展覧会を開催。フランス大統領からレジオン・ドヌール勲章シュバリエを授与されます。100歳を超えても精力的に料理やマナーなどの講演を続けます。
-深雪アートフラワー Miyuki Art Flower
-『偽らざる心の歩み』(飯田 深雪 著 海竜社1981年)
山本 ごい 女史
Ms. Goi Yamamoto
1700頃 - ?
新潟県長岡市 生誕
Born in Nagaoka-city, Niigata-ken
山本ごい女史は長岡地方の瞽女頭となって、格式と規律を重んじる瞽女集団を統率、江戸から明治にかけての長岡瞽女の繁栄の基礎を築きました。
Ms. Gozen Yamamoto became the leader of the blind female performers in the Nagaoka region, guiding a group of blind performers who upheld formality and discipline. She laid the foundation for the prosperity of blind female performers in Nagaoka during the transition from the Edo period to the Meiji era.
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山本ごいは長岡藩主・牧野氏の息女、照姫として生まれます。生まれつき目が不自由だったため、生まれを隠して家老の山本家へ養女に出されます。成長したのちに牧野家から土地と扶持米を給せられて長岡の柳原町へ分家、牧野家ゆかりの地域の古志・三島・刈羽・魚沼・頸城五郡内などの瞽女頭となって格式と規律を重んじる瞽女集団を統率していきます。通称を「山本ゴイ」と定め、その後の代々の山本ゴイは長岡系の多数の瞽女の中から、全盲で品行端正の老齢者が選ばれ受け継がれます。「山本ゴイ」を頂点に親方資格を得た師匠が自宅で弟子を取るという、茶道や華道に見られる家元制度をが作り上げられます。瞽女の弟子入り修業は年期制で二十一年、男子禁制・化粧またおしゃれ厳禁・年功序列などの制約また掟があり、違反すると年期を戻されたり仲間から外されます。説経系・祭文系・心中物・情事物・滑稽物・風刺物・唱導物・義太夫・長唄・端唄・常磐津・清元・新内・各種のはやり唄・民謡・万歳・門付け唄など、お客に所望されて何でも歌えるよう師匠から厳しく唄の稽古をつけられます。瞽女の主な稼業は「門付け」で、目明きの手引きに先導され列をなして村々町々を渡り歩き、昼は民家の戸口戸口に立って唄を歌って米銭を乞い、夜は泊まり宿で近所の人たちを相手に好みの唄を披露して代償を得ます。瞽女の巡業地また瞽女宿は先祖師匠から開拓された数十年来の縁故をもち、甲信の一部から関東一円・東北の福島・山形・秋田・宮城まで及びます。特に農村地方では瞽女に対する民間信仰が篤く、瞽女は安産・子育て・治病・生業増産の信仰の対象として大切にもてなされます。瞽女は人々に・綿の種に・麦の種に・蚕棚の蚕に向かって唄い、もてなす人々は瞽女のもらい集めた米を煮て食べたり、瞽女の着物をもらって着たり、瞽女の使い古した三味線糸を結びつけてお守りにしたり、薬にして飲んだりします。
-新潟県立歴史博物館 Niigata History Museum
-新潟日報 Niigata News
「新しい東京を建設する者は吾等である。家や街が新しいばかりでなく其処に住む人の心が新しくありたい。今流行語の新しい人でなく真の新しい人、新しい溌剌たる精神に充たされた人。永遠より永遠にいますキリストを内に持つ人。」
"We are the ones who will build a new Tokyo. We want not only new homes and new towns, but also new hearts for the people who live there. Not just new people as a trendy term, but truly new people, with a new and lively spirit. The one who has Christ in him from eternity to eternity.”
高橋 久野 女史
1871 - 1944
新潟県佐渡市 生誕
Born in Sado-city, Nigata-ken
高橋久野女史は日本初の女性牧師。佐渡教会・青山教会・足洗教会にて献身的に伝道に従事する一方、東京の青山女学校・台湾の淡水高等女学校の教壇に立って女子教育に生涯を捧げました。
Ms. Kuno Takahashi is Japan's first female pastor. While devoting herself to evangelism at Sado Church, Aoyama Church, and Senzoku Church, she also taught at Aoyama Girls' School in Tokyo and Tamsui Girls' High School in Taiwan, dedicating her life to the education of girls.
「米騒動」
久野は佐渡河原田造り酒屋を郵便局を経営する裕福な家系に生まれます。幼少のころから寺の住職から手習いを受け、分家の漢学者・高橋又二郎と婚約します。又二郎のすすめで上京した久野は明治女学校と東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学の前身)で学びます。度々帰郷して富士見町教会に通うようになっていた久野は、米騒動で実家また親戚の家が五千人もの人々に襲われるのに遭遇します。兄・元吉は町長や県会議員を勤め、甥・又三郎は自由民権運動に従事していました。卒業して帰郷した久野は富士見町教会の牧師・植村正久より洗礼を受けます。河原田小学校で教職についた久野は復二郎と結婚生活を始めますが、まもなく夫は急逝してしまいます。
「伝道」
号泣して2年を過ごした久野は再度上京して、青山学院女子部の国語教師を務めながら、夏季休暇には郷里の富士見町教会で日曜学校・礼拝を献身的に手伝い、青山教会や洗足教会の設立に貢献します。40歳を過ぎると、植村正久が起こした牧師養成学校・東京神学社(東京神学大学の前身)へ入学。
2年の研鑽の末に富士見町の伝道師に就任します。良家の子女の家庭教師をして生計を立てながら、婦人伝道会を設立して黒い和服に身を包んで家庭訪問・病人の見舞などの奉仕を行い、台湾・満州・米国西海岸の伝道に赴きます。 関東大震災の翌年、久野は53歳で日本基督教会の教師試検に臨みます。
「キリストを内に持つ人」
久野は「婦人の正しき権利と位置はキリスト教においてのみ認めらる」と論じ、「新しい東京を建設する者は吾等である。家や街が新しいばかりでなく其処に住む人の心が新しくありたい。今流行語の新しい人でなく真の新しい人、新しい溌剌たる精神に充たされた人。永遠より永遠にいますキリストを内に持つ人。」と説教します。女性伝道師となった久野は富士見町教会・洗足教会での伝道活動に熱心に取り組み、62歳で佐渡伝道教会の主任伝道師として按手礼を受けて日本初の女性牧師となります。島中の農村をくまなく駆け巡り伝道に献身した久野は70歳で牧師を辞任、戦時下の台湾台北で伝道活動に苦心する養子・恭次郎のもとに赴いて淡水高等女学校で教壇に立ち続けます。
-お茶の水女子大学
-東京神学大学
-日本基督教団佐渡教会
-日本基督教団洗足教会
-青山教会
-青山学院
-私立淡水高等女學校 - 臺灣記憶- 國家圖書館
富山県 Toyama-Ken
「お年寄りも障害者も誰も排除しない」
"Nobody excludes the elderly or people with disabilities."
惣万 佳代子 女史
Ms. Kayoko Soman
1951 -
富山県黒部市生地町 生誕
Born in Kurobe-city, Toyama-ken
惣万佳代子女史は日本で初めて、高齢者・障がい者・児乳児が一緒に過ごす共生型福祉施設を開設。今では市民はじめ行政の賛同を得て「富山型デイサービス」と呼ばれ全国に展開しています。
Ms. Sayoko Soman established Japan's first inclusive welfare facility where the elderly, people with disabilities, and young children can spend time together. This model of care, known as the "Toyama-style Day Service," has gained support from both citizens and local authorities and has expanded nationwide.
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「畳の上で死にたい」
佳代子は富山県黒部市生地町に生まれ、富山赤十字高等看護学院を卒業後、富山赤十字病院に看護師として20年勤務します。内科病棟、小児病棟、内科病棟で息を引き取る患者を何人も看ます。患者は人工呼吸器などいろんな機械に管理され、医師や看護師、家族までも心電図ばかりを見ているという不自然な光景に疑問を持つようになります。「これでいいのか。」入院患者は佳代子に泣いて訴えます。「自分の家ながにどうして帰れんがけえ。畳の上で死にたいと言うとるがに」一方、佳代子の母親は半年間の余命宣告を受けながら自宅の居間にベッドを置いて、孫たちに囲まれながら15年間一緒に暮らしました。
「地域の人を応援しよう」
1993年富山赤十字病院を退職した佳代子は、同僚に声をかけて看護師3人でデイケアサービスの開設に向けて準備を始めます。「小さい頃は、地域にはちょっと違った人、いわゆる知的障害者とか、困った婆ちゃんもいて、近所の人たちも自然に付き合っていた。」「治療を目的とする病院では死は「敗北」でも、生活の場からみたら、老人の死は自然のことではないだろうか。」いつの間にか失われつつあるそうした地域の風景を取り戻すように、高齢者だけでなく子どもや障がい者などの誰もが利用できる施設を目指します。「そうだ、地域の人を応援しよう」。
「このゆびとーまれ」
早速、設立資金準備段階で壁にぶつかります。行政の補助金を申請すると「高齢者か子どもか障がい者か、どれかに絞らないと補助金の対象にならない。」銀行に融資を申し出ると「病院を退職しているので融資はできない。」そんな中、事業に賛同する商工会議所の後押しで国民金融公庫から資金を借り、佳代子たち3人の退職金の一部をつぎ込んで、富山県で初めての民営デイケア ハウス「このゆびとーまれ」開設にこぎつけます。1日の利用料は2500円(食事込み3000円)。まわりの特別養護老人ホームの約5倍。最初の申し込みの電話が入ります。重い障がいをもった3才児の母親で、「この子が生まれてから一度も美容院に行ったこと がない。今日、パーマをかけてきます」
「このゆびとーまれ」2
利用者の少ない日々が続く中、富山県内はじめ全国から寄せられた寄付金で運営をまかないます。1998年NPO法成立を受け、「このゆびとーまれ」も富山県ではじめてのNPO法人認証を受けます。マスコミにも取り上げられ注目される中、富山県から全国で初めて高齢者と障がい者の壁を打ち破って年間360万円の補助金交付を受けます。2000年介護保険制度が施行すると、NPO法人「このゆびとーまれ」も介護保険制度の指定業者になり、1日の利用料1300円程度(食事・入浴・送迎込み)を実現、利用者は徐々に増えます。或る日、町内会から一人暮らしの認知症のお年寄りを「施設に入れて欲しい。困っている。」お年寄りが地域で一人暮らしができるように佳代子たちが支援をはじめると、地域住民も送迎のための道を除草また除雪するなど手伝い始めます。「やがて、おら達も体が弱ってもずーっと家でねばるちゃ。」
「はたらくわ」
2006年障害者自立支援法の施工後に開所した就労継続支援B型「はたらくわ」は福祉推進特区として認められ、全員が他のデイサービス施設で働いています。B型就労の工賃(給料)の全国平均は月に平均1万6,500程度のところ、はたらくわの工賃(給料)は月に4万~4万5,000円。「障害年金と合わせて自立できる額」「作業のための作業でなく、日常生活に役立つ仕事」を確保するために佳代子らは模索しながら奔走します。2015年、佳代子は赤十字国際委員会よりフローレンス・ナイチンゲール記章を受章します。
老人たちは「この子達といると気が晴れる」「子どもに見られていると思うと、背筋を伸ばし、 シャンとして歩く」。子供たちはたくさんのお年寄りの死を怖がらずに見送り、施設で働く障がいをもつお兄ちゃん・お姉ちゃんたちと遊び、迎えに来た保護者たちは「将来こんなふうに働いて役に立てたらいいね」と子どもに語りかけます。
-デイサービスこのゆびとーまれ Konoyubitomare-Daycare Service
-富山型デイサービス -Toyama-Daycare Service
「私が尊敬する人は、ガンジーとタゴール、親友はネールと李徳全女史」
``The people I respect are Gandhi and Tagore, and my best friends are Nehru and Ms. Lee Dek-quan.''
高良(旧姓:和田) とみ 女史
Ms. Tomi Kora / Wada
1896 - 1993
富山県高岡市桜馬場 生誕
Born in Takaoka-city, Toyama-ken
高良(旧姓:和田)とみ女史は日本ならびにアジアの平和運動の先駆者。心理学研究者・平和運動家・戦後初の女性国会議員として、女性解放と平和運動を実践しながら、日本・アメリカ・インド・ソ連・中国はじめ世界にのびやかに多彩な活動と交友の輪を広げました。
Ms. Tomi Kora (maiden name: Wada) is Pioneer of the peace movement in Japan and Asia. As a psychology researcher, peace activist, and the first female member of the Diet after the war, while practicing women's liberation and the peace movement, she freely expanded her circle of diverse activities and friendships throughout the world, including Japan, the United States, India, the Soviet Union, and China.
「英語の武器」
北陸有数の桜の名所を有する桜馬場に、とみはアメリカ帰りの土木技師官僚である父・和田義睦と、婦人運動家である母・邦子の長女として誕生します。父の転勤に伴って宮崎・新潟・東京・群馬・兵庫など転居を繰り返しながら誰とでもすぐに友達になれる溌溂さを身に付けます。県立第一神戸高等女学校(後の兵庫県立神戸高等学校)に入学すると、神戸教会で洗礼を受けます。「世界中どこへ行っても世の中がどんなに変わろうとも役に立つ」と母に助言され日本女子大英文科に進学します。勉学に励む中で、とみは一生を決定づける出来事に遭遇します。はじめにコロンビア大学で心理学Ph.Dを取得した原口鶴子の葬儀に参加して、アメリカで心理学を学ぼうと決意します。続いて、軽井沢での夏季修養会に参加して成瀬仁蔵校長が招待したラビンドラナート・タゴールの説く平和活動を志します。
「飢餓と戦争」
アメリカに留学したとみは原口鶴子の博士学位論文「心的疲労」を指導したコロンビア大学ソーンダイク教授(E. L. Thorndike)のもとで心理学の基礎を学んで修士号を取得すると、飢餓と戦争の関係を研究するためにジョンズ・ホプキンズ大学のリクタ ー(P. Richter)教授のもとで実験を重ねて博士論文 "An experimental study of hunger in its relation to activity(飢餓状態の体と心理の活動についての実験的研究)" を書きあげph.D博士号を取得します。とみは旅行先のヨーロッパで、婦人国際平和自由連盟大会に出席して女女性平和運動家であるジェーン・アダムズたちと交流を深め、第一次世界大戦後のウィーンの飢餓と貧苦の姿について日本の雑誌また新聞に記事を寄せます。
「女性平和運動」
帰国後、とみは九州帝国大学医学部精神科に帝国大学発の女性教員(助手)に着任。4年ほどで助教授に推薦されると東京大学教授・美濃部達吉の強硬な反対にあい、母校・日本女子大学家政学部の教授に就任。15年にわたって女子教育に従事します。戦時色が強くなる中、とみは女性の自立による平和をめざして女性平和運動家ジェーン・アダムズの来日講演に奔走したり、日本の婦人参政権獲得運動に参加、インドならびに中国の婦人平和会議の実現に奔走します。さらに、非暴力による和解と平和の実現を目指して新渡戸稲造が設立した日本友和会に参加すると、上海で魯迅と会談、インドのダゴールとマハトマ・ガンジーを訪問して日本と中国での平和講演を依頼、ダゴールの来日公演を手配します。
「鉄のカーテンと竹のカーテン」
日中戦争が勃発すると、とみは夫で精神科医の高良武久また3人の娘にさえも恐ろしいほど暗く不機嫌になって、銃後を守るべく戦争協力に転じます。やがてとみは大政翼賛会を離脱、母校の教授職を辞任、良心的兵役拒否「石賀事件」で憲兵隊本部で連日の尋問を受け、疎開先の家を憲兵隊に没収されて敗戦を迎えると、平和活動を再開。呉市の非公式市長助役として占領軍との折衝はじめ復興予算獲得に活躍。翌年には参議院に当選して、日米安全保障条約に反対票を投じます。インド・ネルー首相に招待されて世界宗教者平和会議に出席、ローマ法王に面会して戦犯の減刑を請願、国交成立前のソ連に渡って国際経済会議に日本代表として参加・シベリア日本人捕虜と面会、国交回復前の中国に渡って日中民間貿易協定を締結・在華邦人の帰国交渉を牽引。日本婦人団体連合会を結成させて副会長に就任したとみは、12年の議員生活を終えてもなお世界各地の平和会議に精力的に参加してまわります。
-「非戦を生きる 高良とみ自伝」(高良とみ 著 / ドメス出版1983年)
-日本女子大学成瀬記念館
-日本友和会
-日本婦人団体連合会(婦団連)
石川県 Ishikawa-Ken
天野 文堂 女史
Ms. Tnnobundo
1896 - 1952
石川県輪島市 生誕
Born in Wazima-city, Iashikawa-ken
「男ができることを女ができないことはない」
"There is nothing that a man can do that a woman cannot do."
天野文堂(本名 住谷わかの)女史は情熱と技術の鍛錬によって女性で初めて沈金の彫りの道を切り拓いた、日本女性初の輪島漆芸作家です。優れた画技と雅趣あふれる沈金の作風で、輪島漆芸女性作家として初めて日展の特選を受賞。
Ms. Amano Bundo (Wakano Sumiya) is a pioneering figure in Japan as the first female artist to venture into the art of sunken gold carving through a combination of passion and skill. She was a renowned Wajima lacquer artist. With her exceptional painting technique and the elegant style of sunken gold carving, she became the first female Wajima lacquer artist to receive the prestigious award at the Nitten Exhibition."
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「女はノミを持つな」 わかのは輪島女児尋常高等学校を卒業後、男性が絶対的優位性をもっていた輪島漆器界に入って、沈金師・坂上藤太郎のもとに弟子入りします。輪島塗は分業制で、木地職人、下地職人、塗師と、多数の職人の手を経て作られ、漆を塗っては研ぐ作業を繰り返すことで、漆特有のつやが出て、美しい輪島塗ができあがります。輪島塗は下地が厚く、器の表面に沈金ノミで絵柄を彫り込み、溝となった部分に漆を接着材として塗り重ね、金箔や金銀粉また色粉を沈めて、模様を描き出す「沈金」が発達します。当時、沈金の世界では女の仕事は箔置きと決まっていましたが、わかのは彫りを望み、女性には創造性が無いという封建的慣習を打ち破って1年後には師匠からのみを持つことを許されます。「新境地」 親方が死去すると、日本画を学んだ雅趣あふれる沈金の作風で知られる、藤井観文の門弟となります。彫りの技術をみとめられて最初からのみを持たせてもらいます。6年間修業を積み、年季が開ける3年後に、蒔絵師・天野三郎と結婚。師匠観文の厳しい指導と夫三郎の温かい理解のもと、沈金と蒔絵の技術の総合化を試み新境地を開きます。家庭や出産・育児の役割分担を一方的に負わされる制度的制約を打ち破って、わかのは師匠から「文堂」号をもらい、28歳のとき輪島漆器業界で女性としてはじめて弟子をとります。35歳のとき帝展初入選以来入選を重ね、戦後は日展で活躍、特選を受賞します。
-石川県輪島漆芸美術館 Wajima Museum Urshi Art
「意識せぬうちに男性の中に女性の人格への軽蔑また無関心がもぐり込んでいる。女性自身の消極的女性蔑視の醸す害毒は人々の持てるよきものをも窒息させて尚余ある。」
"Unbeknownst, contempt or indifference toward the feminine personality has subtly infiltrated within the male consciousness. The toxic effects stemming from passive denigration of women stifle the inherent goodness that people possess for even more harm to flourish."
高橋 文 女史
Ms. Fumi Takahashi
1901 - 1945
石川県かほく市木津 生誕
Born in Kahoku-city, Ishikawa-ken
高橋 文 女史は日本女性初の哲学者です。戦争による国家主義・民族主義が高まる中、叔父の哲学者・西田幾多郎の影響のもと日本とドイツの相互理解に努めながら、個人の人格レベルでの男女不平等観について研究しました。
Ms. Fumi Takahashi is the first female philosopher in Japan. Amidst the rise of nationalism and militarism due to the war, influenced by her uncle, the philosopher Ikutaro Nishida, she dedicated herself to promoting mutual understanding between Japan and Germany. Simultaneously, she conducted research on gender inequality at the individual level.
「結婚よりも勉強」
ふみは6人きょうだいの真ん中に生まれ、幼いころから「私は木津の学校から金沢の学校に行き、東京の学校へ行き、それから外国の学校に行く」と宣言します。父・由太郎は織物業・羽二重工場を営み村長を務めるなど裕福な名士で、母親・すみは「善の研究」などで知られる哲学者・西田幾多郎の妹。ふみは良家の娘として地元の尋常高等小学校を卒業すると、当時石川県内唯一の公立高等女学校であった金沢第一高等女学校に入学。なりふり構わないさっぱりした性格で、思ったことは何でもずけずけ言う男勝りぶりで強烈な印象を残しながら、百数十人いた卒業生の中で唯一女子大に進学します。とはいうものの、父親はすでに逝去しており、花嫁修業を求める母をふみは半年かけて説得。「女は結婚しても苦労するし勉強を続けるのもそれ以上に厳しい。同じ苦労をするのなら勉強を続けたい。」と独身を通す決意を貫きます。
「男尊女卑」
ふみは横須賀の姉宅に身を寄せ受験勉強に励み、設立2年目の東京女子大学高等学部へ入学を果たします。ふみははじめ国文学科に所属するも叔父・幾太郎を度々訪ね薫陶を受けると、母校に哲学科を創設させます。さらに25歳のふみは叔父・幾太郎のすすめで、唯一女性に哲学の門戸を開く東北大学法文学部・哲学倫理学科に進学します。母性保護論争に始まる女性の労働問題また教育問題について活発に議論が交わされる中、ふみは東北帝国大学を卒業すると宮城県立女子師範学校の嘱託講師を2年間務めるも再び上京。羽仁もと子が創立した自由学園の国語教師として教壇に立ちます。5年間勤める中で、ふみは男女共学を推進する座談会に熱心に参加します。「女性と男性の精神構造の中に「男尊女卑」という考え方が存在する。」
「東西の男女不平等観」
35歳のふみは日本を離れドイツへ向かい、ベルリン大学とフライブルク大学で倫理・哲学を学びます。ふみはハイデッガーのゼミに参加、最新の哲学・現象学を見出し実存主義の息吹を吸収します。ナチス統治下のドイツで、ふみはベルリンオリンピックで日章旗を仰ぎながら涙したり、下宿の婦人はじめ大学のゼミ仲間と様々なトピックについて熱心に討論します。日本でもドイツでも民族意識・国家意識が高揚する中で、ふみは叔父の著作を紹介してまわりながらも、ドイツと日本の文化・習慣の違いからくる個人の行動また感情の落差について、また夫婦の在り方・男女関係のありかたの著しい相違について論争してまわります。「何でもいいからドイツ文化を吸収したいが時間が足りない。人が公に話さないことについて知りたい。」
「アメリカの自由主義」
「日本の立場を正義化することはなかなか難しい。」ふみは叔父に手紙を送る一方、「叔父は学者としては偉いのかもしれないが、家庭をすっかり不幸に陥れている、人間としてはなっていない」日本人の男性の友人の前で叔父を批判すると逆に叱責されます。「そういう批評は女性的な角度からの批評で大きな眼でみなければ駄目だ。」ナチスによるズデーデン併合・ポーランド侵攻と世界情勢が切迫するなか、結核を患ったふみは3年半後に引き揚げ船で帰国します。東京の診療所に入院しながら、叔父の著書『真善美の合一点』と『形而上學的見地より見た東西古代の文化形態』をドイツ語翻訳します。やがて郷里で療養しながら希望者に叔父の『日本文化の問題』を講義します。ドイツの敗戦を聞いたふみは「ドイツはもうだめだ。元気になったらアメリカへ行こう」と家族友人に語り44歳で逝去します。
福井県 Fukui-Ken
「鍛冶屋の長女」
むめおは裕福な鍛冶屋の長女として生まれます。低賃金と長時間労働で苦しむ機織り工場で働く女工たちがあふれる町で、むめおは教育熱心な父・和田甚三郎のもと『青鞜』創刊号はじめたくさんの本を与えられ、福井師範附属小学校、県立高等女学校、日本女子大学へ進学します。母・はまは封建的な家族制度のもとで忍従しながら生きた日本の伝統的な母親で、学問が無くとも家業を助け、使用人の世話をし、7人の子どもを産んで33歳の若さで早世します。むめおも幼少期から朝暗いうちから夜遅くまで使用人とともに家事労働に従事します。女子大では図書館で哲学書を読みふけり、寮生活で料理の腕を上げて先輩・小橋三四子の『婦人週報』の料理記事担当として手伝います。
「賃金奴隷からの解放」
卒業後のむめおは、鎌倉で豪農の娘の家庭教師の仕事に就きながらお寺で座禅体験三昧。東京へ戻ったむめおは、無政府主義や労働問題、哲学や人芸術論などの学習会に参加。むめおは郷里で挨拶を交わしていた女工たちに深い関心を寄せるようになり、『労働世界』の記者として横浜の富士瓦斯紡績工場への潜入。幼い少女たちが大きな機械にひきづられて立居眠りしながら徹夜で作業する様子などを発表して、「賃金奴隷」である労働・職業婦人の解放を訴えはじめます。24歳で詩人・奥栄一と結婚。翌年、同窓生である平塚らいてう、市川房枝、坂本真琴らと婦人団体・新婦人協会を設立。平塚と市川が運動から離れた後も、機関誌『女性同盟』の編集を引き継ぎ、子連れで国会議員に対する請願運動を継続。男子同様女子が政治集会に参加する自由と権利、ならびに花柳病男子は全治するまで結婚を禁止する法律を実現します。
「家庭奴隷からの解放」
離婚をして母子家庭となったむめおは、政治活動に参加する暇もゆとりもない忙しく貧しい主婦たちに関心を寄せるようになります。「家庭奴隷」である無産家庭婦の開放を目指し、消費生活協同組合の新居格や産業組合の千石興太郎から消費組合運動などについて学びはじめます。28歳のとき「職業婦人社」をあらたに旗揚げ、雑誌『職業婦人』(後に『婦人と労働』『婦人運動』と改題)を発刊。女性が自由に社会活動また社会形成に参画できるように、家庭生活・消費生活の合理化・共同化のための最新情報をかみ砕いて紹介します。都市中間層の中産階級から地方の一般無産階級の女性まで、女性運動の羅針盤また購読者同士の交流のよりどころになります。続いて「婦人消責組合協会」を立ち上げ、今まで婦人運動でなおざりにされてきた家庭婦人の日常の問題、物価値下げ、不正商品の摘発、児童福祉、母性保護、学校教育の改善、税制改革、社会的福利施設の増設などの解決を目指します。
「働く婦人の家」
戦時下の勤労奉仕として女性たちが農村へ工場へ社会事業施設へ加わっていく中、むめおは託児所兼集会所『婦人セツルメント』(後の『働く婦人の家』)を設立。託児保育、こどもの健康指導、婦人の性教育・妊娠調節・授産指導、夜間女学部での家政はじめ学問また芸術講義、資格・職業斡旋、物資の共同購入、共同炊事・洗濯、懇親会、少年少女会、などの社会事業を全国展開します。勤労婦人たちの連帯と憩いと社会学習の「家」となります。敗戦後、52歳のむめおは第1回参議院議員通常選挙に出馬して当選。消費者のための省庁・「生活省」の設置を目指して3期18年務めます。議員活動の傍ら新団体「主婦連合会」の会長に就任。エプロン(割烹着)としゃもじを旗印に、不良品追放や『主婦の店』選定運動を全国展開。消費者・婦人運動を終生指導し続けます。
-『新女性の道』(奥むめお 著 / 金鈴社1942年)
-『野火あかあかと : 奥むめお自伝』(奥むめお 著 / ドメス出版1988年)
-主婦連合会 Association of Consumer Organizations
山梨県 Yamanashi-Ken
小川 正子 女史
Ms. Masako Ogawa
1902 - 1932
山梨県東山梨郡笛吹市春日居村 生誕
Born in higahiyamanshi-city, Yamanashi-ken
「梅雨の洗った空気の様に、幾百の幾千の病者が流す涙、血族が流す忍苦の流涙の幾十年。それがすつかりと拭はれて、はればれとした日の、その日の夕映えの色が想はれてならなかった。」
"Like the air washed by the rainy season, the tears of hundreds, thousands of patients, the tears of blood relatives enduring pain for decades. All of that was completely wiped away, and the vivid colors of the evening sun on that day, on that day, were remembered."
小川正子女史は戦時下に国家事業である救癩事業の現場で活躍、女性として慈愛に満ちた手記『小島の春』を発表します。文部省の推薦図書に選ばれ、貞明皇后の「恩愛」の「代行者」とされ、長きにわたりブームならびに論争また闘争を巻き起こします。
Ms. Masako Ogawa played an active role on the frontlines of the state project during wartime, the leprosy relief program. As a woman, she published the compassionate memoir "Spring at Kojima." This work was selected as a recommended book by the Ministry of Education, positioned as a "proxy" for Empress Teimei's "benevolence and affection," sparking long-lasting trends as well as debates and struggles.
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正子は山梨県東山梨郡春日居村(現在の笛吹市)で製糸業を営む素封家の四女として生まれます。甲府高等女学校を卒業後、19歳で遠縁にあたる樋貝詮三(後の第3次吉田内閣の国務大臣・賠償庁長官)と結婚するもすぐに離婚します。22歳で東京女子医学専門学校に入学。病院見学で訪れた東京都東村市のハンセン病療養所の多摩全生病院で、ハンセン病研究の第一人者である光田健輔と出会い、ハンセン病患者救済を決意します。卒業後、光田健輔を訪問するも開業できる腕になるまで修行するよう促され、東京市立大久保病院などで内科と細菌学の臨床研究に従事します。まもなく国立ハンセン病療養所として瀬戸内長島に長島愛生園が設立され光田が初代園長に就任、30歳の正子は手荷物一つで押しかけ翌日から医務嘱託として勤務します。当時、医療最先端の現場は男性に独占される一方、救癩事業の現場では女性の慈愛に満ちた活躍を大いに求めらます。正子は地元の役人また巡査と一緒に精力的に瀬戸内の島々また四国の山あいの村々を巡ってハンセン病患者を収容、残された家族はじめ住民を啓蒙、検診の記録を残し続けます。36歳で結核を発病すると、島で闘病生活を送りながら、『小島の春 ある女医の手記』をまとめ上げます。園で診療のかたわら短歌を指導する医師・内田守の尽力により、長崎書店より出版されると著名人から文部省の推薦図書に選定され、翌々年には映画化されます。正子は印税をすべてハンセン病患者のために寄贈。40歳で郷里で療養に専念するも翌年死去します。
日本は光田健輔の先導で世界に先駆けてハンセン病患者を「絶対隔離」、患者は強制的に収容され強制労働を課せられ死ぬまで外に出られず、男性は輸精管を切断して生殖能力を奪われ(断種)、女性は強制的に中絶・堕胎されます。正子の小説は「無癩県運動」のプロパガンダだとして活発され、ハンセン病は恐ろしい病気として今直消えない偏見・差別を増幅、 残された家族は社会の偏見・差別から婚家から離縁され、就職先からは解雇され、世間の白眼視に耐えかねて夜逃げ・一家心中も頻繁に起きるようになります。皮膚科医師で文学者でもある太田正雄(木下杢太郎)は「らい病根絶の最上策は隔離ではなく化学的治療である。決して不可能ではない。『小島の春』を感傷時代の最後の記念作品として、感傷主義を終わりにしなければいけない。」と勇気ある発言をしています。1943年にアメリカで開発された治療薬プロミンが戦後から国内でも使用され始めると、患者たちはプロミンをすべての療養所の入所者が使えるように予算化を求め療養所の自治会の全国組織をつくります。日本は国際学会またWHOから解放治療・外来治療を何度も勧告され、1907年からハンセン病患者の絶対隔離を強制していた「らい予防法」は1996年にようやく廃止。正子の『小島の春』は、ハンセン病患者発の文学、明石海人『白描』、北條民雄『いのちの初夜』、藤本とし『地面の底がぬけたんです』、 塔和子『塔和子全詩集』、村越化石『村越化石自選八十句』、 中山秋夫『一代樹の四季』などと一緒に、偏見と闘争の遺産と記憶として語り継がれています。
-小川正子記念館 Masako Ogawa Memorial Museum
-国立療養所「長島愛生園」歴史館 The National Sanatorium Nagashima Aisei-en
「我を信じる者は我が如きことを成さん」
-『ヨハネによる福音書』14:12
"Truly, whoever believes in me will do the works I have been doing."
-"John 14:12, Gospel of John"
古屋 登世子女史
Ms. Toyoko Huruse
1880 - 1970
山梨県甲府市桜町
Born in Kohu-city, Yamanashi-ken
古屋登世子女史は、日本女性初の通訳で女子英語教育家。結城無二三の長女。山梨英和女学校から東洋英和女学校に転じ、1902(明治35)年に文部省中等教育検定英語に合格。1917(大正6)年大阪に古屋英学塾を創始。近親者の裏切りによる塾乗っ取り・精神病院収監を乗り越え、25年間の英育事業の間に、国賓の英語通訳をしたり、英語劇の舞台に立ったり、ラジオで英語講座を始めたりしながら女性の社会進出を引っ張ります。
Ms. Toyoko Furuya is the first female interpreter and a pioneer in English education for women in Japan. She was the eldest daughter of Ninzo Yuuki. She transferred from Yamanashi Eiwa Jogakuin to Toyo Eiwa Jogakuin, passing the Ministry of Education's English proficiency test in 1902 (Meiji 35). In 1917 (Taisho 6), she founded the Furuya English School in Osaka. Overcoming the takeover of the school and confinement in a mental hospital by close relatives, she led the way for women's social advancement throughout her 25-year English education career. During this time, she served as an English interpreter for state guests, performed in English plays, and even initiated radio English programs.
「新選組参謀長の娘」
登世子は3・4歳ころから分厚い大学の書を抱えて兄と一緒に寺小屋の漢学講義に通います。「天の命ずる~之を性と謂う~」昼間は先生について子守歌でも歌うように漢文を読み上げ、夜は二尺差しを構える母の横で声を張り上げ復習と予習を詰め込まれます。6歳から通い始めた村の小学校ではキリスト教を叩き込まれます。「神は天地の主催者にして、人は万物の霊長なり。」夜は父が話す古今の武勇伝に熱中します。9つになると、登世子は次々に子供を産み育てる母を手伝って流行りの編み物の内職をはじめます。登世子の両親は甲府で放牧を手飼いして牛乳屋を営みながらキリスト教に帰依、兄弟は宣教師の支援によって山梨英和学校・女学校ならびに東京の東洋英和学校・女学校に入学を許されます。
「白蓮と村岡花子の先生」
登世子は東洋英和女学校で厳格なピューリタン生活をしながら、寄宿舎で怪談話に興じたり、週末は兄と一緒に様々な著書を読み漁ります。卒業後、兄は国民新聞の記者に採用され、登世子は金沢市のミッションスクール、母校の東洋英和女学校、高知県立高等女学校で教鞭を執ります。教え子に若き日の白蓮・村岡花子が並びます。英国夫人矯風会ストラウト女史の通訳で東京・関西・九州を回るなど、充実した日々を送るも結核に伏します。医者からも見放される中、療養中に訪れた木曽福島の森の中で、私塾を開いて育英事業に余生を捧げようと決意。まだ英語熱の低い大阪天王寺の破れ工場を改修して「古屋女子英学塾」の看板を掲げます。外国人への日本語教授、雑誌への寄稿を運営費にあて、中学教頭を務める夫に家計を支えてもらいながら、英語の他のあらゆる科目を受け持ち、タイプライター、編み物、聖書、春の七草摘み、すき焼き実習など膝を交えながらの寺小屋英語塾から最初の6名を送り出します。
「日本初の女性通訳者を襲う悲劇」
まもなく登世子は大阪新聞社から依頼され、基金募集で来阪した熊本回春病院のミス・リデルの講演通訳を、さらに米国女流飛行家ルース・ロー夫人の同時通訳を依頼され阪神中を回ります。続いて大阪放送局といっしょにラジオの英語講座を全国に先駆けて開始。さらに坪内逍遥の高弟で気鋭の演出家・古川利隆氏を招いてシェイクスピアの講義・英語劇の指導を始めます。すると大阪でも英語教育が過熱、「古屋女子英学塾」は夜間部を設ける盛況ぶりに、登世子は無理が高じて入院します。それでも登世子は新校舎を建て、「雙葉英語会」を市内の各所に設立、教え子を教師に派遣します。ある日、歴史家グリフィス氏の夫人と会場に移動する走行中の車から転げ落ちた登世子は、仕事を全うできなかったことを恥じて通訳業を引退。再び結核はじめ内臓の病で倒れ闘病する中、夫が逝去。登世子は体に鞭打って、再び英国飛行家ブルース夫人の通訳はじめ英語塾での指導を始めます。その矢先、信頼する兄妹ならびに理事会のメンバーに「古屋女子英学塾」の財政を掌握され、登世子は大阪大学石橋分院精神に病室に強制収監されます。
「北京へ」
登世子は毎日薬を投与され朦朧としながらも、病院内外に味方を見つけます。精神病院を退院した登世子は、設立者変更届の不正な公正詔書・塾長交代の捏造文書ならびに証人を探し出し、大阪地方裁判所に契約無効と貯金通帳・校舎物件・学生名簿また成績表などの引き渡し請求の民事訴訟を提起します。日を経月を淳々と重ねた法廷尋問の末、和解朝調停により「古屋女子英学塾」を3年ぶりに取り戻します。登世子は丸髷をバッサリ切り、国際都市・神戸に進出、ガイド・通訳者養成の方向に転換を計ります。思わぬ人気を呼び、夜間は銀行会社員のためのビジネス会話、アメリカ日系2世のための日本語教室を開講するも、英語の先生が升で計れるほど増えてきた神戸を後にします。登世子は手に心に日章旗を振りかざし、北京へ飛び立ちます。
-『狂乱から復活へ』『苦闘10年』『女の肖像』古屋登世子 著
「正しい瞑想をして愛と平和の人になって。」
“Make sure you meditate properly and become a person of love and peace.”
相川圭子女史
Ms. Keiko Aikawa
1945 -
山梨県甲州市 生誕
Born in Kouhu-city, Yamanashi-ken
相川圭子女史はヨガ・瞑想指導の世界第一人者。女性で初めて究極の悟り(サマディ)に達した世界に2人の「ヒマラヤ大聖者」。「ヨグマタ(ヨガの母)」として、世界各都市で愛と平和の輪を広げる運動「ワールドピースキャンペーン」を推進中。
Ms. Keiko Aikawa is the world's leading yoga and meditation instructor. There are two Himalayan great saints in the world who are the first women to reach ultimate enlightenment (samadhi). As a ``Yogmata (mother of yoga),'' she is currently promoting the ``World Peace Campaign,'' a movement that expands the circle of love and peace in cities around the world.
「普通の女になりたくない」
圭子は7人兄弟の末っ子として生まれ、農家の母子家庭で育ちます。勉強好きで地元の工業高校に入学、就職しても辞めて大学に行き直します。「何者かになりたい。技術を身に付けたい。」まもなく結核にかかったことをきっかけに、踊りにヨガに体を動かすようになります。すると探究⼼に火がついて関節の動かし方や呼吸法のひとつひとつをほとんど独学で勉強。続いてボディーワーク・健康法・⾃然⾷・ヒーリング・心理学・精神分析などインド・チベット・中国・アメリカなどの道場で本格的な研究に取り組みます。
「真理を知りたい」
圭子はプラナディヨガ(ソフトヨガ)やヨガダンスなどを考案し「相川圭⼦総合ヨガ健康協会」を創設。評判が評判を呼んで、東京はじめ全国のNHK⽂化センター・読売⽇本テレビ⽂化センターなどでヨガの教室を開講また監修・指導を⾏い、本を書くようになります。やがてテレビの取材で来⽇したインドで最も⾼名なヨガ・瞑想の指導者パイロット・ババジに出会い、ヒマラヤ修⾏に招待されます。体を治すありとあらゆるテクニックを学んで柔道まで習おうとしていた圭子はヒマラヤ行きを決意します。
「サマディ」
圭子は⾼度5000mを超える氷河近くのヒマラヤの奥地で、伝説の⼤聖者・ハリババジのもと命を賭けた幾多の厳しい修⾏に挑みます。太陽・月・音・光などの修行を経て、瞑想秘法伝授(ディクシャ)を受けた圭子は、身体の動きや心理を一つずつチェックして研究するのではなくて、自分が愛を持つことで皆が癒される、究極の悟り(サマディ)にたどりつきます。さらに7年間ヒマラヤ秘境の洞窟でサマディを深め、完全に密閉された神聖な地下窟に72〜96時間とどまる公開サマディを毎年実