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Happy Women's Map

Happy Women's Map -Japan

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日本のヒロイン Japanese Heroines

私たちの歴史は色々な分野で色々なカタチで活躍する女性たちによって彩られています。Happy Women's Mapで全国の地域・社会・世界に貢献した女性たちをお祝いして広く対話を育みませんか?

Our history is coloured with many amazing women who have done special archivement in a particular field. This Happy Women's Map celebrates heroines who made significant contributions to region, society, and world.  

東京都 Tokyo-To

長谷川時雨 女史 / Ms. Shigeru Hasegawa

「女が女の肩を持たないでどうしますか!」

"Become a good ally for women. What if we don't?"


長谷川 時雨 女史

Ms. Shigure Hasegawa

1879 - 1941 

東京都中央区小伝馬町 生誕

Born in Kodenma-tyo, Chuo-ku, Tokyo-to


長谷川時雨女史は日本初また唯一の女性歌舞伎脚本家であり、さらに、日本で初めて女性のための思想・文学・芸術に関する雑誌『女人藝術』を発刊、日本の女性の文化芸術活動を支えました。

Ms. Hasegawa Shiguru is the Japan's first female Kabuki scriptwriter, and principal moving force for Japanese women's art by founding a female literary journal "Nyonin Geijyutsu".

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病弱ではみかみ屋の「あんぽんたん」

 時雨こと康子は1879年東京府日本橋区に、御用呉服屋の息子で免許代言人(弁護士)の父と、没落士族の娘で苦労人の母親のもと6人兄弟の長女として生まれます。病弱ではにかみ屋の「アンポンタン」として、もと御殿女中で呉服商家を盛り立てた祖母に溺愛されて育てられます。祖母や母の教育方針で学校へは上がらず、寺子屋での読み書きそろばんに裁縫・長唄・日本舞踊・二絃琴・生け花・茶の湯を身に着けます。母・多喜は、康子が読書をすると目の前で本をビリビリに破って燃やし、康子を激しく殴打して蔵に閉じ込めます。祖母・小りんは、康子が下田歌子の私塾に通うのを阻止、かわりに康子を連れて芝居小屋へ通います。14歳になると行儀見習いに池田詮政侯爵家に奉公に出されます。康子は給料を書籍につぎ込んで夜分に読書に耽ります。3年目で肋膜炎を病んで家に戻されると、父の伝手で著名な歌人で国文学者の佐佐木信綱が主宰する「竹柏園」に通うことを許されます。康子は仕事を済ませるとご飯もろくに食べずに通りを急いで、嬉々として源氏物語や万葉集の古典を学びます。

「いやだいやだいだ」

康子は18歳のときに、両親の命で成金で評判の悪い鉄問屋・水橋家の次男・信蔵と結婚。嫁ぎ先では上品ぶってると悪口を言われ、書きものをするとはばかりに捨てらます。康子は家族の外出時には留守番をして読書に浸ります。しばらくして、父・深造が水橋家絡みの東京市議会を巻き込んだ贈収賄事件により公職を辞します。康子は離婚を申し出るも叶わず、実家から勘当された夫・信蔵とともに、岩手・釜石の鉱山町に移り住みます。夫・信蔵は東京へ行って放蕩三昧で帰ってこず、康子は釜石で独り小説を書いて明け暮らします。22歳の時に雑誌『女学世界』に投稿した短編『うづみ火』が特賞に選ばれ、投稿を繰り返す中で注目を集めるようになります。25歳で離婚を決意して帰京、隠居中の父・深造と佃島の屋敷に住みながら、築地の女子語学校(今の雙葉学園)の初等科に通って英語を学びます。26歳のときに読売新聞に応募した戯曲「海潮音」が演劇界の大御所・坪内逍遙に絶賛されて入選、新派の喜多村緑郎、伊井蓉峰らによって上演されます。初めての女性脚本による歌舞伎として舞台挨拶に立ったり、ブロマイド写真を売り出して注目を集めます。

「あたしはまっしぐらに、所信のあるところへ、火のような熱情をもって突きすすんでいった。

康子は逍遙に師事しながら新舞踊劇を創作、日本海事協会に当選した「覇王丸」を「花王丸」と改題して市村羽左衛門と歌舞伎座で上演。この頃、釜石時代から文通していた中谷徳太郎と交際をはじめ、共同で『シバヰ』を発行。六代目尾上菊五郎らと結成した『舞踊協会』『狂言座』でも彼の作品を公演します。30歳から古今の女性を題材にした美人伝・名婦伝を『読売新聞』『東京朝日新聞』『婦人画報』『婦人公論』などに発表、話題を集めます。その頃、ひとまわり年下の作家・三上於菟吉から熱烈な求愛を受けて結婚、献身的に支えます。同時に甥っ子を引き取り、母と旅館の経営を始め、家庭の仕事に追われるようになります。やがて売れ出した夫・於菟吉が妾を囲い芸者を侍らせ放蕩三昧となる中、康子は44歳で岡田八千代との同人雑誌『女人芸術』を創刊。女性作家たちに自由な活動の場を与えるも、関東大震災により2号で廃刊します。49歳のとき夫・於菟吉の資金援助のもと、仲間割れで廃刊していた『青鞜』メンバーを迎え入れて『女人芸術』を再興。自伝的作品『旧聞日本橋』連載を始めて人気を集めます。康子は思想弾圧を受けて困窮する左翼の女性作家も受け入れ、たびたび発禁処分を受け資金に行き詰まります。53歳のとき『輝ク会』を結成して機関紙『輝ク』を創刊。日中戦争開始とともに『皇軍慰問号』を発行、銃後慰問団体『輝ク部隊』を結成、陸海軍資金援助・監修により3冊の文集『輝ク部隊』『海の銃後』『海の勇士慰問文集』を制作。同時に康子は脳血栓で倒れた夫・於菟吉を看病しながら彼の新聞連載を代筆、さらに『輝ク部隊』を引き連れて中国厦門から広東へ、南シナ海を渡って海南島へ、さらに仏印まで足をのばそうというところで戦況が激化して引き返します。疲れ果てて帰国すると、体に鞭打って日本女流文学者会を発足する中で発病、61歳で没します。

岡田八千代、野上弥生子、神近市子、山川菊栄、三宅やす子、島本久恵、富本一枝、高群逸枝、長谷川春子、湯浅芳子、尾崎翠、野溝七生子、宮本百合子、望月百合子、真杉静枝、大谷藤子、戸田豊子、平林英子、林芙美子、中本たか子、村山籌子、佐多稲子、竹内てるよ、平林たい子、円地文子、松田解子、矢田津世子、大田洋子、若林つや、田村俊子、柳原白蓮、平塚らいてう、長谷川かな女、深尾須磨子、岡本かの子、鷹野つぎ、八木あき、坂西志保、板垣直子、中村汀女、大谷藤子、森茉莉、窪川稲子、田中千代、大石千代子、吉屋信子らとともに女性の自由な活躍の場を広げました。

-東京都中央区立郷土資料館 Tokyo Chuo City Museum

田中 愛子 女史 / Ms. Aiko Tanaka

「ごはんで家族も世界も平和に」

"Peace for the family and the world with meals."


田中 愛子 女史 

Ms. Aiko Tanaka 

1925-2018 

東京都荒川区 生誕 

Born in Arakawa-Ku, Tokyo.


田中愛子女史はマクロビオティックの先駆者です。日本発世界初マイクロビオティック創始者・桜沢如一の愛弟子として、ベルギー・フランスをはじめとして25か国以上で玄米と季節の野菜と伝統発酵食を中心とする自然食品運動およびオーガニック食品運動を広めながら、王様から道端で転んでいる病気の人まで健康になるように食事療法に取り組みました。
Ms. Aiko Tanaka, as a beloved disciple of Joyichi Sakurazawa, the world's first microbiotic pioneer from Japan, dedicated herself to promoting the natural food movement and organic food movement in over 25 countries, including Belgium and France. She focused on brown rice, seasonal vegetables, and traditional fermented foods. Moreover, she applied dietary therapy to help people from kings to those suffering from illnesses on the roadside to achieve better health.

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「裕福な虚弱体質のお嬢様」

愛子は1925大正14)年に東京都荒川区に建設会社を営む両親のもと4人きょうだいに生まれます。砂糖漬けの毎日で虚弱体質、毎晩窓辺で飽くことなく星空を眺めて過ごします。14歳の時に許嫁を軍事訓練中に破傷風で亡くし結婚はしないと決めます。日中戦争がはじまると父親は満州・羽田の飛行場建設に没頭、その間に母親は病に倒れます。父はドイツから医師を招いたり、東西の薬を取り寄せたり、温泉療法に連れていったり、家族の努力も空しく母は3年で逝去。愛子は母の最後の夜に、桜沢如一氏と出会い食養指導を受けます。棚にはご飯茶碗とみそ汁椀と小さな漬物皿のみ、僧の様な食事で愛子はじめ家族は元気を取り戻します。父は如一の活動を支援するべくビル・土地・資金を提供。愛子は東京家政大学に通いながら、如一先生の講義を聴講しに京都に九州に出かけます。

「武者修行」

日本の敗戦間近、愛子は如一はじめ賛同者とともに山梨県にPU(Principal Unique)村を建設、晴耕雨読の生活をしながら健康を土台とした平和運動を続けます。畑を耕し玄米を育てる傍ら、野草はじめ漢方の研究に従事、次々と送られてくる病人を食事療養と手当で介抱します。その頃、愛子は父の喘息を西洋手術で治そうとする2番目の母を追い出し、食事療養で完治させます。終戦後、20代半ばの愛子はマクロビオティックを世界に広める修行に出ます。ベルギーではブリュッセルの市民広場に隣接したビルの提供を受け、茶道・華道・合気道・東洋哲学とともに自然食を広めます。ベルギー薬科学会会長夫妻、フビラオ皇帝の叔母はじめたくさんのインテリ層・富裕層の患者を治療します。フランスのパリでは貴族議員はじめ財界人、若きプリンス・プリセス、俳優また歌手・俳優を治療します。インドでは石谷上人の寺で、カースト制のもとひどい扱いを受ける孤児の世話をします。

「マクロビオティックの妖精」

帰国後、愛子は桜如一・リマ夫妻とともに食養病院に従事する傍ら、たくさんのマクロビ道場生を世界に送り出します。さらに、の廃寺を復興して欧州の麻薬中毒の若者を受け入れ治療したり、料理教室を開いたり、マクロビオティックの懐石料理を考案。如一の死去、愛子はリマ夫人とともに如一の遺言「精神文化オリンピック」開催に奔走。世界14か国100人余りの参加者と一緒に1日1ドルの予算で 禅寺に寝泊まりしてマクロビオティック菜食をしながら日本を1か月かけてめぐり、最終目的の広島まで平和行進をします。その後も、愛子はリュックサックをしょって世界を飛びまわり、具合の悪そうな人を見つけては食事を提供して元気にしてまわります。

-日本CI協会 Japan CI Association

-正食協会 Seishoku Kyokai

「人間らしさに徹底せよ!」

"Be Humane!"


緒方 貞子 女史

Ms. Sadako Ogata

1927 - 2019

東京都麻布区 生誕

Born in Asabu-ku, Tokyo-to


緒方 貞子 女史は女性初の日本女性初の国連日本政府代表部公使、女性初の国連難民高等弁務官、JICAの初代理事長、日本における模擬国連活動の創始者です。難民救済と人間の安全保障のために世界中を駆け巡りました

Ms. Sadako Ogata was the first woman in Japan to serve as the Ambassador of Japan to the United Nations, the first female UN High Commissioner for Refugees, the inaugural Chairperson of JICA (Japan International Cooperation Agency), and the founder of Model United Nations activities in Japan. She has been tirelessly working around the world for refugee relief and human security.

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「私の友達がいた国が何であんなことをするようになったのだろう」

貞子は外交官の家庭に育ち、米国、中国で幼少期を過ごします。4歳のとき、曽祖父・犬養毅の突然の死をサンフランシスコで知ります。「軍部はよほど悪い人たちに違いない」身体を動かすことが大好きなおてんばで、いちばん楽しみなのは運動会。長距離は苦手でも短距離は得意中の得意。外をたくさん走り回って活発に過ごしていると、日中戦争が勃発、勝手に歩き回ることさえできなくなります。8歳の時に一家で帰国、まもなく日米戦争が始まって空襲で焼き出され、疎開先の軽井沢で終戦を迎えます。聖心女子大学入学すると、午前中に授業をすませて午後はテニスに打ちこみます。初代学長キャサリン・エリザベス・T・ブリットから女性としてリーダーシップをとるよう背中を押され、米ジョージタウン大やカリフォルニア大バークレー校の大学院で学びます。「一体日本はどういう国だったのだろうか、どうしてああいう戦争になったのだろうか」、満州事変に関わる政策決定過程について論文を書いて政治学の博士号を取得します。その最中に、後の日本銀行理事・緒方四十郎と結婚。夫に伴って大阪・ロンドンで子育てに奔走、しばらくして国際基督教大学の非常勤講師として外交史の教鞭をとります。1週間に1日の講義のために、家事を終えて子供を寝かしつけた後に毎日猛勉強します。ある日、市川房枝女史が突然訪ねてきて、「どうしても行ってほしい」、強い推薦により国連総会の日本政府代表団に参加、女性初の国連日本政府代表部公使に起用されます。子育て中でためらう貞子に、「みんなでやれば何とかなるから、行きなさい」父と夫も全面的にバックアップします。

「一番大事なことは苦しんでいる人間を守り、彼らの苦しみを和らげること」

貞子は国連総会の中の人権委員会の特別報告者として、軍事政権のもとで人権侵害が非常に大きいと考えられていたビルマ(現在のミャンマー)に人権交渉に向かいます。さらに、上智大学教授として研究をしながら、日本政府カンボジア難民救済実情視察団団長としてタイ国境の難民キャンプを視察します。その頃、日本からの拠出金ならびに日本人女性への期待が高まり、64歳の貞子は1991年に第8代国連難民高等弁務官にアジア初・女性初として就任、さらに2度再任され10年間にわたって従事します。貞子は難民問題を抱える紛争地を防弾チョッキヘルメットで積極的に訪れる「現場主義」を貫きます。1年の半分は現地で過ごしながら、難民たちがどんな経験をしてここに至ったのかを理解するために、ひたすら彼らの声に耳を傾け、さらに地域の政治的なリーダーとも交渉します。湾岸戦争では、「内政干渉」と反対する各国外交官を説得して回ってトルコへの入国を拒否されイラク国内にとどまるクルド人を国内避難民として支援しますボスニア紛争は、国連安全保障理事会から厳しい批判を浴びながらも人道支援の政治利用を断固拒否、サラエボへ食料の空輸を決行します。ルワンダ内戦では、武装集団だった人々を支援することに避難を浴びながらも、 アフリカ諸国の協力による治安維持軍を組織、「和解と「共生」のために難民の武装解除をしながらルワンダ難民を母国に強制送還します。それから貞子はボスニアならびにルワンダで女性を中心とした様々なグループの出会いの場(難民と非難民、対立する民族同士など含む)、いろいろな職業訓練の場、ならびに新しい社会作りの中心勢力として「ボスニア女性イニシアチブ」「ルワンダ女性イニシアチブ」を組織します。

「1人だけよくなる時代はもうあり得ない」

貞子が難民高等弁務官時代にいちばん多くの難民を発生させた国アフガニスタンからは、600万人が周辺のパキスタン・イランに流出。アフガンの難民のための支援金が毎年減っていく中、貞子はタリバン側に女子の教育また女性の就業に努力してほしいという交渉をしにいきますが、なかなか国際的な支援は得られません。アフガニスタンは「忘れられた国」となっている状況で9月11日にニューヨークでテロが起こります。その後、かなりのタリバンが追放されると難民400万人は帰っていきます。2000年に約10年間務めた国連難民高等弁務官を退任すると、小泉純一郎政権で、アフガニスタン戦争後の支援政府特別代表に就任。貞子は難民の人たち、ならびにアフガン側と交渉、受け入れのための地域をつくるなど調整に動きます。2002年に東京で最初のアフガン復興支援国際会議が開催され、貞子はカルザイ暫定政権議長(後の大統領)とともに共同議長を務めます。貞子は、文民が中心になった支援をしてきた日本はじめ、オバマ政権のアメリカ、それを支援してきた多くのヨーロッパの国々、また関心をもっている国々との間のいろいろな話し合いを調整ます。地元警察によって治安をおさえると同時に、復興援助によって少しでもいい生活ができる可能性を人々に分かってもらえるよう尽力します。2003年に新たに発足したJICAの初代理事長に就任。「開発援助による復興支援というのはなんて遅いものなんだろう」危険に対応するいろいろな訓練をしたうえで、防弾車広範囲に使いながら、若手をいち早く開発途上国の現場に送り込みます。晩年もテニスに打ち込みつつ世界を駆け巡りながら92歳で逝去。

-聖心女子大学 University of Sacred Heart, Tokyo

-国連難民高等弁務官事務所 The UN Refugee Agency

-国際協力機構 JICA

-日本模擬国連 JMUN

「1人で見る夢はただの夢、みんなで見る夢は現実になる」

"A dream you dream alone is only a dream. A dream you dream together is reality. "

ヨーコ・オノ・レノン

Ms. Yoko Ono Lennon

1933- 

東京都千代田区富士見 生誕

Born in Fujimi, Chiyoda-ku, Tokyo

ヨーコ・オノ・レノン女史はコンセプチュアル・アート、マルチメディア・アートの先駆者です。1960年代初頭からニューヨーク、東京、ロンドンに住みながら、コンセプト・アート、パフォーマンス・アート、映画製作、実験音楽で世界で先駆的に活躍。日本女性で初めてグラミー賞・金獅子賞を受賞。

Ms. Yoko Ono Lennon is a trailblazer in conceptual art and multimedia art. From the early 1960s, she has been at the forefront of conceptual art, performance art, filmmaking, and experimental music, living in cities such as New York, Tokyo, and London. She has made groundbreaking contributions worldwide. She was the first Japanese woman to receive the Grammy Award and the Golden Lion Award.


おそらく自分の最初のアート作品

 安田財閥の大屋敷に洋子は誕生します。父親・英輔は日本銀行総裁の息子として横浜正金銀行サンフランシスコ支店に勤務。母親・磯子は安田財閥の孫として大屋敷で数十人もの使用人を采配して社交に大忙し。洋子は両親の愛情表現またスキンシップを受けることなく育ちますが、かつてピアニストまた画家を目指した父親また母親によってピアノまた芸術の教育を授けられます。まもなく父親の転勤に伴って、洋子は日本とニューヨークを行き来しながら育ちます。学習院初等科、ニューヨーク・ロングアイランドのパブリックスクール(公立小学校)、学習院女子中・高等科を経て、学習院大学の哲学科に入学。太平洋戦争が激しくなった折には、疎開先の田舎で自分の持ち物を食べ物と交換しながら空腹をしのぎ弟とふたりで夕食に何が食べたいかを想像して過ごします。

『踏まれるための絵画(Painting To Be Stepped On)』

 やがて敗戦後の日本でアメリカのポップカルチャーが流行する中、洋子は先進的な校風で知られるサラ・ローレンス女子大学に入学して英文学・作曲・芸術などを学びます。まもなく洋子は、ジュリアード音楽院で学んでいた前衛作曲家でピアニストの一柳慧と出会い、前衛芸術に傾倒していきます。同大学を退学して結婚すると、2人は反対する両親から離れて、バーのピアノ弾きと日本協会での事務仕事をしながら、ジョージ・マチューナスらはじめ前衛芸術家集団「フルクサス」と共に活動を開始。27歳のとき、洋子とはマンハッタンのアパートをスタジオ兼居住スペースとして借り、若手アーティストに発表の機会を与えたり、社交力を生かしてマックス・エルンスト、イサム・ノグチ、マルセル・デュシャン、ペギー・グッゲンハイムら招いてアートイベントを開催します。ここで洋子は、床に置かれたキャンバスを観客が踏みつけることで完成するコンセプチュアルアートを発表します。さらにカーネギー・リサイタルホールで、フルクサスのメンバーと実験音楽会とアートパフォーマンスを発表します。

『カット・ピース(Cut Piece)』

 29歳の洋子は、一足先に帰国していた慧を追って日本に帰国。草月会館にて洋子は、観客に自身の衣装をはさみで切り取らせるパフォーマンスアートを発表。慧の実験的音楽作品は日本の音楽界に熱狂的に迎えられる一方、洋子は当時の日本の評論家らに執拗に酷評されます。「時代遅れ」「彼女のアイデアはすべてニューヨークの人々の借り物だ」。深く傷つき自殺未遂を起こした洋子は精神病院に入院。するとアメリカの映像作家アンソニー・コックスが毎日のように花束を持って洋子の病室に通ってきます。やがて洋子は精神病院を退院、アンソニーと結婚します。2人で東京渋谷の外人村で通訳・翻訳をしながら暮らし始め、表現活動を始めます。翌年には娘のキョーコをもうけるも、母親になることに戸惑いのある洋子は夫と娘を日本に残してひとりニューヨークに戻ります。

『グレープフルーツ(Grapefruit)』

 洋子はアメリカに亡命していたドイツ人作曲家シュテファン・ヴォルペと彼の3人目の妻で詩人のヒルダ・モーリーと親しくなります。バウハウスで学んだ2人からアートセラピーの概念を活かした進歩的な音楽また芸術教育について学びながら、詩を共作します。31歳のときに、セルフケアとしてアートを捉えなおした詩集を東京から発表。「叫びなさい。一、風にむかって二、壁にむかって。三、空にむかって。」。やがて英語版が世界中で発売されると熱狂的に受け入れられ、人々を元気づけま洋子は自分を立ち直らせるように、自ら「インストラクション・ピース」と呼ぶセルフケア・アートに傾倒、ジェンダーや人種偏見に直面しながらアーティストとしての基盤を形成していきます

『No.4 通称ボトムズ(bottoms)』

 洋子は33歳のときに、ロンドンの現代芸術協会に招かれて渡英夫のアンソニー・コックスと一緒に、ロンドンの知識人365人服を脱がせてお尻クローズアップショットを撮影1時間あまりの長編実験映画作品として発表すると、町を歩いていても通行人がヨーコヨーコと声をかけてくるくらい話題となり、家族3人でロンドンに活動拠点を移します。洋子は仕事で忙しくする中、夫と娘に「ママ、公園に一緒に行こう」と催促され仕方なしに一緒に出かけるも淋しくて退屈します。家族の南フランスへの長期休暇も洋子は仕事を優先させ、夫と「ママ、ママ」と泣き叫ぶ娘の二人だけを送り出します。

『天井の画 (Ceiling Painting/Yes Painting)』

 そんな中、ロンドンのインディカ・ギャラリーでの個展未完成の絵画とオブジェ」の準備中に訪れたジョン・レノンと出会いま。地下室の展示室に案内されたジョンは、天井に張り付けられた画を見ようと梯子を登って天井から吊された虫眼鏡を覗くと小さな「YES」という文字を見つけ大興奮。ヨーコはジョンに寄り添うように他の作品を案内して廻ります。2人は文通を始め、洋子のロンドンのリッソン・ギャラリーでの全オブジェが半分の形で展示された個展「ハーフ・ア・ウィンド・ショー」の後援をジョンが引き受けます。

『平和のためのベッド・イン(Bed in for Peace)』

 洋子とジョンはベトナム戦争に対する抗議運動を立ち上げます。洋子はジョンの妻の留守中に彼の自宅を訪れ、前衛的なテープループセレクションを一晩中録音2人の最初の共作アルバム『Unfinished Music No. 1: Two Virgins』として 2 人の未修正ヌードの表紙とともに発表します。洋子はビートルズのアルバムにも追加ボーカルまたサウンドコラージュを提供。洋子は35歳のときにジョンブラルタルの登記所で結婚式を挙げ、新婚旅行をアムステルダムで過ごしながら1週間にわたる平和のためのベッド・インを敢行。米国で入国を拒否された2人は、モントリオールのクイーン・エリザベス・ホテルの部屋でコンサートを開催しながら『Give Peace a Chanceを録音します。プラスチック・オノ・バンドを結成して、クリスマスのロンドンでユニセフ主催『ピース・フォー・クリスマス』コンサートに参加。「WAR IS OVER! IF YOU WANT IT」を発表しながら、ニューヨークのタイムズスクエアなど世界11都市で一斉に看板を設置、ポスターまた新聞広告を出して平和キャンペーンを敢行します。

『ウィッシュツリー(Wish Tree)』

 「ビートルズを解散させた女」として数多くの非難と中傷が洋子に浴びせられる中、洋子とジョンはニューヨークに移り住みます。洋子はエバーソン美術館で回顧個展『ジス・イズ・ノット・ヒアー』を開催する一方で、ジョンと2人で反戦文化人の即時保釈を求める集会や北アイルランド紛争に抗議するデモへ参加、刑務所で起きた暴動の被害者また知的障害を持つ子どものための救済コンサートに出演。そんな中で洋子は42歳で息子・ショーンを出産、ジョンは育児と家事に専念するも5年後に洋子の目の前で暴漢に射殺されます。直前に発表したジョンとの共作アルバム『ダブル・ファンタジー』グラミー賞年間最優秀アルバム賞を受賞します。しばらくして56歳の洋子はホイットニー美術館で回顧展を開催、アート活動を再開します。これまでの作品を石化したブロンズとして青銅で鋳直す一方、全白のエナメルを施し敵味方の区別のつかないブロンズのチェスセット『Play it by Trust』を鋳造します。さらに観客ひとりひとりが願い事を書いて木に吊るす参加型アートプロジェクトフィンランドから開始。近年はソーシャルメディアを活用してメッセージをさらに幅広い聴衆に伝えています。「自分を信じれば世の中を変えられる」。

-Yoko Ono via MOMA

-Imagine Peace Yoko Ono 

「下に置かれている女性は変革を求めて社会を変えていく。
男性は後から追いかけてくる。」
'Women, positioned beneath, seek to bring about change in society. Men, they come trailing behind.'"

晴野 まゆみ
Ms. Mayumi Haruno
1957 -
東京都大田区 出身
Born in Ota-ku, Tokyo-to

日本初のセクハラ裁判「福岡セクシュアルハラスメント事件」の原告。日本のすべての企業と公務職場にセクシュアル・ハラスメント対策を求める男女雇用機会均等法の改正を促進しました。現在、株式会社チームふらっと代表取締役社長。
Ms.Mayumi Haruno is the plaintiff in Japan's first sexual harassment lawsuit, known as the "Fukuoka Sexual Harassment Case." This landmark case prompted the amendment of the Equal Employment Opportunity Law, advocating for the implementation of sexual harassment prevention measures in all Japanese companies and public workplaces. Currently, she serves as the President and Representative Director of the company Team 'Furatto'.

「変な噂」
 まゆみは福岡の西南学院大学を卒業後、ブライダルコーディネーターの仕事をするも、3度目の転職を経てようやく希望する出版社に入社。社員3名の学生向け情報雑誌を発行する会社で、福岡のエンタメ・グルメ情報を取材・編集する仕事に打ち込んで猛烈に働きます。取材予定を度々すっぽかしたり、締め切り前の繁忙期でも家庭優先でさっさと帰宅する男性編集長をフォローしながら、まゆみは取引先との付き合いを優先して男女の別なく食事また飲みに行ったり、深夜遅くまで原稿を執筆したり、1/3の給与で3倍の仕事量をこなします。「編集長ではなく、晴野さんに取材して欲しい!」取引先からの信用が篤くなる一方、直属の上司である男性編集長から性的なからかいを言われるようになります。「結婚もせずに夜遊びか」「お盛んだな」最初は軽い冗談、くだらない冗談として受け流して平気な振りをします。変な噂を立てられても平然としていればそのうち消えるだろう。」ところが男性編集長の嫌がらせは逆にエスカレートします。ある日、会社に出入りするアルバイトの学生がコーヒーカップをまゆみの机に置きかけて言います。「おっと、汚れた女の机に置いたらいかん。」まゆみの仕事を評価する係長から昇給が言い渡されると、「男女の関係」「できとっちゃろ」男性編集長は外部に吹聴してまわります。まゆみの仕事を評価する専務が男性編集長の給与を削ってまゆみの給料を上げようとすると、「ふしだらな女」「男関係にだらしない」男性編集者は悪評を立ててまゆみの昇給を阻止します。まゆみが婦人病で入院することを伝えた直後、男性編集長は社外に電話を始め「実は晴野が入院するんですよ。男遊びが激しくて、婦人病にかかったんです。」ある時、まゆみがスポンサーの既婚男性と恋愛関係にあったときに、男性編集長に言われます。「スポンサーへのギフト代わりに、この女をだれが落とすかゲームしたんだ。」「不倫を黙っておいてやるから会社を辞めて欲しい」

「セクシャルハラスメント(性的嫌がらせ)」
 「自分の好きな仕事を失いたくない!」まゆみは、意を決して社長に直訴します。「大人の女なんだから、笑ってやり過ごしなさい」あげくにケンカ両成敗としてまゆみは即日解雇にされる一方、男性編集長は3日間の自宅謹慎。食い下がるまゆみに「女性は仕事を辞めても結婚がある。男はそうはいかない。」「君は優秀だが、男を立てることを知らない。次の就職先では男を立てることを覚えなさい」まゆみは2年半セクハラに耐え、最後の3日間会社に通って残務整理を全うします。まゆみはかつての関係者をまわってフリーライターとして生計を立てながら、「どうして女性だけが仕事を奪われ、存在価値を汚されるのか?」祖父が弁護士で法律が身近にあったまゆみは、労働基準監査局に出向いたり、民事調停に持ち込んだりします。簡易裁判所で男女の調停員は言います。「相手は優しそうで大人しそうな男性で、ひどいことを言うようには見えない。」「女は浮いた噂のひとつやふたつ流されるうちが華ですよ」「そんなことで名誉棄損で訴えるなんて前代未聞」女性弁護士に相談しても物的証拠がないと難しいと断られます。途方に暮れたころ、福岡市に「女性の女性による女性のための法律事務所」が開設されたことを知り訪ねます。代表の辻本育子弁護士は言います。「会社があなたを性差別している。訴えましょう。」「女性差別を禁じる民法の規定はないけれども、日本国憲法第14条「全ての国民は性別により差別されない」に反する不法行為にあたる」まゆみは裁判を起こす決意をします。そして、電車の中で「もう許せない!実態セクシャル・ハラスメント」という女性『MORE』の特集広告を目にします。早速雑誌を読んで、アメリカでの「雇用における性差別を禁止する」裁判判決を知ります。続いて福岡アメリカセンターで文献を調べて「セクシャルハラスメント(性的嫌がらせ)」に焦点をあて、フェミニストグループにコンタクトを取ります。

「クリーンな裁判」
 まゆみのもとに女性だけの弁護士事務所とフェミニズム団体が結集、「職場での性的嫌がらせと戦う裁判を支援する会」を結成されます。支持者を集めるために女性の知人40人からアンケートを集めると、「まだ結婚しないの?」「次の生理はいつ?」「あいさつ代わりに胸をお尻を触られる」など、全ての回答用紙に性的嫌がらせの体験が書かれています。まゆみは性的嫌がらせは全ての女性の問題として確信します。会報を刊行したり裁判資金を募ったりしながら、ようやく解雇から1年3か月後の1988年8月5日、まゆみは「原告A子」として、「元上司」と「会社」を相手に360万円を請求して福岡地方裁判所に提訴、日本初のセクハラ裁判を起こします。匿名裁判にマスコミから野次が飛び交います。「やましいことがあるんだろ?」「男関係が派手な女性らしい」「ブスでもてない女が騒ぐんだ」出版社で働いていた学生アルバイトの女性たちが証言台に立つ中、まゆみも意見陳述を代理人に任せず自分で行います。公判の席で被告側弁護士は飲酒についてしつこく聞きます。「週に何回、何時まで飲みに行っていましたか?」「あなたは、女性がお酒を飲むことに罪悪感はありませんか?世間的に恥ずかしいとは思いませんか?」。弁護団が反論します。「どうしてそれがいけないのか?」被告側証人が言い立てます「原告は男関係にだらしのない女だ」「性的な話題が好きな女だ」。まゆみが性的中傷を繰り返し受ける中、原告団から「意義あり」の声が上がらないことにまゆみはさらに苦しみ、ついにこの被告側証人を裁判所の廊下で平手打ちします。支援者はまゆみに詰め寄ります。「あなたひとりの裁判じゃない!」係争2年8カ月目の1992年4月16日、川本隆裁判長は判決文を読み上げます。「主文。被告および、被告株式会社は、原告に対し、連帯して金165万円を支払え」裁判所は元上司による性的中傷を違法と認定、会社も使用者責任としてセクハラに対応する責任があると判決を下します。

「さらば、原告A子」
 まゆみは裁判を通じて、そして男性の思い描く女性像と実際の女性との間に大きな乖離があることを痛感します。さらに、元上司は「女に負けるな」「男が上に立たなければならない」という男社会の被害者であると考えるようになります。裁判はマスコミの注目を集め社会問題として広く取り上げられる一方、バラエティ番組で「色物」として扱われたり、アダルトビデオに「セクハラもの」が制作されたり、興味本位で扱われます。まゆみが男性週刊誌から手記の執筆依頼を受けると支援団は猛反対します。「クリーンな裁判を汚さないで。」ライターであるまゆみは仮名で自分の率直な気持ちを綴りはじめ、本名で取材に応じるようになり、勝訴10年目には本名で『さらば、原告A子』を出版します。「男女を対立させるのではなく互いに理解し合って差を埋めたい。」しばらくしてまゆみが福岡の屋台で飲んでいると、「そういう言葉はセクハラになりますよ」若い男性が年配の男性に注意するのを耳にします。1997年10月改正男女雇用機会均等法21条に事業主に対してセクシュアル・ハラスメントの防止配慮義務が規定(1999年4月施行)、同年11月13日人事院規則10-10で管理者に対しセクシュアル・ハラスメントを防止する責務を定められ、すべての企業と公務職場にセクシュアル・ハラスメント対策が求められています。

-晴野まゆみ『さらば、原告A子 : 福岡セクシュアル・ハラスメント裁判手記』海鳥社
-弁護士法人女性協同法律事務所
-西南学院大学
-福岡アメリカセンター
-株式会社チームふらっと

北海道 Hokkai-Do

「試練!試練!!胸に燃ゆる烈火の焔に我身をやきたまえ、泉とほとばる熱血の涙に我身を洗う...」

"Challenges!  Let my being be consumed in the fierce flames burning in my heart, let my spirit be cleansed in tears flowing like a spring..."


知里  幸恵 女史 

Ms. Yukie Chiri

1903 - 1922

北海道登別市登別本町2丁目 生誕

Born in Noboribetu-city, Hokkai-Do


知里幸恵女史は日本で初めてアイヌの物語『アイヌ神謡集』を社会に発表したアイヌ女性作家です。

Ms. Yukie Chiri is the author of "Ainu Kamuy Yukar" (Ainu Divine Songs), the first written collection of Ainu narratives by an Ainu person. 

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「亡国のアイヌ」

知里幸恵女史はアイヌの両親の父・高吉と母・ナミのもとに生まれます。幸恵の父・高吉は南部藩侍の血を引き、登別温泉開発者・滝本金蔵夫妻に奉公して可愛がられ、読み書きそろばんを学んで山林や土地の払い下げを受け、知里牧場をアイヌの仲間と経営を始めます。日露戦争では旭川第七師団に入隊して203高地攻略の激戦を戦い抜いて金鵄勲章を受章するも、満足に働くことが出来ない状態になって戻ります。幸恵の母・ナミは姉のマツとともに、函館に出てイギリス人宣教師ジョン・バチラーによる愛隣学校でキリスト教や英語を学びながら伝道師の資格を得、日高の教会で伝道活動に従事していました。幸恵の母方の曽祖父・吉蔵は登別でアイヌと和人の両者に人望と財力を持ち、ジョン・バチラーの後援者として教会建設に協力するも、やがて和人に騙され全財産を奪われていました。ナミは高吉と結婚して農場の開拓に従事、重労働のできない体となった高吉の代わりに開墾・農作業など重労働を担って一家を支えます。知恵が生まれる少し前の1899年に明治政府は『北海道旧土人保護法』を制定。アイヌの土地の没収、収入源である漁業・狩猟の禁止、アイヌ固有の習慣風習の禁止、日本語使用の義務、日本風氏名への改名による戸籍への編入、など次々と実行に移され、アイヌ民族の生活・アイヌ伝統文化は消滅の危機に瀕していました。

「アイヌ讃美歌 YESU EN OMAP」

知恵は室蘭の登別川沿いで生まれ、6歳のときに祖母・モナシノウクと暮らす母の姉・マツの養女として引き取られます。マツは日本聖公会で布教活動をしながら日曜学校を開いてアイヌ女性に裁縫・読書・ローマ字等を教えており、幸恵も子供たちと「アイヌ讃美歌」を歌ったりしてマツを手伝います。モナシノウクは吉兆を占うアイヌの巫女でアイヌの口承叙事詩“カムイユカラ"の謡い手で、幸恵はモナシノウクから自然の神々の神話や英雄の伝説を学びます。幸恵は母方の叔父・太郎が政府と直接交渉して建設したキリスト教系アイヌ学校で学びます。太郎はアイヌ学校の教師に就任するも、アイヌ自治を目指す嘆願書を国会に提出しに行く過程で行方不明となっていました。幸恵は同化教育のもと必死で日本語を勉強して、アイヌ子女で初めて北海道旭川高等女学校を受験するも不合格。その後、14歳の時にアイヌ子女で初めて旭川区立女子職業学校に110人中4番で入学。唯一のアイヌ生徒として、同級生から差別やいじめに遭いながらも、片道6kmの道のりを歩いて通いながら勉学に励みます。「私に今まで友達といふものが真にあったであらうか」。やがて、知恵は心臓病を患い学校を休みがちになります。そんな中でも、日曜学校で出会ったアイヌの青年・村井曾太郎とアイヌの将来について語り合いながら結婚を約束します。

「アイヌ叙事詩」

幸恵が15歳の時、言語学者の金田一京助が幸恵の祖母・モナシノウクを訪ねてきます。「世界五大叙事詩」と絶賛してモナシノウクの謡うユーカラを夜遅くまで熱心に聞き取って記録する金田一。幸恵は通訳を手伝いながら決意します。「私のため、同族であるアイヌ民族のため、アイヌ語を研究している金田一先生のため、学術のため、日本のため、世界万国のために私は書くのだ」。京助と手紙のやり取りをしながら、幸恵は"カムイユカラ"のローマ字筆記を始めます。心臓病が悪化する中、幸恵はノート3冊にわたって日本語に翻訳した「アイヌ伝説集」を金田一に送付します。出版を計画する金田一から上京の誘いを受けた幸恵は、反対する両親を説き伏せ、恋人・曾太郎の実家で仮祝言を挙げます。「必ず務めを果たして帰ってきます。チカップニの水辺に帰って来る渡り鳥のように」。東京・本郷の金田一宅に迎えられた幸恵は、東京で好奇の目にさらされながらも、教会に通ったり、産後鬱で伏せる京助の妻・静江と一緒に子供たちの世話をしたり、『女学世界』に寄稿したりしながら、京助と協力して翻訳・編集・推敲作業を続けます。ある日、幸恵はマツの便りで和人の女郎屋に売られた友人・やす子の死について知らされ激昂すると、金田一は諭します「だから、アイヌは、見るもの、目の前のものが、すべて呪わしい状態にあるのだよ」。「試練!試練!!胸に燃ゆる烈火の焔に我身をやきたまえ、泉とほとばる熱血の涙に我身を洗う」。上京して4か月余り、幸恵は心臓発作を起こしながらも『アイヌ神謡集』を完成させます。まさにその夜に、2度目の心臓発作を起こして19歳で死去します。

-知里幸恵 銀のしずく記念館 Chiri Yukie Memorial Museum

-北海道新聞 Hokkaido News

トネ・ミルン(旧姓 堀川 トネ)女史
1860 - 1925
北海道函館市 生誕
Borin in hakodate-city, Hokkai-do

トネ・ミルン女史は、日本地震学の父ジョン・ミルンの妻。函館の自由で最先端な女を貫きながら、日本ならびにイギリスにおいて夫の地震学の基礎研究・耐震建築の研究・地震計の開発に助力。
Ms. Tone Milne is the wife of John Milne, known as the father of Japanese seismology. While embodying the progressive spirit of Hakodate, she supported her husband's foundational research in seismology, seismic-resistant architecture, and the development of seismographs in Japan and Britain.

「大火と文化大洪水の函館」
 トネは願乗寺(現在 本願寺函館分院)の僧侶・堀川乗経の長女として誕生します。父・乗経は、青森から小樽・函館に渡った開教開拓者で、西本願寺本山ならびに函館官吏の許可を得て、新渠を開き亀田川の水をひいて港内に転注させ、通称・願乗寺川また堀川を完成。函館市内に飲料水を供給、湿地の排水をよくし居住地を広げ、小舟運輸の便を助け、函館の発展の礎を築きます。トネ誕生の1年前には函館は国際貿易港として開かれ、各国の居留外国人との交流が盛んになり、衣食住にわたる西洋の風習が浸透します。トネは乳幼児から、近所に住むアメリカ人医師・ヘーツならびにロシア人眼科医・ゼレンスケの診療を受けすくすくと育ち、イギリス人貿易商人・鳥類学者・探検家であるトーマス・ブラキストン邸に通って英語・西洋文化を学びます。コーヒー・パン・直輸入のレコード・写真・ダイヤモンドなど日本の流行を先取りしながら、強風と大火と文化の大洪水の吹き荒ぶる港町で函館戦争・廃仏毀釈運動をくぐり抜けた12歳のトネは、ブラキストンのすすめにより、北海道の開拓を指導するホーレス・ケプロンが推進する東京府開拓使女学校に入学します。

「きかない函館女」
 東京住まいの士族出身の女生徒ばかりの中、寺の娘で口数の多いトネは蝦夷の野卑な女とからかわれます。地理・天文・化学・植物学・世界史などで良い成績を修めるものの、「夫がどんな浮気をしようとも女は決して嫉妬心を持ってはならぬ、嫉妬は女の恥じ」といった修身学の作文を断固拒否して先生たちに異端視されます。函館の自由な女のありようを貫くトネは、「卒業後は北海道開拓者と婚姻すべし」「途中退学するには官費を返納すべし」という新校則に憤慨する女生徒をまとめてストライキを起こします。まもなく皇后皇太后の行啓を理由にストライキはうやむやにされます。西洋裁縫・編み物などの展示作品作りの中で裕福な士族の娘たちは、全国平均収入20円のなか300円と高額な退学金を払って次々と退学していきます。トネは芸子代わりに着飾ってお酌をするよう強要されたり、考えもしなかった荒野の街・札幌に移転した開拓女学校で気の進まない西洋裁縫・養蚕・開墾作業に取り組まされ、やがてチフスで体調と精神を崩し「脳の病」で退学。1年後に開拓女学校は、開拓事業に教養ある女性は必要ないこと、開拓使官吏員が女生徒を襲う不祥事が後を絶たないことを理由に閉校になります。

「最先端の女」
 トネは神経症を患いながらも郷里・函館で英語塾を開こうとブラキストンのもとで再び英会話を学び始めます。その矢先、開拓使官吏との縁談を断ったことを理由に寺に集まる人々にさえ「脳病の娘」と悪評を流されます。そんな中、ブラキストンの紹介でスコットランド人のジョン・ミルンに出会います。彼は本国イギリスでスコッチと軽蔑されながらも造船所で働いて夜学に通って地質学・鉱学を学び、日本の美しい風景を支える火山・地震の研究に取り組みはじめていました。翌年トネはミルンと東京・赤坂の雲南坂教会で式を挙げ事実婚をはじめます。日本語の文献の翻訳、日本の歴史調査など、陰ながらミルンの地震学の基礎研究・耐震建築の研究・地震計の開発に助力します。やがて、日清戦争の勝利に沸く中、イギリス領事官で婚姻届を提出、夫婦で南イングランドのワイト島シャイドに地震観測所と居を構えます。世界各地からひっきりなしに訪れる専門家・新聞記者たちをトネとミルンは仲睦まじく楽しくもてなします。ミルンが死去すると、第一次世界大戦を経てトネはミルンの遺髪と遺産を携えて帰郷。トネは美術好きな甥っ子を可愛がり「私が学費を出すから東京に出てデザインと建築を勉強しなさい。」

-函館市文化・スポーツ振興財団
-北海道新聞社
-『女の海溝 トネ・ミルンの青春』森本貞子(著)・文芸春秋

「結婚だけは清潔にやりたかった」

"I just wanted to keep marriage pure."


高峰 秀子 女史

Ms. Hideko Takamine

1924 - 2010 

北海道函館市若松町大手町 生誕

Born in Wakamatsu-tyo, Hakodate-city, Hokkai-do

高峰秀子女史は日本初のフリー女優第一号です。5歳から50年に渡ってたくさんの映画界の養父母に育てられながら、日本初の総天然色映画はじめ300本を超える作品に出演しました。ギャラは当時の首相・吉田茂の月給の25倍。女優引退後はエッセイストとして活躍しました。

Hideko Takamine is the first pioneering freelance actress in Japan. From the age of 5 and over the course of 50 years, she was nurtured by numerous "adoptive parents" in the film industry, all while appearing in well over 300 films, including Japan's first full-color movie. Her earnings were 25 times the monthly salary of then-Prime Minister Shigeru Yoshida. After retiring from acting, she had a successful career as an essayist.

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「元祖子役アイドル」

秀子は1924年(大正13年)北海道函館市音羽町(現在の若松町大手町)に蕎麦屋料亭・劇場・カフェなどを経営する裕福な地主のもと5人きょうだいとして生まれます。4歳の時に母親が結核で亡くなり、葬儀の翌日に父の妹・志げの養女となって東京に移り住みます。志げは17歳の時に函館に来た活動弁士・荻野市治と駆け落ちして結婚、高峰秀子の名で女活弁士になっていました。まもなく養父・市治は旅回りの一座の興行ブローカーとなって家には滅多に帰らず、内職の針仕事で生計を立てる養母・志げとは母一人子一人の生活をはじめます。5歳のある日、養父に連れられて蒲田撮影所を見学に行き、野村芳亭監督の『母』の子役オーディションに飛び入り参加、養母・志げの芸名である高峰秀子で出演を果たします。作品は大ヒット、秀子は松竹に入社します。初任給は35円で家計は苦しく、養母は六畳一間のアパートで人形の着物を縫う内職をしたり、同じアパートに住む大学生の賄いをして暮らしの足しにします。人気子役となった秀子は、毎日のように養母と一緒に撮影所通いをはじめ、蒲田の尋常小学校に入学するも、徹夜の撮影も多くほとんど学校には通えません。10歳の秀子は流行歌手・東海林太郎に「歌とピアノをみっちり仕込む」と説得され、志げと東海林家に移り住みます。次第に養女として溺愛され地方公演先まで連れ回され、レッスンはじめ志げまた撮影所から遠ざかります。耐えかねた秀子は志げを促して東海林家を出ます。12歳の秀子は溺愛される五所平之助監督のメロドラマ『新道』に田中絹代演じるヒロインの妹役に抜擢。絹代にも可愛がられ、鎌倉山の「絹代御殿」と呼ばれる豪邸に泊まり込んで撮影所通いをするようになります。13歳の秀子は宝塚歌劇団入りを水谷八重子に相談、宝塚音楽学校校長の小林一三から無試験で入学を許可されます。同時に、東宝社長の植村泰二から月給100円と撮影所近くの家の提供、女学校への進学を条件を提示されます。秀子は東宝に移籍、御茶ノ水の文化学院に入学します。その頃、養母・志げは函館大火で破産した実父一家を東京へ呼び寄せ、秀子の肩に9人の生活がのしかかります。東宝ではアイドルとしてますます売れっ子となり、文化学院は入学1年半にして退学を余儀なくされます。

フリー女優第1号

16歳の秀子は豊田四郎監督の『小島の春』でハンセン病患者を演じた杉村春子を見てから演技と発声を学び直します。17歳のときに、山本嘉次郎監督の『馬』に主演、3年を費やす撮影中に31歳の助監督・黒澤明とスキャンダルを起こします。戦時中は千葉・館山の航空隊を慰問講演、戦後はアーニー・パイル劇場で占領軍相手の慰問公演に出演。東宝争議では日本映画演劇労働組合に反対して東宝従業員組合を脱退、他の脱退者らとともに新東宝映画製作所の専属となります。25歳のとき、島耕二監督『銀座カンカン娘』主題歌を歌ったレコードは50万枚の大ヒット。阿部監督の『細雪』で花井蘭子、轟夕起子、山根寿子に続く末娘役を演じ、原作者の谷崎潤一郎と交流を始めます。その頃、20歳以上年上のプロデューサーで結婚を前提に交際していた会社の重役が後援会費を使い込んで他の女性と交際していた事が発覚、秀子は新東宝を退社してフリー女優第1号となります。26歳の時に日本初の総天然色映画で木下惠介監督『カルメン故郷に帰る』に主演。留学生としてフランスに渡り、6ヶ月間パリに滞在します。帰国後、木下惠介監督『二十四の瞳』に出演、当時の女優賞を独占します。31歳の時に木下の助監督で『二十四の瞳』の撮影で出会った松山善三との婚約を発表。木下が自ら報道各社に電話をして日本で初めて芸能界の結婚記者会見を開きます。40歳以降は映画出演が減少、テレビドラマにも出演するようになります51歳で自伝を出版、養母・志げを「ブタ」と罵り、同じ境遇ながらも家庭教師をつけてもらえた美空ひばりを羨む心境を吐露します。53歳のときに親族による養母・志げの「拉致」事件に巻き込まれ、双方の弁護士を介して交渉にあたります。54歳で木下監督の『衝動殺人 息子よ』に八千草薫の代役出演を最後に、女優業を引退します。引退後はエッセイストとして活動しながら86歳で逝去。

-松竹 Syotiku

-国立映画アーカイブ National Film Archive of Japan

「俺はミズノーエ・ターキーだぁ!」
「I am Mizu-no-e Ta-key, yeah!」

水の江 瀧子(本名 三浦ウメ子) 女史
Ms. Takiko Mizunoe
1915 - 2009
北海道小樽 生誕
Born in Otaru-city, Hokkai-do

水之江 瀧子(本名 三浦ウメ子) 女史は日本初の女性映画プロデューサーです。松竹歌劇団で男装の麗人「ターキー」の愛称で活躍後、日活の女性プロデューサーとして、岡田真澄・浅丘ルリ子・石原裕次郎ら新人の俳優また監督・スタッフを起用して70本以上の映画を企画。プロデューサーが絶対的権力を持つ構造を作り上げます。やがて甥の三浦和義の「ロス疑惑」に巻き込まれ芸能界を引退します。
Ms. Takiko Mizuno, also known by her real name Umeko Miura, was Japan's first female film producer. After gaining renown as the cross-dressing beauty "Turkie" in the Takarazuka Revue, she later became a female producer at Nikkatsu. Mizuno played a pivotal role in planning over 70 films, featuring emerging talents such as Masumi Okada, Ruriko Asaoka, and Yujiro Ishihara as actors, directors, and staff. She established a structure where producers held absolute power. Eventually, she retired from the entertainment industry, getting entangled in her nephew Miura Kazuyoshi's "Los Angeles scandal."

「ターキー」  
 ウメ子は2歳の時に家族で一家で東京の千駄ヶ谷・目黒と移り住み、ベーゴマ・チャンバラ・洞窟探検など活発に遊んで過ごします。ある日、ウメ子は姉に連れられて浅草の東京松竹楽劇部第1期生試験会場に連れ出され、言われるがままに試験に臨み合格します。10カ月あまりの基礎訓練を受け、「水の江瀧子」の芸名で浅草松竹座に出演。ウメ子の身長は163cmと当時大柄で群舞でひとり目立つため出番が与えられず度々楽屋で待機さえられます。ある時、『先生様はお人好し』で舞台装置の転換する間を繋ぐために、急遽断髪して男子学生として幕前で踊らされると大ヒット。『メリー・ゴーランド』で扮したカウボーイ「ターキー」の愛称でたくさんの女性ファンを獲得します。芸の未熟さとパーソナリティを絶賛されます。
「ガイドホステス」
 やがて不況で劇団部員の解雇が相次ぎ、待遇改善を求める劇団部員と経営陣の争議労働争議が勃発。共産党員が加わってウメ子は委員長に担ぎ出され世間の話題を集めるも解雇されます。その頃、国産航空機「ニッポン号」が難航路の北回りルートでニューヨーク万博を目指す計画が持ち上がり、贔屓筋である外務省職員の手配により、ウメ子は「ニッポン号」乗務員を現地ニューヨークで出迎えるガイドホステスに抜擢され渡米します。ブロードウェイを観劇すると「自分が少女歌劇でやってきたことは、どう贔屓目に見てもプロとはいえない」と思い知らされます。帰国後、当時ウメ子のマネージャー兼恋人であった松竹宣伝部の兼松廉吉とともに新たな劇団「たんぽぽ」を創設。戦後も浅草を拠点に活動します。
「女性映画プロデューサー」
 ある日、兼松廉吉が借金6000万円(現在の9億円相当)を苦に自殺。ウメ子は兼松の遺書を持って読売新聞の深見和夫を訪ねます。ウメ子の今後を託された深見は、松竹・大映・日活の社長に会いに行き、ウメ子の希望する月二十万円の交渉に奔走します。ウメ子は晴れて日活の1年更新契約の日本初の女性プロデューサーになります。読売新聞の連載小説を映画化すべく、ウメ子は見様見真似でプロデューサー業を始めるも、同僚らは俳優・スタッフを囲い込み貸し出してくれません。そこでウメ子は街に繰り出し、日本劇場ミュージックホールに出演していた岡田真澄、銀座のクラブでドラムを叩いていたフランキー堺、映画オーディションの新人・浅丘ルリ子、芥川賞作家石原慎太郎宅でぶらぶらしている弟・石原裕次郎を見出し抜擢、ならびに若手の監督・脚本家を積極的に起用します。ウメ子のプロデュースする映画は日本国内でのヒットのみならず国外でも高く評価されるようになります。
「ロス疑惑」
 ウメ子は70本以上の映画を製作しながら、たびたび暴力団と交渉して横浜港にオープンセットを建てたり、浅丘ルリ子の父親の借金を半分にまけさせたり、石原裕次郎に代わって撮影妨害を止めさせたりします。監督の権力が絶大だった他の映画会社と異なり、ウメ子はプロデューサーが絶対的権力を持つ構造をつくりあげます。やがて石原裕次郎が自身のプロダクションを設立して独立すると、ウメ子は映画界から引退して大阪万博の仕事に専念しながらテレビのバラエティ番組に出演し始めます。そんな中、甥の三浦和義が保険金目的で妻を殺害した疑念「ロス疑惑」で世間が騒ぎだし、和義にウメ子が実母だとずっと信じていたと告白されスキャンダルに巻き込まれます。ウメ子は和義の父であるウメ子の実兄と絶縁、本名を水の江瀧子に改名して芸能界を引退します。

-国立国会図書館 National Diet Library

青森県 Aomori-Ken

羽仁 もと子 女史

Ms. Motoko Hani

1873 - 1957

青森県八戸市 生誕 

Born in Hatinohe-city, Aomori-Ken

「私どもは志を同じうする女性の団結によって、愛・自由・協力による新社会の建設に努力します」

"We will strive to build a new society based on love, freedom and cooperation through the unity of women."

羽仁もと子女史は日本における女性ジャーナリストの先駆けであり、家計簿ならびに主婦日記の考案者です。また、夫婦で自由学園および婦人之友社を創立。家庭と社会をつなぐ全国組織を展開します。

Motoko Hani is a pioneer among female journalists in Japan and the inventor of household account books and housewives' diaries. Together with her husband, she founded Jiyū Gakuen and Fujin-no-Tomo-sha. They developed a nationwide organization that connects women-centric households and society. 

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 明治時代の新しい女性文化の源泉『女学雑誌』を熱心に読んでいたもと子は、16歳で上京。キリスト教主義による明治女学校で学ぶため、築地明石町教会で洗礼を受け、『女学雑誌』主筆で明治女学校校長の岩本善治に学費の免除を手紙で懇願します。入学許可と共に女学誌の仮名つけの仕事をもらい、寄宿料に当てます。爆発的な人気を獲得した、岩本夫人である若松賤子女史による日本初訳のバーネット『小公子』は彼女が校正しています。また規則正しい寄宿舎生活は清々しく進歩的で深い印象を彼女に与えます。もと子は入学翌年に帰郷して尋常小学校や盛岡女学校の教員をします。家族の反対を押し切って結婚するもまもなく離婚。再度上京し、同窓生である女医の吉岡弥生の家事手伝いをしながら、報知社(現・報知新聞社)の校正係に応募して職を得、日本で初めての女性ジャーナリストとなります。3年後に同僚の羽仁吉一と結婚。ふたりは同じ境遇の若い家庭にむけて、家庭生活誌『家庭之友』(後に「婦人之友」と改題)を創刊。家計簿、主婦日記を創案、予定と予算で筋道の立った生活を広めます。もと子は読者に、身近な人を集めて自主勉強会・読書会を開催することを呼び掛け支援。各地に友の会が生まれ、さらにもと子を中心に「全国友の会」が設立され、農村生活改善運動、北京生活学校、終戦後の引き揚げ者援護事業、各種展覧会や講習会の開催など、社会へ向けた様々な事業を展開します。さらに娘のために文部省の高等女学校令によらない女学校自由学園を創立し、もと子は園長に就任します。詰め込み教育と子供自由主義教育を批判、本当の自由主義の教育を目指します。83歳で逝去するまでたくさんの著作を残しています。もと子の発想の実現には経営面で支える夫吉一のサポートが常にありました。

-羽仁もと子記念館 Motoko Hani Memorial Museum

-婦人之友社 Fujin no Tomo Sha

-自由学園明日館 Jiyugakuen Myonitikan

-自由学園 Jiyu Gakuen

太祖婆

Ms. Taiso-Ba

1700頃 - ?

青森県八戸市 生誕

Hachinohe-city, Aomori-ken

太祖婆は目の見えない女性の仕事としてのイタコの創始者です。江戸時代中期に青森県八戸市周辺で盲目の巫女として活躍。熊野巫女・比丘尼に学びながら山伏惣禄・鳥林坊とその妻・高舘婆に祈祷また口寄せなど巫技を継承、盲目の女性をイタコとして組織化させました。

 Taiso-ba is the founder of Itako as a profession for visually impaired women. She was active as a blind priestess in the vicinity of Hachinohe City, Aomori Prefecture, during the mid-Edo period. While learning from Kumano shrine maidens and nuns, she inherited the techniques of divination and spirit possession from Yamabushi ascetic leader Tōryōbō and his wife, Takadachi-ba. She organized visually impaired women into Itako, following their traditions.

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古代のシャーマンを起源とする巫女は、男性の神職によ神社の組織化に比例して、社会的地位は段々と低下神がその時々に巫女に憑って託宣をして祭らせたものが、男子の神職によって日時と場所を一定させた儀式として行われるようになり、巫女の本来の職務は失われ軽視され経済的に圧迫され、多くの巫女は神社を離れて古き伝えの呪術を以て世に処すようになります。民間の巫女には特に盲目の女性が重用され、太祖婆も村から村へまわって活躍します。一方、平安期に朝野を通じて熾烈なる信仰を集めていた熊野信仰は鎌倉期に衰え始め、社僧神人等の生活を維持するために修験者は護摩ノ灰を頒布して諸国を勧進、巫女達は口寄せの呪術師または地獄極楽の絵解き比丘尼として日本国中に向って漂泊の旅に出るようになります巫女又は比丘尼は売色比丘尼と化し多大な収益を得るようになるも風紀を乱していました。太祖婆は、オシラ神はじめ熊野巫技に学びつつも、性的職業婦と化した巫女の末路を憂えます。一方、巫女から祈祷と呪術を取り入れた男性修験者は、道教・仏教を交えて拡張、多くは巫女を妻として民間信仰を味方につけて圧倒的な支持を得ていました。太祖婆は、山伏をまとめる支配頭で合った鳥林坊とその妻・高舘婆にこれまで培った巫技を継承、視覚障害の女性の生業としてイタコを組織化・確立させます。師匠のイタコについて修行し、経文や巫業の作法を学び、厳しい入巫式を経て一人立ちします。以降、青森南部のイタコは民間の巫女ならびに地域の人々のカウンセラーとして大切に継承されていきます。

-青森県立郷土館 Aomori Prefectural Museum

「力いっぱいの、その女の戦いの苦しさに、私はときどきわあーっと喚声をあげたくなることがある」

"In moments like these, I sometimes feel the urge to let out a heartfelt cheer for the strength and struggles of that woman's fight."


淡谷 のり子 女史 

Ms. Noriko Awaya

 1907 - 1999

青森県青森市 生誕

Born in Aomori-city, Aomori-ken


淡谷のり子女史は日本のシャンソン歌手の先駆けです。特に戦時中の弾圧下でも美しい化粧また衣装を身にまとって死地に赴く兵士また家族の心を慰めるように歌い続けました。

Ms. Noriko Awaya was a pioneering Japanese chanson singer. Especially during the wartime oppression, she continued to sing, adorned in beautiful makeup and costumes, offering solace to soldiers in the battlefield and their families.

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ごんぼ掘り

のり子は青森屈指の豪商の呉服屋「大五阿波屋」に2人姉妹の長女として生まれます。30人を超す奉公人を抱え店先はいつもにぎわい、のり子は当時は珍しい西洋人形や洋菓子を与えられ何不自由なく育ちます。のり子3歳の時に青森大火で店は焼失、父・彦蔵は再建を目指して商売に奔走するもまもなく店は人手に渡ってしまいます。次々と「差し押さえの紙が家財がに貼られていく中でも、のり子は気に入った布地・帯を「ゴンボ掘り」する大のおしゃれ好き。リボンをひらひらさせて女学校に通い出し始めるころ、親戚からも見放され酒と女に溺れていた父は家族を置いたまま別の女性と姿を消してしまいます。「女だって必死になったら飢え死にすることはないでしょう」黙って夫に従って耐えてきた母・みねは、故郷を離れ2人の娘を連れて上京します。のり子と妹・とし子は母の勧めで、三浦環のような歌手また音楽教師になるべく東京音楽学校(現東京芸術大学音楽課)また青山学院所学部のピアノ科に通います。のり子はクラシック音楽の基礎を徹底的に学びオペラ歌手を目指します。実家が徐々に貧しくなるとともに、妹・とし子が目を患い高額な治療費の工面に奔走します。のり子は学校を1年間ほど休学、絵画のヌードモデルを務めるなどして生活費を稼ぎます。なかでも画家・田口省吾からは学費・治療費など献身的なサポートに加え求婚を受けますが、妹・とし子の目が快復すると、のり子は復学して再びオペラ歌手を目指します。声楽の指導法を確立したリリー・レーマンの弟子でもあるソプラノ歌手・久保田稲子の指導を受け、のり子は29歳の時に東洋音楽学校を首席で卒業、声楽家としての一歩を踏み出します。「どんなに苦しくても生活に負けないことよ。本当の芸術を極めていかなかったら音楽をやった甲斐ないじゃないの。」

「からきじ」

世界恐慌が始まる頃、のり子は卒業後もそのまま母校に残って研究科に籍を置きます。母校主宰の演奏会ではクラシック歌手として活動するも、家計を支えるために「久慈浜音頭」「マドロス小唄」など流行歌も歌い、東京・浅草の「電気館」のステージに立って映画館の専属として歌います。「低俗な歌を歌った」ことが堕落と見なされ、母校の卒業名簿から抹消されます(後年復籍)。レコード会社でシャンソンのカバー曲「ドンニャ・マリキータ」「暗い日曜日」を吹き込むと大ヒット。日本にシャンソンブームを巻き起こします。続いて「別れのタンゴ」「傷心の歌」のヒットでタンゴの女王、「別れのブルース」「雨のブルース」のヒットでブルースの女王と呼ばれ、売れっ子歌手となります。レコード会社のセクハラ男達から逃げ回る中、ジャズピアニストの和田肇と結婚するもまもなく離婚。酒好きが高じて酒場を経営したり、漫才師を引き連れて上海豪遊したり、恋愛をエンジョイしながら「淡谷のり子」楽団を結成第二次世界大戦中では、どんなに婦人会はじめ軍部に強制されてもモンペをはかず、細い眉を描き、濃い口紅をつけ、パーマをかけ、美しい衣装を身にまとってステージに上がります。戦後は、米軍のキャンプまた将校クラブで歌い始め、妹・としこのピアノとともに各地を巡業します。レコード会社と宣伝屋のセクハラ男達による「新人あさりはじめ新人歌手による「女の切り札」が入り乱れる中、のり子は自らの楽団と舞台はじめラジオ・TVで歌い続けます。のり子は「じょっぱり」ならぬ「からきじ」気質を通して、歌手として音楽批評家として大活躍しながら92歳で逝去します。

-青森市 Aomori-city

-日本コロンビア NIPPON COLUMBIA Co., LTD 

岩手県 Iwate-Ken

「人には溢るる様な愛をかけなければならない」

"You have to give people overflowing love."


淵沢  能恵 女史 

Ms. Noe Fuchizawa

1850 - 1936

岩手県花巻市石鳥谷町 生誕

Born in Ishidoriya-tyo, Hanmaki-city, Iwate-Ken


淵沢 能恵女史は韓国女子教育に献身し韓国女性教育さらに韓国フェミニズムの道を開きました。日韓婦人会を創設、李朝厳皇貴妃の支援のもと、李貞淑女史と協力して淑明女学校(のちの淑明女子高等普通学校)を設立・運営しながら近代韓国女性の指導者を育てました。

Ms. Noe Fuchizawa was a dedicated woman who devoted herself to women's education in Korea. She founded the Japan-Korea Women's Association and, with the support of Lady Yi Cheong-wan, the Empress Consort of the Korean Empire, she cooperated with Ms. Yi Jung-suk to establish and operate Shukmyeong Women's School (later known as Shukmyeong Girls' High School) while nurturing modern Korean female leaders.

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「勉強がしたい」

能恵は奥羽で生まれまもなく、下級武士の父・武一と母・カルの養女として育てられます。幼いころは父が教える寺小屋で学び、履物屋に奉公人に出されてからも個人宅に漢文を習いに通います。23歳で結婚するもすぐに離婚、日本初の近代製鉄所で発展していた釜石にいる兄の元に身を寄せます。能恵は福沢諭吉の『学問のすすめ』『西洋事情』を読んで西欧文化にひかれ、29歳のときにお雇い外交人鉱山技師G・パーセルのメイドになり一緒にアメリカに渡ります。ロサンゼルスで1年、さらにサンフランシスコのミス・プリンスの元で2年メイドとして働きながら、洗礼を受けて英語と家政を学びます。帰国後、同志社女学校に入学。年長の能恵は寄宿生活をしながら同期生の面倒をよくみるも、宣教師との意見衝突また学費工面のため退学。上京して東洋英和女学校、一橋高等女学校、下関洗心女学校、福岡英和女学校で教師となりますが、病気のため辞任します。

「愛くるしい朝鮮子女の為に」

50歳の能恵は東京で梅屋文具店を開店、学校運営に関わる様々な人々と人脈を築きます。55歳の時に、貴族委員の子爵岡部長職夫妻と韓国視察旅行に赴き、余生を韓国の女子教育に捧げる決心をします。能恵は韓国皇室へ働きかけ日韓婦人会を創設、李朝厳皇貴妃の支援を受け、1906年明信女学校(後に明新高等女学校、淑明高等女学校と改名)を開校。韓国初の女性校長の李貞淑と相互に信頼関係を結んで学校運営を行います。能恵は学監兼主任教師に任じられ、生徒と寝食をともにしてキリスト教精神の下に献身的に教育に当たります。韓国併合後も、皇民化政策を拒否、3・1独立運動に参加、 抗日示威運動で連行された生徒を体を張って守ります。韓国女性の指導者を養成するための女子専門学校の設立ならびに大学課程の設置を準備をしながら86歳で永眠。淑明の校庭でキリスト教式による学校葬が行われました。 

-いわての文化情報大事典 Iwate Cultural Information Encyclopedia

-同志社大学 Doshisya Univ.

宮城県 Miyagi-Ken

二階堂  トクヨ 女史 

Ms. Tokuyo Nikaido

1880 - 1941 

宮城県大崎市三本木町 生誕

Born in Ozaki-city, Miyagi-ken

「女子体育は女子の手で。」

"Women's sports by women"

二階堂トクヨ女史は、日本初の女子体育専門学校の創立者です。男性と対等であり平等である「女性」のための教育に尽力。イギリスのクリケットとホッケー、チュニックを日本に持ち込みました。

Ms. Tokuyo Nikaido was the founder of Japan's first women's physical education specialized school. She dedicated herself to education for women, emphasizing equality with men. She introduced cricket, hockey, and tunics from England to Japan.

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トクヨは運動嫌いの文学少女でした。15歳で准教員検定に合格、地元の三本木小学校で准教員となります。さらに福島民報の社長・小笠原貞信の養女となって福島県尋常師範学校(現・福島大学)へ入学。高等小学校正教員の資格を得て卒業後、油井尋常高等小学校で教員になります。さらに女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)に入学、師範学校女子部・高等女学校の教育・倫理・体操・国語・地理・歴史・漢文の7科目の教員免許を取得して卒業。石川県立高等女学校(現・石川県立金沢二水高等学校)で体操教師として採用されます。はじめは身も心も疲弊するも数か月すると自身の体調が良くなっていることを発見し、夏には井口阿くり女史が講師を務める3週間の体操講習会を受講、スウェーデン体操にのめりこみます。さらにカナダ人宣教師のフランシス・ケイト・モルガン女史のもと独自の体操レッスンを受けます。ついには石川県を回って小学校教師向けに体操の指導を行うようになります。また高知県師範学校(現・高知大学教育学部)へ出向、高知県でも体操講習会を開きます。30歳でトクヨは二階堂姓に戻り、母校の東京女子高等師範学校の助教授となり、井口阿くり・永井道明の両教授の補佐をします。

トクヨはイギリスのキングスフィールド体操専門学校に留学、女性参政権擁護者である校長マルチナ・バーグマン=オスターバーグ女史のもと、生理学・解剖学・衛生学の理論、教育体操・医療体操・舞踊・競技の実技、教授法を学びます。管理の行き届いた寄宿舎、1日5回の食事、動きやすいチュニックの制服、ホッケー・ラクロス・水泳・ダンスなど運動の楽しさを実感するとともに、女性体育教師の社会での活躍ぶりに驚きます。

帰国後、東京女子高等師範学校教授ならびに臨時教員養成所教授となり、ダンス・体操・遊戯・スポーツの指導を行い、夏休みには自ら体操講習会を開催して日本各地を飛び回ります。さらに女性体操教師に呼び掛け「全国体操女教員会」(後の体育婦人同志会)を立ち上げ自ら会長に就任、ならびに雑誌『わがちから』を創刊、女子体育の重要性を社会に訴えます。1922年41歳の時に私財を投げ打ち、「女子体育は女子の手で」行うべく二階堂体操塾を開きます。女子体育の研究機関と女子体育家(女性体操教師)の養成機関を兼ねた塾で、家庭教育や社会教育までを視野に入れた全寮制の女子教育を実施します。1926年日本女子体育専門学校に昇格・改称、日本初の女子体育専門学校になります。晩年、高知県での教え子の戸倉ハルの尽力により東京女子高等師範学校に体育科が設立され大いに喜びます。

-日本女子体育大学・二階堂トクヨ資料展示室  Tokuyo Nikaido Memorial Museum

土浦 信子 女史

Ms. Nobuko Tuchiura

1900 -  1998

宮城県仙台市 生誕

Sendai-city, Miyagi-ken

土浦信子女史は日本女性初の建築家です。同じく建築家の夫・土浦亀城とともにフランク・ロイド・ライトの元で修業、モダンデザインならびに都市住宅の先駆けをたくさん手掛けました。

Ms. Tsuchiura Shinko is Japan's first female architect. Alongside her husband, architect Tsuchiura Kameki, she trained under Frank Lloyd Wright and worked on numerous pioneering projects in modern design and urban housing.

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信子は1900年に宮城県仙台市で政治家・吉野作造の長女として生まれます。母・たまのは信子を育てながら仙台で小学校勤務を続け、父・作造が東京帝国大学で政治学勉強するのを支えました。信子が6歳の時に、父は母と末の妹を連れて、袁世凱の長男・袁克定の家庭教師として天津に赴任、北洋法政專門学堂で教鞭を執ります。信子が10歳の時にようやく母らと再会するも父は欧米留学へ。ようやく帰国して東京大学で政治史講座を担当する父のもとに母と7人きょうだいそろって上京します。信子は東京女子高等師範学校附属高等女学に入学。その頃、父・作造の講演を聞いたことがきっかけで自宅に出入りするようになっていた東京大学建築科の学生・土浦亀城と知り合います。21歳から夫亀城とともに帝国ホテル設計を任されていたフランク・ロイド・ライトの手伝いをします。やがて建設費の問題でライトは帝国ホテル設計の任を解かれアメリカに引き上げます。夫の大学卒業を待って信子23歳のときに夫婦で渡米、カリフォルニア州ロサンゼルスとウィスコンシン州スプリンググリーンにあるライトの事務所で2年あまり働きます。信子26歳のときに夫婦で帰国。信子は基本的な製図の知識と技術は身に付けるも正規の建築教育を受けておらず、アメリカの通信教育で建築設計の勉強を続けます。夫・亀城は大倉土木(現・大成建設)に勤めはじめます。信子33歳のときに夫婦で土浦亀城建築設計事務所を開設、自邸を含む多くの住宅を設計します。ライトの厳格なスタイルはじめ国際的・近代的なスタイルを反映、ブロック積みを木枠の漆喰パネルに置き換え、材料や間取りの標準化といった建設の効率化・経済性を通じて日本住宅全般の改善に努めます。信子35歳のときに竣工した夫婦の邸宅は、採光と換気を考慮した大きな開口部や、合理的に考えられた間取り、水洗トイレやボイラーを始めとする最新設備を備えた住宅で、当時の雑誌記事等にも積極的に取り上げられます。信子は「日本唯一の女建築家」と注目を集めるとともに、主婦向けの雑誌で現代のインテリアデザインまたライフスタイルについて解説して人気を集めます。しかしながら信子はまもなく建築の仕事を途中であきらめ、写真・抽象画の政策に従事するようになります。彼女の作品のほとんどは夫の名前で登録され、信子が女性として建築分野で直面したであろう課題については何も示されていませんが、当時はまだ女性は穢れており神聖な建築現場から排除すべしという風潮がありました。1998年逝去。

-国際女性建築家会議日本支部 Union Internationale des Femmes Architectes Japan

秋田県 Akita-Ken

井口 阿くり 女史 

Ms.Akuri Inokuti

1870 - 1931 

秋田県秋田市 生誕

Born in Akita-city, Akita-ken

「身心の健康美が十分に発揮されなければ,本当の美人とは言えない」

"true beauty cannot be achieved without the full expression of physical and mental health."

井口阿くり女史は日本の女子体操教育のパイオニアです。アメリカで普及していた様々な国の体操・バスケットボールを日本に持ち帰り指導・実践しながら、日本で最初に体操服としてセーラー式上衣と膝下ショートパンツを導入、日本の女子体育を定着させました。

Mis. Akuri Iguchi is a pioneer of women's gymnastics education in Japan. She brought various gymnastics and basketball styles from countries that were popular in America back to Japan and taught and practiced them. She was the first to introduce sailor-style tops and knee-length shorts as gymnastics uniforms in Japan, establishing women's physical education in the country.  

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阿くりは戊辰戦争に功績のある勤王士族の娘として生まれ、東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)を無試験で入学、助教諭を務めます。さらに私立毛利高等女学校の教頭を務めます。日清戦争の勝利に伴い、男性社会を支え、強い日本人を産み育てる良妻賢母教育が定着します。彼女は、文部省より教育学研究のためアメリカ留学を命じられ、ボストン体操師範学校に入学します。帰国後、『各個演習教程』において当時最新の体操法を全国に広め、女子・男子を通じた体育教育における第一人者となります。ならびに遊戯としてバスケットボールを初めて日本に紹介、阿くりの教え子達によって全国の女学校に広まります。さらに宮内省御掛となり皇女の体操指導をします。しかしながら、女子体育は旧来の女性観や美人観「女性らしさ」「不健康な美人」と対立するものであり、女子体育指導者は女子体育振興を目指す過程で理論や科学的研究と同時に,新しい美人観としての「健康的な美人」「健康な母」「国民の母」という啓発活動を行うことが必要不可欠でした。井口あくり女史も,「身心の健康美が十分に 発揮されなければ,本当の美人とは言えない」と述べています。

-秋田県立博物館

-Akita Prefectual Museum

山形県 Yamagata-Ken

田澤  稲舟 女史

Ms. Inabune Tazawa

1874 - 1896 

山形県鶴岡市鶴岡五日町川端 生誕

Born in Tsuruoka-city, Yamgata-Ken

「男程おそろしくけがらはしきものはなし」

"Nothing is more terrifying and ugly than a man."

田澤稲舟は樋口一葉と並ぶ明治の女性作家。近代的な女性の複雑な自己主張を表現している、フェミニズム文学の先駆者です。

Tazawa Inafune is a female novelist of the Meiji period, who admired as much as Ichiyo Higuchi. She is a pioneer to expresse  modern women's desires or complex identities on literatures.

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錦は医師の長女として生まれるも、新聞や雑誌に投書をする文学好きでした。朝暘小学校高等科を卒業後、上京して共立女子職業学校(後の共立女子大学)図画科に入学。投稿をきっかけに山田美妙に師事、美沙の指導を受けた小説「医学修行」で田澤稲舟として21歳でデビュー。樋口一葉に続く女流作家として評判となります。続いて「しろばら」を掲載、男嫌いの変わり者のヒロインは、頼りにする乳母の手引きで華族の放蕩息子にクロロホルムを嗅がせて犯された末に投身します。近代的自我に目覚めた不幸な女性を描くも、森鷗外や内田不知庵ら当時の男性作家らからは非難を受けます。この年に2人は結婚するも、錦は夫の女性問題で苦悩します。郷里に帰って病床にありながら小説を発表します。22歳の時、肺炎と睡眠薬過剰摂取で死去。自殺未遂として新聞で報道され、山田美妙は文壇から駆逐されます。同じ年に彼女の遺稿「五大堂」が発表されます。流行男性作家が子爵令嬢と逃避、クライマックスで男は我に返って迷うも可憐な箱入り娘が物の怪のように男を死地へ誘因、二人で投身します。さらに翌年の彼女最後の遺稿「唯我独尊」では、伯爵の妻となった女が自殺を図るも愛する男による開腹手術の末にハッピーエンドで結ばれる男女を描いています。

-庄内日報社 Shonai News

佐藤 千夜子(本名 佐藤千代)女史
Ms.Chiyako Sato / Chiyo Sato
1897 - 1968
山形県東村山郡天童村(現:天童市)生誕
Born in Tendo-city, Yamagata-ken

佐藤千夜子(本名 佐藤千代)女史は、日本初のレコード歌手第1号。レコード第1号『波浮の港』『鶯の夢』、映画主題歌第1号『東京行進曲』コマーシャルソング第1号は『初恋小唄』、地方小唄第1号『須坂小唄』『三朝小唄』。
Ms. Chiyako Sato (Chiyo Sato) is Japan's first recording singer. She recorded the first Japanese record hits, "Nami Ura no Minato" and "Uguisu no Yume", the first movie theme song "Tokyo March", the first commercial song "Hatsukoi song", and the first regional folk songs "Suzaka song" and "Misasa song".

「歌行脚」
 千代は、天童屈指の問屋を営む父・吉三郎、母・マツの長女として生まれます。母親の影響で4歳の頃から天童教会の日曜学校に通って、キリスト教と讃美歌の感化を受けて育ちます。天童小学校高等科を卒業後すると上京、英語の通弁士(通訳)になるため普連土女学校(普連土学園の前身)に入学。すぐに歌や音楽の勉強をする機会を求めて青山学院に編入します。オペラを鑑賞した千代は、音楽教師の個人指導を受けて音楽の勉強を続け、4年目に念願の東京音楽学校(東京芸術大学の前身)に入学を果たします。しかし、授業は物足りなく、東京の中央会堂教会に出入りして聖歌隊員となります。讃美歌を独唱する千代は、売り出し中の作曲家・中山晋平に見出されます。詩人の野口雨情を加えて新しい歌を宣伝して周る「全国歌の旅」に参加します。全国各地で「新民謡・新童話コンサート」を開催します。「こがね虫は金持ちだ」「かねぐらたてた くらたてた」千夜子の歌をみんなが追掛けます。「俺は河原の枯れすすき 同じお前も枯れすすき どうせ二人はこの世では 花の咲かない枯れすすき」みんなが千夜子の東北なまりの歌声と親しみやすいメロディーに熱心に耳を傾けます。

「小唄ブーム」
 ラジオ放送が開始されると、千代は29歳のときに、NHK愛宕山放送局から中山晋平作品集をラジオを通して歌います。佐藤千夜子の芸名で、日本ビクターから『波浮の港』『鷲の夢』でレコードデビュー。「磯の鵜の鳥ゃ 日暮れにゃ帰る 波浮の港にゃ 夕焼け小焼け 明日の日和は ヤレホンニサ なぎるやら」「梅の小枝で 梅の小枝で 鶯は雪の降る夜の夢をみた 野にも山にも雪ばかりサラ サーラと雪ばかり」レコード第1号は飛ぶように売れて15万枚の大ヒット。翌年、菊池寛原作の小説『東京行進曲』が日活で映画化され、主題歌を千代子が歌います。「昔恋しい銀座の柳 仇な年増を誰が知ろ ジャズで踊ってリキュルで更けて 明けりゃダンサーの涙雨」映画主題歌第1号は25万枚を売り上げ、「歌謡曲」というジャンルを確立。次々とヒット曲を発売、全国の老若男女が千夜子の歌声を真似て口ずさみます。続いて、病薬イメージから脱却したいカルピスの社長・三浦海雲に依頼されコマーシャルソング『初恋小唄』(北原白秋作詞)を日比谷公会堂で歌唱。「いとし前髪 李(すもも)の花よ せめて初恋また一と目 汲めよカルピス 命の泉 春はみなぎる 血はたぎる」。「初恋の味カルピス」が大ヒットすると、地方観光の宣伝に『須坂小唄』『三朝小唄』をレコーデイング、地方小唄ブームを起こします。

「古事記オペラ」
 日比谷大音楽堂での講演後、楽屋の千夜子を高松宮殿下(宣仁親王)が訪ね、ドイツ語翻訳した古事記のなかの歌謡を歌唱するよう依頼されます。古事記のドイツ語訳事業の目玉、『三諸歌』プロジェクト。雅楽の造詣の深い古い神官の家系の木下祝夫(後の香椎宮)が楽譜とドイツ語訳を担当。千夜子は一世一代の名誉として、声楽の本格的な研鑽の為にイタリアに旅立ちます。現地ではオペラの勉強の一方で、日本の民謡を広めることに尽力。イタリア政府から功績を称えられます。5年後に自信満々で帰国すると、流行歌を控えて『三諸歌』の完成を待ちます。やがて戦争に突入。千代子が南方戦線の慰問をして周る間に、東京大空襲で『ドイツ語訳古事記』『三諸歌』は消失。終戦後は芸能界を離れ、荒廃した東京にオペラと歌曲の花を咲かせようと「音和会」に参加。音楽家仲間たちと無料で慰安発表会を開催してまわります。千夜子の死後7年後にようやく『ドイツ語訳古事記』が完成、さらに20年を経てオペラ『古事記』がドイツで上演されます。

-『天童市史 別巻 下 (文化・生活篇)』天童市史編さん委員会 編1984年
-『あゝ東京行進曲』結城亮一

福島県 Fukushia-Ken

新島八重 女史

Ms. Yae Neesima 

1845 - 1932

福島県会津若松市

「美徳を以て飾とせよ」

"Adorn yourself with virtue."

新島八重女史は幕末・明治時代に女性砲術師、女性教育者、従軍看護婦、女性茶人として活躍、新しいライフスタイルを実践した近代女性の先駆者です。

Ms.Yae Neeshima is a pioneer of modern women in the late Edo and Meiji periods, actively engaging in various roles such as female artillery officer, female educator, military nurse, and female tea practitioner. She practiced a new lifestyle and made significant contributions. 

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八重は会津藩の砲術師範に生まれ、裁縫よりも家芸の砲術に興味を示し、特に実兄の覚馬から洋式砲術の操作法を学びます。藩校日新館の教授を務めていた川崎尚之助と結婚。鳥羽・伏見の戦いでの敗北を機に新政府軍から『逆賊』として扱われ、戦火は会津各地そして鶴ヶ城にも広がり籠城戦となります。八重は断髪・男装し、会津若松城に籠城、自らスペンサー銃を持って奮戦します。城内の砲兵隊として最前線の北出丸に銃を据え、土砂を詰めたよろいびつを並べて、肉薄してくる官軍を日々撃退。官軍の攻勢を鈍らせ持久戦に持ち込み、会津藩の陣容を立て直しますが、同盟諸藩とともに会津も降伏。敗戦後、捕虜となった夫と生き別れ、夫の教え子で米沢藩士・内藤新一郎の世話で1年ほどを米沢で過ごします。

その後京都府顧問となっていた実兄・山本覚馬からの手紙を頼って上洛。まもなく英語と聖書を学び始めます。兄の推薦により京都に新設された新英学校及女紅場の権舎長・教導試補として働きます。八重は機織りや礼法・習字などを教えながら、京都府知事のもとに学校運営に関して頻繁に交渉に行きます。この頃、兄の元に出入りしていたアメリカン・ボードの準宣教師・新島襄と知り合い結婚。新しい西洋文化を実践しながら、キリスト教主義の学校建設(後の同志社大学)を目指します。ならびに、ドーン宣教師夫人と開いた私塾デイヴィス邸での女子塾、同志社分校女紅場、同志社女学校の創設にも携わります。

さらに、大学設立から10年後に京都府看病婦学校と同志社病院を設立してまもなく夫と死別。八重は日本赤十字社の正社員となります。日清戦争が始まった年、日赤京都支部と京都看病婦学校から看護婦40 名を率いて広島第三予備病院に行き4ヶ月間救護活動を行います。看護婦取締役として、怪我人の看護ならびに看護婦の地位向上にも努めます。その後、八重は日赤の補習科で看護を学び、 看護学修業証を得て看護学校の助教師を務めます。日露戦争時には、再び各地の病院を精力的に慰問、大阪陸軍予備病院で2ヶ月間救護活動を行います。 これらの功績によって勲七等宝冠章ならびに勲六等宝冠章が授与されます。

八重は女紅場で茶道教授・円能斎の母である伊藤幾久寿と知り合い、茶道に親しむようになります。49歳で茶道裏千家に入門、若い女性たちに茶道を教授し始めます。さらに京都府立第一高等女学校と京都市立第一女学校に八重は「茶義科」を開設。教授に圓能斎と幾久寿を迎えます。それまで男性中心だった茶道は、女子教育の一環として復活します。86歳で逝去するまで女子教育また社会奉仕に活発に活動を続けました。

-會津藩校 日新館 Aizu-Nisshinkan 

-同志社大学 Doshisha University

田部井  淳子 女史

Ms. Junko Tabei

1939 - 2016

福島県田村郡三春町出身 生誕

Born in Tamura-gun, Miharu-machi,Fukushima-ken

「女子だけで海外遠征を」

"Overseas Expeditions for Women Only"

田部井淳子女史は女子登攀クラブを設立し、女性として世界で初めて世界最高峰エベレストおよび七大陸最高峰への登頂に成功しました。生涯で76か国の最高峰・最高地点に登頂しながら、安全で楽しい登山の指導・山岳環境保護の啓蒙活動に力を注ぎました。

Ms. Juneko Tabui is the founder of the Women's Alpine Club and the first woman in the world to successfully climb both Mount Everest, the highest peak on Earth, and the highest peak on each of the seven continents. Throughout her life, she climbed the highest peaks and points in 76 countries while dedicating herself to promoting safe and enjoyable mountaineering, as well as environmental conservation efforts in the mountains. 

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「ワァー登ったんだなぁ。

 淳子がはじめて山に登ったのは小学校4年の夏休み。山好きの担任の先生に引率されて学友4人と一緒に2泊3日で栃木県の茶臼岳1915mを大冒険。歩くうちにだんだん草や木がなくなって砂と岩だらけ。硫黄の変なにおいがして、地面がぶつぶつと煮たっている。病気がちで運動も苦手にも関わらず、わくわくどきどきしながら、先生また学友と励まし合ってゆっくり一歩一歩進んで頂上に立ちます。淳子は頂上から見下ろす風景の美しさに感動します。順位を競うこともなく選手の交代もなく、体育が得意な友だちと苦手な自分も一緒になって登り途中の風景も頂上にたどり着く達成感もともに味わう。淳子はすっかり登山に魅了されます。中学・高校の山岳部は女子禁制で入部を断念、年の離れた兄と一緒に安達太良山・磐梯山・吾妻山に登ります。
「どうしても白い山へ登りたい雪の山を歩いてみたい 

 上京して昭和女子大学の英米文学科に進学すると、寮生活のストレスで体調を崩します。ふさぎこんでいた淳子は友人に誘われて奥多摩の御岳に登ります。 ただ ひたすら一歩一歩登りながら頂上に立つと、確かな満足感と山を取り巻く自然の広がり・空気・あらゆるものが体中の臓器にしみわたります。それから友人2人で東京周辺の山々からはじめ、谷川岳・中央アルプス・八ヶ岳・北アルプス・南アルプス・北海道の山々を歩き回ります。雪山を登りたい淳子は、女性を受け入れている社会人山岳部を雑誌で探しだして入部。日本物理学会に就職して論文編纂に従事しながら、毎週末ヘルメットを被りロープを体に巻きつけて岸壁にへばりつきます。「白嶺会」では富士山での雪上訓練からはじめ冬山の五竜岳・谷川岳一ノ倉沢を目指し、「龍鳳登高会」では日本最大の岩場、谷川岳一ノ倉沢の奥壁・衝立岩、穂高岳の屛風岩を目指します。
「女同士で衝立山を登ろう」 

 本格的な登山にのめりこんでいく中、ヨーロッパ三大北壁の一つアイガー北壁をドイツ人女性が初めて登頂した話を聞きます。早速、淳子は佐宗ルミエと女性ペアを組んで谷川岳一ノ倉沢の衝立岩に雪期登攀します。女同士の登山では、歩く速度も岸壁をつかむ位置も同じ、着替えやトイレなど気を遣う面倒もない。淳子は今までにない満足感を味わいますが、数か月後、谷川岳で仲間を助けようとして転落死したルミエの訃報が届きます。淳子は登山家・田部井政伸と出会い結婚・出産。淳子は退職金で夫・政伸をヨーロッパのマッターホルンに送り出します。政伸はヨーロッパ三大北壁のグランド・ジョラス北壁・マッターホルン北壁の登頂に成功するも凍傷で足の指4本を切断します。淳子は夫とザイルを組む一方、女同士で何度も登攀合宿を行い、猛烈な勢いで山に登り続けます。

「女だけでヒマラヤへ行こう」
 1969年「女だけでヒマラヤへ行こう」を合言葉に、淳子は宮崎英子、関田美智子とともに「女子登攀クラブ」を設立。気兼ねのない女性だけの海外遠征の登山隊「アンナプルナ日本女子登山隊」(隊長:宮崎英子、副隊長:田部井淳子、 隊員:平野栄子、漆原知栄子、平川宏子、佐藤礼子、真仁田美智子、山崎茂利江、 医師:大野京子)を結成。女性には登れないという世間の偏見に向き合いながらスポンサー集めに奔走、猛者達の統率に苦心しながら選出メンバーとトレーニングや登山計画を練ります。1970年、高山病・スリップ事故・荷揚げでメンバーが紛糾する中、アタックメンバーに選ばれた淳子はヒマラヤ山脈アンナプルナⅢ峰(7555m)に登頂を果たします。さらに、「エベレスト日本女子登山隊」(隊長:久野英子、副隊長:田部井淳子、 隊員:真仁田美智子、奈須文枝、渡辺百合子、 平島照代、三原洋子、中幸子、種谷由美、塩浦玲子、永沼雅子、荒山文子、北村節子、藤原すみ子、ドクター:阪口昌子)を結成。1975年、雪崩に巻き込まれ胸部圧迫・打撲を負いながらも下山を断固拒否、アタックメンバーに選ばれた淳子は世界最高峰エベレスト(8848m)の女性世界初の登頂を果たします。
「一緒に富士山に登ろう」

 さらに淳子は女性登攀クラブを率いて、1992年女性世界初で7大陸最高峰登頂。さらに、アイガー、マッターホルン、グランドジョラスとエネルギッシュに登り続け76か国の最高峰・最高地点の登頂を記録。還暦前には、キルギス共和国のポベーダ峰(7439m)・イスモイル・ソモニー峰(7495m)、レーニン峰(7134m)、コルジェネフスカヤ峰( 7105m)、ハン・テングリ(7010m)の天山・パミール高峰五座に登頂を果たし、現地で「雪豹」の称号を贈られます。東日本大震災後、淳子は故郷福島はじめ東北の高校生たちを連れて富士登山をはじめます。仲間同士で日本一の富士山に楽しく登れるように、内気な子には声をかけて疲れた子は励まして、勇気や元気を持って前に進めるように頂上に立たせます。

-田部井淳子基金 Junko Tabei Foundation

-時事通信 Jiji Press Ltd.

茨城県 Ibaraki-Ken

山下 りん 女史 Ms. Rin Yamashita

1857 - 1939 

茨城県笠間市 生誕

Born in Kasama-city, Ibaraki-ken

「死なば死ね。生きなば、生きよ」

"If I die, die. If I live, live."

山下りん女史は日本初のイコン画家・女流聖像画家として東京神田のニコライ堂ほか各地の正教会教会堂の作品を手掛けました。

Ms. Yamashita Rin was Japan's first icon painter and female religious portrait artist. She worked on artworks for Tokyo's Nikolai-do Church and other Orthodox churches in various locations. 

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「家の犠牲になってたまるか」

 りんは笠間藩下級士族の父・重常と母・多重のもと兄と弟の3人きょうだいに生まれます。幕府軍と尊王攘夷派の天狗党の戦闘が繰り広げられる中、りんは寺小屋を開く祖父のもとで日本画また浮世絵を描いて過ごします。この頃、りんと同じ下級士族の娘の多くは豪農に嫁ぐも辛い生活に耐えかねて乳飲み子とともに心中していました。やがて、農家との結婚話を勧められたりんは画業を志して単身上京します。一度は家族に連れ戻されますが、夢を捨てきれずに再上京。家事雑事を一手に引き受けながら、豊原国周という浮世絵師に学び、次に川上冬崖に洋画を学んだ中丸精十郎に師事します。日本画の落日を目の当たりにしたりんは、親戚の伝手をたよって明治政府が創設したばかりの工部美術学校を受験、見事合格すると笠間藩より月謝の支援を取り付けます。

「こんなに感動させるのはなぜだろう」

 りんは日本初となる女性美術学生6人のひとりとなって、イタリア人画家アントニオ・フォンタネージの指導を受けます。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ、ミレー、絵画の技法だけでなく反映されている西洋哲学・思想を説くフォンタネージの指導のもと、りんは新鮮な驚きまた喜びとともに無我夢中で学びます。やがて、政府の予算削減のあおりをうけフォンタネージが辞任、後任として無名の画家が雇われると学生たちは次々と自主退学して美術団体「十一会」を旗揚げします。その頃、りんは同窓生の山室政子の影響でキリスト教のロシア(ハリストス)正教に入信。来日していたニコライ神父からイコンを学ぶためにロシア留学を勧められます。

「民衆の叫びや祈りが聴こえる」

 横浜を発ったりんは香港・サイゴン・シンガポール・セイロン・アデン・アレキサンドリア・コンスタンチノープルをスケッチしながら経由、ウクライナのオデーサから入港して汽車でペテルブルクにたどりつきます。ノヴォデーヴィーチ修道院に住み込み、フョードル・イヴァノヴィッチ・ヨルダーンの指導のもとイコン制作に従事します。西洋美術の影響に葛藤するロシアのビザンチン伝統美術を目にしながら、りんは独自のイコン描画を模索します。りんは日本画や肖像画を描いて馬車台を工面、エルミタージュ美術館に通います。社会の矛盾を告発し新時代を希求する闘争が渦巻くロシアで、修道院はじめ取り巻く周囲との軋轢を体験しながら、りんは5年の留学を2年できりあげて帰国します。帰国後は日本正教会の女子神学校にアトリエを構え、ニコライ堂はじめ関東地方や東北・北海道を中心に300点あまりの聖像を残します。生涯独身をとおした山下りんは61歳の時に帰郷、81歳で永眠します。

-白凜居 山下りん記念館 Hakurinkyo Rin Yamashita Memorial Museum

「女子の地位を男子同等に進ませるの覚悟なり」

"I am determined to advance the status of women to the same level as that of men."


園 輝子 女史

Ms. Teruko Sono

1846 - 1925 

生誕地:茨城県土浦市


園 輝子女史日本初の女性代言人(今でいう弁護士)として活躍。アメリカで自伝を出版後アメリカで講演を行って寄付を募り、東京麻布で倚松園女塾を開校しました。

Ms. Teruko Sono is Japan's first female Daigennin (now called a lawyer). After publishing her autobiography in the United States, she gave speaches in the United States, solicited donations, and opened the Koshoen Jojuku school in Azabu, Tokyo.

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「お姫様代言」

 輝子は、医師の父のもと裕福な家庭で育ち、水戸藩士と結婚し娘を出産。まもなく離婚、娘を引き連れて実家に戻ります。女子学校を経営する妹の春子の指導の下、彼女は茨城で教師として働きます。まもなく上京、親戚のつてで代書の仕事をはじめます。次に代言人を手伝い始め、自ら弁護活動を始めます。28歳で日本初の女性代言人となって、政治家はじめ多くの裕福な顧客を持ち活躍します。小倉袴に靴で髪は元祖束髪の輝子を見るために裁判所にはたくさんの見物客が押し寄せます。代言人を続けながら、浅草並木町で氷店を開いて顧客を広げます。この頃、代言人規則が制定され試験による免許制に、さらに弁護士法が制定され弁護士は成年男子のみとなります

「メイド」

 福沢諭吉の勧めで女子教育を学ぶために貯金と支援金を集め、39歳で輝子はアメリカに渡ります。サンフランシスコに到着すると銀行が破産、メイドとして働きながら小学校で英語を学び始めます。サンフランシスコ福音会の美山貫一牧師はじめ世界クリスチャン婦人矯風会WCTUの女性達に助けられ、カリフォルニア大学を卒業。自伝『テル・ソノ:日本の改革者』を出版します。サンフランシスコ婦人会(園輝会)を創立、日本にキリスト教に基づいた女子教育のための学校を建設する資金を集めるため、ボストンのWCTUはじめアメリカ国内で講演活動を始めます。さらにロンドンに移り、学術や講演活動に従事し、女性参政権新聞やサフラジェット紙と交流を持ちながら、さまざまな教会で講演を行います。輝子はイギリスでも寄付金を巡った裁判を起こして熱弁をふるいます。

「日輝法尼」

 49歳で帰国、輝子は自宅の横に倚松女塾を開講。美山貫一牧師、呉大五郎、渋沢栄一がスピーチを行い、キリスト教徒はじめ津田仙・津田梅子、政治家の婦人らが来賓します。毎年 30 人の生徒を受け入れ、2 人の女性教師で、読書、習字、作文、算術、英学、家計簿記、修身、家事経済及び衣食住に関する事、衛生及び育児法の要旨、礼儀法、和洋裁縫、和洋料理、和歌及び挿花等、を教えます。この頃、女子学生のバイブルと言われた『女学雑誌』で、イギリスでの園とマクレーン婦人との資金をめぐる裁判について、宗教家・軍人・政治家を巻き込んで論争が起こります。輝子は法廷に訴へ、ある新聞社を閉鎖させると同時に名誉毀損の謝罪をさせます。まもなく日本のキリスト教会の指導者らと対立、アメリカ園輝会を解散され支援が途絶え、学校は閉鎖に追い込まれます。その後、輝子は伊豆伊東で伊東婦人会を結成、女性教育活動を続けます。晩年は私財を教育事業・福祉事業などに寄付、池上本門寺で出家、日輝法尼となって余生を過ごします。

-国際日本文化研究センター International Research Center for Japanese Studies, Kyoto, Japan


「里に入りてまた一聲(こえ)や杜鵑(ほととぎす)」
"Entering the village, another cry of the cuckoo"

奥原 晴湖 (本名 池田 せつ子)
Ms. Seiko Okuhara
1837 - 1913
茨城県古河市 出身
Born in Koga-city, Ibaraki-ken

奥原 晴湖女史は日本の代表的な男装の女流文人画家です。彼女の「詩書画一致」の作品は幕末から明治の激動の世にいきる人々に熱狂的に支持されました。
Ms. Seiko Okuhara is the most renowned female Literati Painter in Japan. Her "Harmony in Verse, Script, and Brushwork" were enthusiastically supported by the people living in the tumultuous times spanning the end of the Edo period to the Meiji. She is acclaimed alongside Noguchi Shohin as a pair of distinguished female Southern-style painters of the Meiji era.

「墨吐煙雲楼」
 せつ子は、古河藩士の父・池田繁右衛門政明、蘭学者を伯父にもつ母・きくの間に生まれます。幼い頃より男勝りの性格で、学問より柔道・剣道・絵を好みます。10歳から叔父である古賀藩家老で蘭学者の鷹見泉石のもと学問を学び、17歳から古賀藩の南画家・枚田水石に書画を学びます。せつ子は男達からの縁談また口説きを切り捨てては投げ飛ばし、名文・名画を片っ端から模写しながら生涯独身を決意。江戸で画家として身を立てようと考えるようになりますが、古賀藩は女子が単身で江戸はもとより旅に出ることを禁じていました。29 歳のとき、猛反対する家族を説得して、叔母の嫁ぎ先である奥原家の養女となって江戸に出ます。文人墨客の住む上野の下谷に居を構え、「墨吐煙雲楼」と看板を掲げ、「晴湖」と号します。

「不忍池集」
 せつ子は自筆書の扇子を名刺代わりに、先輩書家・画家らのあいさつ回りを始めます。外見の美しさと覇気縦横の筆力と談論風発の応対ぶりが評判となり、同年の暮れに不忍池の三河屋で盛大なるお披露目会を開催します。詩人の大沼枕山・鱸松塘・上村蘆洲、書家の関雪江・高斎單山・山内香溪、画家の鈴木鵞湖・松岡環翠・坂田鴎客・福島柳圃・服部波山など25名もの大家の参加と合筆「不忍池集」を受けます。せつ子は他人の書画会にも努めて顔を出しながら、清の画家の鄭板橋を発掘して研究、豪快洒脱な即興書画で人気者となります。父からの支援金25両が尽きると、兄から米を送ってもらい、質屋通いをしてしのぎながら、男達と対等の交際をするための酒代にあて、せつ子は酒豪としても男子と角逐して一歩も引けを取りません。

「容堂攻略」
 明治維新の混沌時代、知識階級の中で文人画が流行。特に大権政家の山内容堂の一面風流文雅の雅宴へ参会しようと文人墨客が先を争います。せつ子もようやく招待を受けると、当日主席する先輩大家をひとりひとり手土産とともに訪ねてまわり、自分の席順を最上席にすること、ならびに自分の画を褒めるよう約束をとりつけます。会の当日、他の出席者が勢揃いして着席した頃、せつ子は鮮やかな黄八丈の2枚重ねの上に黒ちりめんの羽織とだるまがえしの粋な髪型で参上。一同のどよめきの中を最上座に着席。会が始まると、せつ子は得意の啖呵とダイナミックな筆また先輩大家の援護評価で容堂を圧倒します。容堂はじめ木戸孝允の贔屓を得たせつ子は、皇后の御前揮毫の機会を得、南画家として一躍有名になります。総勢300人以上の門人を抱えながら、鷲津毅堂・小長井小舟・市河萬庵・川上冬崖らと雅会「半間社」を結成、文人画の研究と隆盛に尽力します。

「繍佛草堂」
 男子の断髪廃刀令が出ると、女子の断髪は禁止じられるも、44歳のせつ子は持病のためと申し立て散切り頭にします。黒羽二重で五つ紋の男羽織に仙台袴、男の様に振舞います。おびただしい数の来客と揮毫依頼に、せつ子の借家は大豪邸に、せつ子の体は相撲取りのように、せつ子の筆はますます豪宕無類となります。やがて、岡倉天心とフェノロサが始めた新日本画運動が盛り上がって美術学校創設に発展。文人画非芸術論におされ、せつ子ら文人書家・画家らは人々から顧りみられなくなります。せつ子は55歳の時に、埼玉県熊谷の草深い川上村に画室付きの住宅「繍佛草堂」を建て、同じく散切り頭の女弟子・晴嵐(せいらん)と共に隠棲します。2人で長期にわたって北越方面松島、東北方面、関西方面を旅をしながら風光また名書画を研究の資とします。日露戦争がはじまると、せつ子のもとに俄かに揮毫依頼や訪問客が増え、門前の草は踏み絶やされます。一変して神韻で雄渾蒼潤な書画を描き続けながら、せつ子は77 歳の生涯を閉じました。

-古河歴史博物館/鷹見泉石記念館・奥原晴湖画室

「おいしいワインを造るには、善い人間にならないと」
“Good wine, Good person.”

ラドクリフ・小林 敦子
Ms. Radcliffe Atsuko Kobayashi
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茨城県下妻市
Born in Shimotuma-city, Ibaraki-ken

ラドクリフ・小林敦子女史は日本女性初の醸造家でワイナリー経営者。醸造コンサルティングを介して日本ワインの基礎を築く。2013年にオーストラリ ア・アッパーハンターバレーにてワイナリー「Small Forest」を設立。
Ms. Radcliffe Atsuko Kobayashi is Japan's first female winemaker and winery manager. Build the foundation of Japanese wine through brewing consulting. In 2013, she established the winery "Small Forest" in Australia's Upper Hunter Valley.

「日本発の女性ワイン醸造家」
 敦子は当時話題のバイオテクノロジーの道に進むべく東京農業大学に進学、長い伝統と発酵という生物学的作用で生み出される日本酒の研究を何となく始めたところ、深い関心を抱くようになり、大学卒業後は日本酒醸造の道に進みたいと考えるようになります。しかし当時の日本酒業界に女性が進むのは難しく、協和発酵に入社して新商品の試験・日本酒やワインなどのサンプル分析などを担当します。やがて友人が経営する栃木県のワイナリー「ココ・ファーム」に転職。知的障害者厚生施設「こころみ学園」の親たちが立ち上げたワイナリーで障害者と一緒に生活しながら、ワイン造りに本格的に携わり始めます。経験と知識を得るため、カリフォルニア州のナパやソノマに何度も出掛けます。「日本初の女性ワイン醸造家」 としてメディアなどで取り上げられてから3年後、同業の友人達と醸造コンサルティング会社を起ち上げます。都農ワイン・シャトー酒折・安曇野ワイナリー・奥出雲ワインで、ワイン造りのための機器選定・テストラン・新しいワイナリーの起ち上げの支援などを行います。女性という外面にばかり注目が集まり仕事の中身を見てもらえずフラストレーションがたまる中、取引先また先輩醸造家に「あの底抜けに明るいワイン造りを見てきたら」。敦子はワイン造りの本場フランスのボジョレー・ミュルソー・ボルドーを回ります。フランスで子供を育てるように愛情をかけてワインを造る人たちの生き方に感銘を受けます。さらに世界の先端をいくオーストラリアに渡ってヴィンテージワイン造りを学びます。やがてオーストラリアを代表するワインの製造会社ロー ズマウント社に入社。敦子は価格帯の高いワインのブドウから瓶詰めまでの工程管理を担当。畑とセラーを出入りして3万樽のワインの面倒をみながら、1日に200〜300樽の試飲をしてブレンドします。収穫時期には他州また海外から集まる300人を超える従業員とチーム一丸となって、ジュースや発酵中のワインで服や髪をベタベタにしながら24時間2交代体制で3カ月以上かけてワインを造ります。「日本の小規模なワイナリーでやっていたのはいったい何だったんだろう。」

「日本初の女性ワイナリー経営者」
 ダイナミックなワイン造りに魅せられ7年後、他社との合併によりローズマウント社は本拠点アッパーハンターバレーから撤退、オーストラリアの鉱山会社マラバー社がワイナリーの土地を買い上げます。敦子はロー ズマウント社を退社。浦霞醸造元から誘いを受け、1年半の間だけ宮城県塩竈市で念願の酒造りに携ります。大先輩2人と酒造りの工程の各部署を1週間ずつ経験する研修を経て、日本酒の「酒母」を造る担当「モト屋」に。敦子は、東北の短い夏・厳しい冬の寒さ、そこに住む住民の格別な温かさ、新鮮な魚介類や豊富な野菜をあつかう商店、信仰のもと「塩竈神社」などから本当の豊かさを実感します。「このような環境で生活している人たちが造るから、この日本酒はこういう風においしいのだ」「ワインは所詮、ただの飲み物でしかない。飲みやすい。おいしいをつくろう」酒造りの経験をきっかけに、ロンドンのワイン・コンペ「インターナショナル・ワイン・チャレンジ」で日本酒のジャッジを任され、ワインのジャッジも始めます。一方、アッパーハンターバレーでは、鉱山会社マラバー社は環境影響の調査ならびにブドウ栽培農家はじめ地元住民との調整を経て、「露天掘り」ではなく「地下堀り」で炭田開発を行って地表でワイナリーの継続を決定、日本人の敦子に白羽の矢が立てられます。オーストラリアのワイン発祥の地アッパーハンター・バレーはローズマウント社の撤退を皮切りに、最盛期8社あったワイナリーは撤退や閉鎖を余儀なくされ2社に激減。「地域に貢献できるのでは」と考えた敦子は「スモール・フォ レスト」を起ち上げます。マラバー社とリース契約を結び、前のオーナーが残していったワイナリーの設備を受け継ぎ、ワイン原料のブドウをマラバー社の農園から購入します。内陸部からやってくる夏場の嵐・ヒョウ、-3~45℃の気温変化、山火事・野焼の煙害など、9月(発芽)~11月(開花)~1月(収穫)の間ブドウの品質管理から目が離せません。「醸造はその時にしかしてあげられないことの連続。毎日愛情をかけ、細かい部分に気を配って、小さなことでもやれることはすべてしてやることでワインは素晴らしいものに仕上がっていくのだという確信がある。」失敗また試行錯誤を経てようやく自社畑のブドウで仕込みをすることができるようになると、オリジナルブランド「By Atsuko」でインターナショナル・ワイン・チャレンジで銀賞を受賞します。

-SMALL FOREST
-International Wine Challenge

-都農ワイン

-シャトー酒折ワイナリー

-安曇野ワイナリー

-奥出雲葡萄園

群馬県 Gunma-Ken

向井千秋 女史 

Ms.Chiaki Mukai

1952 -  

群馬県館林市

Born in Tatebayashi-city, Gunma-ken

「好きなことを好きと言える社会の空気を醸成したい。」

"I want to foster a social atmosphere where people can say Like what they like."

向井 千秋女史はアジア人初の女性宇宙飛行士です。1994年にスペースシャトル「コロンビア号」に搭乗、ライフサイエンスや宇宙医学などに関する実験を実施しています。

Ms. Chiaaki Mukai is the first female Asian astronaut. In 1994, she flew aboard the Space Shuttle Columbia, where she conducted experiments related to life sciences and space medicine. 

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彼女は幼いころ母親が営むカバン店の売れ残りのモスグリーンのランドセルあてがわれ学校でいじめられます。「どうして私だけ緑なんだろう、嫌だ」。ところが、ある時ふと気づきます。「みんなのランドセルは黒と赤なのに、緑は私しか持っていないじゃない?」自分のユニークネスに気づいたらなんだか自信が持てるようになったと言います。休みの日には中学校の理科教師である父親と一緒に学校に行って実験器具を用意する手伝いをしたり、冬には学校がある日でも家族でスキーに出かけます。弟の足が悪くてみんなにいじめられていたため、「病気などを理由にいじめられる人がいるならその病気を治してあげたい。みんなで楽しく生きていきたい。」と医師を目指します。弟の通院する東京大学病院を目指し、両親のつてを頼り都内に下宿。猛勉強の末、慶應女子高校に入学、慶應義塾大学医学部医学科に合格。またスキー部に所属、東日本医学部スキー大会の回転部門で優勝、大回転部門で3位の成績を収めます。慶應義塾大学出身者として女性外科医第一号となり、石原裕次郎の担当医の一人を務めています。

日本人宇宙飛行士募集の記事を目にしてすぐに応募、1次書類選考を通過すると、仕事帰りに毎日プールで1時間泳ぎ、英会話教室に通います。筆記試験と心理検査、医学検査と負荷検査、米航空宇宙局(NASA)のジョンソン宇宙センターでの最終選考をクリア、実験担当のペイロードスペシャリスト(PS、搭乗科学技術者)の3人に採用されます。訓練を開始して4カ月後に米スペースシャトル・チャレンジャーが爆発、7人の乗組員が死亡する大惨事が起きます。スペースシャトルの打ち上げ再開に日本人は選ばれず、4年後のエンデバー号には毛利衛氏のみ選ばれ、向井氏は後方支援部隊に配属されます。彼女は次のスペースシャトルに搭乗するために、各国の研究者のもとへ足を運んで面談、自分に投票してもらえるよう交渉、現地の技術者と一緒に実験に取り組みます。毛利衛氏の帰還後1週間でスペースシャトル・コロンビア号への搭乗が決まります。1994年、ペイロードスペシャリストとして参加、女性の宇宙最長滞在記録を更新しながら宇宙酔いにも睡眠障害にも悩まされることなく、各国の研究者から託されたやり遂げます。特に「宇宙メダカ」の誕生は話題になります。さらに帰還4年後2度目のスペースシャトル・ディスカバリーに搭乗。

帰還後に宇宙教育プログラムを独自に開発。「夢実現のツール」教育活動に従事しています。ならびに東京理科大学副学長として、国際化・女性活躍・宇宙教育プログラムなどの推進に貢献。宇宙航空研究開発機構(JAXA)の技術参与として、宇宙の平和利用や国際関係の調整に奔走。日本学術会議副会長を務めています。

-日本宇宙航空研究開発機構 JAXA

原口 鶴子 女史 

Ms. Tsuruko Haraguchi

1886-1915 

群馬県の富岡市 生誕

Born in Tomioka-city, Gunma-ken

「人間生活最大の問題の一つは、われらが生命の中に潜める、精神的肉体的の力を如何にして最も能く消費するかといふことなり。」

"One of the greatest challenges in human life is how to effectively utilize the mental and physical powers latent within us to their fullest extent."

原口鶴子女史は日本女性初の心理学博士Ph.Dです。精神疲労に焦点をあてた産業心理学の先駆けです。さらに女性の自立、国際研究、夫婦に関する研究などを行い、日本における女性権運動に影響を与えました。

Ms. Tsuruko Haraguchi is the first Japanese woman to earn a Ph.D. in psychology.  She was a pioneer in the field of industrial psychology, with a focus on mental fatigue. Additionally, she conducted research on women's empowerment, international studies, and studies related to marriage, influencing the women's rights movement in Japan.

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鶴子は裕福な農家の次女として生まれ、高崎女子高等学校を2年飛び級して卒業。日本女子大学に入学、英文科文系の学位を取得します。アメリカで心理学を学んだ成瀬仁蔵学長による講演・訓示、松本亦太郎による「実験心理学」に深い関心を持ちます。単身ニューヨークに渡り、コロンビア大学ティーチャーズ カレッジの EL ソーンダイク研究室にて、心理学の博士号取得を目指します。‘知的作業と疲労による学習の効果’をテーマに実験に取り組みました。彼女自身が実験台となって、4桁の数字を掛け算したり、ジョン・デューイの著作にある英語の文章を日本語訳したりして心的疲労を測っています。彼女は 5 年かけて博士論文を完成させ、さらに厳しい面接を経て、「Mental fatigue―心的作業と疲労」により文学博士(Ph.D)授与されます。その日の午後、留学生仲間の原口竹次郎と結婚式を挙げます。

帰国後、鶴子は2児をもうけて夫のサポートをしながらワーキングママとして、講演・翻訳・執筆活動をしたり、母校で時おり講義をしたり、実験心理学教室の設立に携わったりもしています。新しい女性像・夫婦像として社会の注目を集めています。彼女は『幸せな思い出』を出版、米国滞在中に観察した日本とアメリカの女性の教育・文化の違いが書かれています。結核を患い、29歳の若さで亡くなります。

-Psychology's Feminist Voices

「自然水陸にめでる草花は数々あるが、私は泥から生えて泥に染まらず清水の浄めを受けても素朴さを保ち、遠ければ遠いほど香り漂い、けっして近寄れない蓮が好きだ。」 -周敦頤『愛蓮説』
"There are many flowers that prosper both in water and on land, but I admire the lotus, which grows from the mud yet remains unstained by it. It receives the purification of clear water and retains its simplicity. The farther it is, the more its fragrance wafts, and I am fond of the lotus that one can never approach." -"The Discourse on Loving the Lotus" by Zhou Dunyi


島 隆 女史
Ms. Ryu Shima
1823 -
群馬県桐生市梅田町一丁目 生誕
Born in Kiryu-city, Gunma-ken

島隆女史は日本最初の女性写真家です。江戸で夫・島霞谷とともに様々な西洋の知識はじめ写真技術を身に付け、女性として写真師の活動を開始。彼女の作品はフォト・アートの先駆けと言われています。
Ms. Ryu Shima is the first female photographer in Japan. Together with her husband, Kasumiya Shima, she acquired various Western knowledge and photography techniques in Edo. She began her activities as a female photographer, and her works are considered pioneers in the field of photo art.

「大奥の秘書」 
 隆は、桐生の旧家・岡田家に9人きょうだいの長女として生まれます。徳川幕府の大奥秘書を務めた田村梶子の主宰する「松声堂塾」に6歳の時に入塾、読書・書道・和歌・作法を学びます。15歳で父を19歳で母を亡くした隆は20歳で決められていた婚約を蹴って、菜の花の咲くころ馬に乗って単身江戸に出て、師匠の推薦により一橋家の書記係として奉公をはじめます。やがて、そこで通訳として同家に出入りしていた島霞谷と出会い結婚します。隆33歳、霞谷は29歳の再婚でした。

「和製ダビンチ」 
 夫・霞谷は、時の将軍・家定の御前揮毫により注文が殺到する南画家となりながら、横浜で西洋人からオランダ語・英語・写真技術・油絵・音楽を学び、時の将軍・慶喜の湿板写真を撮影して幕府の洋学研究所に入所。オランダ語文献を翻訳しながら天文学・医学・地理学など西洋の研究に没頭します。夫婦で好奇心と向学心を共有しながら、やがて江戸下谷久保町に写真館を開業します。ガラス板の表面にコロジオン溶液をむらなく塗り、硝酸銀溶液に浸して感光性を持たせホルダーに装填、構図やピントを調整したカメラに設置、レンズを開いて数十秒露光、乾かないうちに撮影・現像をその場で行う、という薬剤調合の知識また現像処理の繊細な作業が求められる「湿板写真」をまもなく身に付けた隆は写真師を名乗ります。多忙な夫に代わって写真店を切り盛りします。

「フォトアーティスト」
 幕末の戦乱を生き延びた二人は自宅に活版製造所を開設。夫・霞谷は自ら発明した活版印刷用鉛活字で医学書を大学東校(現在の東京大学医学部)から刊行して、わずか1か月足らず43歳で死去します。隆はしばらく東京で写真業を続けながら身辺整理をして55歳で郷里に戻ります。「近頃写真師は多くなったが、技術にはそれぞれ優劣がある。」「私は写真技術を極めているので、情感ある奥深い仕上がりになる。私の写真館に確かめに来て!」隆は自信満々の広告文を出して写真館を開業します。高額でなかなか繁盛しないものの、江戸の人脈を活かして後輩を育成したり、小口の金融業を営んだり、和歌・書・琴を友としたり、村議会に減税を求めたり、用水路開墾に反対したりし、マンガン160俵を東京に売りに行ったりしながら、77歳で他界。隆が肌身離さず持ち歩いていた、カボチャを掲げて扇子を広げて笑う霞谷をカメラに収めた隆の作品は、フォトアートの先駆けと言われています。

-群馬県立歴史博物館 Gunma Museum of History
-桐生タイムス Kiryu Times

栃木県 Totigi-Ken

石塚 倉子 女史

Ms. Kurako Ishizuka

1686 - 1758 

栃木県栃木市藤岡町富吉 生誕

Born in Totigi-city, Totigi-ken

「吹き送る 風のたよりも 誰が里の庵に匂ふ 梅の初花」

"blow off A scent from Whose village first flower of plum"

近代前期の代表的な在野の女性歌人です。家督を継ぎながら、和歌や紀行文を綴り、『室八嶋』『花短冊』を華麗に上梓しました。江戸期の浮世絵師・喜多川歌麿「近代七才女詩歌」で紹介されています。

Ms. Kurako Ishizuka is a representative out-of-field female poet of the early modern period. While taking over the family estate, he wrote waka poems and travelogues, and published "Muroyashima" and "Hanatanzaku" brilliantly. Introduced in Edo period ukiyo-e artist Utamaro Kitagawa's "modern seven-year-old female poetry".

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 倉子は江戸時代中期舟運でにぎわう巴波川下流の豪農の家に生まれます。先祖は皆川藩主(栃木県)の和歌の朋友になるほど代々和歌に通じ、倉子も若い時から和歌や文章を綴り親しんでいます。ならびに、実家は江戸の文人や画家がたびたび宿泊していたことから江戸花壇の重鎮荷田在満や儒学者の服部南郭などと親交を深め、多くの作品を残しています。六人兄弟ながら、兄の貞基と倉子の二人を残して兄弟は若死にし、兄も家督を倉子に譲り佐渡に渡って没します。倉子は二十二歳で鈴木度易を婿に迎え、家督を継ぎながら、「春秋亭」と号して季節のうつろいを歌い続けます。36歳と37歳のときに旅日記、『日光 紀 行 妙義紀行』を書き残します。70歳の時に「室八嶋」を出版、水墨画の挿絵が添えられ、序文には荷田在満から田舎で和歌の道に励んだ才女を称賛する言葉が寄せられています。晩年の作品「花短冊」は和歌とともに春夏秋冬四季折々の花や鳥を色鮮やかに立体的にあしらった華麗な作品を出版。後に浮世絵師・喜多川歌麿「近代七才女詩歌」に「下野室八嶋倉子女」の美人画とともに倉子の和歌「吹き送る 風のたよりも 誰が里の 庵に匂 ふ 梅の初花」が添えられて残されています。

-栃木市藤岡町歴史民俗資料館 Tochigi-Fujioka Historial Museum

-栃木市教育研究所 Tochigi municipal institute for education research

埼玉県 Saitama-Ken

荻野 吟子 女史

Ms. Ginko Ogino

1851 - 1913 

埼玉県熊谷市俵瀬 生誕

Born in Kumagaya-city, Saitama-ken

「人その友の為に己の命をすつる之より大いなる愛はなし」-新約聖書ヨハネによる福音書15章13節

"Greater love has no one than this, to lay down one's life for one's friends."-John 15:13

荻野吟子女史は、近代日本における日本人女性初の国家資格を持った医師であり女性運動家です。

Ms.Ginko Ogino is a physician and women's rights activist, becoming the first Japanese woman to hold a national medical license in modern Japan.

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 吟子は裕福な庄屋に生まれ、17歳で豪農に嫁ぎますが夫に淋病を移され離婚を決意、複数の男性に囲まれ下半身を晒す恥辱的な診察から女性医師になることを決心します。故郷で学問をはじめ、22歳で上京。国学者で皇漢医の井上頼圀に師事、 東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)の一期生として入学します。卒業後、大学時代の恩師のつてにより、私立医学校・好寿院に特別に入学、男性に混じって3年の修養後、東京府と埼玉県に医術開業試験願を提出するも却下されます。吟子は『女学雑誌』に投稿して訴えます。実業家の高島嘉右衛門から国学者の井上頼圀ならびに内務省衛生局局長の長与専斎の支援者とともに、吟子は奈良時代から女医が存在していた事実を示す文献『令義解』を探し出し、女性の医術開業運動を始めます。2年後に公許女医が認められ、ようやく室町時代から封建制度の下で禁止されていた女医が解禁、吟子は34歳で公許女医第1号となります。同年、東京湯島に診療所「産婦人科荻野医院」を開業、繁盛して翌年下谷に移転するも、中産階級以下の患者には高額な医療費は払えません。吟子はキリスト教に入信、日本キリスト教婦人矯風会にも参加、女性たちの診療活動に加え、大日本婦人衛生会を設立、女性たちに衛生教育を広めながら、婦人解放運動等の社会的活動にも大きく貢献しました。43歳の時に、新たな夫とともに北海道開拓地にキリスト教による理想郷インマヌエルの建設を目指し、北海道久遠郡せたな町に診療所を開設。村の有力者に呼びかけ「淑徳婦人会」を結成、瀬棚日曜学校を創設します。さらに札幌に転住、婦人科・小児科を開業します。夫の死去と共に54歳で東京に戻り晩年まで診療を続けます。

-荻野吟子記念館 GInko Hagino Memorial Museum

千葉県 Tiba-Ken

佐藤 志津 女史

Ms. Shizu Sato

1851-1919 

千葉県佐倉市 生誕

Born in Sakura-city, Tiba-ken

「医術も美術も同じく人の心を癒します」

Both medicine and art heal people's hearts. 

佐藤志津女史は、現在の女子美術大学の基礎を築くとともに、その経営に才腕を発揮しました。

Ms. Shizu Sato laid the foundation for the current Joshibi University of Art and Design, demonstrating her talent for its management.

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 志津は、佐倉の蘭医学塾・順天堂第二代堂主となる佐藤尚中の娘として生まれ、幼いころから漢籍・国学・薙刀を習い、点茶・琴・手芸・礼儀作法を修めます。家に忍び込んだ盗賊を追い払った逸話が評判になり、佐倉藩主の娘・松姫の女中として採用され、城中で武家子女としての素養も身につけます。母の危篤により、父の愛弟子・高和東之助(後の佐藤進)を婿に迎え、第三代堂主・佐藤進の妻となって家業を支えます。戊辰戦争で夫は新政府軍の軍医となり、明治以降ドイツに留学。志津も日本赤十字社の活動を通じて婦人会活動にも積極的に参加、女性の自立支援を積極的に行いました。女性医師の高橋瑞子や吉岡弥生を支援します。父・尚中が亡くなると進が順天堂病院院長に就任、院長夫人となった志津は翌年に開館した鹿鳴館で社交性を発揮して人脈を広げていきます。さらに、私立女子美術学校創設者である横井玉子を支援、財政難で廃校の危機に瀕していた女子美術学校の校主となって経営建て直しに奔走します。「芸術による女性の自立と女性の社会的地位の向上を目指す」理念に共感した志津は、自ら教壇に立って修身や礼儀作法を教えます。まもなく校舎・寄宿舎が全焼する大事件がおこるも、事後処理に全力を尽くし翌年には新たに本郷区菊坂に新校舎を建て授業を再開します。さらに志津は私立女子美術学校を専門学校に引き上げるべく学則を改正、美術教師養成のための高等師範科を設けます。学生の作品が評価されるようになり、志津の死後から10年後に女子美術専門学校に昇格します。

-女子美術大学歴史資料室 Joshibi University of Art and Design History Museum 

「正解はひとつではない 」
"The answer is not singular."

山崎(旧姓 角野) 直子
Ms. Naoko Yamazaki / Sumino
1970 -
千葉県松戸市 生誕
Born in Matsudo-city, Tiba-ken

日本女性2人目の宇宙飛行士。宇宙飛行士の訓練ならびに子育てのマルチタスクをこなしながら、世界各国と連携して宇宙ステーションでの様々なミッションを成功させました。
The Second Japanese Woman in Space. Juggling astronaut training and parenting, she successfully collaborated with nations worldwide, accomplishing various missions on the International Space Station.

「私が宇宙船を造る!」
直子は自衛官の父と専業主婦の母と兄と一緒に、幼いころから星の観察会またプラネタリウムに出かけたり、宇宙戦艦ヤマト・銀河鉄道999・スターウォーズなどSFアニメや映画を見て宇宙にあこがれます。女性高校教師で宇宙飛行士のクリスタ・マコーリフさんの宇宙授業を楽しみにしていた直子は、1986年スペースシャトル・チャレンジャー号が打ち上げから1分で空中爆発する報道を見て、「私が宇宙船を造る!」と決意。

「私が宇宙飛行士になる!」
直子はお茶の水女子大学附属高校に進学、次に東京大学工学部で女子3人のみの航空学科を専攻。自然科学系の実験をこなしながら機械操作の技量を磨きます。卒業研究では、円形に並べた客室を回転させ人工重力を楽しむ宇宙ホテルを設計。さらに航空宇宙工学修士課程に進んで宇宙ロボットの自己学習機能ソフトを研究します。湾岸戦争を理由に猛反対する両親を1年かけて説得、1年間を宇宙ロボットの研究が盛んなアメリカのメリーランド州立大学にも留学します。直子は留学先で70代の現役ヘリコプター操縦士の女性に出会い、「私も宇宙飛行士になる!」決意します。

「宇宙飛行士ママと呼ばないで」
大学院卒業後、当時のNASDA(宇宙開発事業団)、現在のJAXA(宇宙航空研究開発機構)に就職。エンジニアとして、米国やロシア・カナダ・欧州諸国の様々な分野の技術を一つのシステムにまとめ上げます。3年目に「宇宙飛行士候補者」に応募。つくば宇宙センター内専用施設で1週間外部から遮断され、ライバル8人で共同生活しながら試験官が繰り出す課題に取り組みます。2回目で合格すると、訓練期間中に妊娠・出産を経てマルチタスクをこなしながら、11年目にようやくスペースシャトルのディスカバリー号に乗り込みます。

「日本から宇宙へ扉を開く!」
秒読み終了後、すさまじい轟音とともに8分30秒で地上から高度400kmの宇宙に到達。体がふわっと浮き上がって、塵や埃までもが宙に浮き美しく光に照らされます。直子は、地上管制官のサポートのもと、イタリア製・多目的補給モジュール『レオナルド』を、カナダ製・ロボットアームを使って、国際宇宙ステーション内アメリカの実験棟『デスティニー』に接続する作業を成功させます。地球帰還後は、宇宙での滞在経験を踏まえて、宇宙旅行の実現はじめ、常識を疑い発想の幅を広げながら多様な分野で多様な人々と宇宙への道を開拓し続けています。

-スペースポートジャパン
-JAXA

「自分に似合う服、日本の女性に似合う服をつくりたい」
"I want to create clothes that suit me and Japanese women."


杉野 芳子 女史

Ms. Yoshiko Sugino

1892 - 1978

千葉県山武郡横芝光町 生誕

Born in Yokoshimahikari-machi, Sanbu-gun, Chiba-ken


杉野芳子女史は日本初のファッションデザイナー、日本で最初にファッションショーを日比谷公会堂で開催、日本女性に洋裁技術ならびに洋装文化を広く普及させました。

Mis. Yoshiko Sugino is Japan's first fashion designer and held the first fashion show in Japan at Hibiya Public Hall, widely promoting Western dressmaking techniques and culture among Japanese women.

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「アメリカへ行けば何かあるに違いない」

芳子は地主の家に生まれ、婿養子父親離縁した母親のもとで育ちます。幼い頃から海の向こうのアメリカの話を聞いて育ち、入学年齢前から袴をせがんで年上のきょうだいと一緒に小学校に通い、人形づくりに熱中しながら千葉高等女学校を卒業。鉄道省初の女性職員となり、その後3年間小学校教師として働きます。1913年に念願叶って着物に袴姿で単身渡米します。芳子はニューヨークで自分に合う服をつくろうと決意、洋裁技術ならびに活動的で手軽な洋装生活を身に付けます。やがて自分で作ったドレスを着た芳子は建築家・杉野繁一と出会い結婚、夫と共に帰国します。関東大震災を経て、女学校の制服また女子の職場の制服に洋服が取り入れられるようになると、主婦業に専念していた芳子は日本女性に洋装の楽しさを教えたいという思いが日々募ります。夫をやっとのことで説得し、1926年3人の生徒から洋装塾・ドレスメーカースクールを自宅で始めます。それぞれの体型に合洋服を仕立てる芳子の技術が評判を呼んで生徒が押し寄せるようになります。ドレスメーカー女学院教師また経営者として苦労する芳子を、夫が理事長として学校運営を担って助けます。

「これからは、どうしても活動的で手軽な洋装生活でなければいけない」

芳子は「ドレメ式原型」を開発、洋服に仕立て服(オーダーメイド)しかなかった時代に、標準的な型紙を使ったセミオーダーメイドや既製服(レディメイド)といった効率的な製作方法を教育します。1926年から読売新聞家庭面に芳子の洋裁記事が34回にわたり連載。子供また婦人の服・小物などの「型紙」付き記事は洋装の普及に貢献しま。1936年日本初のファッション専門誌『D・M・J会誌』(ドレスメーカー女学院会誌)を創刊。1935年日本で最初のファッションショーを日比谷公会堂で開催。太平洋戦争が始まると、校舎国に接収され分校舎も空襲で焼失。戦時下の物資不足の中でも芳子は様々なデザインを提案、国家が強制する女性の「正しい服装」更生服に対して、更生服のファッション展覧会を開催します。終戦後、再び自宅から授業を再開すると入学希望者が最寄りの駅まで長蛇の列をつくります。1957年ベニスで行われた「国際コットン・ショー」に作品を発表、日本人デザイナー初の海外進出を果たします。杉野芳子はピエールバルマン、クリスチャンディオール、ジャックファットなどに学院生のデザイン審査を依頼するなど親交を持ち、日本と欧米のファッションの架け橋を務めました。

-杉野記念館  Sugino Memorial Museum

-ドレスメーカー学園 Dreaa Maker Gakuin

神奈川県 Kanagawa-Ken

和田 カツ 女史

Ms. Katsu Wada

1906 - 1993

神奈川県小田原市 生誕

Born in Odawara-city, Kanagaw-ken


「感謝と奉仕と愛の祈りの商人の道」

"A Merchant's Path of Gratitude, Service, and Love Prayers"

日本スーパーマーケット業界初の国外進出を果した八百半デパート創業者。TVドラマ「おしん」のモデルと言われています。

katsu Wada is a founder of Yaohan, the first Japanese supermarket industry to expand overseas. She is a model of Oshin. 

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「子供のために生きる」

カツは小田原の八百屋「八百半」の長女として生まれます。店の台所仕事を引き受けるかわりに、高等小学校から小田原高等女学校(後の神奈川県立小田原城内高等学校)へと進学、当時では数少ない女学生となります。教員に就職するか会社員や銀行員の妻となることを夢見るも、父親の一存で従業員の和田良平とカツを結婚させられ、夫妻で八百屋を継ぎます。カツは泣く泣く子供を立派に育てることを生きがいにすると決意、子供を大学に行かせたい一心で、朝5時に起き夜12時まで働きづめで積極的に働きます。24歳の時に熱海市銀座の旅館の軒先を借りて「八百半熱海支店」を開店。リヤカーを引いて得意先の旅館への野菜を卸しに行きます。熱海には町一番の八百屋があってトラック1台分の野菜を収納できる冷蔵庫を備えているのに対抗、カツは夜間も野菜を店に並べたままにして夫と交代で販売を始めます。夜露で野菜の新鮮さは増す上に、映画館やダンスホールなどで遅く帰宅する人々が店に寄るようになり、芸妓を連れた男性が見栄を張って高級な物をたくさん買うなど大繁盛します。平均睡眠4時間の生活が、十数年続きます。店もようやく軌道に乗り始め、生活も安定してきた矢先夫が倒れ長女が2歳で早世、息子達の子育てに苦悩します。カツは新宗教団体「生長の家」に入信し熱心な信者となります。

「感謝と奉仕の商売道」

「熱海大火」で20年かけて築いた八百半商店が一夜にして全焼。得意先である旅館の好意で、店の再建まで旅館の軒下を売り場として借りながら、さらに仕入先の好意で勘定をツケにしてもらいながら商売を継続します。カツは考えます。旅館相手の野菜卸事業は売上の割に資金繰りが苦しい。御用聞き・配達の手間の割に未回収金も板前への賄賂も負担が大きい夫を引き連れて、現金正札販売で有名なベニマル(現在のヨークベニマル)を福島県郡山まで見学に行きます。そこでは八百半の10分の1の広さの店舗に客が押し寄せ2倍以上も売り上げていました。早速、株式会社八百半食品デパートとして再出発、主に一般消費者相手に食料品の現金正札販売を始めます。品物を安く販売して世界一物価の高い熱海の住民たちの大評判になります。仕事が多忙を極める中、一部の従業員がストライキを起こして旅館に立てこもる事件が発生。カツは新宗教団体「生長の家」を取り入れた社員教育に力入れて社員を一つにまとめあげようとします。退職した女子社員の再雇用・育児休業・育児短縮勤務を業界でいち早く導入する一方で、信仰を受け入れない従業員は解雇していきます。まもなく長男事業を譲ると、カツは日本流通業初の海外進出を果たしたヤオハン社員の教育のために精力的に、シンガポール、コスタリカ、アメリカ、香港、マレーシア、タイ、中国、マカオ、イギリス、など16か国450店舗を飛び回ります。バブル崩壊と時を同じくしてカツが死去するとヤオハンも1997年に倒産します。

-静岡新聞 Shizuoka News

-NHKテレビ小説 おしん NHK TV drama OSHIN

"社会全般のことは両性双方の立場から観察・考慮して初めて円満な解決が得られます。"

 "A harmonious resolution can only be achieved by observing and considering matters related to society from the perspectives of both genders."


石渡 満子 女史 

Ms. Mitcuko Ishiwata

 1905 - 1974

神奈川県逗子市 生誕

Born in Zushi-city, Kanagaw-ken

石渡満子女史は日本初の女性裁判官です。婦人法曹普及会はじめ婦人人権擁護同盟を組織して、戦後の日本の女性の社会的自立をバックアップしました。

Ms. Mitsuko Ishiwata was Japan's first female judge. She established organizations such as the Women's Legal Profession Propagation Association and the Women's Rights Advocacy Alliance to support the social empowerment of women in post-war Japan.

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 満子は横須賀市桜山(今の逗子市)に、農学博士で養蚕産業を指導をする官吏の父親のもと4人姉妹の長女として生まれます。満子は東京女子高等師範学校(御茶ノ水女子大学)卒業と同時に婿養子を迎えて結婚するも8年後に離婚。法律に関心を持った満子は、女性が司法試験に合格しても裁判官また検察官になれないことに憤慨。長女として古い家柄と財産管理を背負いながら、女性のための法律専門学校を設立していた明治大学に進学します。戦争が激しくなる中も勉学に励み、39歳で卒業、40歳で司法試験に合格します。敗戦後、法律上の男女平等が実現され裁判官の道を選びます。出征後に音信不通となった夫、ソ連の抑留捕虜となった夫、終戦の混乱のために他の男性また中国人また朝鮮人と結婚した妻、など終戦後の未帰還者との離婚訴訟に満子は従事します。さらに戦後の不況による失業者の増大・生活苦による追い出し離婚の増大・少年少女の人身売買・地方婦人労働者の酷使が激増。満子は女性弁護士らと婦人法曹普及会を結成、生活に直結した法律講座を開催します。ならびに家事調停員また人権擁護委員らと協力して婦人人権擁護同盟を組織、実態調査・法律相談・訴訟・啓蒙活動を行います。女性を受けつけぬ暗黙のルールが存在する中、満子は45歳で女性初の判事補として東京地方裁判所に赴任。56歳で女性初の判事となり、関東各地の地方裁判所に赴任します。定年退官後は弁護士となり、第二東京弁護士会に所属。69歳で逝去。

-明治大学 Meiji Univ.

「女性は35歳以上年を取らない」
"Women don't get old after 35"

山野 千枝子 女史
Ms.Chieko Yamano
1895 - 1970年
神奈川県横浜市掃部山 生誕
Born in Yokohama-city, Kanagawa-ken

山野 千枝子 女史は日本の美容家の先駆者。日本にマーセルウェーブならびに美容法を広めた草分け。国産の化粧品・パーマネント機械・美顔機械を開発。ファッションモデルの前身である「マネキンクラブ」を創設。ファッションショーまた美人コンテストを全国で開催しながら最新の髪型・服飾・美容術を普及させます。
Ms. Chieko Yamano is a pioneer of Japanese hairdresser and cosmetologist, who spread Marcel Wave and beauty methods in Japan. She developed domestically produced cosmetics, permanent care machines, and facial beauty machines. She founded the ``Mannequin Club,'' which was the predecessor to fashion modeling, and held fashion shows and beauty contests all over the country to popularize the latest hairstyles, clothing, and beauty techniques.

「横浜」
 千枝子は、鉄道役人の父・三沢覚蔵と、甲斐の豪農の娘である母・ハマのもと5人兄弟の中でただひとり娘として生まれます。白鳥の様に美しい外国の貿易船、貿易美術雑貨また洋装を手掛ける兄たち、山の手にある異人館など、港横浜のエキゾチックな空気に刺激された智恵子は海外へのあこがれと興味を抱きます。戸部小学校の上級生になる頃には、英語の単語帳をいつも懐に忍ばせ、平沼高等女学校への進学を目指します。父親の失業により、鎌倉の師範学校で教員試験を受けたり、三井物産横浜支店の女性事務員の採用試験を受けたりしますが、千枝子は兄に頼み込んで、神戸家政女学校に進学。助手として教壇に立ちながら、大好きな英語の勉強に専念します。まもなく、アメリカの家政総支配人を名乗る山野末松との縁談話を持ち込まれます。「徒手空拳で10万円(現在の1億円)をつくった人です」千枝子は両親の反対を押し切って神社で式を済ませると、アメリカに渡ります。

「アメリカ修行」
 全荷物を盗まれ、千枝子は文字通り裸一貫でサンフランシスコの地に降り立ちます。ニューヨークに着くと、夫は白い台所着を着てせっせと水仕事を始めます。千枝子はトイレに駆け込んでひとしきり泣いてしまうと、アメリカ人銀行家の小間使いの1人として素直に働き始めます。千枝子は寝床の準備と子供の世話を担当。月曜と水曜は洗濯、火曜と土曜はアイロン掛け、木曜は大掃除、金曜は裁縫、家政の日課に従って専門家が見事な腕を揮うのを、千枝子は積極的に学びます。夫と共にブルックリン・ニューヨークを転々としながら生活を築き、神戸の兄の援助を得て美術商雑貨の店「ジャパニーズギフトショップ」を開きます。子育てのかたわら、女性雑誌『婦女会』に寄稿したり、アパートを在留日本人に貸したり、社交クラブでお茶をたてたり日本舞踊を‏披露したりしながら資金をためると、千枝子は世界中の女子が集まるニューヨークのワナメーカービューティースクールに入学。1年かけて卒業すると、メトロポリタンはじめ劇場から回されてくる鬘の手入れに追いまくられながら、師匠の技術を盗み見て最新のカットはじめパーマネントやマーセルウェーブを習得。同僚と独立して化粧品工場に通ったり毛製術・美顔術の勉強会に参加しながら美容院経営を学びます。

「日本の美容開発」
 まもなく千枝子は『婦女会』の婦人会の伝手で、帝国ホテルで海外観光団相手の美容室を開業する約束を取り付けます。ところが帰国すると帝国ホテルは火災にあって計画は白紙に。打ちひしがれる千枝子に『婦女会』社長・戸川竜氏の資金援助が舞い込み、東洋一の丸ビル内でアメリカ式美容院を開業します。当時の日本髪50銭(今の1000円)に対し、マーセルウェーブ・フェイシャル(美顔術)・スキャルプトリートメント(頭皮マッサージ)・マニキュアは1円(2000円)均一、カラー・パーマネント5円(10000円)。着物に調和するマーセル・ウェーブは大流行。芸能人はじめ日本中の女性たちの評判となり廊下は連日見学客で人だかりになります。千枝子は渋谷区に山野美容研究所を創設。浅草橋の日本理髪器具株式会社と協力して、美容器具の国産生産に取り掛かります。続いて、桃谷順天堂はじめ小林コーセーの化粧品開発の顧問を引き受けます。千枝子は日本で初めて紹介した、クレンジング化粧法・アストリンゼント(収れん)化粧水を紹介します。そして、発明家・久和原悦山氏の協力のもと国産パーマ機械・ジャストリーを製作。さらに眼科医・安達八乙氏の協力を得て赤外線美顔術を確立。日本の美容に革命を起こします。

「山野千枝子ビューティー・サロン」 
 千枝子は、1日中幕無しのファッション・ショーとしてマネキン・クラブ(ファッション・モデルの前身)を創設して百貨店協会に派遣をはじめます。左翼運動家の女性に潜入され分裂工作を受けたり、モデルの自殺未遂事件を新聞で非難されたり、自信が尽力した「東京婦人美容協会」から除名されたりしながら、全国各地でファッションショーならびに美人コンテストを開催しながら、髪型・服飾・美容術の講演また実演を広めます。次々と開発する美容技術・美容製品の権益争いに巻き込まれるうちに、戦時中のパーマネント排斥運動を経て敗戦。千枝子は焼き野原になった銀座つづいて横浜で、外国人に慣れた美容家を集めて、アメリカ占領軍婦人たちのための美容室を開業します。すると千枝子は世界一大好きなアメリカ人達の横流しと横領の隠ぺいの為にあらぬ嫌疑をかけられ美容室を追い出されます。千枝子は奮起して、第6回国連総会にオブザーバーとして参加、パリの最新美容を研究して周ります。新橋に「山野千枝子ビューティー・サロン」を開店。続いて渋谷に東京高等美容学校を設立。月に100万円以上を稼ぎ出す女性美容家たちを次々と全国に送り出します。

-『光を求めて―私の美容三十五年史』山野千枝子、サロン・ド・ボーテ1956年
-住田美容専門学校


新潟県 Niigata-Ken

「返らぬ少女の日のゆめに咲きし花のかずかずをいとしき君達へおくる」
"I send to you, my dear ones, a bouquet of flowers that bloom in the dream of a girl who will never return."


吉屋 信子 女史 

Ms. Nobuko Yoshiya

1896 - 1973

新潟県新潟市営所通り 生誕

Born in Eisyo-Street of Nigata-city, Nigata-ken


吉屋 信子女史は少女小説・同性愛文学の草分けです。代表作『花物語』『良人の貞操』で女学生はじめあらゆる世代の女性を魅了しました。当時の女性観・女性蔑視・女子教育の実態を描きつつ、日本の父権社会また男女間の恋愛への懐疑ならびに女性の同性愛を正面から論じたフェミニズム文学の先駆者です。

Nobuko Yoshiya is a pioneer in girls' novels and homosexual literature. Her masterpieces ``Flower Story'' and ``Good Man's Chastity'' captivated women of all generations, including schoolgirls. She is a pioneer of feminist literature, portraying the reality of women's views, misogyny, and girls' education at the time, as well as squarely discussing Japan's patriarchal society, skepticism about love between men and women, and female homosexuality. 

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「人のために働いた偉い人」

信子は5人兄弟の唯一の娘として新潟県庁官舎で生まれます。父・雄一と母・マサの兄弟5人の中で唯一の女児として生まれます。父・雄一は新潟で県警に務めた後に郡長となって一家で佐土・新発田・真岡・下都賀郡に移り住みます。信子は真岡小学校に入学。近くにキリスト教会があり、信子は牧師の娘たちと親しくなって日曜学校に熱心に通い始めます。この頃、父・雄一は渡良瀬川鉱毒問題にあたり、政府側(古河財閥の足尾銅山側)と農民側の間に挟まり苦悩します。吉屋家には農民側がをしばしば訪れたり、田中正造が直接交渉に赴いたり、緊迫したやり取りを信子は目撃します。やがて、父・雄一度重なる政府への上申も空しく、谷中村を水底に沈めるため強制土地買収・強制立ち退きの執行官吏として現地に派遣されます。母は家族のすべての荷を引き受け、信子の幼い弟は疫痢にかかって危篤状態に陥り、父は弟が亡骸となってやっと帰宅するも家屋取り壊しのために谷中村に引き返します。これら一連の出来事は信子に強烈な記憶を残します。

良妻賢母となるよりも

信子は栃木高等女学校(現在の栃木県立栃木女子高等学校)に入学。新渡戸稲造の「良妻賢母となるよりも、まず一人のよい人間とならなければ」という演説に感銘を受け、少女雑誌に短歌や物語の投稿を始めます。信子は日光小学校代用教員となって家計を助け、まもなく兄弟の就職の目処が立つと父母の許しを得て上京、東京帝国大学に通う兄・忠明宅に身を寄せ作家を志します。信子は山田嘉吉・わか夫妻の「語学塾」「読書会」に参加して『青踏』のメンバーたちと交流を始めます。兄・忠明が外国に旅立つと東京四谷のバプテスト女子学寮に入り、近くの教会に通って婦人問題に関心を深めます。日曜学校の手伝いとして子ども相手に話した童話を集めた『赤い夢』を幼年雑誌「良友」に送り採用されてから、「良友」「幼年世界」に寄稿を続けて稿料を得るようになります。20歳で「少女画報」編集部に送った「鈴蘭」が採用され『花物語』の10年に渡る連載開始女学生から圧倒的な支持を受ける人気作家となります。神田の基督教女子青年会(YWCA)の寄宿舎に移り、津田塾や女子美術の学生たちの人脈を広げる中、父が逝去。信子は父の喪中に『屋根裏の二処女』を執筆、YMCAでの同性愛体験を基にしたで自らの同性愛体験を明かします。

新しい女たちの世界

大阪朝日新聞の懸賞小説の応募するため、信子は北海道に勤務する兄・忠明宅に3月間こもって「地の果てまで」を執筆、24歳で文壇デビュー。秘書として採用した、お茶の水大学数学科卒業の才媛・門馬千代と相思相愛となり、作家が集う下落合に新居を建設して同居を始めます。29歳のときに個人雑誌『黒薔薇』を刊行、女性の同性愛を正面から論じます。信子と千代は多額の印税をもとに2人で神戸港から満州、ソ連、ドイツを経由して一年近くフランスのパリに滞在、さらにアメリカ経由で帰国します。40歳で『良人の貞操』で男性の貞操ならびにジェンダーをめぐって大反響、映画・舞台でもブームを巻き起こします。戦時中には『主婦之友』特派員として中国から、「ペン部隊」女性役員としてインドネシア・ヴェトナム・タイなどから、従軍ルポルタージュを発表。並行して東京日日新聞・大阪毎日新聞に連載小説『女の教室』を執筆、戦争を介して古い男たちの世界を乗り越え、新しい女たちの世界を実現する様子を描きます。戦後は自然豊かな鎌倉に新居を建てて門野千代と晩年を共に暮らしながら、『徳川の夫人たち』『女人平家』など女性史を題材とした長編時代小説を執筆。77歳で死去します。

-吉屋信子記念館 Nobuko Yoshiya memorial Museum

飯田深雪 女史 

Ms. Miyuki Iida

1903-2007

新潟県新潟市 生誕

Born in Nigata-city, Nigata-ken

「毎日を創造する気持ちで過ごす生活に飽きはこない」

"I never tire of living with the mindset of creating every day."

飯田美雪女史は料理研究家ならびにアートフラワー創設者です。

Ms. Miyuki Iida is a culinary researcher and the founder of Art Flower.

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 美雪は新潟県に生まれ、平壌に病院を開く医者であり芸術に造詣が深く食道楽であった父の影響を受け、幼児より洋式の生活に親しみ、花を愛し、絵画を好みます。外交官の夫と結婚。アメリカ・イギリス・インドなどで暮らしながら、料理を研究したり、造花を製作し始めます。戦後の混乱で財産を失ってバラック小屋生活となるも、海外の文化経験を活かして料理や菓子を復興局へ売って生計を立てます。さらに知人の子女等を対象に自宅から西洋料理教室とアートフラワー教室を開きます。戦後NHKテレビ「今日の料理」に草創期から講師として出演。日本における西洋料理の普及に力を尽くします。アートフラワーは、絹や木綿などの布を染めこてを使ってつくりあげる柔らかくて優しい花で、各国元首夫人を魅了します。イギリスエリザベス女王2世来日の際に迎賓館内の国賓御私室をアートフラワーで装飾、モナコのグレース王妃から招待されモナコ国営展示場で大規模な展覧会を開催。フランス大統領からレジオン・ドヌール勲章シュバリエを授与されます。100歳を超えても精力的に料理やマナーなどの講演を続けます。

-深雪アートフラワー Miyuki Art Flower

山本 ごい 女史

Ms. Goi Yamamoto

1700頃 - ?

新潟県長岡市 生誕

Born in Nagaoka-city, Niigata-ken

山本ごい女史は長岡地方の瞽女頭となって、格式と規律を重んじる瞽女集団を統率、江戸から明治にかけての長岡瞽女の繁栄の基礎を築きました

Ms. Gozen Yamamoto became the leader of the blind female performers in the Nagaoka region, guiding a group of blind performers who upheld formality and discipline. She laid the foundation for the prosperity of blind female performers in Nagaoka during the transition from the Edo period to the Meiji era.

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山本ごいは長岡藩主・牧野氏の息女、照姫として生まれます。生まれつき目が不自由だったため、生まれを隠して家老の山本家へ養女に出されます。成長したのちに牧野家から土地扶持米を給せられて長岡の柳原町へ分家、牧野家ゆかりの地域の古志・三島・刈羽・魚沼・頸城五郡内などの瞽女頭となって格式と規律を重んじる瞽女集団を統率していきます。通称を「山本ゴイ」と定め、その後の代々の山本ゴイは長岡系の多数の瞽女の中から、全盲で品行端正の老齢者が選ばれ受け継がれます。「山本ゴイ」を頂点に親方資格を得た師匠が自宅で弟子を取るという、茶道や華道に見られる家元制度をが作り上げられます。瞽女の弟子入り修業は年期制で二十一年、男子禁制化粧またおしゃれ厳禁・年功序列などの制約また掟があり、違反すると年期を戻されたり仲間から外されます。説経系・祭文系・心中物・情事物・滑稽物・風刺物・唱導物・義太夫・長唄・端唄・常磐津・清元・新内・各種のはやり唄・民謡・万歳・門付け唄など、お客に所望されて何でも歌えるよう師匠から厳しく唄の稽古をつけられます。瞽女の主な稼業は「門付け」で、目明きの手引きに先導され列をなして村々町々を渡り歩き、昼は民家の戸口戸口に立って唄を歌って米銭を乞い、夜は泊まり宿で近所の人たちを相手に好みの唄を披露して代償を得ます。瞽女の巡業地また瞽女宿は先祖師匠から開拓された数十年来の縁故をもち、甲信の一部から関東一円・東北の福島・山形・秋田・宮城まで及びます。特に農村地方では瞽女に対する民間信仰が篤く、瞽女は安産・子育て・治病・生業増産の信仰の対象として大切にもてなされます。瞽女は人々に・綿の種に麦の種に蚕棚の蚕に向かって唄い、もてなす人々は瞽女のもらい集めた米を煮て食べたり、瞽女の着物をもらって着たり、瞽女の使い古した三味線糸を結びつけてお守りにしたり、薬にして飲んだりします

-新潟県立歴史博物館 Niigata History Museum

-新潟日報 Niigata News

富山県 Toyama-Ken

「お年寄りも障害者も誰も排除しない」

"Nobody excludes the elderly or people with disabilities."


惣万 佳代子 女史

Ms. Kayoko Soman

1951 - 

富山県黒部市生地町 生誕

Born in Kurobe-city, Toyama-ken


惣万佳代子女史は日本で初めて、高齢者・障がい者・児乳児が一緒に過ごす共生型福祉施設を開設。今では市民はじめ行政の賛同を得て「富山型デイサービス」と呼ばれ全国に展開しています。

Ms. Sayoko Soman established Japan's first inclusive welfare facility where the elderly, people with disabilities, and young children can spend time together. This model of care, known as the "Toyama-style Day Service," has gained support from both citizens and local authorities and has expanded nationwide.

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 佳代子は富山県黒部市生地町に生まれ、富山赤十字高等看護学院を卒業後、富山赤十字病院に看護師として20年勤務します。「小さい頃は、地域にはちょっと違った人、いわゆる知的障害者とか、困った婆ちゃんもいて、近所の人たちも自然に付き合っていた」そうした風景がいつの間にか失われつつあること、さらに患者が「家に帰りたい」と願っているのに、願いが叶わず施設で亡くなっていることに疑問を感じ、1993年富山赤十字病院を退職、看護師3人で退職金をつぎこんで、高齢者だけでなく子どもや障がい者などの誰もが利用できるデイケアサービス「このゆびとーまれ」をスタートします。従来の福祉の枠組みからは外れるため補助金交付は受けられず、1日の利用料は2500円(食事込み3000円)。利用者の少ない日々が続きます。市民の後押しで1998年全国で初めて富山県が高齢者と障がい者の壁を打ち破って年間360万円の補助金交付を決定。2000年介護保険制度が施行、NPO法人として介護保険制度の指定業者になり、1日の利用料は1300円程度(食事・入浴・送迎込み)。利用者は徐々に増えます。2006年障害者自立支援法の施工後に開所した就労継続支援B型「はたらくわ」は特区として認められ、全員が他のデイサービス施設で働いています。B型就労の工賃(給料)の全国平均は月に平均1万6,500程度のところ、はたらくわの工賃(給料)は月に4万~4万5,000円。障がい者年金と合わせて自立できるように、日常生活に役に立つ仕事はじめいろんな業種で働けるように模索しています。2015年赤十字国際委員会よりフローレンス・ナイチンゲール記章を受章。地域と連携して誰もが家族のように暮らすことを目指しており、高齢者や障がい者、子どもが相互に触れ合うことで、日常生活の改善や自立の促進、思いやりを身につけるといった効果を生んでいるといいます。

-デイサービスこのゆびとーまれ Konoyubitomare-Daycare Service

-富山型デイサービス -Toyama-Daycare Service

石川県 Ishikawa-Ken

天野 文堂 女史

Ms. Tnnobundo

1896 - 1952 

石川県輪島市 生誕

Born in Wazima-city, Iashikawa-ken

「男ができることを女ができないことはない」

"There is nothing that a man can do that a woman cannot do."

天野文堂(本名 住谷わかの)女史は情熱と技術の鍛錬によって女性で初めて沈金の彫りの道を切り拓いた、日本女性初の輪島漆芸作家です。優れた画技と雅趣あふれる沈金の作風で、輪島漆芸女性作家として初めて日展の特選を受賞。

Ms. Amano Bundo (Wakano Sumiya) is a pioneering figure in Japan as the first female artist to venture into the art of sunken gold carving through a combination of passion and skill. She was a renowned Wajima lacquer artist. With her exceptional painting technique and the elegant style of sunken gold carving, she became the first female Wajima lacquer artist to receive the prestigious award at the Nitten Exhibition."

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「女はノミを持つな」 わかのは輪島女児尋常高等学校を卒業後、男性が絶対的優位性をもっていた輪島漆器界に入って、沈金師・坂上藤太郎のもとに弟子入りします。輪島塗は分業制で、木地職人、下地職人、塗師と、多数の職人の手を経て作られ、漆を塗っては研ぐ作業を繰り返すことで、漆特有のつやが出て、美しい輪島塗ができあがります。輪島塗は下地が厚く、器の表面に沈金ノミで絵柄を彫り込み、溝となった部分に漆を接着材として塗り重ね、金箔や金銀粉また色粉を沈めて、模様を描き出す「沈金」が発達します。当時、沈金の世界では女の仕事は箔置きと決まっていましたが、わかのは彫りを望み、女性には創造性が無いという封建的慣習を打ち破って1年後には師匠からのみを持つことを許されます。「新境地」 親方が死去すると、日本画を学んだ雅趣あふれる沈金の作風で知られる、藤井観文の門弟となります。彫りの技術をみとめられて最初からのみを持たせてもらいます。6年間修業を積み、年季が開ける3年後に、蒔絵師・天野三郎と結婚。師匠観文の厳しい指導と夫三郎の温かい理解のもと、沈金と蒔絵の技術の総合化を試み新境地を開きます。家庭や出産・育児の役割分担を一方的に負わされる制度的制約を打ち破って、わかのは師匠から「文堂」号をもらい、28歳のとき輪島漆器業界で女性としてはじめて弟子をとります。35歳のとき帝展初入選以来入選を重ね、戦後は日展で活躍、特選を受賞します。

-石川県輪島漆芸美術館 Wajima Museum Urshi Art

「意識せぬうちに男性の中に女性の人格への軽蔑また無関心がもぐり込んでいる。女性自身の消極的女性蔑視の醸す害毒は人々の持てるよきものをも窒息させて尚余ある。」
"Unbeknownst, contempt or indifference toward the feminine personality has subtly infiltrated within the male consciousness. The toxic effects stemming from passive denigration of women stifle the inherent goodness that people possess for even more harm to flourish."

高橋 文 女史
Ms. Fumi Takahashi
1901 - 1945
石川県かほく市木津 生誕
Born in Kahoku-city, Ishikawa-ken

高橋 文 女史は日本女性初の哲学者です。戦争による国家主義・民族主義が高まる中、叔父の哲学者・西田幾多郎の影響のもと日本とドイツの相互理解に努めながら、個人の人格レベルでの男女不平等観について研究しました。
Ms. Fumi Takahashi is the first female philosopher in Japan. Amidst the rise of nationalism and militarism due to the war, influenced by her uncle, the philosopher Ikutaro Nishida, she dedicated herself to promoting mutual understanding between Japan and Germany. Simultaneously, she conducted research on gender inequality at the individual level.

「結婚よりも勉強」
 ふみは6人きょうだいの真ん中に生まれ、幼いころから「私は木津の学校から金沢の学校に行き、東京の学校へ行き、それから外国の学校に行く」と宣言します。父・由太郎は織物業・羽二重工場を営み村長を務めるなど裕福な名士で、母親・すみは「善の研究」などで知られる哲学者・西田幾多郎の妹。ふみは良家の娘として地元の尋常高等小学校を卒業すると、当時石川県内唯一の公立高等女学校であった金沢第一高等女学校に入学。なりふり構わないさっぱりした性格で、思ったことは何でもずけずけ言う男勝りぶりで強烈な印象を残しながら、百数十人いた卒業生の中で唯一女子大に進学します。とはいうものの、父親はすでに逝去しており、花嫁修業を求める母をふみは半年かけて説得。「女は結婚しても苦労するし勉強を続けるのもそれ以上に厳しい。同じ苦労をするのなら勉強を続けたい。」と独身を通す決意を貫きます。

「男尊女卑」
 ふみは横須賀の姉宅に身を寄せ受験勉強に励み、設立2年目の東京女子大学高等学部へ入学を果たします。ふみははじめ国文学科に所属するも叔父・幾太郎を度々訪ね薫陶を受けると、母校に哲学科を創設させます。さらに25歳のふみは叔父・幾太郎のすすめで、唯一女性に哲学の門戸を開く東北大学法文学部・哲学倫理学科に進学します。母性保護論争に始まる女性の労働問題また教育問題について活発に議論が交わされる中、ふみは東北帝国大学を卒業すると宮城県立女子師範学校の嘱託講師を2年間務めるも再び上京。羽仁もと子が創立した自由学園の国語教師として教壇に立ちます。5年間勤める中で、ふみは男女共学を推進する座談会に熱心に参加します。「女性と男性の精神構造の中に「男尊女卑」という考え方が存在する。」

「東西の男女不平等観」
 35歳のふみは日本を離れドイツへ向かい、ベルリン大学とフライブルク大学で倫理・哲学を学びます。ふみはハイデッガーのゼミに参加、最新の哲学・現象学を見出し実存主義の息吹を吸収します。ナチス統治下のドイツで、ふみはベルリンオリンピックで日章旗を仰ぎながら涙したり、下宿の婦人はじめ大学のゼミ仲間と様々なトピックについて熱心に討論します。日本でもドイツでも民族意識・国家意識が高揚する中で、ふみは叔父の著作を紹介してまわりながらも、ドイツと日本の文化・習慣の違いからくる個人の行動また感情の落差について、また夫婦の在り方・男女関係のありかたの著しい相違について論争してまわります。「何でもいいからドイツ文化を吸収したいが時間が足りない。人が公に話さないことについて知りたい。」

「アメリカの自由主義」 
 「日本の立場を正義化することはなかなか難しい。」ふみは叔父に手紙を送る一方、「叔父は学者としては偉いのかもしれないが、家庭をすっかり不幸に陥れている、人間としてはなっていない」日本人の男性の友人の前で叔父を批判すると逆に叱責されます。「そういう批評は女性的な角度からの批評で大きな眼でみなければ駄目だ。」ナチスによるズデーデン併合・ポーランド侵攻と世界情勢が切迫するなか、結核を患ったふみは3年半後に引き揚げ船で帰国します。東京の診療所に入院しながら、叔父の著書『真善美の合一点』と『形而上學的見地より見た東西古代の文化形態』をドイツ語翻訳します。やがて郷里で療養しながら希望者に叔父の『日本文化の問題』を講義します。ドイツの敗戦を聞いたふみは「ドイツはもうだめだ。元気になったらアメリカへ行こう」と家族友人に語り44歳で逝去します。

-西田幾多郎記念哲学館

福井県 Fukui-Ken

奥 むめお 女史

Ms. Mumeo Oku

1895 - 1997 

福井県福井市 生誕

Born in Fukui-city, Fukui-ken

「平々凡々な女の日常生活のなかに政治を見出し、その道を光あり、幸ある明るいものにすること」

“Find politics in the ordinary life of women, and make their path bright, happy and bright.”

奥むめお女史は子連れ婦人運動家の草分け。「賃金奴隷」「家庭奴隷」である女性の解放を目指し、戦前から一貫して生活を政治に結びつける運動を繰り広げました。

Ms. Oku Mumeo was a pioneering figure among activist mothers. She consistently pursued the liberation of women labeled as "wage slaves" and "domestic slaves," and from pre-war times onward, she engaged in movements that intertwined livelihood with politics.

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むめおは福井県福井市の鍛冶屋の長女として生まれます。低賃金と長時間労働で苦しむ機織り工場で働く女工たちがあふれるなかでも、むめおは教育熱心な父のもと『青鞜』創刊号はじめたくさんの本を与えられ、福井師範附属小学校、県立高等女学校、日本女子大学校へ進学します。母は封建的な家族制度のもとで忍従しながら生きた日本の伝統的な母親で学問が無くとも家業を助け、使用人の世話をし、7人の子どもを産んで33歳の若さで早世します。むめおも幼少期から朝暗いうちから夜遅くまで使用人とともに家事労働に従事します。女子大では図書館で哲学書を読みふけり、寮生活で料理の腕を上げて先輩小橋三四子の『婦人週報』の料理記事担当として手伝います。卒業後、鎌倉で豪農の娘の家庭教師の仕事に就きながらお寺で参禅体験三昧。東京へ戻ったむめおは、無政府主義や労働問題、哲学や人芸術論などの学習会に参加、『労働世界』の記者として富士瓦斯紡績工場への潜入取材レポートを発表、「賃金奴隷」である労働・職業婦人の解放を訴えはじめます。24歳で詩人・奥栄一と結婚。翌年、同窓生である平塚らいてう、市川房枝、坂本真琴らと婦人団体・新婦人協会を設立。平塚と市川が運動から離れた後も、機関誌『女性同盟』の編集を引き継ぎ、子連れで国会議員に対する請願運動を継続。男子同様女子が政治集会に参加する自由と権利、ならびに花柳病男子全治するまで結婚を禁止する法律実現します

離婚をして母子家庭となったむめおは「家庭奴隷」である無産家庭婦の開放を目指し、消費生活協同組合の新居格や産業組合の千石興太郎から消費組合運動などについて学びます。28歳のとき職業婦人社をあらたに旗揚げ、雑誌『職業婦人』(後に『婦人と労働』『婦人運動』と改題)を発刊。女性が自由に社会活動また社会形成に参画できるように、家庭生活・消費生活の合理化・共同化のための最新情報をかみ砕いて紹介します都市中間層の中産階級から地方の一般無産階級の女性まで、女性運動の羅針盤また購読者同士の交流のよりどころになります。ならびに婦人消責組合協会を立ち上げ、今まで婦人運動でなおざりにされてきた家庭婦人の日常の問題、物価値下げ、不正商品の摘発、児童福祉、母性保護、学校教育の改善、税制改革、社会的福利施設の増設などの解決を目指します。さらに託児所兼集会所『婦人セツルメント』(後の『働く婦人の家』)を全国展開。託児保育、こどもの健康指導、婦人の性教育・妊娠調節・授産指導、夜間女学部での家政はじめ学問また芸術講義、資格・職業斡旋、物資の共同購入共同炊事・洗濯、懇親会、少年少女会、などの活動を社会事業として展開、勤労婦人たちの連帯と憩いと社会学習の「家」となります。52歳で第1回参議院議員通常選挙に出馬・当選、消費者のための省庁・「生活省」の設置を目指して3期18年務めます。議員活動の傍ら新団体・主婦連合会の会長に就任、エプロン(割烹着)としゃもじを旗印に、不良品追放や『主婦の店』選定運動を全国展開。消費者・婦人運動を終生指導し続けます。

-主婦連合会 Association of Consumer Organizations

山梨県 Yamanashi-Ken

小川 正子 女史

Ms. Masako Ogawa

1902 - 1932 

山梨県東山梨郡笛吹市春日居村 生誕

Born in higahiyamanshi-city, Yamanashi-ken

「梅雨の洗った空気の様に、幾百の幾千の病者が流す涙、血族が流す忍苦の流涙の幾十年。それがすつかりと拭はれて、はればれとした日の、その日の夕映えの色が想はれてならなかった。

"Like the air washed by the rainy season, the tears of hundreds, thousands of patients, the tears of blood relatives enduring pain for decades. All of that was completely wiped away, and the vivid colors of the evening sun on that day, on that day, were remembered."

小川正子女史は戦時下に国家事業である救癩事業の現場で活躍女性として慈愛に満ちた手記『小島の春』を発表します。文部省の推薦図書に選ばれ、貞明皇后の「恩愛」の「代行者」とされ、長きにわたりブームならびに論争また闘争を巻き起こします

Ms. Masako Ogawa played an active role on the frontlines of the state project during wartime, the leprosy relief program. As a woman, she published the compassionate memoir "Spring at Kojima." This work was selected as a recommended book by the Ministry of Education, positioned as a "proxy" for Empress Teimei's "benevolence and affection," sparking long-lasting trends as well as debates and struggles.

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正子は山梨県東山梨郡春日居村(現在の笛吹市)で製糸業を営む素封家の四女として生まれます。甲府高等女学校を卒業後、19歳で遠縁にあたる樋貝詮三(後の第3次吉田内閣の国務大臣・賠償庁長官)と結婚するもすぐに離婚します。22歳で東京女子医学専門学校に入学。病院見学で訪れた東京都東村市のハンセン病療養所の多摩全生病院で、ハンセン病研究の第一人者である光田健輔と出会い、ハンセン病患者救済を決意します。卒業後、光田健輔を訪問するも開業できる腕になるまで修行するよう促され、東京市立大久保病院などで内科と細菌学の臨床研究に従事します。まもなく国立ハンセン病療養所として瀬戸内長島に長島愛生園が設立され光田が初代園長に就任、30歳の正子は手荷物一つで押しかけ翌日から医務嘱託として勤務します。当時、医療最先端の現場は男性に独占される一方、救癩事業の現場では女性の慈愛に満ちた活躍を大いに求めらます。正子は地元の役人また巡査と一緒に精力的に瀬戸内の島々また四国の山あいの村々を巡ってハンセン病患者を収容、残された家族はじめ住民を啓蒙、検診の記録を残し続けます。36歳で結核を発病すると、島で闘病生活を送りながら、『小島の春 ある女医の手記』をまとめ上げます。園で診療のかたわら短歌を指導する医師・内田守の尽力により、長崎書店より出版されると著名人から文部省の推薦図書に選定され、翌々年には映画化されます。正子は印税をすべてハンセン病患者のために寄贈。40歳で郷里で療養に専念するも翌年死去します。

日本は光田健輔の先導で世界に先駆けてハンセン病患者を「絶対隔離」、患者は強制的に収容され強制労働を課せられ死ぬまで外に出られず、男性は輸精管を切断して生殖能力を奪われ(断種)、女性は強制的に中絶・堕胎されます。正子の小説は「無癩県運動」のプロパガンダだとして活発され、ハンセン病は恐ろしい病気として今直消えない偏見・差別を増幅、 残された家族は社会の偏見・差別から婚家から離縁され、就職先からは解雇され、世間の白眼視に耐えかねて夜逃げ・一家心中も頻繁に起きるようになります。皮膚科医師で文学者でもある太田正雄(木下杢太郎)は「らい根絶の最上策は隔離ではなく化学的治療である。決して不可能ではない。『小島の春』を感傷時代最後の記念作品として、感傷主義を終わりにしなければいけない。」と勇気ある発言をしています。1943年にアメリカで開発された治療薬プロミンが戦後から国内でも使用され始めると、患者たちはプロミンをすべての療養所の入所者が使えるように予算化を求め療養所の自治会の全国組織をつくります。日本は国際学会またWHOから解放治療・外来治療を何度も勧告され、1907年からハンセン病患者の絶対隔離を強制していた「らい予防法」は1996年にようやく廃止。正子の『小島の春』は、ハンセン病患者発の文学、明石海人『白描』、北條民雄『いのちの初夜』、藤本とし『地面の底がぬけたんです』、 塔和子『塔和子全詩集』、村越化石『村越化石自選八十句』、 中山秋夫『一代樹の四季』などと一緒に、偏見と闘争の遺産と記憶として語り継がれています。

-小川正子記念館 Masako Ogawa Memorial Museum

-国立療養所「長島愛生園」歴史館  The National Sanatorium Nagashima Aisei-en


「我を信じる者は我が如きことを成さん」
-『ヨハネによる福音書』14:12
"Truly, whoever believes in me will do the works I have been doing."
-"John 14:12, Gospel of John"

古屋 登世子女史
Ms. Toyoko Huruse
1880 - 1970
山梨県甲府市桜町
Born in Kohu-city, Yamanashi-ken

古屋登世子女史は、日本女性初の通訳で女子英語教育家。結城無二三の長女。山梨英和女学校から東洋英和女学校に転じ、1902(明治35)年に文部省中等教育検定英語に合格。1917(大正6)年大阪に古屋英学塾を創始。近親者の裏切りによる塾乗っ取り・精神病院収監を乗り越え、25年間の英育事業の間に、国賓の英語通訳をしたり、英語劇の舞台に立ったり、ラジオで英語講座を始めたりしながら女性の社会進出を引っ張ります。
Ms. Toyoko Furuya is the first female interpreter and a pioneer in English education for women in Japan. She was the eldest daughter of Ninzo Yuuki. She transferred from Yamanashi Eiwa Jogakuin to Toyo Eiwa Jogakuin, passing the Ministry of Education's English proficiency test in 1902 (Meiji 35). In 1917 (Taisho 6), she founded the Furuya English School in Osaka. Overcoming the takeover of the school and confinement in a mental hospital by close relatives, she led the way for women's social advancement throughout her 25-year English education career. During this time, she served as an English interpreter for state guests, performed in English plays, and even initiated radio English programs.

「新選組参謀長の娘」
 登世子は3・4歳ころから分厚い大学の書を抱えて兄と一緒に寺小屋の漢学講義に通います。「天の命ずる~之を性と謂う~」昼間は先生について子守歌でも歌うように漢文を読み上げ、夜は二尺差しを構える母の横で声を張り上げ復習と予習を詰め込まれます。6歳から通い始めた村の小学校ではキリスト教を叩き込まれます。「神は天地の主催者にして、人は万物の霊長なり。」夜は父が話す古今の武勇伝に熱中します。9つになると、登世子は次々に子供を産み育てる母を手伝って流行りの編み物の内職をはじめます。登世子の両親は甲府で放牧を手飼いして牛乳屋を営みながらキリスト教に帰依、兄弟は宣教師の支援によって山梨英和学校・女学校ならびに東京の東洋英和学校・女学校に入学を許されます。

「白蓮と村岡花子の先生」
 登世子は東洋英和女学校で厳格なピューリタン生活をしながら、寄宿舎で怪談話に興じたり、週末は兄と一緒に様々な著書を読み漁ります。卒業後、兄は国民新聞の記者に採用され、登世子は金沢市のミッションスクール、母校の東洋英和女学校、高知県立高等女学校で教鞭を執ります。教え子に若き日の白蓮・村岡花子が並びます。英国夫人矯風会ストラウト女史の通訳で東京・関西・九州を回るなど、充実した日々を送るも結核に伏します。医者からも見放される中、療養中に訪れた木曽福島の森の中で、私塾を開いて育英事業に余生を捧げようと決意。まだ英語熱の低い大阪天王寺の破れ工場を改修して「古屋女子英学塾」の看板を掲げます。外国人への日本語教授、雑誌への寄稿を運営費にあて、中学教頭を務める夫に家計を支えてもらいながら、英語の他のあらゆる科目を受け持ち、タイプライター、編み物、聖書、春の七草摘み、すき焼き実習など膝を交えながらの寺小屋英語塾から最初の6名を送り出します。

「日本初の女性通訳者を襲う悲劇」
 まもなく登世子は大阪新聞社から依頼され、基金募集で来阪した熊本回春病院のミス・リデルの講演通訳を、さらに米国女流飛行家ルース・ロー夫人の同時通訳を依頼され阪神中を回ります。続いて大阪放送局といっしょにラジオの英語講座を全国に先駆けて開始。さらに坪内逍遥の高弟で気鋭の演出家・古川利隆氏を招いてシェイクスピアの講義・英語劇の指導を始めます。すると大阪でも英語教育が過熱、「古屋女子英学塾」は夜間部を設ける盛況ぶりに、登世子は無理が高じて入院します。それでも登世子は新校舎を建て、「雙葉英語会」を市内の各所に設立、教え子を教師に派遣します。ある日、歴史家グリフィス氏の夫人と会場に移動する走行中の車から転げ落ちた登世子は、仕事を全うできなかったことを恥じて通訳業を引退。再び結核はじめ内臓の病で倒れ闘病する中、夫が逝去。登世子は体に鞭打って、再び英国飛行家ブルース夫人の通訳はじめ英語塾での指導を始めます。その矢先、信頼する兄妹ならびに理事会のメンバーに「古屋女子英学塾」の財政を掌握され、登世子は大阪大学石橋分院精神に病室に強制収監されます。

「北京へ」
 登世子は毎日薬を投与され朦朧としながらも、病院内外に味方を見つけます。精神病院を退院した登世子は、設立者変更届の不正な公正詔書・塾長交代の捏造文書ならびに証人を探し出し、大阪地方裁判所に契約無効と貯金通帳・校舎物件・学生名簿また成績表などの引き渡し請求の民事訴訟を提起します。日を経月を淳々と重ねた法廷尋問の末、和解朝調停により「古屋女子英学塾」を3年ぶりに取り戻します。登世子は丸髷をバッサリ切り、国際都市・神戸に進出、ガイド・通訳者養成の方向に転換を計ります。思わぬ人気を呼び、夜間は銀行会社員のためのビジネス会話、アメリカ日系2世のための日本語教室を開講するも、英語の先生が升で計れるほど増えてきた神戸を後にします。登世子は手に心に日章旗を振りかざし、北京へ飛び立ちます。

-『狂乱から復活へ』『苦闘10年』『女の肖像』古屋登世子 著

長野県 Nagano-Ken

松井 須磨子 女史

Ms. Sumako Matsui

1886 - 1919 
長野県長野市松代町清野  生誕
Born in Nagano-city, Nagano-ken

「私はただ私として生きて行きたいと思うのです」
"I just want to live as myself."

松井須磨子女史は日本初の新劇女優であり、日本初の美容整形女優、日本初の歌う女優、日本初のスキャンダル女優の異名を持っています。

Ms. Sumako Matsui holds the distinction of being the first actress in Japan's New Theater, as well as the first actress known for undergoing cosmetic surgery, being a singing actress, and being involved in scandalous affairs.

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須磨子(本名・小林正子)は士族の九人兄妹の末っ子として生まれます。6歳の時に用品店を営む長谷川家の養女となって上田尋常高等小学校を卒業。養父が亡くなったため実家に戻ると、実父も亡くなります。17歳の春に麻布飯倉の菓子屋「風月堂」に嫁いでいた姉を頼って上京、戸板裁縫学校(現・戸板女子短期大学)に入学します。すぐに親戚の世話で千葉県木更津の旅館兼小料理屋・鳥飼万蔵と最初の結婚をするも、病気がちを理由に舅に疎まれ1年で離婚。万蔵から性病をうつされ病院通いをしますが、そこで家庭教師をしていた婚約者のいる東京高等師範学校の学生・前沢誠助と知り合い、略奪再婚します。夫が東京俳優養成所の日本史の講師となったことから、正子も女優を志願するようになります。その頃、東京では新しい演劇「新劇」運動が興って女優解禁になり、演劇が最先端の芸術として注目されていました。正子は最先端の女になるべく坪内逍遥主催の演劇研究所に応募するも、美貌と学歴の欠如を理由に拒否されます。そこで正子は当時の最新美容整形技術である鼻筋に蝋を注入する隆鼻術を実行、熱心さを買われ入所を果たします。2年の修養期間を経て25歳の時に松井須磨子として『ハムレット』でオフェリア役に抜擢され帝劇デビュー。『人形の家』の主人公ノラを演じて評判になり、地方各地で巡演を行います。直後に舞台監督で早稲田大学教授で妻子ある島村抱月との不倫スキャンダルを起こし、恩師逍遥はじめ仲間を裏切って演劇研究会を解散に追い込みます。沢田正二郎とともに芸術座を旗揚げると、2人は同棲生活をはじめます。須磨子は誓約書を交わして抱月に妻との離婚を迫ります。『復活』のカチューシャ役の劇中接吻・抱擁ならびに劇中歌『カチューシャの唄』で須磨子は人気女優となります。生ける屍』の劇中歌『今度生まれたら』は文部省による猥褻発禁レコード第一号を記録、かえって大ヒットとなります。須磨子は座員の弁当を手作りして芸術座からの賄費用を懐にいれたり、噂を立てられるようないろいろな客席へ招かれたりして貨殖に励みます。周囲のあらゆる人たちを口汚く罵って喧嘩が絶えない上に、抱月が他の座員の育成に取り掛かると妬みからさらにわがままを言ったり他の役者を罵倒します。スペイン風邪で抱月が病死すると、通夜の席で抱月の妻を指差してののしり、また抱月の娘たちが芸術座へ生活費を受取りに来ると門前払いにして水を浴びせようとします。芸術座は解散、須磨子は抱月の後を追います。遺書では恩師の逍遥また抱月の妻に、抱月との合葬を要求します。自由奔放に生きる須磨子に、甘んじて受け容れてきた既存の常識・道徳意識を、また自己の意識そのものを大きく揺さぶられた女性達は少なくなかったといいます。須磨子は新劇の大衆化ならびに新しい女の道を開きました。

-国立国会図書館 National Diet Library, Japan

防須 俊子(旧姓 相馬 俊子)女史
Ms.Toshiko Bosu / Ms. Toshiko Soma
1898 - 1925
長野県安曇野市穂高 生誕
Born in Azumino-city, Nagano-ken

防須 俊子(旧姓 相馬 俊子)女史は、相馬愛蔵・黒光の長女でインドの亡命志士ラス・ビハリ・ボース夫人。画家・中村彝「少女裸像」「少女」のモデル。
Ms. Toshiko Hosu (maiden name: Toshiko Soma) is the eldest daughter of Aizou Soma and Kuromitsu and the wife of Rash Behari Bose, an exiled Indian patriot. Model for painter Takashi Nakamura's ``Nude Girl'' and ``Girl.''

「母親の身代わり」
 俊子の両親である相馬愛蔵・良夫妻は信州穂高村から上京、東大赤門前のパン屋・本郷中村屋を買い取り、「クリームパン」「クリームワッフル」発売して大ヒット。次々に新製品を発売しながら、食堂や喫茶室などを開設して店を拡大します。敏子は穂高村に残され子供のいない叔父夫妻に溺愛されて暮らします。父・愛蔵は養蚕業のため春と秋に郷里に戻るものの、母・良は農村での生活を嫌って東京から戻りません。商売が軌道に乗って新宿に本店を移す頃、ようやく敏子も上京。女子聖学院に入学して寄宿舎に入り、週末の金曜日に帰って両親のところで暮らす生活を始めます。

「家父長的母親」
 両親と同郷の気鋭の彫刻家・荻原守衛(碌山)は、ニューヨークまたパリ留学を経て新宿西口にアトリエ「オブリビオン(忘却庵)」を建てて創作活動のかたわら、新宿中村屋に毎日通って店を手伝ったり子どもの世話を買って出たりしながら、若い文士・芸術家たちが集う一大サロンを形成します。母・黒光は自分を「かあさん」「シスター」と呼ばせ、若い芸術家たちを「ブラザー」といって馴れ親しみます。碌山の「文覚像」「デスペア」「女」は傑作と評価される一方で、父・愛蔵の不倫に失望する母・黒光への碌山の苦しい思慕が世間で噂されるようになります。まもなく母・黒光の轟惑的な振る舞いに絶望した碌山は吐血して他界。「寸分も身動きが出来んよ、追い詰められたよ」新宿中村屋の奥の壁を真っ赤にします。俊子は体調を崩し寝込む母・黒光を看病します。

「悩み荒ぶる娘」
 碌山が後輩の為に店の裏に建てたアトリエで、敏子は新進の画家・中村彝のモデルをつとめるようになります。敏子は週末に帰ってくると彝のアトリエに直接向かって掃除をして花を生けて彝のモデルをつとめた後、中村屋の表口に回って黒光に「ただいま」と言います。俊子がモデルの「少女裸像」は東京大正博覧会美術展で、半着衣の「少女」は第8回文展で物議を醸すものの大好評。まもなく彝が結核にかかると、母・黒光は敏子と彝を遠ざけます。俊子は駆け落ちの計画を母・黒光に白状すると、「彼に走るのか家に留まるのか2つのうちどちらを取る」二者択一を迫られた俊子は泣きながら「家から出るようなことはしません」。俊子は女子学院に進学して寮生活を始めます。「一体お母さんはいつでも物欲しそうな顔をしているのが嫌いだ。」彝は中村屋の外にアトリエを構え俊子の来訪を待ち続けます。

「母親の犠牲」
 インドからの亡命したラス・ビハリ・ボースが中村屋にかくまわれ、英語が堪能な俊子が連絡係に選ばれます。数か月後経った頃、敏子は世話役の頭山夫妻はじめ両親からボースに嫁いで身辺を守るよう打診されます。1か月思案した挙句「行かせてください」。犬養毅と後藤新平を保証人として、頭山邸で盃ごとをして直ぐに潜伏生活を開始。外部からの襲撃に備えて、なるべく高い塀の陰とか崖の下とかうす暗い家を求め、1年経つと夜の間にこっそりと他に移るという風で6年間で17回転居。母・黒光が自宅を解放して朗読会・演劇を催して文学・演劇・政治の支援活動に精を出す間に、敏子はほとんど太陽を見ることなく昼も夜もボースの身辺を守りながら正秀と哲子を出産します。第1次世界大戦が終結して日英同盟廃棄されると、ボースは大使館に出頭して日本に帰化。青山隠田に太陽の光が十分に入る家を建て健康的な生活をはじめる矢先、敏子は肺炎に倒れ28歳で逝去します。

-新宿中村屋
-『黙移』相馬黒光 法政大学出版局 1977年
-『相馬愛蔵・黒光のあゆみ』中村屋 1968年

岐阜県 Gifu-Ken

下田歌子 女史

Ms. Utako Shimoda

1854 - 1936 

岐阜県恵那市 生誕

Born in Enashi-city, Gifu-ken

女性の清らかな徳性とゆたかな情操をもって社会の弊を正し、広く世人に至福をもたらせ」

"With their pure virtues and rich emotions, women can rectify the ills of society and bring happiness to people in the world."

下田歌子女史は日本の女子教育の先覚者です。彼女は明治天皇の皇后に明治の紫式部と称えられ、華族女学校の教授と学監に就任します。さらに女性の自立自営をめざして、一般女子のための私立実践女学校(現在の実践女子大学)と女子工芸学校を設立。さらに勤労女子のための夜間学校を設立。さらに学校に通うことのできない女子に対する通信教育事業を開始。その後も裁縫学校や夜間学校を各地に設立するなど、毀誉褒貶に動じることなく新しい時代の女子教育に一生を捧げました。女学生用制服の海老茶袴、メイポールダンス、自転車、体育を取り入れました。

Ms. UtaKo Shimoda is a pioneer in women's education in Japan. She was hailed as the "Murasaki Shikibu of the Meiji Era" and served as a professor and superintendent at a noblewomen's school. Furthermore, she aimed to promote women's independence and self-employment by establishing the private Jissen Women's School (now known as Jissen Women's University) and the Women's Craft School. She also founded a night school for working women and started a correspondence education program for girls who couldn't attend school. Undeterred by praise or criticism, she dedicated her life to modernizing women's education. She incorporated maroon hakama, Maypole dancing, bicycles, and physical education into the female students' uniforms.

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 下田歌子女史は鉐(せき)として、祖母また母から読み書きを習い幼いときから和歌や俳句・漢詩・日本画に才能を発揮します。祖父また父は幕末の進歩的な学者ゆえ幕府また藩の咎めを受け蟄居謹慎でした。時代は江戸から明治へと移り、鉐の祖父と父は上京して明治政府に出仕、家族を東京に呼び寄せます。鉐は祖父また父はじめ八田知紀など優れた師の元で和歌・漢学・古典その他の教えを受けます。18歳の鉐は八田知紀その他多くの人々からの推挙を受け女官に抜擢され宮中へ出仕します。皇后・美子から寵愛され「歌子」の名を賜り、 宮廷で和歌を教えるようになります。25歳の歌子は周囲から惜しまれつつ宮中を辞し、剣客として知られる下田猛雄と結婚します。夫はまもなく胃病を患い、長く病床の人となってしまいます。彼女は看病のかたわら自宅で上流の子女のための『桃夭女塾』を開講。当時の明治政府高官の妻の多くは芸妓や酌婦であり、明治政府高官の強い要望のもと、正統な学問のない彼女らに古典の講義や作歌を教えました。夫が病死した同年に、近代日本にふさわしい上流女子教育をという皇后の令旨により華族女学校(後の学習院女学部)が開設されると、30歳の歌子は塾の実績と皇后の推薦により学校開設と同時に教授に任ぜられ、翌年には学監として、以後退官まで歴代校長を補佐し、学校運営と教育に従事ます。39歳の下田歌子は明治天皇の皇女ご教育係の内命を受け、2年間にわたって欧米諸国の上流階級のみならず諸階級の女子学校教育また家庭教育のありかたをつぶさに見学しました。帰国後44歳の歌子は帝国婦人協会を設立。これまで上流階級に偏っていた婦人団体を広く全国的な組織とし、一般女に教養と自活の機会を授け、精神的自立・地位向上・生活改善をはかるべく奮闘します。翌年、機関誌「日本婦人」創刊。さらに中流階級の婦女子育成を目的として実践女学校(現在の実践女子学園)および女子工芸学校を創立。さらに、裁縫伝習所(現在の新潟青陵学園)、順心女学校(現在の順心広尾学園)、明徳女学校、淡海女子実務学校(現在の淡海書道文化専門学校)、愛国夜間女学校などの設立に携わり、校長を兼任。これらの学校は、大半が経済的に恵まれない女子や、一般女子のために進学しやすいよう企画され、授業料も低額でした。さらに勉学の機会に恵まれない女子を対象に大日本実修女学会を設立し、「実修女学講義録」を刊行するなど、現在の通信教育に似た事業も行いました。また、初等教育で使用する教科書として『国文教科書読本』(全8巻)を、日本で初めての家政学の教科書として『家政学』(全2巻)『新選家政学』(全2巻)を編纂・刊行します。歌子の講義は国文学、漢文学、家政学のいずれも深い学識に裏づけられユニーク、中でも源氏物語の講義は早稲田大学の坪内逍遙のシェークスピア講義と並ぶ名講義と言われています。

-実践女子大学香雪記念館 Jissen Women's University Kosetsu Memorial Museum

「ジェンダー視点による労働問題の分析,それは21世紀における男女にとって,人間として尊厳ある生き方・働き方を追求する理論だ」

"Analyzing labor issues from a gender perspective, it's a theory that seeks dignified ways of working and living for men and women in the 21st century."


竹中 恵美子 女史 

Ms. Emiko Takenaka

 1929 - 

岐阜県大垣市 生誕

Born in Ogaki-city, Gifu-ken


竹中 恵美子 女史は日本における女性労働研究の第一人者です。

Ms. Emiko Takenaka is a leading expert in the field of women's labor research in Japan.

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 恵美子は太平洋戦争中に岐阜県立大垣高等女学校で「軍国少女の人生を変える僥倖」、教員から河上肇の『貧乏物語』の話を聴きます。経済学へ関心を持って大阪府女子専門学校(現・大阪府立大学)経済科に入学。近隣の男子学生とも議論を交わす中で、さらに大阪商科大学(現・大阪市立大学)経済学部へ進学します。「経済学とは金儲けの学問ではない,経世済民の学である」のもと卒業論文「男女賃金格差と男女同一労働同一賃金原則についての一考察」を書き上げます。 22歳で助手として採用され、女性労働研究の道を邁進し始めます。そんな中、恵美子は在日朝鮮人で歴史学者の姜在彦と結婚します。周囲の差別にさらされながら親戚家族の援助もなく、家事・育児・研究に奔走。一人の働く女性として結婚生活での男性と女性の役割・分業について葛藤しながら、それらをかたちづくる社会の問題に向き合います。恵美子は、無視され続けてきた女性の経験を労働問題として論じるために、非正規労働を多く占める女性の統計データを集めはじめます。西口俊子と一緒に、様々な仕事の現場で働く女性たちを丹念に取材し『女のしごと・女の職場』を共著で発表。雇用方法・勤続期間・ 仕事の種類・昇進方法など、女性労働者の実態・問題を明らかにして女性たちに衝撃を与えます。ならびに「男女賃金差別撤廃」を目指す労働組合運動また論争を盛り上げます。さらに恵美子は久場嬉子と一緒に女性の家事を調査、社会的に必要な家事労働として評価します。「見えない労働」で女性を労働市場から分離し抑圧してきた家父長制構造の弊害を明らかにするとともに、社会保障・社会福祉はじめワークシェアリングなど多様な社会システムの議論を広げています。

-大阪市立大学 Osaka City Univ.

-明石書店 Akashi Books Shop

-大阪府立男女共同参画・青少年センター(ドーンセンター)Dawn Center

静岡県 Shizuoka-Ken

「私は、はじめて医者になってから男性を詛ひました。そしてわれながら世の男性が無情であり無反省な態度に憤慨もいたし、一面では家庭婦人の無智なのに驚きました。」

"I found myself cursing men for the first time after becoming a doctor. I found myself indignant at the heartless and unreflective attitudes of men in the world, while at the same time, I was astonished at the lack of wisdom in some homemakers."


吉岡 彌生 女史

Ms. Yayoi Yoshioka

1871 - 1959

静岡県掛川市 生誕

Born in Kakegawa-city, Sizuoka-ken


吉岡彌生女史は日本で初めて女性医師専門養成所・東京女医学校を創設(現在の東京女子医科大学)、女性医師の養成や医学の教育・研究の振興に尽力しました。

Mis. Yayoi Yoshioka was the founder of the first women's medical school in Japan, the Tokyo Women's Medical School (now known as Tokyo Women's Medical University). She dedicated herself to the training of female physicians and the promotion of education and research in the field of medicine.

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「女性も男性と同じように社会に出て活躍できるはず」

彌生は遠江国城東郡土方村(現:静岡県掛川市)に、漢方医の父・鷲山養齋と、大家族の中で家事に追われる母・みせのもと9人きょうだいの二女として生まれます。女医第一号として活躍する荻野吟子に憧れ、彌生は医師を志します。父は猛反対、彌生はそれにめげることなく、医学校へ入学するための準備を独学で進めます。18歳のときにようやく父の許しを得て、兄達の通う医学校「済生学舎」に入学します。済生学舎は、医術開業試験(現:医師国家試験)を目指す女子が入学できる唯一の医学校でした。男子学生のいじめを跳ね返しながら21歳で内務省医術開業試験に合格。弥生は帰郷して大坂村と大須賀村(横須賀)にある父の病院の分院を手伝い、内科・外科から歯の治療までさまざまな患者を診ます。

「女性医師の道を閉ざしてはならない」

彌生はドイツ留学を目指し再び上京。本郷区東片町(現在の文京区)で開業のかたわら、私塾「東京至誠学院」でドイツ語を習います。そこで佐賀から上京してかつて医学の道を志していた同学院院長の吉岡荒太と結婚。彌生は病身の夫を支えながら、高等予備校の実務面はじめ、大学に行かずに医師を目指す人のための「医書独習講義録」刊行を手伝います。この頃、母校の済生学舎が、風紀を乱すという理由で女子の入学を拒否するようになります。この知らせを聞いた彌生は夫の協力のもと現在の千代田区に「東京女医学校」の看板を掲げます。医院の一室に粗末な机と椅子を並べた教室で、生徒はたった4人からのスタート。夫また郷里の父に支えられながら、7年後にようやく医師を送り出し、12年後に東京女子医学専門学校に昇格、20年後に文部省指定校となり、卒業生は無試験で医師資格が取れるようになります。

「医学医術は女性に適している職業である」

その一方で、女性の社会的地位を向上させるべく、さまざまな婦人団体に関わり、1928年ホノルルで開かれた第1回汎太平洋婦人会議に日本女医会の代表として出席します。日中戦争開戦の年に女性初の内閣教育審議会の委員に任命され、太平洋戦争がはじまると国民精神総動員中央聯盟はじめ、婦人国策委員第一号、愛国婦人会評議員、大日本連合女子青年団長、大日本婦人会顧問などに就任。彌生はナチス政権化のドイツに渡って最新医学はじめ、家政倹約・母親支援・就労女性の子供の世話・病人看護・近隣互助活動など銃後の女性組織を積極的に導入しようとします。さらにナチス・ドイツ女医会と積極的に交流しながら戦時下での女性医師の地位向上を目指します。戦後は、戦争協力に指導的な役割を果たした廉で教職ならびに公職を追放され、戦争責任ならびに民主化実現を求める労働組合運動を受けて学内から去ります。まもなくGHQの赤狩りにより労働組合が解散に追い込まれると、1952年新制東京女子医科大学の学頭に就任。79歳で勲四等宝冠章。88歳で死去。遺体は遺言により解剖に付されます。

-掛川市吉岡彌生記念館 Kakegawa City Yayoi Yoshikawa Memorial Museum

-東京女子医科大学 Tokyo Women Medical Univ.

「音楽で大冒険」

"Hiromi’s Sonicwonderland"


上原 ひろみ 女史 

Ms. Hiromi Uehara

1979- 

静岡県浜松市生誕

Hamamatsu-city, Shizuoka-ken

上原ひろみ女史は日本で初めてグラミー賞を受賞したジャズピアニスト・作曲家です。超絶テクニック、エネルギッシュなライブパフォーマンスで知られ、世界中の様々なジャンルの音楽家と共演しています。

Ms. Hiromi Uehara is the first Japanese jazz pianist composer and awarded Grammy. Renowned for her extraordinary technique and energetic live performances, she has collaborated with musicians from various genres worldwide.


ハノンをスウィングして弾いてみたら?

ひろみは母のすすめで6歳よりヤマハ音楽教室に通ってピアノを始めます。ピアノの基礎練習ハノンに眠くなるひろみに、ジャズ好きの疋田範子先生は「ハノンをスウィングして弾いてみたら」。自分で和音をつけたりして遊ぶようになりま。さらに五線譜の上にじょうずにオタマジャクシを載せるようにして毎週1曲ずつ作曲を始めます。小学校の音楽会では音楽室の楽器をクラスメイトに振り分けてみんなを猛特訓、組曲「踊るポンポコリン」三部作をプロデュースします。高校時代は、エントランスホールに置かれたグランドピアノを独占。ホールに集まる友達のために即興でBGMをつけるように弾きます。

「セッションしよう!」

来る日も来る日もピアノを弾き続け、17歳のときに東京のヤマハまでレッスンを受けにいった先で、ひろみは同じビルのスタジオで翌日のコンサートのリハーサルをしているチック・コリアを見つけます。早速、スタジオに押しかけてオリジナル曲を披露。「じゃあ、即興しよう」スタジオにあった2台のピアノでセッション演奏をはじめます。そのまま翌日の彼のコンサートに誘われ、大手町の日経ホールで、聴衆の前で披露します。高校卒業後は大学に通いながらライブ活動を始めます。知人に誘われCM音楽を作るようになると、いろんな楽器について勉強するために大学を中退して渡米します。

「音楽の冒険」

ひろみはマサチューセッツ州ボストンのバークリー音楽大学でピアノを弾きながら作曲を猛勉強。英語がほとんど話せないひろみはピアノが弾けると友達ができるということを実感。世界中から集まってきた国籍も肌の色も違う人たちと24時間音楽漬けで過ごします。卒業試験の課題として提出した曲を作編曲科の先生が絶賛ジャズピアニストであるアーマッド・ジャマルの紹介を受け、ジャズの名門レコード会社「テラーク」からアルバム『Another Mind』で世界デビューします。さらに再会したチック・コリアとアルバム『Duet』を発表、ソロ・ピアノ作品『Place to Be』をリリース。2011年にはスタンリー・クラークとのプロジェクト作『スタンリー・クラーク・バンド フィーチャリング 上原ひろみ』で第53回グラミー賞にて「ベスト・コンテンポラリー・ジャズ・アルバム」を受賞。その後も世界中の新たな仲間たちとピアノを弾き続けています。

-Hiromi Uehara WEB

-YAMAHA音楽教室

愛知県 Aichi-Ken

市川 房枝 女史

Ms. Fusae Ichikawa

1893 - 1981

愛知県一宮市中島郡明地村 生誕

Born in Itinomiya-city, Aiti-ken

「平和なくして平等なく 平等なくして平和なし」

"No peace without equality, no equality without peace"

市川房枝女史は日本の婦人参政権運動を主導者です。戦時中に戦争継続のための様々な銃後支援を女性たちに押しつけて公職追放女性第一号となるも、戦後参議院議員として金権政治の打破、女子差別撤廃条約の早期批准に尽力しました

Ms. Fusae Ichikawa was a leading figure in Japan's women's suffrage movement. During the wartime, she played a significant role in urging various forms of back-home support from women to sustain the war effort, which led to her becoming the first woman to be banned from public office. However, in the post-war period, she worked as a member of the House of Councillors to dismantle political corruption and strive for the early ratification of the Convention on the Elimination of All Forms of Discrimination Against Women (CEDAW), working towards women's empowerment and gender equality.

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房枝は愛知県中島郡明地村に農家の7人きょうだいの3女として生まれます。父親は自分の生業の農業に否定的で子供たちに対して教育熱心。兄は小学校の教師から東京の政治学校の学生さらに米国大学の留学生に、姉は奈良県の女子師範学校生に、妹は名古屋市の淑徳女学校に進学。房枝は勉強嫌いで学校をサボることが多く、アメリカにいる兄を頼って単身渡米を試みたり、家業の農業を手伝います。三輪田高等女学校を受験するも不合格、近所の知人の口利きで女子学院を紹介され受験。矢嶋楫子面接で「手織りの着物に田舎丸出し」の房枝ほめ入学を許可します。房枝は祈祷会をさぼり、夕方からは国語伝習所に通って万葉集や十八史略などの講義を受けます。地久節に何ら行事を行わない女学院に不満、加えて上京する際に持参した生活資金も少なくなりアメリカの兄からの送金は途絶え、3ヶ月で退学して帰郷。15歳萩原町立萩原尋常小学校の代用教員として採用、勤務のかたわら準教員講習会を受けて教員に合格すると岡崎の愛知県第二師範学校に通い、さらに名古屋に新設された愛知県女子師範学校に移ります。新校長の良妻賢母教育に反発して同級生28名とストライキを実施、東京女子高等師範学校を受験するも不合格。朝日尋常高等小学校の訓導として教員生活を始めます。20歳のとき名古屋市第二高等小学校に転任、弟妹と3人で暮らし始めますが、闘病生活の上で退職。就職口を探してあちらこちらの講習会に顔を出しているうちに、哲学会を主宰する組合教会の牧師・金子白夢により洗礼を受けて日曜学校の教師に、また教会の縁をたよりに主筆の小林橘川を訪ねて24歳で名古屋新聞(現中日新聞)の記者になります。1年で退職して上京、兄の恩師である山田嘉吉の開く英語塾に通いはじめ、そこで出会った平塚らいてう、また奥むめをらと共に日本初の婦人団体新婦人協会を設立。女性の集会結社の自由を禁止していた治安警察法第五条の改正を求める運動を展開。房枝が27歳の時にアメリカで婦人参政権が実現すると翌年に渡米ベビーシッターやハウスワークをしながらアメリカ各地の婦人運動、労働運動を見て回る中で、全米婦人党の指導者のアリス・ポールやキャリー・チャップマン・キャットと面会します。「女は女の問題に専心すべし。いろいろのことを一時にしてはいけない」アドバイスを受けます。帰国後、「婦選獲得同盟」に参加婦人参政権運動に専念します。戦時中、婦人に関する研究会を次々に発足して盛り立てていきます。しかしながら房枝は政治的発言権と引き換えに戦争遂行へ協力、「婦選獲得同盟」は「大日本婦人会」へ統合され国民統制組織「大政翼賛会」を中心とした翼賛体制に組み込まれます。房枝は「大日本婦人会」の審議員ならびに「大政翼賛会」調査委員会の紅一点の委員となり、さらに言論統制団体「大日本言論報国会」の紅一点の理事に就任、東条内閣のもとで一党独裁を目指す翼賛選挙運動に参加。「女子挺身隊」「従軍慰安婦」「産業慰安婦」「大陸の花嫁」「傷痍軍人の花嫁」「早婚多産」「優生手術」を奨励、「女性の自由」を批判・弾圧しながら戦争継続のための銃後支援を女性たちに呼びかけます。終戦後、連合国軍(GHQ)総司令官ダグラス・マッカーサー5大改革に「参政権賦与による日本婦人の開放」が盛り込まれ、まず勅令により治安警察法が廃止女性の結社権が認められ、さらに改正衆議院議員選挙法公布によって女性の国政参加が認められます。房枝は参院選の立候補を前にして、GHQにより軍国主義の廉で日本女性第1号の公職追放を受けます。婦人団体はすぐに追放解除を求める17万の署名を集めます。3年7か月後の追放解除で房枝は57歳でようやく解放され、日本婦人有権者同盟の会長に復帰。「平和なくして平等なく 平等なくして平和なし」を提唱しながら、公娼制度復活反対や売春禁止、再軍備反対などの運動にも取り組みます。1975年の国際婦人年には、全国組織の女性団体に呼びかけ「国際婦人年日本大会」を開催。さらに参議院議員として「金のかからない選挙・政治」を実行。国会において超党派の女性議員を組織して、国連の女子差別撤廃条約(Convention on the Elimination of All Forms of Discrimination Against Women – CEDAW)の日本政府早期批准を求めて活動し続け、 87歳で逝去する2ヵ月前まで、プラカードを持ってデモの先頭に立ります。

-市川房枝記念会女性と政治センター Ichikawa Fusae Center for Women and Governance

小崎 甲子 女史

Ms. Katsuko Kosaki

1908-1997

愛知県名古屋市伊勢町 生誕

Born in Nagoya-city, Aichi-ken

「私は道場にただの習い事をしにきたのではありません。私が目指すのは、黒帯、世界初の女流柔道家なのです。」

"I don't come to the dojo just for a hobby. What I aim for is a black belt, the world's first female judoka."

小崎甲子女史は日本女性初の柔道の有段者(黒帯)で、女性初の柔道錬士です。彼女は武徳会において男性と同じ条件で昇段試験を突破、追って講道館も初段を授与。柔道のジェンダー概念を覆す快挙であり、女性柔道家の道を切り開きました。

Ms. Katsuko Kosaki is the first woman in Japan to achieve a dan rank (black belt) in judo and the first female Judo Renshi. She successfully passed promotion examinations on equal terms with men in the Butokukai organization, and later, Kodokan awarded her the rank of Shodan (first-degree black belt). This groundbreaking achievement challenged the gender norms in judo and paved the way for female judo practitioners. 

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甲子は名古屋市伊勢町(現在の中区丸の内)の美術商「清源堂」の次女として誕生。幼少期から活発で金城女学校在学中は様々なスポーツに打ち込みます。女学校を卒業後は実家の美術商にて家事手伝いをしながら、家事や稽古事を習いつつ縁談を待ちます。そんな折、古書店で偶然手に取った柔道の解説書『柔道大学』に感銘を受け、柔道修行を志します。最初は鶴舞公園の近くにあった大日本武徳会愛知支部の道場を稽古のない時間に借りて『柔道大学』を教本に一人稽古を行います。3か月程繰り返すうちに道場主に認められ、19歳で武徳会愛知支部への入門を果たします。武徳会愛知県支部は、一般の町道場とは違って全国大会での優勝者や柔道専門学校の卒業者も在籍し、近在の道場主や学校の体育の先生たちも集まるような、いわば専門家や名手の多い別格の道場でした。2年間の稽古を経て、さらに柔道に専従する意志を固くし、大阪府柔道連盟会長かつ天神真楊流師範にして『柔道大学』の著者・戸張滝三郎に手紙で弟子入りを請い、大阪の戸張の道場「尚武館」に内弟子として入門を許され、昼間は戸張の経営する接骨院で下働きをしながら、夜間に他の門人と共に稽古に励みます。甲子は男性に混じって分け隔てなく乱取稽古などを行うことを認められ、修行を積むにつれて昇段の望みを抱くようになります。師の戸張は小崎の希望を酌んで大阪有段者会の会合はじめ中央の講道館に交渉に当たると共に、甲子は休みの日に積極的に他の町道場へ出稽古に赴くようになります。23歳のとき武徳会大阪支部にて男性と同じ基準での昇段審査を認められます。甲子は24歳の5度目の挑戦で男性3名を破って大日本武徳会初段を認められ、女性として初の柔道黒帯取得者となります。当時、柔道段位は講道館と武徳会の二か所から発行されており、東京で嘉納治五郎が開いた講道館も追って甲子に講道館初段を認可。講道館も否応なく女性の段位規則の制定を進めることとなり、芥川綾子と森岡康子が初段に、乗富政子が初の女子二段になります。29歳で甲子は師の戸張の後援を得て大阪市天王寺に道場「清源館」を開設、女性初の柔道道場主となります。31歳で武徳会から女性初の柔道錬士となります。父の死を受けて道場を畳んで名古屋に帰郷、母と共に2代目清源館ならびに清源館道場を開き、名古屋大空襲を乗り越え73歳で講道館五段、生涯を通じ1万人の教え子を育てます。日本女子柔道会最高名誉顧問、愛知県柔道連盟参与などを歴任、88歳で死去。

-武徳会 Dainippon Butokukai

-講道館  Kodokan

三重県 Mie-Ken

吉田 沙保里 女史 

Ms. Saori Yoshida

1982 -

三重県津市 生誕

Born in Tu-city, Mie-ken

「そうなんです、自由なんですよ、私。」

"Yes, I am free."

吉田沙保里女史は世界大会16連覇、個人戦206連勝の記録を持つ、世界初の女子レスリング選手です。

Ms. Saori Yoshida is the world's first female wrestler with a record of 16 consecutive world championship victories and 206 consecutive individual match wins. 

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吉田沙保里女史は3歳から元レスリング選手の父親の指導の下、兄2人と共にレスリングを開始。小学生に入ってからは、休みはお盆とお正月の2、3日ずつだけで、平日も土日も休みは無く道場で練習するか、出稽古に行くか、試合に出るか、とにかくレスリング漬けの毎日。友達と遊べないのが嫌で、レスリングをやめたいと何度も思いつつも、吉田家は父親が言うことは絶対、逆らうことはできません。中学生の時にアトランタオリンピックで田村亮子選手が戦っている姿をテレビで観ていると、父から「いつかきっと、女子レスリングもオリンピック競技になるから頑張れ」、積極的に練習に打ち込む始め国際大会に出場するようになります。父親の選ぶ地元の高校また大学に入学、放課後は部活動の練習、帰宅後は自宅の道場で父親から指導を受けます。2002年レスリング世界女子選手権にて優勝、翌年全日本選手権にてライバルの山本聖子選手と延長戦を繰り広げ初めて勝利します。初めてレスリング女子が正式競技として採用されたアテネオリンピックの代表選考試合である全日本選手権でライバルの山本聖子選手に圧勝、2004年のアテネオリンピックで金メダルを獲得。以後「吉田沙保里のレスリング」で連勝記録を更新し続けます。2012年9月の世界選手権において、 男女通じて史上最多となる世界選手権10連覇および世界大会13大会連続優勝を達成、男子レスリング王者カレリン選手の 記録を更新します。2014年父の逝去の翌年、世界大会決勝戦でスウェーデンのソフィア・マットソンと苦戦の末に勝利。翌年のリオデジャネイロオリンピック決勝戦にて、ソフィア・マットソンを倒したアメリカのヘレン・マルーリスに逆転負け。世界大会の連覇記録は16連覇、個人戦は206連勝でストップします。現役を引退後はレスリング女子日本代表コーチに就任、後進を育てています。

-日本レスリング協会 Japan Wrestling federation

滋賀県 Shiga-Ken

「西方有國金銀爲本 目之炎耀種種珍寶多在其國 吾今歸賜其國」
"There are countries in the West whose foundation is gold and silver. There are many treasures that make your eyes shine. I now give them to them."

神功皇后 / 息長帯比売の尊 / 息長帯比売の天皇
370 - 470 頃
滋賀県米原市顔戸 生誕
Born in Yonebaru-city, Shiga-ken

 息長帯比売(おきながたらしひめ)こと神功皇后は日本初の女帝また摂政として約70年間最高権力者として君臨。仲哀天皇崩御後に皇后自ら将軍となって熊襲討伐・三韓征伐を主導。香坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)たちを勦滅、実子・誉田別尊(ほむたわけのみこと)を応神天皇として即位させ、自ら摂政となって国内外で政治手腕を発揮。卑弥呼から1世紀ぶりに中国王朝に遣使して「倭国王」を復活。朝鮮半島南部を軍事支配しながら大陸貿易を促進、鉄素材はじめ軍事物資・技術・先進文物を導入、30氏ちかい帰化人の専門家また技術者集団をとりまとめ日本列島を文明開化させます。
Okinaga Tarashihime, Empress Jingū, stands as Japan's first empress and regent, reigning supreme for nearly seventy years as the paramount authority. Following the demise of Emperor Chuai, she took the helm herself, leading campaigns against the Kumaso and expeditions to the Korean Peninsula. Empress Jingū orchestrated the demise of her own stepsons, Prince Kagosaka and Prince Oshikuma, and ensured the ascension of her son, Homutawake, as Emperor Ōjin. Empress Jingū, assuming the role of regent herself, showcased her political prowess both domestically and abroad. For the first time in a century since Queen Himiko, she dispatched envoys to the Chinese dynasties, thus reviving the title of "King of Wa." While exerting military control over the southern Korean Peninsula, she simultaneously fostered trade with the mainland, introducing various military resources, technologies, and advanced cultural artifacts, starting with iron materials. She consolidated a group of specialists and technicians from nearly thirty immigrant clans, She spearheaded the civilization and modernization of the Japanese archipelago.

「神懸りと熊襲征伐」
 卑弥呼の死後から約120年後、気長帯比売(おきながたらしひめ)は第九代開化天皇の4世の孫である父・息長宿禰王と、天日槍(あめのひぼこ)の5代の孫である母・葛城高額比売(かずらぎのたかぬかひめ)のもと長女として生まれ、幼少のころから聡明で容貌も美しく育ちます。やがて景行天皇の孫であり日本武尊(やまとたけるのみこと)の子である仲哀天皇の皇后となります。
 朝鮮半島で大陸交易の同盟国である百済・伽耶の要請により大量の兵を派遣する一方、国内では新羅の後ろ盾を得た九州の熊襲の叛乱が勃発。皇后は仲哀天皇の九州の熊襲征伐に随伴、穴門豊浦(下関)に皇居を興します。すると新羅の塵輪(翼のある鬼のような人々)が熊襲を煽動し豊浦宮に攻め寄せます。皇軍は大いに奮戦するも、宮内を守護する阿倍高麿・助麿の兄弟まで相次いで打ち死に、天皇自ら弓矢をとって交戦して撃退します。皇后は天皇ならびに皇軍とともに筑紫の橿日宮(香椎宮)へ移動して神託を行います。仲哀天皇が琴を弾き、武内宿禰が審神者(さにわ)として神の言葉を通訳します。皇后に神懸かり「西のほうに国がある。金銀をはじめ、目をかがやかせる種々の宝物が多くある。私がいまその国を与えよう。」仲哀天皇は琴を押し退けて答えます。「高いところに登って西のほうを見ても国は見えない。ただ大海だけだ」皇后に神懸かり「すべてこの国はお前の治めるべき国ではない。お前はこの世の人が行くべきただひとつの道、すなわち死の国へ行け。」武内宿禰が言います。「おそれ多いことです。陛下、やはりその琴をお弾き遊ばせ。」仲哀天皇は琴をすこし引きよせてしぶしぶ弾くと、まもなく琴の音が聞こえなくなり不思議なことに天皇は崩御。皇后は天皇の喪を匿したまま武内宿禰に豊浦宮で殯斂させ、自ら小山田邑(福岡県粕屋郡)につくらせた斎宮に入ります。吉備鴨別を派遣して熊襲征伐を続行。皇后自ら層増岐野で強健な熊鷲一族を討ちとり、さらに筑後川下流域の山門県で土蜘蛛族の女酋・田油津媛を討ちとります。

「大祓と三韓征伐」
 皇后は神をなだめるために国中で大祓を行います。豊浦の殯宮に坐して、更に國の大幣を取りて,生剥・逆剥・阿離・溝埋・屎戸の罪(農耕・共同体社会の妨害)、上通下通婚・馬婚・牛婚・鷄婚・の罪(反社会的な性関係)の類を種種求めて国中を清めます。そして武内宿禰を審神者として伴って再び神託を請けます。皇后に神懸ると「すべてこの国は皇后の御腹においでになる御子が治めなさい」「我らは住吉三神。あの国(新羅)を求めるならば、天地・山海河の神にもれなく幣帛を奉り、わが御魂を軍船の上に祭り、真木の灰をひょうたんに入れ、箸と皿を数多く作って大海に浮かべ散らしてから渡りなさい」。すぐさま皇后は西諸国から船舶と兵士を集め、軍規と褒賞を定めて士気を高めます。角髪を結って男装、妊娠中のお腹に石を当ててさらしを巻き(月延石・鎮懐石)、自ら斧鉞を取って将軍となり兵を率います。筑紫から玄界灘を渡り、軍の船団は海に満ち、旌旗は日に輝き、鼓吹の音山川をことごとく震わせながら山に登らんばかりの勢いで攻めます。新羅王は降伏、微叱己知波珍干岐を人質として差し出し、船の腹また舵を乾かすことなく、馬・馬繰り工人はじめ金・銀・彩色のもの、綾織・羅織・縑の絹、男女を八十艘の船に載せて貢ぐことを約束します。皇后は宝物庫に入って地図と戸籍を手に入れ、持っていた矛を新羅の王の門にたてて宗主の印とます。百済も直支王の人質はじめ七枝刀一口・七子鏡一面および種々の重宝を献上、朝貢を約束します。皇后は新羅に馬飼部(馬の供給先)、百済国に渡屯家のちの内官家(外交・交易部門)を定め、海表の蕃屏(海外の属国)とします。

「忍熊王との戦い」
 帰国後、皇后は筑紫・宇美で誉田別尊を出産します。仲哀天皇と大中姫命の長男次男である麛坂王・忍熊王らは、播磨・赤石に仲哀天皇陵を造営するとして、船団を編成して淡路島に乗り入れ、石を運び出す屈強な男達をもれなく兵に取り立てて皇后を待ち構えます。麛坂王・忍熊王ら東国の挙兵の動きを察知した皇后は、強健な西国の兵を集めつつ一計を案じます。御子は既に崩じてしまったとの噂を流し、葬船を仕立てて帰途につきます。軍勢が待ちうけるたところに到着した葬船から兵を降ろす意表をついて戦闘開始。まもなく武内宿禰や武振熊命を派遣して、皇后は崩御したとして偽りの和睦を申し出ます。皇后軍兵に弓の弦を切らせ剣を捨てさせます。敵軍が応じると、再び号令をかけて予備の兵器で反撃、逢坂山を超えて狭々浪の栗林(滋賀県大津市膳所)まで追い詰め討ち取ります。都に帰還した皇后は、祝いの酒宴を催します。「この神酒は私は作らず、奇しき酒の司、常世に坐す少名御神が祝い狂い、祝ぎ回り、 進呈され届いた神酒です。飲み干しなさいませ。さあ。」建内宿祢命は返歌を詠みます。「この神酒を醸した人は、臼を鼓にして打ち、歌いながら醸したかも。 舞いながら醸したかも。この神酒で、まことに歌を楽しもう。さあ。」皇后は磐余若桜宮に遷都、誉田別尊を太子とし、自ら摂政となります。

「広開土王との闘い」
 新羅王は倭に使者を派遣して、 先に人質とした微叱許智伐旱の一時帰国を請わせます。皇后はこの申し出を受け入れ、武内宿禰の息子・葛城襲津彦を付き添いとして派遣するも、新羅の使者は密かに別の船で微叱許智伐旱を新羅に逃がします。やがて新羅は拝朝せず、高句麗の広開土王(好太王)の庇護を求めます。皇太后は葛城襲津彦を新羅に派遣、高句麗軍5万の騎馬兵に押され任那・加羅まで敗退するも、同盟国の安羅軍らが逆を突いて新羅の王都を奪取します。それでも新羅は倭国に朝貢せず、皇太后は葛城襲津彦(沙至比跪)を派遣すると、新羅が用意したハニートラップにかかり、あろうことか同盟国である加羅国を伐ちます。加羅国王は人民を率いて百済に亡命。皇后は木羅斤資を派遣、新羅と葛城襲津彦(沙至比跪)を討ち、兵を加羅に集めて国を再興します。再び高句麗の庇護を得た新羅は、今度は朝貢の際に百済の貢物を奪います。皇后は、将軍荒田別・鹿我別を卓淳国へ派遣、ならびに百済の将軍木羅斤資・沙沙奴跪・沙白・蓋盧らに合流を命じて、新羅を再び征伐します。続いて高句麗の領土の一部である帯方界に攻め入り、広開土王の5万の歩兵・騎馬兵と激戦を繰り広げます。比自㶱、南加羅、㖨国、安羅、多羅、卓淳、加羅の七カ国を平定。さらに西方に軍を進めて、比利、辟中、布弥支、半古の四つの邑を落とします。

「倭国王の復活」
 421年(永初2)皇后は中国新王朝・宋に遣使、応神天皇こと倭王・讃は「使持節・都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」を願い出るも「安東将軍・倭国王」の官爵号を授けられます。3世紀の卑弥呼の「親魏倭王」以来1世紀ぶりに「倭国王」が復活。続いて、高句麗王や百済王とともに将軍に任じられた倭王・讃は将軍府を設置、長史(文官)・司馬(軍事) ・参軍を置きます。以降、倭王・讃はじめ倭の五王(倭王讃=応神天皇、倭王珍=仁徳天皇、倭王済=允恭天皇、倭王興=安康天皇または木梨軽の皇子、倭王武=雄略天皇)らは、宋の皇帝の忠実な藩臣として、高句麗の勢力を背景に、外交・交易の拠点である伽耶・百済を中心とする南朝鮮の軍事領土・支配権の交渉のため遣使を続けます。
 皇后は制圧した伽耶から、それまで輸出統制されていた馬具・甲冑・武器はじめ製鉄技術者・金属加工者・馬具職人・陶質土器職人を大量に導入。さらに皇后は平定した慶南・全南地域を百済に与え、この地域勢力たちの仲介のもと交易を始め、大陸の先進文物を取り入れ、有能な人材をこぞって抜擢。列島内また朝鮮半島内で政治・文化・言語・宗教・民族の混血また融合を進めて紛争・戦闘を抑えます。ならびに、百済から服飾工女、馬飼の阿直伎、漢文博士の王仁、養蚕・織絹の職人集団を束ねる弓月君(秦氏の祖)、他にも葛城・巨勢・蘇我・平群・紀・東漢氏など27氏を帰化人とし、帰化人とその子弟・子孫たちを官僚や有力豪族の部下に採用、政治はじめ養蚕業・農業・土木建築・医薬などの産業の先端を担わせます。やがて儒教や仏教の伝来をはじめとする海外文化の大きな恩恵を受けながら、律令制度を整え統一国家の基礎を固めていきます。
 1910年に日本は韓国を併合。そのころ神功皇后の「三韓征伐」をたたえる教育が盛んになるも、1926年の皇統譜令に基づいて皇統譜の歴代天皇から外され、第15代天皇・初の女帝(女性天皇)の記述も抹消されます。

-『新唐書』列伝第145
「仲哀死、以開化曽孫女神功為王」

-『宋史』列伝第250
「次 神功天皇 開化天皇之曽孫女、又謂之息長足姫天皇」

-『常陸国風土記』
「息長帯比売の天皇」

-『扶桑略記』
「第十五代天皇」「神功天皇」「女帝これより始る」

-『住吉大社神代記』
「是の夜、天皇忽ちに病発りて崩りましぬ。是に、皇后と大神(おおかみ)と密事有り。俗、夫婦の密事を通はすと曰ふ。

-『広開土王碑文』
「倭人は、新羅の国境に満ちていた。400年、好太王は軍令を下し、歩騎五万を派遣して、新羅を救った。高句麗軍が、男居城から新羅の国城にいたると、倭がその中に満ちあふれていた。高句麗軍がいたると、倭賊は退去した。しかしその4年後の404年、倭は不軌(無軌道)にも、帯方界(現在の京城以北)に侵入した。」
「好太王の軍は、倭の主力をたち切り、一挙に攻撃すると、倭寇は壊滅し、(高句麓軍が)斬り殺した(倭賊は)無数であった。407年、好太王は、軍令を下し、歩騎五万を派遣して、合戦して、残らず斬り殺し、獲るところの鎧鉀一万余領であった。持ち帰った軍資や器械は、数えることができないほどであった。」

-『日本書紀』「神功皇后紀」
「久氐らは千熊長彦に従ってやってきた。そのとき、七枝刀一口・七子鏡一面および種々の重宝を献上した。」
「新羅の王、波沙寐錦は、微叱己知波珍干岐をもって質とした。」
「仲哀天皇九年、爰(ここ)に新羅の王・波沙寐錦(はさむきむ)、皍ち 微叱己知波珍干岐(みしきんはとりかんき)を以て質(むかはり)として、仍りて金・銀・彩色、及び綾(あやきぬ)・羅(うすはた)・縑絹(かとりのきぬ)を齎(もたら)して、八十艘の船に載れて、官軍に從はしむ。」
-『日本書紀』の「応神天皇紀」
「百済の第十六代の王で、直支王のまえの代の阿花王(阿萃王)が、なくなると、阿花王(阿萃王)の長子の直支王は、人質として日本に来ていたが、応神天皇は、「お前(直支王)は、国(百済)にかえって、位をつげ。」と命じた。」
「応神天皇(倭王讃)は東晋の安帝に使いを出した」

-朝鮮歴史書『三国史記』「新羅本紀」
「実聖尼師今元年(402年)3月に、倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質とした。」
-朝鮮歴史書『三国史記』「列伝」
「実聖王元年壬寅の年(402年)に、倭国と講和を結ぶとき、倭王は奈勿王の子、未斯欣を人質にしたいと請うた。王は、かつて奈勿王が自分を高句麗へ人質として送ったことをうらんでいたので、そのうらみを、その子ではらそうと思っていた。そこで、倭王の請いを断わらずに、未斯欣を派遣した。」
-朝鮮歴史書『三国史記』「百済本紀」
「王は、倭国と友好関係を結び、太子の腆支(直支)を人質にした。」
「阿萃王十四年・腆支王元年(405年)腆支は倭にあって(阿萃王の)訃報をきき、哭泣しながら帰国を請うと、倭王は、兵士百人をもって護送させた。」
「腆支王12年(416年)東晋の安帝は、使臣を遣わして、(腆支)王を冊命して、『使持節都督百済諸軍事鎮東将軍百済王』にした。」

-『晋書』安帝紀
「義熙9年(413年) 高句麗・倭国及び西南夷の銅頭大師が安帝に貢物を献ずる。」

-『宋書』「夷蛮伝」「百済国」
「義熙12年(416年)、以百済王余映、為使持節都督百済諸軍事鎮東将軍百済王」
-『宋書』「夷蛮伝」「倭国伝」
「高祖の永初二年(421年)詔して曰く。「倭讚万里貢を修む。遠誠宜しく甄(あらわ)すべく、除授を賜うべし」」
「太祖の元嘉二年(425年)、讚又司馬曹達を遣わして表を奉りて方物を献ず」
「建元元年(479年)が死んで弟のが立った。使いを遣わして貢献した。みずから使持節・都督 倭 百済 新羅 任那 秦韓(辰韓)慕韓(馬韓)六国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称し、上表して除正されるよう求めた。詔してともにゆるした。」

-『梁書』「倭伝」
「晋の安帝(396-418年在位)のとき、倭王があった。が死んで、弟のを立てた。が死んで、子のを立てた。が死んで、子のを立てた。が死んで弟のを立てた。斉(南朝斉)の建元中(高帝479-482年)を、使持節・(都)督 倭 新羅 任那 加羅 秦韓 慕韓六国諸軍事・鎮東大将軍に除した。 高祖(南朝梁の武帝、502~549年在位)が即位した。を進めて征東大将軍と号させた。」

「これからやりますよ、わたしは生まれかわったのだもの!」

"I'm starting from now on, I've been reborn!"


久野  久 女史

Ms. Hisako Kuno

1886 - 1925

滋賀県大津市馬場 生誕

Born in Otsu-city, Shiga-ken


久野 久子女史日本のみならず朝鮮・中国・オーストリアのウィーンで演奏を果たした日本初のピアニスト。べートーヴェンを得意として、鍵盤は血に染まり髪を振り乱し簪は飛んで着物は着崩れて汗が迸る情熱的な演奏はたくさんの人々を感動させました。

Ms. Hisako Kuno is the first Japanese pianist who has performed not only in Japan but also in Korea, China, and Vienna in Austria. She specializes in Beethoven, and especially impressed many people with her passionate performance, in which her keyboard was stained with blood, her hair was disheveled, her hairpin flew off, and her kimono was torn and dripping with sweat.

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日本初のピアニスト

 久子は質屋を営む裕福かつ大地主の家の娘として生まれ何不自由なく暮らすも、3歳の頃に自宅近所の神社の階段で転倒し、片足に障害を負います。芸事の好きな母の勧めで京都に出て琴と三味線とを習ひ、琴は生田流で三百曲以上を修め奥許取ります。やがてと、東京の大学に通う兄・弥太郎の勧めで15歳で東京音楽学校(現:東京芸術大学)へ入学、日本クラシック音楽の草分けである幸田延女子に師事してピアノを学ぶびます。当初は成績不振で退学を勧告されるも久子は土下座して残留を頼み、猛練習の末に首席で卒業、卒業式で演奏します。「鍵盤を叩きつける指先から鮮血が散り」「髪を振り乱して簪が飛ぶ」「着物の裾がはだけて太ももがあらわになる」など情熱的で官能的な久子の演奏は、日本初のピアニストとして絶大な人気を誇るようになります。24歳で東京音楽学校の助教授に就任。日本女子大学でも教鞭をとりはじめます。国内はじめ満州、朝鮮で演奏会を開催して大反響を呼びます。久子のもとには森鷗外の娘・茉莉はじめ東京の上流階級の子女が押しかけます。

「事故」 

 ところが久子は29歳で自動車事故に巻き込まれて頭部を強打、半年入院した後で数か月に渡り湯治にでかけます。翌年復帰するも「愚痴をこぼしたり何んでもばつばつと口外する様になつたり」「余りに痛ましい気がする演奏」久の演奏はじめ精神と行動はすっかり不安定となります。東京音楽学校は教授として小倉末子をアメリカから呼びよせます。末子はベルリン王立音楽院(現、国立ベルリン芸術大学)でハインリッヒ・バルトに師事、アメリカのメトロポリタン音楽学校教授を務める最先端のピアニスト。同年、東京音楽学校の演奏会で久子は末子と同じ舞台に立つと音楽評論家に酷評されます。久子は評判を取り戻そうと、日本女子大学校櫻楓会主催で復帰記念演奏会を東京音楽学校奏楽堂にて開催。ところがショパン・ピアノ協奏曲第1番の第2ピアノを担当する東京音楽学校同僚のショルツに演奏をボイコットされます。31歳で教授へ昇格した翌年、久子は負けじと日本女子大学校櫻楓会主催慈善音楽会「ベートーヴェンの午后」でソナタ5曲を東京・上野の東京音楽学校奏楽堂で3時間にわたって演奏。「美しい輝く情熱と讃嘆すべき力」「倒れるまで弾きつづけようとする必死の努力」が評判となり、白樺同人会はじめ全国の音楽会に招待されます。しかしながら、ベートーヴェン生誕150年を祝う東京音楽学校奏楽堂での音楽会でピアノを演奏したのは小倉末子でした。

「芸術家の苦しみ」

 久子は37歳で文部省の海外研究員に選ばれます。「真剣な努力に努力を重ね二年あまりの日には再び演奏をお聞きに入れ御同情を頂きたく存じます。どうかお忘れないで下さいませ!」日本女子大学櫻楓会主催で渡欧告別演奏会「ベートーヴェン後期ソナタ演奏会東京音楽学校奏楽堂で開催ののち出発、上海でもコンサートを開催します。ベルリンで留学生活を開始するも、久子は浴衣のまま浴槽に使ったり、劇場で突然床の上に座つて日本式のお辞儀をしたり周囲を驚かせます。大使館を出て着物で自炊生活を始めます。指を痛めピアノが弾けない日々が続く中で、名ピアニストのコンサートに通って演奏を研究します。「左手と右手の調和と、ペダルの使い方の上手なこと」。久子はベルリンのコンサートで感銘を受けたエミール・フォン・ザウアーをウィーンに訪ね、最も得意とするベートーヴェンの月光ソナタを演奏。ザウアーに絶賛され、入門の許しを得ます。早速ザウアーの住むウィーン郊外バーデンに移住してレッスンを受け始めます。まもなく「奏法の間違いを指摘され基礎からのやり直しを言い渡されたという噂話が、レッスンに同行してドイツ語通訳を務めた大島浩駐独日本大使夫人の口からたちまちウィーン中に広まります。久子がヘルツホフホテルから身を投げたのは4月20日の日本女子大学校の創立記念日でした。久子の死は当時の日本の芸術論と一緒くたになって物議を醸します。

-国立国会図書館 National Diet Library, Japan

京都府 Kyoto-Fu

広岡 浅子 女史

Ms. Asako Hirooka

1849 - 1919

京都府京都市 生誕

Born in Kyoto-city, Kyoto-fu

「今日の婦人が無力である最も大きな理由は、経済力に乏しいという点です。自ら事業の経営者となって、系統的に組織的に、経済的に、これを発達させていくことが必要だと思うのです。」

"The main reason why women are powerless today is their lack of economic power. I hope every woman to become a business owner herself and develop it systematically and economically."

広岡浅子女史は日本女子大学創設者ならびに大同生命創業者です。さらに女性の貧困問題を解決するための教育事業・社会事業に奔走、愛国婦人会大阪支部また大阪YMCAにて、学びまた賄い付きの裁縫訓練学校兼作業場、寄宿舎また夜間女学校を伴うタイピスト・秘書養成学校を発案・支援しました

Ms. Ayako Hirooka is the founder of Japan Women's University and the co-founder of Taiyo Life Insurance Company. Additionally, she passionately dedicated herself to educational and social initiatives aimed at addressing women's poverty issues. She played a crucial role in the establishment and support of various institutions, including learning centers, sewing and vocational training schools with provisions, workspaces, dormitories, and evening schools for women, typist and secretary training schools, within the Osaka branch of the Patriotic Women's Association and the Osaka YMCA.

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浅子は山城国京都(現・京都府京都市)油小路通出水の小石川三井家の四女として生まれ、三味線・琴・習字・裁縫といった商家の女性に必要な教養を身につけます。兄弟が学ぶ「四書(大学・中庸・論語・孟子)」に強い興味を持ってこっそり書物を引っ張り出して読み始めますが、「女に教育は不要」「男子のすることを真似てはならない」と読書を禁じられます。17歳で大坂の豪商・加島屋の次男・広岡信五郎と結婚。ずさんな経営を目にした浅子は独学で九九算から始め、算盤の稽古、簿記、そして屋敷の帳面や書類を習得、さらに夫と一緒に漢学儒学の勉強を始めます。20歳で明治維新の廃藩置県を迎えると、浅子は諸大名家をまわってなどタフな交渉を重ねて加島屋の立て直しに奔走します。35歳のときに吉田千足とともに「広炭商店」を設立、帆足義方が所有する筑豊の炭鉱から産出された石炭の国内販売また海外輸出を始めます。輸出コストを解決するために、長崎港よりも筑豊に近い門司に新たに税関を設置し港の整備を進め、さらに帆足義方の炭鉱自体を傘下におさめ、石炭の産出から販売までを手掛ける商社「日本石炭会社」を設立するも、すぐに日本国内がデフレ不況になり石炭の価格が暴落、4年で解散となります。手元に残った潤野炭鉱(福岡県飯塚市、後の二瀬炭鉱)浅子は自ら単身乗り込みます。護身用のピストルを懐に坑夫らと生活をともにしながら、現場監督また納屋頭らの協力を取り付け優良炭鉱へと生まれ変わらせ、官営八幡製鉄所に売却します。浅子の資金繰の甲斐あって加島銀行の設立、さらに大阪商業界発の紡績事業への参加と実を結びます。続いて、浅子は相互扶助の精神を基調とする社会公益事業に共感、浄土真宗を基盤とする真宗生命保険会社の経営を支援、事業改革を進め朝日生命を創業します。

47歳の時に、大和吉野の林業家・土倉庄三郎を介し、梅花女学校の校長で女子大学設立を目指す成瀬仁蔵の訪問を受け『女子教育』を手渡されます。強く共感した浅子は、すぐに成瀬と行動を共にして政財界の有力者を説いて協力者を募り、大規模な発起人組織を作りあげます。1年足らずのうちに女子大学校を設立する計画を公式に発表、大隈重信また近衛篤麿らを来賓として総勢三百四十名の政財界の有力者が発起人会に集結、鹿島銀行の支援のもと大阪に大学校用地を取得します。経済恐慌により資金集めが停滞すると、浅子は広岡家・実家の三井家一門に働きかけて目白台の土地を寄付させます。成瀬が浅子と出会って5年目にして日本初の女子高等教育機関、日本女子大学校(現・ 日本女子大学)開校が開校。五十三名の教職員と五百十名の生徒で同校はスタート。開講3年目で夫の死去を機に事業を娘婿に譲ります。浅子は心友である奥村五百子の愛国婦人会を支援、大量のミシンを購入し愛国婦人会大阪支部の2階に持ち込み、警察・郵便・電気局・軍人など公共団体の制服を受注、職業訓練学校兼作業場を整えます。また終業前の30分に女性やこどもに国語をはじめ、算数や道徳を教える時間をつくります。さらに浅子は手術によりがんを克服、宮川経輝牧師のもとキリスト教の洗礼を受け、一緒に大阪YWCA創立準備に奔走、寄宿舎と夜間女学校を備えたタイピスト秘書養成学校を設立します。浅子は71歳で死去するまで婦人運動や廃娼運動に参加、女性雑誌に多数の論説を寄せたり、御殿場・二の岡の別荘に若い女性を集めて合宿勉強会を主宰します。

-日本女子大学 Japan Women's University

-大阪YMCA Osaka YMCA

-大同生命 DAIDOSEIMEI

「私は、女の世界から見た真実な女の姿を、自分の人生観とともにくまなく描きたい」

"I want to thoroughly depict the true image of women as seen from a woman's perspective, along with my own worldview."


坂根 田鶴子 女史

Ms. Tazuko Sakane

1904 - 1975 

京都府京都市上京区 生誕

Born in Kamigyo-ku, Kyoto-city, Kyoto-Fu


坂根田鶴子女史は日本最初の女性映画監督です。代表作品は「初姿」「開拓の花嫁」です。

Ms. Tazuko Sakane is Japan's first female film director. Her representative works include "Hatsu Sugata" and "Bride of Pioneer." 

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「女万丈の映画を」
田鶴子は、京都の縮緬織りの織元で発明家の父・坂根清一と丹後の旧家出身の母・志げの間に6人兄弟の長女として生まれます。田鶴子は2歳で跡取りのいない母方・佐久間家の当主となり、中立売小学校、京都第一高等女学校(現在の京都府立鴨沂高等学校)、同志社女子専門学校英文科(現在の同志社女子大学)へ進学。やがて19歳で自主退学して病に伏せる母・志げを看取り、母の遺言に従って産婦人科医と見合い結婚するもうまくいかず、出戻った田鶴子に後妻・大定ツルはじめ周囲の目は冷たく刺さります。「発明推奨映画」の製作に関わっていた父・清一の口利きで、1929年日活京都太秦撮影所に入社。監督助手として溝口健二監督の組に配属され、小道具、シナリオ速記、記録、フィルム編集、台詞指導など、「男装」しながら映画作りに携わります。
1935年溝口組とともに第一映画に入社、助監督を務めます。1936年小杉天外原作の『はつ姿』を映画化『初姿』を監督します。溝口組は女優・入江たか子ぷろだくしょんのもとで評判となりながらも、屈辱を感じて実体のない名前だけの「溝口プロダクション」を列記して体面を保っていました。田鶴子は女のシナリオライターやカメラマンといったスタッフと共に、男では描けない女万丈の映画を作りたいと思うも監督する機会に恵まれません。

「真実な女の世界を」
溝口夫妻を実家で世話するうちに、田鶴子は健二から求婚され、妻・千枝子は発狂して精神病院に収容されます。その頃、日中戦争が泥沼化する中で映画法が施行、情報宣伝と言論・思想統制のための文化映画を劇映画と併映することが義務付けられます。彼女は映画を監督する機会を求めて1940年に理研科学映画研究所(理研)に入社。北海道に赴いてアイヌの暮らしをテーマにしたドキュメンタリー『北の同胞(アイヌ)』(1941年)を監督します。さらに、国策として設立されアジア随一の施設を持つ満洲映画協会に1942年に入社。『勤労的女性』、『健康的小国民』、『開拓の花嫁』、『野菜の貯蔵』、『暖房の焚き方』、『室内園芸』、『春の園芸』、『救急ノ基本』、『基本救急法』などを監督します。敗戦翌年1946年京都に引き揚げ、再び溝口組として松竹に入社しますが、監督ではなく編集課記録係として採用されます。溝口は田鶴子を冷遇する中で、千枝子の妹を後妻にしながら女優・田中絹代と事実婚状態にあり、かつての雇い主・入江たか子を化け猫女優としていじめぬいて引退させます。田鶴子は戦争未亡人を題材とした映画の企画に取り組み始めますが、再び映画監督となるチャンスは得られませんでした。1961年に松竹を退職後、大映京都撮影所でアルバイトの記録係として働き続けました。『開拓の花嫁』は坂根 田鶴子作品のうちフィルムが現存する唯一の作品であり、プロパガンダ映画でありながら、ドラマまた空間の表現力、当時の日本社会に対する批評的視点など、近年高く再評価されています。

-国立映画アーカイブ National Film Archive of Japan

「とんでもないものが好きになってしまった」
"I've fallen in love with something incredible."

西原(旧姓 今井)小まつ
Ms.Komatsu Nishibara / Imai
1899 - 1984
京都府福知山町 生誕
Born in Fukuti-machi, Kyoto-fu

今井小まつ女史は、日本女性初の二等飛行機操縦士となった女性パイロットの草分け。雲井竜子の筆名で航空小説や随筆を執筆。元財団法人日本婦人航空協会(現・一般社団法人日本女性航空協会)理事長。
Ms.Komatsu Imai is a trailblazing female pilot who was the first Japanese woman to obtain a second-class pilot's license. She wrote aviation novels and essays under the pen name Tatsuko Kumoizumi. Former chairperson of the Japan Women's Aviation Association (now the Japan Women's Aviation Association, a general incorporated association).

「私にだってできる!」
 17歳の小松は、アメリカ人女性パイロットのキャサリン・スティンソンの華々しい活躍ぶりに「私にだってできる!」。両親の猛反対にあい再三家出を繰り返しながら、ようやく東京・赤羽の民間飛行場にたどり着き、パイロットに頼み込んで初めて飛行機に乗ります。「とんでもないものが好きになってしまった」。まもなく小松は女学校卒業後2年目の20歳のときに結婚。夫と奉天に渡り薬屋を営みます。小松は商売そっちのけで、地元の新聞にペンネーム「覆面の女」で評論や小説を書いては投稿します。やがて男の子が生まれると、結婚3年目で夫と子供を残して実家に戻ります。夫はじめ親戚から復縁を求められるも断固拒否。小松は単身で静岡県の福長飛行機研究所に出かけます。所長の福長浅雄に頼み込んで男性に混じって住み込みで飛行機開発を手伝いながら飛行機の操縦を学び始めます。

「飛ばない鳥は鶏である」
 小松は有力な実業家・西原亀三に嫁いだ姉の協力のもと、軍から払い下げられた飛行機・中島式五型ホールスコットを手に入れます。愛機で訓練に励み、小松は24歳のときに兵頭精に次いで女性として2番目に三等飛行機操縦士となります。さらに曲芸飛行などの厳しい訓練を経て、26歳で女性として初めて二等飛行機操縦士となります。やがて小松は同期生の根岸錦蔵とパートナーとなって、飛行機を使った新しいビジネスを始めます。再び姉の協力のもと、魚群捜査飛行を目的とする飛行場を静岡県清水港三保につくります。2人は軍から払い下げられた飛行機で長距離飛行をしながら、上空からカツオやマグロの大群を見つけては漁船にメモを投下して位置を知らせます。八丈島にも基地をおきますが、まもなく魚群探査の仕事を日本航空学校に仕事を奪われます。やがて銀蔵は5000m上空での気象観測、さらに北海道女満別での流氷観測また千島列島での霧観測に乗り出します。小松は一等飛行機操縦士としての銀蔵への嫉妬心にかられながら、雲井龍子のペンネームで航空小説や随筆を執筆し始めます。29歳のときにパイロットを辞めて静岡市内でバー「つばさ」を開き、38歳で姉の逝去にともない西原亀三の後妻となって中国へ渡ります。

-一般社団法人日本女性航空協会 Japan Women's Association of Aviation
-日本航空協会 JAPAN AERONAUTIC ASSOCIATION

兵庫県  Hyogo-Ken

「笑わせなあきまへんで」

"Let's make them laugh"


吉本  せい 女史

Ms. Sei Yoshimoto

1889 - 1950 

兵庫県 明石市 生誕

Born in Akashi-city, Hyogo-ken


吉本せい女史は吉本興業(現・吉本興業ホールディングス)創業者。大坂はじめ京都・名古屋・東京に「笑い」をもたらした女性。

MS. Sei Yoshimoto is the founder of Yoshimoto Kogyo (now Yoshimoto Kogyo Holdings), who brought laugh to Osaka, Kyoto, Nagoya, and Tokyo.

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「花と咲きほこるか、月と陰るか、全てを賭けて」

せいは兵庫県明石市東本町で太物屋(木綿と麻の織物商)の12兄弟の次女して生まれます。せいが幼い頃に一家で大阪に移り米穀商をはじめると、せいの愛嬌と気転の利いた店番で大繁盛します。彼女は米升に親指を突っ込んで計量して客に渡す米を減らして一握り元に戻しながら「これはおまけね」。小学校を卒業するとせいは12歳から商売名人の米穀仲買人・島徳蔵宅のもとで女中奉公しながら、花嫁修業はじめ商売について学びます。22歳のとき両親の進めで荒物問屋(家庭用の雑貨店)主人・吉本吉兵衛(泰三)と結婚します。夫の泰三は家業をほったらかしでひいきの芸人に入れあげて金を浪費、自分でも芝居や剣舞に凝って舞台に上がったり地方巡業に加わったり、多大な借金を抱えて店は倒産します。「そないに芸事がお好きやったら、ふたりでコヤを持ちまへんか?」そんな中で夫の泰三は経営不振で倒れた寄席を購入する話をつけてきます。せいはあちこちを奔走してお金をかき集めますが、舞台に上がる落語家は一人も見つかりません。すると泰三は「浪花落語反対派を主催する岡田政太郎と提携、ものまね・音曲・剣舞・曲芸・講談・軽口・怪力・琵琶・義太夫など無名の大道芸人を集めて舞台に上げます。入場料は他の寄席の半額以下、さらにせいの愛嬌と機転の利いた店番で大繁盛、泰三は次々に経営不振の寄席を買収していきます。

「女今太閤」

1913年日本で最古の芸能プロダクション「吉本興業部を設立します。せいは芸歴問わず芸人発掘に努め、公衆便所にまで待ち伏せして人気のある真打を獲得。火事や水害が起きると芸人をボランティアに送り出し宣伝に努め「ヨシモトが来ましたで」、関東大震災では焼け野原を探し歩いて東京の芸人を慰問して大阪の舞台に呼びます。大阪・京都・名古屋・横浜・東京に寄席小屋を広げる中、夫・泰三が愛人宅で急死、35歳のせいは実弟の正之助に経営を執らせます。せいは山口組興行部・山口登の仲介で浅草の浪花家興行社・浪花家金蔵と交渉、二代目広沢虎造の興行権・映画出演権を獲得します。続いてせいは大阪府議会議長・辻阪信次朗の協力を要請、アメリカの「マーカス・ショー」を招聘します。さらにせいは阪急電鉄・小林十三の「P・C・L映画製作所」「東宝映画配給株式会社」と提携、映画制作に乗り出します。安来節、漫才、ラジオ、映画、雑誌、ショーでファンを開拓していきます。46歳の時に辻阪信次朗が脱税汚職容疑で逮捕されると、彼に多額の寄付をしていたせいも逮捕されます。信次朗獄中死により事件が終結すると、以後せいは経営から身を引いて慈善事業また経営不振の大阪のシンボル・通天閣の買収にお金を投じます。せいが後継者として溺愛して育てていた息子・穎右が亡くなるとせいも3年後に死去します。

-吉本興業 Yoshimoto.co.jp

"それでよろしい。"
"That’s Fine."


鈴木 よね 女史

Ms. Yone Suzuki

1852 - 1938

兵庫県姫路市 生誕

Born in Himeji-city, Hyogo-ken


鈴木よね女史は、鈴木商店を日本一の総合商社へと導き、日本の現在の大手産業企業の礎を築きました。さらに日本国内初の公立女子商業学校である神戸女子商業の設立ならびに臨済宗祥龍寺の再興を支援しました。
Ms. Yone Suzuki led Suzuki Shoten to become Japan's top comprehensive trading company, laying the foundation for the country's current major industrial enterprises. Furthermore, she established the establishment of Kobe Women's Commercial School, Japan's first public commercial school for girls, and supported the revitalization of the Rinzai Sect Shoryuji Temple.

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「店をやめるって言えなんだ。」

 よねは姫路市米田町の仏壇の漆塗り師の7人兄弟姉妹の三女として生まれます。三味線・茶の湯・裁縫をたしなつつ、兄と一緒に鮒釣りに出かけるなど幸せな子供時代を過ごします。父の師匠筋に嫁ぐも両家の争いに巻き込まれてまもなく離婚。26歳の時に、神戸に出て洋銀両替商として名を成していた実兄・西田忠右衛門からすすめられて、砂糖商の鈴木岩治郎と再婚します。夫・岩次郎は激しい気性で店員を大声で叱責してはそろばんで頭を殴ります。よねは男児3人を育てながら、店員の衣食の面倒を見るのはもちろん、店を出奔する店員を慰めたり、注文取りで夜遅い店員をねぎらったり、店の奥向き一切を細かく配慮しながら気難しい夫を補佐します。夫・岩次郎は洋糖輸入商で培った外国商館との取引から独自の取引網を拡げ、樟脳・薄荷の取り扱いを開始、神戸石油商会を設立、神戸有力八大貿易商として活躍しますが、突然病に倒れ急逝してしまいます。43歳で寡婦となったよねは、親戚筋からは廃業を勧められるも、存続を希望する店員のために、自ら女主人となって事業を守り継ぐ道を選びます。

これからは女も経理ができなくては

 よねは当座帳で2万円(今の8千万円相当)の寄付から1円の瓦せんべいの代金まで記録、店員と一緒に寝起また家事炊事をして同じ三食のご飯を食べ、外食を禁じて手製のおやつをこしらえます。あるとき、全面的に信頼する金子直吉と柳田富士松の二人の番頭が張り切りすぎて店を危機に追い込むも、よねは小言一つ言わず慰めつつ、実兄また兄妹店のカネタツ藤田商店さらに大阪辰巳商店と前後策を協議。奮起した店員達と協力して危機を脱すると店員達から絶対的な信頼を得るようになります。鈴木商店は、日清戦争終結後に台湾に進出して樟脳油の販売権を獲得、樟脳・薄荷製造所ならびに製粉所・製糖所を創設。さらに日露戦争終結後に重工業分野に進出、製鋼・造船・化学繊維・塩・タバコの製造事業を開始。やがて鈴木商店が売上高日本一の商社になった年に、よねは女子の経済的自立はじめ実業界での活躍を願って神戸女子商業(現・神戸市立神港高校)設立のために多額の寄附を行い、卒業式には全員を自宅に招待してお祝いします。

それでよろしい。」 

 よねは毎日出社して全ての会議に参加、店員たちに自宅で育てた花や野菜はじめ手縫いの幾何模様の雑巾を配り、店員の妻たちには揃い紋付の着物を送って懇親会を開きます。よねは溺愛する孫・千代子、鈴木商店ロンドン支店の駐在員・高畑誠一に嫁がせます。高畑は英国の政府関係者との人脈を築き、第一次世界大戦が始まると英国ならびに連合国を相手に鋼材・銑鉄の買い付け、船舶・小麦など食糧品の売り込みに活躍。鈴木商店は戦時需要に乗って莫大な利益を得ながら、ソーダ・ゴム・非鉄金属・油脂・セメント・合成アンモニア製造事業に進出。やがて世界金融恐慌で業績が悪化する中、借り入れが拡大する台湾銀行から融資を打ち切る代わりに新鋭を中心とした株式経営を迫られます。75歳のよねは、最大功労者である金子に再建を促しつつ鈴木商店の幕を下ろします。鈴木商店は80にも及ぶ事業会社を興し現在に残しています。晩年のよねは和歌に熱中する日々を送る中で、廃寺となっていた神戸の臨済宗「祥龍寺」再建費用を喜捨。86歳で逝去。

-鈴木商店記念館 Suzuki Syoten Memrial Museum

-双日歴史資料館 Sojitz History Museum

-祥龍寺 Shoryuji Temple

「女性の想いに言論の武器を与えよ、政策決定の足場を与えよ!」
"Empower women's voices with the weapon of expression, provide the foundation for policy decisions!"

土井たか子 女史
Ms. Takako Doi
1927- 2014
兵庫県神戸市林田区(現・長田区) 生誕
Born in Kobe-city, Hyogo-ken

土井たか子女史は、日本女性初の政党党首で野党代表ならびに衆議院議長です。憲法を愛し、国民主権・平和主義・基本的人権を問い質し続けました。今までで最も首相に近づいた女性政治家で憲法学者です。
Ms. Takako Doi, a trailblazing figure in Japanese politics, made history as the first female leader of a political party, serving as both the opposition leader and the Speaker of the House of Representatives. With a deep appreciation for the constitution, she consistently questioned the principles of national sovereignty, pacifism, and fundamental human rights. As one of the most prominent female politicians to come close to the position of Prime Minister, she was not only a politician but also a constitutional scholar.

「神戸っ子」
 たか子は内科開業医の父と、女学校卒業後に教会で幼稚園の先生をしていた母のもと5人きょうだいの次女として生まれます。人見知りをして隅の方で黙って人の話を聞いてる大人しい幼少期から、だんだんと髪を短く刈り上げて男の子の遊び仲間を引き連れるようになります。仲間外れにされている男の子をブランコまで引っ張って行って泣かせたり、手足が不自由な女の子をかばって男の子と取っ組み合いのけんかをして不登校にしかけたり。授業中いつもおしゃべりしながらも正解を答えて先生の癪にさわったり。「落ち着きがない」「一つのことに集中できない」と注意を受けるたか子が唯一じっくり落ち着けるのは読書、それから学校帰りに市電の停留所をどんどん海岸まで下りて蟹を採ったり貝殻を拾ったりする須磨の輝やく海。女学校に入学すると学徒動員で工場に通って弾薬を詰める麻袋を縫ったり、ベアリングの玉磨きをします。やがて焼夷弾尾直撃を受けて家が全焼、家族とともに火の海の中を必死に逃げます。たか子のまわりでたくさんの女性が子供を探しに、あるいは食料をとりに家に戻って亡くなります。逆に、たくさんの男性がいざというときに女性をかばうことなくさっさと一人で逃げ出します。「人間はひとりなのだ。自分自身の生き方を持たなくては!」たか子は強く感じます。

「遅れてきた胸躍る青春」
 敗戦を迎えたたか子は思いっきり勉強をしようと京都女子外国語大学へ入学。無傷の京町で加茂川に復活した花火がドカン・ヒューヒュー異様な音を上げて女友達が学生寮の欄干に駆け寄る傍で、たか子は反射的に目を閉じて耳を押さえます。お昼に鳴るサイレンの音を怖がるたか子を女友達は「けったいやねー」。たか子は寄席「富貴」で桂春団治に魅せられ、洋画専門館で見た「若き日のリンカーン」に震えるほど感動します。合唱にテニスに打ち込みながら、やがて同志社大での講演会「平和主義と憲法第9条について」と、石碑「良心の全身に充満したる丈夫の起こり来たらんことを」で、たか子は弁護士になろうと決めます。親の決めた結婚のために泣く泣く進学を断念する女友達を見送りながら、同志社大法学部入学を果たします。最後の学園祭で手相を見てもらうと、「あなたは男運が悪い。いかず後家になる」「いかず後家って何ですか?」「生涯独身の女ちゅうこっちゃ。」「男の場合は?男やもめにうじがわく言うでしょ?」「寡婦(やもめ)も女のこっちゃ。可哀そうになあ。」「・・・」「あんたは気が強い。自分の意思を通すことですな。」たか子は知らぬ間に女性代表として同志社大の自治会委員に選出され、女子控室・更衣室の確保、学内食堂の自主管理権の獲得、学費の値上げ阻止など学内闘争の指導にあたります。学生運動で火炎瓶が飛び交う京都の町で、たか子は自治会室にこもって口に泡して激論を交わします。

「野に放たれるトラ」
 司法試験のための法学研究科に所属するも「女性だけ離婚後6か月空けないと再婚できないのはおかしい!」「妻の相続分が1/3だけなのはなぜ?」周りを巻き込んで立法政策論に脱線します。学費値上げ反対のために試験ボイコットをして単位に苦労しながらいよいよ卒業間近になると、田畑忍教授が唱える「非武装中立論」にすっかり魅せられます。「理想論」とあざ笑う人を横目に、「現実に追随してパワーポリティクス(力の論理による政治)に屈服するのか、困難はあっても平和憲法を拠り所に世界の現実の方を変革して人類の恒久平和を作り出すのか。」たか子は「国会両議院における国政に関する調査権」を修士論文テーマに選んで5年かけて大学院を卒業。恩師・田畑教授の憲法研究所を補佐しながら、同志社大はじめ関西学院大学また聖和女子大学で憲法学の講義を受け持ちます。須磨の西の裏山で削られた土砂がベルトコンベヤに乗って海を埋め立て、神戸港のふ頭の東にポートアイランド建設が進む中、たか子は神戸市で全国で初めての女性人事委員に任命されます。ある日、神戸市職員の採用試験に立ち会ってカチンときたたか子は、男性受験者に質問します。「結婚しても出産しても辞めませんか?」すぐに貴重な女性の法律研究者として方々の青年婦人部から呼ばれて話をしたり、KBS京都また毎日放送のTV番組に出演したりするようになります。まもなく恩師を通じて社会党から衆議院選挙の立候補を促されると、たか子は平和憲法を徹頭徹尾訴えて当選します。

「おたかさん旋風」
 早速、たかこは唯一の立法機関である国会のありかたについて問い質します。「どうして政府に法案提出権があるのですか?」「主権者は国民であるがゆえに議会制民主主義が重要であるという基本的なことが無視されて、憲法を変える手続法案が与党と霞が関のお役所でつくられて野党不在で強硬採決されている!」すると与党の自民党理事からひとこと「慣例です」。続いて、草の根運動に関わる人々と現地でコミュニケーションして、騒音・振動公害・大気汚染・石油コンビナート災害・食品公害の訴えをすくいあげます。そして女性問題を追求します。「老人問題は女性問題である!」「母系を認めない国籍法は憲法違反だ!」「生活保護費を男女の食費で差をつけるのはおかしい!」「家庭科は男女共修に!」「公害認定患者の医療保障費を、男女の平均賃金で格差をつけるのはおかしい!」「男女雇用機会均等法は、家庭ならびに職場における男女の協同と共生である!」世論の支持を得るとともに法律改正に大きく貢献します。さらに、たか子は国際反核女性フォーラムの実行委員長を担いながら、外務大臣から「非核三原則は国是である。」「核兵器は憲法上持てぬ」という答弁を引き出し、神奈川県非核県宣言はじめ全国の反核運動の気運を広げます。たか子が国会で答弁する間はやじがぴたりと止み、傍聴席は女性が押しかけ超満員。女性運動・市民運動・平和運動などに取り組む女性達が地方議会議員になって政治に直接結びつく大きなうねりが出来ます。

「山は動いた」
 61歳のたか子は女性初の社会党委員長に選ばれます。中曽根康弘首相の軍拡路線を「必要最小限の自衛力が必要最大限の軍隊へ変貌をとげるのは時間の問題」と問い質すも、「防衛費1%枠(防衛費は国民総生産GNP比の1%以内とする政府方針)」は撤廃されます。しかしながら、公約違反をして押し付けようとする売上税導入を「ダメなものはダメ」と徹底批判して廃案に追い込みます。続く、竹下登首相で消費税導入が強硬されると、政府高官の汚職はじめリクルート事件をたゆまず追求、関係した政府高官を処罰して宮澤喜一大蔵大臣を辞任に追い込み、竹下内閣を退陣させます。たか子の指導のもと社会党は全国の女性運動・市民運動・平和運動などと連携して大衆の支持を獲得、参議院議員選挙にこれまでで最多146人の女性候補者を送り込んで大勝利を収めます。参議院の女性議員比率は初めて10%を超え13.1%に。参議院で首班指名を受け、たか子は日本初の女性首相に近づきます。いてもたってもいられないたか子はイラクへ出かけて、サダム・フセイン大統領に平和憲法の大切さならびにクウェートからの撤退が平和的解決であると繰り返し話しますが、3日後に湾岸戦争が開始。海部俊樹内閣の「国際連合平和協力法案」を「平和協力隊という美しい衣装を自衛隊に着せ、併任というこそくな手法で海外に派兵する内容」と批判しながら、「日米安保条約の第一条と第七条には国連中心主義と国連憲章優位が明記されている。しかし、アメリカは国連を無視し、そのアメリカを総理が支持された今、日米同盟は国連中心主義を逸脱している。」問い質して廃案に追い込みます。バブル好景気中の消費税廃止を訴える総選挙では議席を伸ばせず、宮澤喜一内閣に「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法案」を強行採決されます。

「山を動し続ける力」
 たか子は党首を辞任するも女性初の衆議院議長に選ばれます。自民党と連立政権を組んだ社会党委員長・村山富市首相は「自衛隊合憲・日米安保体制堅持」を表明、沖縄米軍基地の再編強を推進、海上基地建設の道を開きます。その過程を議長として複雑な思いで見守るたか子は「300万人の同胞が死に、アジア全体で2000万人が死んだ戦争への深刻な反省の結晶が平和憲法であるにも拘らず、政府の指針にはアジア国民の目を顧みる気配が感じられない。」と問い質し、「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」を採択させ、「財団法人女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)を発足させます。湾岸戦争へ参戦したり軍隊内で男女平等待遇を求めるアメリカ女性兵士の報道が続いて「女性=反戦=平和主義」の観念が崩れる中、たか子は求心力を失った社会党を引き受け社民党に改変して党首に就任します。冷戦終結にともなって日朝友好外交窓口が野党の共産党・社会党から与党の自民党にとって代わり、アメリカのブッシュ政権による反テロ戦争にともなって日朝国交正常化交渉がはじまる中で、「北朝鮮労働党から、拉致という事実はないと言われ続けてきたことに対して、社会党・社民党自身がさらに追及をして十分な形で努力してこなかった。」たか子は謝罪会見をします。世論を味方につけた小泉純一郎首相が有事関連法案を提案しながら「憲法論争のような神学論争はやめて常識で行こうじゃないか」「憲法前文と9条の間に隙間がある」「備えあれば憂いなし」と言い放つのに対してたか子は問い質します。「憲法9条は変えなくても解釈で運用面を広げて変えていけばよいということでは憲法は有名無実になる。」「日本の平和にとっての最大の備えは、憲法九条である。卑屈なアメリカ追従外交から抜け出して国際協調によって平和を維持する、自主・自立の平和外交への転換を図ることこそ21世紀に日本が生きる道がある。」

「憲法行脚の旅」
 さらに小泉政権はイラク戦争での米国支援と拉致問題解決を同時に議論する「イラク・北朝鮮連絡協議会」を発足。北朝鮮拉致被害者の家族会・救う会の「日本が危機に陥っている」「米国との協力が必要」の声がイラク戦争とともに大々的に報道される中、有事関連三法(「事態対処法」「安全保障会議設置法の一部改正法」「自衛隊法等の一部改正法」)、続いて有事関連七法(「米軍行動関連措置法」「改正自衛隊法」「外国軍用品等海上輸送規制法」「特定公共施設利用法」「国民保護法」「国際人道法違反処罰法」「捕虜等取り扱い法」)が次々と成立されます。「憲法を日米安保条約を踏み破った超憲法的な法律。民主主義の保証がくずされた。」「戦時立法だ。国民の手足を縛らなきゃ毛頭できない中身を決めている。」たか子は問い質すもやがて選挙に落選。「主権者である国民自体に憲法に対する認識が無かったら、不断の努力で憲法を活かす意味がなくなる。」たか子は憲法行脚の旅に出ます。憲法第9条の「戦争の放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」は幣原喜重郎首相の平和主義の信念から出たもので、マッカーサー原案にもなかった。日本国憲法には人類の努力が凝集しており、世界のあらゆる近代的な憲法と並ぶきょうだいである。そして、敗戦の翌年1946年の初めての総選挙で総勢466名中39名の女性が衆議院議員となり、今の日本国憲法が草案の段階で議会で審議される場所に女性も参加して、「この憲法を制定しても後に日ならずしてこの憲法を見直そうという自主的判断こそ必要」「この憲法が国民に保証する自由および権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」と合議している。たか子は憲法の製作経過ならびに憲法の意義について全国各地で問い質して周ります。たか子はベアテ・シロア・ゴードン女史と対談します。「あなたが弁護士じゃなかったから “女性の権利” について書くことができたんだと思います。あなたの条文を読むと、それが心から出てきたっていうことが分かります。あなたが心から書いたものだから、弁護士みたいな他の人には書けなかった。」

-日本国憲法の製作過程に関する資料
※土井たか子女史は、今の日本国憲法の草案について審議する論争の中身を国会内文書から社会に公表しはじめました。
-『土井たか子マイウェイ』『土井たか子政治とわたし』『We Love 憲法 おたかさん憲法を語る』『Peaceful Japan 土井たか子 女の時代・女の政治』
-衆議院
-社民党

「天国にいる方々に約束します。永久に、清く正しく美しい宝塚の再建に尽くすことを。」

"I promise to those in heaven. To eternally dedicate myself to the pure, righteous, and beautiful reconstruction of Takarazuka."

春日野 八千代 女史

Ms. Yachiyo Kasugano

1915 -  2012

兵庫県神戸市 生誕

Born in Kobe-city, Hyogo-ken

春日野八千代女史は宝塚歌劇団伝説の男役「白薔薇のプリンス」として、戦前・戦中・戦後の女性達が夢見る「永遠の二枚目を生涯現役で演じました。一番最初「宝塚歌劇の殿堂」入りを果たします。

Ms. Kasugano Yachiyo is a legendary male role performer in the Takarazuka Revue, known as the "Prince of the White Roses." She portrayed the eternal romantic hero that women dreamed of, both before and after World War II. She continued to perform in this role throughout her career, remaining active until the end. She was the first to be inducted into the "Takarazuka Revue of Fame."

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お気に入りはフレッド・アステアと十五代目市村羽左衛門

春日野八千代こと石井吉子は1915年に兵庫県神戸市に生まれ、父の仕事の関係で横浜、神戸、大阪、岡山県高梁と移って大阪の九条第五尋常高等小学校を卒業。昭和初頭の不景気の中にあって、宝塚少女歌劇団は歌が好きな良家の少女水準以上の俸給で募集音楽教育以外に人間教育やにも責任を持つことで人気でしたさらに良子の父親は宝塚少女歌劇団の創始者小林一三をたいへん尊敬していて、ならびに吉子の虚弱体質を心配する母親は宝塚歌劇団のダンスや日本舞踊の科目に関心を持ちます。吉子は宝塚音楽歌劇学校に入学して予科を修了後、16歳の時に花組で初舞台を踏みます。吉子は声楽・ダンス・演技を学びながら、映画館・劇場に足しげく通って洋画・オペラ・歌舞伎から男役の芸を研究します。お気に入りはフレッド・アステアと十五代目市村羽左衛門。さらに日本舞踊の稽古に通い花柳流の名取になります。少女歌劇団は大正デモクラシー時代の新たな娯楽・慰安としてたくさんの観客を魅了しますが徐々に戦時色が強い演目が増えます。太平洋戦争がはじまると、やがて宝塚大劇場及び劇団施設は海軍に接収され予科練兵舎に、東京宝塚劇場は陸軍に接収され風船爆弾の工場に用いられます。その最後の舞台『勧進帳/翼の決戦』に吉子は主演を務め、ファンが押し寄せ劇場から宝塚南口駅まで約1キロの長蛇の列を作ります。さらに吉子はじめ生徒またスタッフらはめげることなく「移動演劇隊」として日本全国の軍需工場や病院ならびに北京や満州などの戦地を慰問のために巡演します。

「白薔薇のプリンス」

終戦後はGHQに対して嘆願書ならびに慰問公演を行い、宝塚大劇場を取り戻します。吉子は『カルメン『春のをどり・愛の夢の再開の舞台の壇上で挨拶します。「天国にいる方々に約束します。永久に、清く正しく美しい宝塚の再建に尽くすことを」。さらに、長い間タブーとされていた『源氏物語』の劇化が解禁され、歌舞伎の市川海老蔵、映画の長谷川一夫、宝塚歌劇団の春日野八千代とで源氏の君を競い合います。白薔薇のプリンスとして、糸井しだれ、深緑夏代、月丘夢路、浅茅しのぶ、朝倉道子、新珠三千代、桜町公子、由美あづさ、南悠子、八千草薫、有馬稲子、鳳八千代、浜木綿子、扇千景、加茂さくら、梓真弓、上原まり、松本悠里、乙羽信子、故里明美、明石照子、寿美花代、淀かほる、那智わたるなど、70人余りの女役と舞台上で愛を語りながら、生涯現役を貫きます。宝塚市文化功労賞、宝塚市名誉市民、兵庫県文化賞、紫綬褒章、勲四等宝冠章など授与され、96歳で逝去。宝塚市において歌劇団葬が営まれファンや卒業生など約1000人が参列、一番最初に「宝塚歌劇の殿堂」入りを果たします。1958年花組公演中に舞台装置の不備で非業の死を遂げたタカラジェンヌ・香月弘美さんの慰霊祭と慰霊碑のために歌劇団ならびにOGを取りまとめたと語り継がれています。

-宝塚歌劇団 Takarazuka Revue

-タカラヅカ・スカイステージ Takarazuka Sky Stage

「私という泥のなかには、信仰が、古いハスのタネのようにひそんでいるかもしれない」
"Within the mud of 'me,' faith may be lurking like the ancient seed of a lotus."

須賀 敦子 女史
Ms. Atusko Suga
1929 - 1998
兵庫県芦屋市翠ヶ丘 生誕
Born in Ashiya-city, Hyogo-ken

須賀敦子女史は教会社会活動またイタリア文学に従事したエッセイストです。カトリック左派運動の活動拠点「コルシア書店」に参加したり、カトリックの社会支援活動「エマウス運動」に従事したり、イタリア語の講師・翻訳家として活動しながら、61歳で作家デビューしました。
Ms. Atsuko Suga is Miss Atsuko Suga is an essayist engaged in church social activities and Italian literature. She has participated in the "Corsia Bookstore," a hub for the Catholic left movement, and has been engaged in the Catholic social support movement known as the "Emmaus Movement." While working as an Italian language instructor and translator, she made her debut as a writer at the age of 61.

「キリスト教」 
 淳子は須賀工業の創業家に生まれます。淳子の祖父・豊治郎は大阪に私設水道工事店「須賀商会」を創業、建築家ジョサイア・コンドルの知遇を得、次々と新式の輸入衛生器具を扱って衛生工事・衛生設備設計のパイオニアになります。淳子の父・豊治郎は日本貿易振興協会主催の世界一周実業視察団体旅行に参加。日本で待つ淳子たちのもとに欧米各地の珍しいお土産が次々と届きます。ある日、敦子は一緒に登下校する友達から宣言されます。「春になったら洗礼を受けるつもり。」衝撃を受けた敦子は戦後の混乱のなかで両親の反対を押し切って洗礼を受け、教会活動に打ち込みます。聖心女子大学で学び、慶應義塾大学で社会学修士課程に進学。さらにフランス神学にあこがれてパリ大学に留学します。パリでは言葉また思想の壁が敦子を苦しめます。そこでイタリア人女性・マリア・ボットーニの紹介で夏休みにペルージャでイタリア語を学ぶ機会を得ます。マリアは若いころ、イタリア共和国大統領となるレジスタンス頭領と一緒にドイツの収容所で過ごしていました。敦子はマリアが頻繁に寄こす細かい字の葉書に触れるとともに、イタリアの言葉と文化にひかれはじめます。

「コルシア書店」 
 敦子は一旦日本に戻ってNHKで翻訳の仕事をしながら、マリアと手紙のやり取りを続け、3年後再び奨学金を得てローマに渡ります。マリアの紹介で、ミラノの「コルシア・デイ・セルヴィ書店」通称「コルシア書店」に出入りする様になります。「コルシア書店」は反ファシスト・レジスタンス活動に身を投じる2人の神父によって設立された、新しい信仰と教会のあり方を考えるカトリック左派運動の活動拠点でした。「コルシア書店」での活動に生きるエネルギーを注ぐ敦子は、やがてジュゼッペ・リッカ(ペッピーノ)とウディネの教会で結婚します。ミラノに居を構え、ペッピーノとともに日本文学のイタリア語訳に取り組み始めますが、わずか5年でペッピーノが急逝。敦子はまもなくミラノの家を引き払って15年に渡るヨーロッパ生活を終えて日本に帰国します。42歳になっていました。

「エマウス運動」 
 日本に帰国した敦子はカトリックの社会支援活動、「エマウス運動」に熱中するようになります。「エマウス運動」はフランスのピエール神父が1949年に始め若者・学生が多く参加した宗教的社会活動で、大戦後に生活の手段を失った人々に住まいと廃品回収による生活基盤の提供を目指していました。敦子は日本の活動拠点である神戸のヴァラード神父を訪ね、2年後には練馬区にエマウスの家を設立し責任者となります。敦子は「エマウス運動」に熱中するかたわら、母校で講師として学生を指導しながら博士論文にも取り組み始めます。やがて敦子はイタリア経験を題材としたエッセイを執筆し始め、61歳で「ミラノ 霧の風景」で作家デビュー。女流文学賞・講談社エッセイ賞を受賞すると執筆依頼が殺到、「コルシア書店の仲間たち」「ヴェネツィアの宿」「トリエステの坂道」「ユルスナールの靴」など相次いでエッセー集を出版。母校の修道女・オディール・シュレベールを主人公とする小説「アルザスの曲りくねった道」を執筆する中で病に倒れ享年69で逝去します。

-兵庫県立美術館 ネットミュージアム兵庫文学館
-イタリア文学館 須賀敦子文庫

清子 アル=サイード /  旧姓 大山清子
Ms. Kiyoko Al-Sayed / Ms. Kiyoko Oyama
1916 - 1939
兵庫県加古郡稲波町
Born in Kako-gun, Hyogo-ken

大山清子女史は日本初オマーン国王夫人。オマーン元国王タイムール・ビン・ファイサルとの間にブサイナ・ビント・タイムール王女(日本名 節子)をもうけます。
Ms. Kiyoko Al-Sayed (Ms. Kiyoko Oyama) is Japan's first Wife of the former Sultan of Oman. She bore Princess Busayna bint Taimur (Japanese name: Setsuko) with the former Sultan of Oman, Timur bin Faisal.

「シンデレラ」
 清子は兵庫県加古郡の農家に生まれるも、2歳の時に父が急逝。母・しげのは清子を連れて神戸市で大工を営む大山勘治のもとに嫁ぎます。3人の妹もうまれ、家計はなかなか苦しく、年頃になった清子は神戸市生田区三宮のダンスホール「キャピトル・ホール」へダンサーとして働きに出ます。まもなく父親と同年代の中東の男性、タイムール・ビン・ファイサルに出会います。何度断っても3か月にわたって猛烈にアプローチをされ続け、3ヶ月後には求婚されます。第一次世界大戦の特需景気で沸く日本人の1か月の給与を一晩で使う豪遊っぷりと、日本人にない紳士的な態度に清子も折れます。日中戦争前夜の米国・英国との対立が強まりつつあるときで、清子の両親は大反対。清子とタイムールは日本永住を約束することでようやく両親も折れます。半年後、日本式の結婚式をあげると、清子はイスラム教に改宗。清子19歳、タイムーン50歳は葺合区中尾町の坂の上の真新しい洋館に新居を構えます。オマーン人の料理人やメイドに家事を任せ、清子は高価な宝石やドレスを身に付け、タイムーンと一緒に食事にダンスに出かけシンデレラの様な生活を送ります。やがて一人娘・節子(ブサイナ)を授かります。

「前オマーン国王夫人」 
 するとタイムールの子供たちが自宅を訪ねてくることとなり、ここではじめて清子はタイムールがオマーン王国の元国王であり、第1夫人との長男サイードに王位を譲渡したこと、清子は第4夫人であることを明かされます。オマーン王国の真っ赤な国旗と日章旗を掲げて、清子とタイムーンはタイムールの長男でオマーン国王であるサイードとその弟ターリックならびに7名の従者を迎えます。サイードは清子の5つ上でした。神戸の青谷に300坪の土地を購入、「2人の愛は永遠。ここを永住の地と定める。」と石垣に刻んで本格的な新居の建設に取り掛かった矢先、清子は結核に侵され病院に入院します。ゆっくり療養する暇もなく、すぐに昔のダンサー仲間らがタイムールにあの手この手で近づこうとする話が清子の耳に入ってきます。清子はタイムールと節子と側を離れたがらず何度も病院を飛び出します。困ったタイムールは節子を清子の母に預けてしばらく日本を離れます。清子とタイムールは何通もの手紙を交換しながら回復を待ちますが、数か月後に清子は逝去します。太平洋戦争の始まる直前、清子の郷里・稲美町で「前オマーン国王夫人 清子 アル=サイード 23歳」と墓石に刻んだタイムーンは、王族の財産を継がせるために節子を連れて日本を後にします。

「オマーン初の日系王女」
 節子(ブサイナ)は父・タイムーンの第1夫人に預けられると、30年間の幽閉生活を強いられます。イギリスなど西洋諸国の政治干渉と借款に対抗する中でオマーン国内退去を条件に王位を退位していたタイムーンは、インドのボンベイから節子に頻繁に手紙を送ります。「日本は世界一礼儀正しい国。日本の女性ほど夫に従順でよく使えることを知っている女性は世界にいない。」「お前は私のたったひとりの娘。兄弟はすべてお前の召使だと思いなさい。」召使に傅かれながらも学校に通うことなく、道の歩き方も知らず、女性の従妹から家で読み書き・算数・料理・裁縫・刺繍などを教わって過ごします。父・タイムーンの逝去の知らせを受けて数年後、サイードの息子カーブースの起こした宮廷クーデターにより新国王カーブースが即位。軟禁を解かれた節子(ブサイナ)は自分の邸宅を構え、召使・運転手付きの専用車・料理人・侍女を抱え、従妹たちと農園・オアシスへピクニックに出かけます。医療検査と手術のためにボンベイ・ロンドン・ハンブルク・ベイルートなど初めて外の世界を見て周ります。病院で母親と死別した孤児をもらい受け養子にして可愛がります。41歳の節子(ブサイナ)はようやく日本を訪れ母親・清子の墓参りを果たします。

-『アラビアの王様と王妃たち』(下村満子, 朝日新聞1974)

大阪府 Osaka-Fu

与謝野 晶子 女史

Ms. Akiko Yosano

1878 - 1942

大阪府堺市 生誕

Born in Sakai-city, Osaka-fu

「山の動く日来る、全て眠りし女、今ぞ目覚めて動くなる」

"The day of the moving mountain arrives, all sleeping woman, now awaken and move."

与謝野晶子女史はロマン派女性歌人の草分けです。歌集『みだれ髪』で若い恋愛・性愛をおおらかに歌って一世を風靡しました。評論家また日本初の女性童謡作家として活躍。母性保護論争の後、女性の完全な個人を目指して文化学院を創立しました。

Yosano Akiko was a pioneering female poet of the Romantic movement. In her poetry collection "Midaregami," she openly and generously sang about youthful love and passion, captivating a generation. She also excelled as a critic and became Japan's first female writer of children's songs. After the debates on maternal protection, she founded a cultural institute, aiming for women to pursue their complete individuality.

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晶子(本名 鳳志やう)は、堺県和泉国第一大区甲斐町(現在の大阪府堺市堺区甲斐町)で老舗和菓子屋「駿河屋」の8人兄弟姉妹の三女として生まれます。9歳から漢学・琴・三味線を学び、堺市立堺女学校(現・大阪府立泉陽高等学校)に入学。店番をしつつ和歌を投稿し始め、16歳のとき『文芸倶楽部』に短歌が掲載されます。ヨーロッパの影響で短歌革新運動が起こると、河井酔茗や河野鉄南たち主宰の浪華青年文学会(のち「関西青年文学会」)堺支会に入会。晶子は情熱的に思いを寄せていた僧侶・鉄南の勧めにより、与謝野鉄幹が創刊する『明星』に鉄南への恋心を投稿し始めます。誌面で晶子は山川登美子とともに「妙齢の閨秀作家」として、鉄幹の思わせぶりな返歌とともに紹介されるようになります。まもなく文学結社「東京新詩社」の参加者を募って鉄幹と山川登美子が来阪すると、晶子は鉄南と一緒に大阪北浜の平井旅館まで訪ねます。翌日の浜寺寿命館での歌会をきっかけに『明星』誌上で妻子ある鉄幹を巡る晶子と登美子の三角関係の恋歌が大変な話題となると、怪文書「文壇照魔鏡」で鉄幹の数々の女性関係が糾弾され、今とばかりに晶子は実家と縁を切って鉄幹を追って上京。2か月後には鉄幹プロデュースによる歌集『みだれ髪』で、24歳の晶子は鉄幹との恋心と情事をせきららに発表、ベストセラーとなります。翌年、晶子は鉄幹と結婚。夫・鉄幹はさらに結社の女性歌人たちとの恋歌のやりとりを誌上に掲載して話題を集めるなか、晶子は子育てに文筆活動に励みます。26歳の時に日露戦争下で『明星』に「君死に給うこと勿れ」発表するやいなや「乱心賊」と激しく糾弾されます。ロマン主義が廃れるとともに『明星』が廃刊する一方、晶子は33歳の時に『青鞜』発刊に「新しい女」の一人として参加、創刊号に「山の動く日」を寄せます。そんな中、夫・鉄幹をパリに遊学させるも寂しさのあまり鉄幹を追いかけますが、子供恋しさのあまりすぐに帰国。晶子はヨーロッパ見聞録とともに女性の権利・地位の向上を新聞・雑誌・講演などで訴えはじめます。41歳の時に『婦人公論』で「妊娠分娩等の時期にある婦人が国家に向って経済上の特殊な保護を要求」することを批判、平塚らいてう・山川菊栄・山田わからと母性保護論について激しい議論を繰り広げます。44歳の時に建築家の西村伊作はじめ山田耕作・北原白秋・石井拍亭・寺田虎彦・有島武郎・河崎なつ・芥川龍之介とともに東京の駿河台に女性を「完全な個人」に導く目的のもと「文化学院」を創設。夫と共に教壇に立ちながら、晶子は分かりやすい新訳の「新新訳源氏物語」に取り掛かります。関東大震災で学院とともに原稿を全焼するも、夫の突然の死に思い立ったかのように執筆を再会、闘病しながら60歳のときに刊行します。晩年は軍歌『爆弾三勇士』『皇軍凱旋歌』をつくる夫とともに日中戦争を支持、『紅顔の死』では中国の学生隊の躯を「やさしき母」「美くしき許嫁 」ある「敵の死屍」と憐れみ「善き隣なる日本をば侮るべしと教へし」「十九路軍の総司令の愚かさよ」と括っています。

-与謝野晶子記念館 Sakai Plaza of Akiko

「覚悟はできているのよ」
"I'm ready."

五代 藍子 女史
Ms. Aiko Godai
1876 - 1965
大阪市北区若松町 生誕
Born in Kita-ku, Wakamatsu-city

五代 藍子 女史は「最後の女山師」。明治初期、鉱山王の父・友厚が譲渡した三重県治田村(現・いなべ市)の治田鉱山を買い戻して鉱山経営を始めます。
Ms. Godai Aiko is "the last female mine owner." In the early Meiji period, she bought back the Hatta Mine in Hatta Village (present-day Inabe City) in Mie Prefecture, which his father Tomoatsu, a mining tycoon, had previously transferred ownership.

「男装の令嬢」
 藍子の父・五代友厚は明治初めに全国140余カ所の鉱山を次々に継承、開坑して鉱山王としての道を究めます。友厚邸の100間(182m)四方の敷地に3軒の仕舞屋を建て、1軒目にもと芸者・吉田多喜、2件目に早世した小松帯刀の愛人と子供、3軒目にもと芸者・宮地勝子を住まわせます。母・勝子の長女武子に続く次女として藍子は誕生。大阪の愛日小学校に入学すると、読み書きの勉強をよくしながら、蛙をつかんで切れた鼻緒の下駄をぶら下げてはだしで歩いて帰ってくるやんちゃ娘。9歳の時に父・友厚が逝去すると、2男4女の腹違いの子供を巡って家庭内騒動が度々勃発。本妻とは折り合いが悪い16歳の藍子は、福島の半田鉱山の事業を継いだ九里龍作と姉・武子の夫婦のもとに身を寄せます。それから単身上京して仏英和高等女学校(現・白百合学園高校)に入学。フランス語を勉強しながら、たびたび福島の龍作を訪れ鉱山経営について学びます。断髪に男下駄で早くから生涯独身を宣言します。心配するまわりの勧めで、女性教育の先駆者・下田歌子の秘書に採用されます。よく口論をしては「一度精神修養をなさったら・・・」、歌子に京都の妙心寺に送り込まれるも「精神はつかみどころがなくて理解できません」藍子は座禅修行から早々に逃げ出します。それでも歌子をよく助け可愛がられた藍子は歌子に見込まれ養子に望まれますが断ります。「私にはひそかに抱いている夢があります。」

「最後の山師」
 藍子は足尾銅山の公害問題が社会で話題になる中、藍子は広岡浅子と九州の炭坑に随行した井上秀に会いに行きます。「荒くれ者の坑夫たちと寝起きをともにして渡りあうのに懐にピストルを忍ばせていたのよ。石炭ならまだしも鉱山となると・・・」「覚悟はできているのよ」42歳の藍子は父・友厚の稼業を継ぐ気持ちで、近江の富豪・小林吟右衛門でさえ破綻をきした三重の治田鉱山を訪れ採掘権の譲渡を申し入れます。

『村有土地賃貸借契約書
「大阪市北区若松町45番地五代アイは治田村大字新町南河内において鉱山採取の目的をもって採掘を為すにつき、治田村長小高徹は土地所有者治田村を代表し左の通り契約を締結す。
以下各条の要約
事業者(五代アイ)は採掘地の借り賃として年間45円を治田村へ支払うこと、但し3年後からは毎年60円とする。飯場や小屋掛けの場所は1坪あたり5銭また3銭とする。将来、盛山となり収益が出たときは、その2/100を冥加金として治田村に納付すること。たとえ採掘許可区域内であっても流木は一切伐採しないこと。合わせて裏以外の材木を買い入れ使用しないこと。
大正8年6月30日
土地所有者 小高 徹
事業者 五代 アイ
保証人 小森 九朗・伊東 定次郎』

 42歳のアイは侍女・ウメを伴って治田村に移り住んで「女山師」となり、鉱山開発に心血を注ぎます。真っ白な木綿のブラウスに地下足袋・ニッカポッカ・六角杖で愛犬にひかれて鉱山通いを日課とします。村の若者20~30人を集め、はじめに大八車が通れる道路を切り開きます。『大通洞坑橋』の看板を掛け、三角州でできた広場に事務所と飯場を建てます。松根油で灯を取り、入口の唐箕で空気を入れ替え、坑内に2本のレールを敷いてトロッコを走らせながら掘り進めます。藍子は山のあちこちにツルハシを刺して岩石を舐めて鉱質を確かめます。それから10年、20万余の大金を投入、洞坑670mを掘り進めるもめぼしい鉱脈は出てきません。東京・大阪・名古屋から知り合いの学者や鉱山事業者が訪れます。「普通では難しい山だ。」「幕府のお手山の上部は荒らされているが、下部にはきっと大きな鉱脈がある。」事故で足を悪くしてもなお坑内のクモの巣の中を縦横に走り廻りながら、経済情勢の資金不足・よる年波に抗いながら、志半ば88歳で逝去。

-『五代友厚秘史』
-『治田鉱山史』

#三浦春馬 #五代友厚 #広岡浅子 #下田歌子 #五代藍子

鴨居 羊子 女史

Ms. Yoko Kamoi

鴨居 羊子 女史 Ms. Yoko Kamoi

1925 - 1991 

大阪府府中市 生誕

Born in Hutyu-city, Osaka-Fu

「私の中身はピンク色に輝き、トイレでスカートをめくるとピンクの世界が開ける」

"My insides glow pink, and when I flip my skirt in the bathroom, a pink world opens up."

鴨居羊子女史は日本初の下着専門デザイナー、下着メーカー「チュニック制作室」を設立。カラフルで大胆な化学繊維の下着で個展やショーを開催してブームを巻き起こしました。従来の下着観と女性の身体を偏見から解放したことで「下着の革命家」と称されています。

Ms. Yoko Kamoi is Japan's first specialized underwear designer and founder of the underwear brand "Tunic Production Studio." She created a sensation with her colorful and bold chemical fiber underwear, holding exhibitions and shows that broke free from traditional notions of underwear and liberated women's bodies. She is often referred to as the "revolutionary of underwear." 

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鴨居羊子女史は、新聞記者の父と絵画・彫刻科卒の母と兄と弟と大阪、金沢で過ごします。大好きな兄は戦死、戦後に父親が脳溢血で死去。旧制大阪府女子専門学校(大阪女子大学)国文科を卒業後、新関西(夕刊紙)の校正係・家庭欄記者や、大阪読売新聞の学芸課記者として活躍します。ある日、小さな舶来雑貨の店でピンクのガーターベルトに魅せられ、給料をはたいて衝動買いをしてしまいます。29歳で新聞社を退社、3万円の退職金を元手に、友達のアパートで実用品ではない着心地が楽で楽しい気分になれる下着をデザイン・製作し始めます。翌年の1950年、日本初のカラー下着の個展を開催します。当時、戦後の復興とともに衣服の洋装化がどんどん進みつつも、女性の洋服用の下着はまだないに等しいという時代でした。国産のコルセットやブラジャーが出始めたものの、体型を補正するための付けにくく窮屈なものでした。1956年「チュニック制作室」という下着メーカーを設立。斬新なカラー下着や柄物の下着、レースや刺繍をふんだんにあしらった下着、ナイロン素材のスキャンティや透け感のあるスリップ、ガーターベルトなどセクシーな下着を自らデザインし世に送り出しました。各地で下着の個展やショウを開催、ミュージカルや映画を制作、下着革命を巻き起こします。エッセイを数多く残し「格好いい女性の生き方」として注目されました。

-チュニック株式会社 TUNIC CO. LTD.

「私は、いのちあるかぎり、生き生きした障害者運動の道を歩いたんねん」
"As long as I live, I will walk the path of a vibrant movement for people with disabilities!"

入部 香代子(旧姓 長沢香代子)女史
Ms. Kayoko Iribe
1950 - 2012
大阪府寝屋川市 生誕
Born in Neygawa-city, Osaka-fu

入部香代子女史は、日本初の車いすの女性市議会議員で、障害者解放運動の先駆者です。24時間介護と車いすが必要な脳性麻痺の重度障害者として、街で自立生活をしながら、障害者が就労できる場所づくりならびに街づくりに取り組みました。
Ms. Kayoko Iribe is Japan's first female city council member in a wheelchair, and a pioneer in the disability liberation movement. As a person with severe cerebral palsy requiring 24-hour care and a wheelchair, she worked towards creating places where people with disabilities can work and contributed to community development while leading an independent life in the city.

「かわいそう?」
 香代子は1歳3か月の時に麻疹にかかり高熱が1カ月続いて脳性まひになります。母親は「何でこんな子」を産んだと責められ、香代子を家に閉じ込めます。やがて家で面倒を看られなくなった香代子は13歳から障害者施設に収容させられます。そして、障害児は就学免除・猶予で義務教育は受けなくてもよいとされ、学校に通う権利を奪われます。香代子は施設で青春時代を過ごします。20歳を過ぎた頃、施設時代をともに過ごした金満里に誘われ、CP(Cerebral Parlsy=脳性麻痺)の自立運動家団体「青い芝」の日常・生活・思想らをカメラに収めた映画「さようならCP(Cerebral Parlsy=脳性麻痺)」の上映運動、ならびに喫茶店やパチンコ屋やその他、街のいろんな所に障害者が行ったのをただ撮っただけの映画「カニは横に歩く」の制作活動に参加します。金満里また鎌谷正代とともに「青い芝」の優生保護法交渉・養護学校義務化反対運動・川崎バス闘争・和歌山センター闘争などの闘争に参加、「青い芝」の3烈女と恐れられます。

「そよ風のように街に出よう」
 障害者解放運動から生まれた合言葉に誘われて、香代子は街に繰り出しアパート暮らしを始めます。香代子は介護者とデパートや映画に行く道々で「病院に行くの?どこの施設から?」など声をかけられ、「障害者用の設備がない」と入れてくれない喫茶店・美容院・町医者がほとんど。電車に乗ろうとすると「車いすの方はラッシュ時を避けて9時から5時までしか乗車できません」と駅員から注意される上に、車いすは荷物扱いされ荷物料金を取られます。その度に、香代子は駅員また店員と言い争いになります。それでも、香代子の脳性マヒの車椅子生活は、恋・妊娠・出産と、障害者の可能性をどんどん拡がります。香代子が妊娠すると、母親からは「あんたの体で赤ちゃん産んだらあんたが死んでしまう。子どももかわいそうや」、医師からは「産んでから誰が子どもの面倒をみるのか。堕ろしますか?堕ろすんでしょう?」の言葉をかけらます。

「あんたら健全者が何もせえへんかったら、わたしら障がい者は生きていかれへんのやで」
 香代子は座談会などに積極的に参加して介護者を勧誘します。車いすに座って論争しながら、介護者がストローをさしたコップを口元に近づけるのをズズッと飲んだり、介護者が箱から1本取り出し指に挟んだ煙草を口にくわえて吸いこんだり、参加者には香代子と介護者との連携プレーがとても新鮮に映ります。香代子に「あんたも介護に来てや~」と声掛けされると、「え~、どうしたらええんやろ」と考える間もなくあれよあれよと介護に入ることになります。香代子は出産を決意すると同時に24時間介護を受けての生活を始めます。右も左も分からない二十歳前後の学生が入れ替わり立ち替わりやってきます。香代子は脳性麻痺の硬直をきつくさせながら、介護者ひとりひとりに対して、自分の体の洗い方、お尻の拭き方、着替えの仕方、流行の編み込み・巻き髪のセットの仕方、たばこのふかせかた、食事のメニュー、口への食事の運び方はじめなどを細かく指示します。介護者は朝8時からの昼介護と夕方7時からの泊り介護で1日2人体制、子供が生まれると昼間は2人に増員して1日3人体制。香代子は家事も育児も細かく指示しながら、自分と子どもの為に必死でスムーズな日常生活を確保します。

「地域であたりまえに生きる」
 行き場がなく小規模作業所を自らの手で作り、親・教師・友人の手を借りて地域の中で必死に生きようと懸命に頑張る障害者たちを目にする中で、香代子は26歳の時に「障害者自立センター・AZの会」を立ち上げ、「AからZまでみんなが安心して暮らせる街を創ろうよ」と呼びかけます。豊中市の環境市民運動と密着しながら障害者の働く場をつくろうと考え、障害者と健常者が一緒に廃油を原料にして粉石けんをつくる作業を始めます。作業所ではなくて事業所として行政と助成金の交渉を続けながら、粉せっけんはじめ無添加パンを製造しながら、障碍者の自立トレーニング・人間関係づくり・地域での自立を促します。障害者の地域での生活を少しでも確保したいというみんなの願いを背負い、雇用促進法での助成金・売上・カンパ・内職・市の公園掃除の仕事で何とか職員の給料を払いながら、月によっては赤字をどうして埋めようかなど散々苦心しながら香代子は運営を続けます。

「困った状況にある人のことは何とかしなあかん」
 41歳の香代子はAZの会ならびに市民団体の仲間に促され、豊中市議会議員に立候補します。香代子は自分が困っている介護・住宅問題・教育・障害者の就労といった問題を掲げ、豊中市で「全国初の車椅子の女性市会議員」となります。4期16年にわたる議員生活で、街や駅また市議会の場のバリアフリー化に尽力、豊中市の介護福祉体制の改善に力を注ぎます。香代子は府中市民からさまざまな相談を受けます。「死にたい」「殺される、もうだめ」電話を受けると、介護者をかけつけさせ、自分も助けにいきます。何年も風呂に入っていない障がい者、借金まみれの人、家族が皆精神的に病んでいく家など、支援が必要な相談者のために、香代子は脳性マヒの硬直をきつくさせながら、議員や市職員に怒ったりハッタリをかけたり説得力満点で訴え、時には介護者泣かせの支援体制をつくります。香代子は議員引退後も、一障害者市民として社会にメッセージを送り続けます。2次障がいで首・股関節・足の痛みならびに脳性まひの硬直がひどくなり、肝硬変が進行してトイレも困難になりながらも香代子は外出を続けます。やがてベッドでばかり過ごすようになりながらも、香代子は介護者に自分のやりたいことを伝えて「障がい者主体」を実践します。香代子は最後まで自分らしく生きることにこだわって「ちゃうねん、なんでやねん」を繰り返して62歳で逝去します。香代子が二日市安、楠敏雄とともに結成した「障害者の自立と政治参加をすすめるネットワーク」 は、現在の参議院議員、木村英子・舩後靖彦・天畠大輔・に至るまで活動を継続しています。

-CIL豊中(豊中自立支援センター
-障害者の自立と政治参加をすすめるネットワーク

「見えないから、気づく」
"Because I can't see, I notice."

浅川 智恵子 女史
Ms. Chieko Asakawa
1958 -
大阪府豊中市 生誕
Born in Toyonaka-city, Osaka-fu

浅川智恵子 女史は日本女性初の全盲の情報技術者・IBMフェロー(IBM技術系最高職位)・全米発明家(NIHF: National Inventors Hall of Fame)殿堂入り。点字のデジタル翻訳システムを開発、デジタル点字図書館の基礎を構築。世界初の音声ブラウザー・ソフトウェア「ホームページリーダー(HPR)」を発明。
Ms. Chieko Asakawa is the first blind female Information Technologist in Japan, an IBM Fellow (the highest technical position at IBM), and a member of the National Inventors Hall of Fame (NIHF). She developed a digital translation system for Braille, laying the foundation for digital Braille libraries. She also invented the world's first voice browser software called "Home Page Reader (HPR)."

「繋がっていたい」
 智恵子は会社員家庭に生まれ水泳に夢中になります。ところが、11歳の時にプールでの事故をきっかけとして14歳のときに視力と「体育大学に進んでオリンピック選手になる」という夢も同時に失います。それでも家に引きこもることなく学校に通い続けます。「社会と繋がっていたい、学校と繋がっていたい、友達と繋がっていたい」。自分で教科書は読めず、辞書も引けず、授業についていけない中、興味のある英語の教科書をテープに吹き込んでもらって丸暗記を始めます。驚いた先生・生徒たちがサポートしてくれるようになります。「目が見えなくてもいろいろなことを楽しみたい」。高校は盲学校に通い、とにかく途方に暮れながら一から点字を学び、さまざまな基礎的なトレーニングを受けながら、陸上・水泳・スキー・スケートなど挑戦します。「何か自分にしかできない仕事に就きたい」。智恵子は通訳を目指して追手門学院大学文学部英文科に進学、アメリカ留学もします。会議通訳のために膨大な点字資料を四苦八苦して読み込む中、情報技術・ITエンジニアという新たな職種を知ります。早速、智恵子は視覚障がい者向けの情報処理トレーニングを提供する専門学校に2年間通って必死でプログラミングを習得。IBM東京基礎研究所で唯一の視覚障碍者の学生研究員として、英語テキストを英語点字に変換するプロジェクトに参加します。「あきらめなければ道は開ける。不可能は可能になる。」

「自分にしかできない仕事」
 智恵子は視覚障害者向けの点字をデジタル化するプロジェクトを立ち上げます。点字タイプライタを使って直接紙に点字を打つのではなく、パソコンで編集した文章を点字プリンタで出力できる新たなシステムを開発。さらに全国のボランティアはじめ点字図書館をネットワークでつないで点訳データを共有、デジタル点字図書館(現在のサピエ図書館)の基礎を作ります。東京で点字翻訳されたものが、その日のうちに日本中で共有できるようになります。結果を出した25歳の智恵子はIBMの視覚障害者としては唯一の研究員として採用されます。そしてPCが登場。結婚・出産・育児をやりくりしながら、智恵子は「ネットは見るだけでなく音声でもアクセスできる」と周りの目の見える研究者の偏見を拭いながら、視覚障がい者向けにウェブページを音声で読み上げる世界初の音声ブラウザー・ソフトウェア「ホームページリーダー(HPR)」を発明。マウスのかわりに数字キーパッド(テンキー)を操作するだけでリンクを読んだり探したり、Web上の情報を行読みしたりパラグラフ読みできるようにします。すると視覚障碍者さらに運転中のドライバーや高齢者のための音声ナビゲーション・システムに発展。この功績が認められ、智恵子は全米発明家(NIHF: National Inventors Hall of Fame)に日本女性初で殿堂入りを果します。「障がいがあるということは大変でも健常者とは違う視点でいろいろな技術を生み出すこともできる。」

「障碍者支援技術でイノベーション」
 ウェブ上に視覚的な情報がどんどん増え音声認識が難しくなっていく中で「視覚障碍者が視覚を使わないで、触覚と聴覚だけで、どこまで視覚情報を認識できるのか」智恵子は43歳で東京大学大学院工学系研究科博士課程に進学します。技術開発リーダーとして障碍者支援プロジェクトや、アクセシビリティー実現のための研究を続け、51歳で日本人女性初のIBMフェロー(IBM技術系最高職位)に就任します。「もっと気楽に町歩きがしたい」「周りの雰囲気を楽んでショッピングしたい」。智恵子は視覚障害者の自由な移動を助けるナビゲーションロボット、AIスーツケースの実用化に向けて取り組みます。センサーやモーターを内蔵したスーツケースにスマートフォンであらかじめ目的地を入力、スーツケースのハンドルを持つと自動的に動き始め、センサーが周囲の障害物や人物を認識して持ち手部分の振動で方向を知らせ、スマートフォンから音声で到着や店舗の情報などを知らせる仕組みを、オープンソースとして広く社会に公開します。61歳の智恵子は、宇宙飛行士・毛利衛に続く日本科学未来館の2代目館長に就任。研究者や開発者はじめキュレーターや運営スタッフと一緒に、みんなが自分事として社会課題を実感できるように2年をかけて常設展示リニューアル。障碍者を支援する技術で社会に変革をもたらすべく、来館者と一緒に社会実装実験に取り組みます。「他の人たちと違う視点を持つことは想像力のリミッターを外すきっかけになる。」

-『見えないから、気づく』浅川智恵子著(聞き手:坂元志歩)ハヤカワ新書2023年
-IBM
-サピエ図書館
-日本点字図書館
-日本科学未来館

奈良県 Nara-Ken

善 信尼 女史

Ms. Zenshinni

574 - ? 

奈良県奈良市向原 生誕

Born in Nara-city, Nara-ken

善信尼は日本初の出家者であり、日本初の海外留学生として百済に渡って仏教を学び、帰国後は桜井寺にて飛鳥時代の仏教興隆に貢献しました。

Zenshinni was Japan's first ordained monk, and as Japan's first overseas student, went to Baekje to study Buddhism, and after returning to Japan, contributed to the rise of Buddhism in the Asuka period at Sakurai-dera.

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百八十神(物部氏・中臣vs 仏教(蘇我氏)1

 嶋は渡来系技術者・司馬達等の娘として生まれます。父・達等は南梁また百済ゆかりの仏教技術者として、522年に技術者集団を率いて日本の朝廷に赴き、蘇我大臣稲目の庇護のもと日本ではじめて大和坂田原に仏堂を開いていました。嶋も幼い頃から仏堂に安置されている本尊に礼拝しながら仏教への信仰心を育んでいきます。嶋が生まれる少し前の538年には、日本の欽明天皇は百済の聖明王から金銅の仏像一体、幡蓋(仏具)若干、経論若干巻の贈られます。蘇我大臣稲目は言います。「朝鮮半島の諸国はみな、仏教に礼拝しています。日本だけひとり背くことはできません」。物部大連尾輿と中臣連鎌子は言います。「我が国家の天下の王は常に天地社稷の百八十神であり、春夏秋冬の祭に拝むものです。よその神を拝めば、国神が怒り恐ろしいことになります。」。仏像は蘇我大臣稲目の小墾田・向原の家を清めた寺に安置されますが、疫病の流行を理由に廃仏派に難波の堀江に投げ捨てられ寺には火をつけられます。さらに欽明天皇の宮殿も燃えます。以後、仏教は弾圧を受けるようになります。

百八十神(物部氏・中臣氏) vs 仏教(蘇我氏)

 10歳の584年、日本の敏達天皇は百済から日本に弥勒菩薩2体がもたらされます。崇仏派2代目の蘇我馬子の命を受けた嶋の父・司馬達等は、蘇我東側に仏塔と仏殿を建立して弥勒像を安置します。さらに池辺直氷田と一緒に四方に使者を出して仏教修行者を訪ねまわり、播磨国で高句麗出身の僧・恵便を探しあてます。嶋は11歳のときに同郷の娘2人とともに恵便を導師として出家します。3人は善信尼はじめ禅蔵尼また恵善尼と名乗り修行に励みます。ところが疫病の流行を理由に、廃仏派2代目の物部守屋と中臣勝海らは再び仏塔・仏像・仏殿を毀して焼き払い難波津に投げ捨てます。12歳の善信尼禅蔵尼また恵善尼と一緒に捕らえられ、三衣(袈裟)を剥ぎ取られ海石榴市亭(奈良県桜井市の駅舎)の群衆の前で鞭打たれ幽閉されます。かえって天皇はじめ国中に疫病が広まると、世論を味方につけた善信尼らの禁固は解かれ、父・司馬達等また兄・多須那によって建立された丈六仏寺にて修行また礼拝に励みます。丁未(ていびん)の乱が勃発すると、崇仏派の完全勝利により仏教は推進され普及していきます。

シャーマンのような尼僧

 百済からの使者とともに、本格的仏教を弘めるための仏舎利また僧侶はじめ仏寺技術者が派遣されてくる中、善信尼は百済に渡って正式な寺僧から受戒したいと馬子に願い出ます。588 年、百済の使者とともに14歳の善信尼はじめ禅蔵尼また恵善尼は百済に渡り、百済の宮中にある皐蘭寺(コランサ)で修行に励みます。皐蘭寺直上の落花岩からは、百済滅亡時に宮女3000人が身投げすることとなります。2年後、六法戒(式叉摩那の戒)と大戒(比丘 ・比丘尼 の戒)を授した善信尼らは百済から帰国、桜井寺に落ち着きます。桜井寺はかつて蘇我稲目が欽明天皇から下賜された百済の仏像のために家を清めた寺です。そして桜井寺から、大伴狭手彦連女(むすめ)善徳・大伴狛夫人・新羅媛善妙・百済媛妙光・漢人善聡・善通・妙徳・法照・善知聡・善知恵・善光など尼僧が誕生します。さらに仏教を篤く信仰する皇后また女性天皇が登場します。善信尼の兄・多須那も徳斎となりますが、以後しばらく男性の出家は行われません。善信尼ら尼僧たちによってシャーマンのように日本仏教の基盤がつくられます。しかしながら、東大寺大仏殿の法要あたりから徐々に表舞台から女性僧侶が排除されていき、仏教内においても尼僧の地位が低下させられ女人禁制が誕生します。宮廷はじめ一般社会においても女性の役割また活躍の場が縮小されていきます。

-奈良国立博物館 Nara National Museum

-『日本書記』、『扶桑略記』、『元興寺縁起』'Nihon Syoki', "Fuso Ryakuki', 'Genkoji Enki'

光明皇后 Empress Komyo

701 - 760

奈良県奈良市佐紀町 生誕

Born in Saki-machi, Nara-city, Nara-ken

「我自ら千人の垢を去らん」

"I myself shall remove the impurities of a thousand people." 

光明皇后は日本で初めて孤児院はじめ医療福祉施設を開設しました。

Empress Komyo is the first to establish orphanages and medical welfare facilities in Japan.

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光明皇后は立后した翌年、興福寺に施薬院と悲田院を設けました。施薬院は医師・鍼師らの医療に必要な薬草を諸国から買い集め、さらに自宅で保養できない病人を施薬院に収容し治療していました。悲田院は乳母・養母が捨て子また孤児を世話していました。この頃から、捨て子が急増します。というのも、父から子への官職の世襲制・夫を家長とする家制度が成立、女性たちは財産相続権利を奪われるとともに独立して生計を立てることが困難になります。さらに、世襲・家柄により社会的・公的身分が認知されるようになると、後継ぎの男子を生む女性が重要視され、働く女性は軽蔑視され始めます。ならびに、後継ぎの男子を育てる乳母に高い位と経済的保障が与えられ、女性のあこがれの職業となります。光明皇后は官職を独占する藤原氏一族出身ではじめて民間から皇后となっており、藤原氏一族の財産を施薬院と悲田院の運営にあてていました。

-宮内庁 Imperial Household Agency

-総国分尼寺 法華寺門跡 Hokkejimonzeki

-国立国会図書館 National Diet Library of Japan

和歌山県 Wakayama-Ken

前畑 秀子 女史

Ms. Hideko Maehata

1914 -1995

和歌山県橋本市 生誕

Born in hashimoto-city, wakayama-ken

「絶望の淵から這い上がった経験こそ、金メダル以上の価値があった。」

"The experience of crawling out of the depths of despair was worth more than a gold medal."

前畑秀子女史は日本の水泳選手、日本初のオリンピック女子金メダリストです。母校の水泳指導や市民向け水泳教室などで、水泳の普及に尽力。

Ms. Hideko Maehata was a Japanese breaststroke swimmer and the first Japanese woman to earn a gold medal in the Olympics. She worked hard to popularize swimming at her alma mater's swimming instruction and citizen's swimming class.

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秀子は和歌山県伊都郡橋本町(現、橋本市)に豆腐屋の5人兄弟に生まれます。生まれたときから病気ばかりしていて体が弱く、心配した両親は髪の毛を短く切って男の子のように育てます。3歳になると紀ノ川へ連れて行き、背中に乗せて泳ぎます。それから毎年5月になるとひとりでも紀ノ川へ行って泳ぐようになります。橋本尋常小学校へ入学すると4年生で水泳部に入部します。水泳部の先生たちは手製で紀ノ川に天然プールを作成、大阪まで正式な泳ぎ方を習いに行きます。秀子は平泳ぎを選び、5年生のときに大阪で開催された学童水泳大会で50メートル平泳ぎの学童新記録を更新。橋本尋常高等小学校高等科へ進学、中学科1年生で100m平泳ぎで1分38秒という学童新記録並びに日本女子新記録を出します。高等科2年生のとき100メートル平泳ぎで1分33秒2という自身が持つ日本記録を大きく更新。高等科3年生のとき「汎太平洋女子オリンピック大会」がハワイで開催され、100メートル平泳ぎで優勝、200メートル平泳ぎで2位となります。名古屋市の椙山高等女学校(現在の椙山女学園)の椙山正弌校長は日本で初めての室内プールを学園内に作って初泳ぎを前畑秀子に依頼、学生寮を秀子に提供して椙山高等女学校に迎え入れます。すると秀子の母さらに父が後を追うように若くして脳溢血で亡くなります。秀子は学校をやめますが、親類や先生たちの計らいもあり、秀子の兄がお嫁さんをもらって秀子を学校へ戻します。椙山女子専門学校に進学した秀子は18歳のときにロサンゼルスオリンピック選手選考会200メートル平泳ぎで自身の日本新記録3分12秒4で1着になりロサンゼルスへと旅立ちます。ロサンゼルスオリンピック当日、女子200メートル平泳ぎ決勝で秀子はオーストラリアのデニス選手と0.1秒差で2位になるも3分6秒4と自信日本記録を6秒縮めます。意気揚々と帰国する秀子に、オリンピック誘致に奔走していた東京市長の永田秀次郎はじめ多くの人は「なぜもう10分の1秒縮めて金メダルを取ってくれなかったんかね。」と責めます。ベルリンオリンピックに向けて、秀子は1年365日、朝5時に起きて朝・昼・夜と3回に分けて2万メートル泳ぎます。寒い冬は陸上トレーニングの厳しい練習の日々を3年送り、東京で開催された水泳競技大会で女子200メートル平泳ぎで3分3秒6という世界記録を出します。ベルリンオリンピック当日、世界が戦争に向かって動き出している国威発揚の期待は4年前よりもはるかに高まっていました。秀子は熱田神宮の御守を水と一緒に飲み込んで臨み、3分3秒6、2位のゲネンゲル選手との差はわずか0.6秒で優勝。日本女性初のオリンピック金メダルを獲得します。引退後は、戦後に岐阜市内で病院を開業する夫を看護師見習いとして手伝うも、夫は若くして脳溢血で死去。秀子は45歳で椙山女学園の医務室に勤務する傍ら水泳部のコーチも務め、後進の育成に力を注ぎます。53歳のときに名古屋市で市民向け水泳教室を開講。子供から高齢者まで、幅広い世代に向けて水泳の楽しさや、それを通じた健康づくりなどを積極的に広めます。69歳のときに自身も脳溢血で倒れるも、岐阜の温泉病院で懸命なリハビリを自らに課して麻痺を回復、再びプールに戻ります。日本女子スポーツ界の文化功労者に選ばれ80歳で逝去。

-和歌山スポーツ伝承館 Wakayama Sports Legend Museum

-椙山女学園 歴史文化館 Sugiyama Jyogakuen Historial Museum

鳥取県 Tottori-Ken

碧川 かた 女史

Ms. Kata Midorikawa

1869 - 1962 

鳥取県鳥取市 生誕

Born in Tottori-city, Tottori-ken

「鐘は既に鳴れり猶ほ目覚めざるか」

"The bell has already rung and I have to wake up."

碧川かた女史は訪問看護ならびに婦人運動家の先駆けです。訪問看護のかたわら「女権拡張会」を興し機関誌『女権』を発行。男女共同参画や女性の参政権運動など社会運動家として精力的に活動しました。

Ms. Midorikawa Kata was a trailblazer in the fields of home nursing and women's activism. While engaged in home nursing, she also founded the "Women's Rights Expansion Society" and published the magazine "Women's Rights." As a social activist, she energetically worked on issues like gender equality, women's suffrage, and promoting the active participation of women in society.

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かたは鳥取藩士(城代家老)和田邦之助の娘として生まれます。父は因幡二十士事件への関与嫌疑を受け蟄居中で、子どものいない和田家重臣の堀正・千代夫婦の養女となります。廃藩後、堀正は高知監獄の天獄(刑務所長)の職を得て堀家は高知県土佐に移住、かたは高知の小学校に入学。勉強は良くでき、飛び級で学年を進学。その後、父・堀正は播磨龍野町に転勤。15歳で龍野の名家三家当主・制に気に入られ、父・堀正の長崎転勤の際に、かた龍野の円覚寺の住職の睾采教順・阿い夫妻の養女なって嫁入り修行をします。19歳で三木家次男の節次郎と結婚、2児をもうけるも、夫は家に帰らない放蕩の日々が続きます。かたが義父・制に相談すると、長男を跡取りに残して次男とともに自由に生きる道を促されます。26歳で次男勉を連れて郷里の実父母のもとに戻ります。さらに当時の職業婦人、看護婦をめざして乳飲み子の勉とともに上京。東京専門学校(現早稲田大学)に進学し夏休みに帰省していた碧川企救男も同行します。かたは上京後、養父母がいる小石川町の鳥取県出身者の学生寮・久松学舎を訪ねて子供を預け、文京区の東京帝国大学病院付属看護婦養成所に入所。昼は病院患者の付き添い、夜は授業、合間に小石川に授乳に走ります。勉学と育児の両立は難しく、次男も三木家に引き取ってもらいます。直後にキリスト教の洗礼を受けます。かたは2年の修業を終え東大医学部付属病院看護婦として7年務め、三浦謹之教授(後の明治天皇の侍医)直属の看護婦として富裕層家庭への訪問看護も行います。ドイツ留学を勧められますが、33歳で社会部記者として活躍する碧川企救男と再婚。北海道・東京・京都と夫に伴い訪問介護により生活を支えながら一男四女を育てます。訪問介護先で、料亭「富貴楼」、三菱の「岩崎邸」、足尾銅山の「古河邸、「細川侯爵邸など富裕層夫人の知遇を得ます。「日本基督教婦人矯風会」ならびに「婦人参政権同盟」に参加するようになります。この頃、中央新聞の記者として訪欧中の夫・企救男から、女性の政治参加ならびに女権拡張運動活躍する英国婦人について手紙を読んでかたはさらに奮起します50歳で西川文子、高木ふよと「婦人社会問題研究会」を結成、電力会社に40回通って 街灯を設置させます。ならびに竹早教会を基盤に「東京婦人禁酒会」を設立夜の大学寄宿舎をまわって未成年者の禁酒説得からはじめ国会議員食堂での禁酒を実現します。58歳のときに鷲見よし子らと「女権拡張会」を興し、機関誌『女権』を発行婦人参政権・公民権の獲得・男女不平等法制改革及び家庭平和向上を呼び掛けます。三木家に預けた次男・勉は結核で夭折するも、長男・操は詩人・三木露風として活躍、『女権』創刊号に歌を寄せて母を応援します。「あたたかき心をもてる たらちねの母にはまことちからありけれ」「かぐわしき花にも似たる をみなにも ただしきちからあらまほしけれ」戦後のかたは日米安保に反対運動を粘り強く続けながら、遺言「アンポヘ行ったか」を残して90歳で逝去します

-鳥取市文化財団 Tottori Culture Foundation

「いざ、かぶかん!」

"Now, let's break the norms!"


出雲  阿国 女史

Ms. Izumo No Okuni

1572 - ? 

島根県出雲市 生誕

Born in Izumo-city, Tottori-ken


出雲阿国はかぶき踊りを創始した女性芸能者です。全国に広まり、歌舞伎ならびに美人画・浮世絵を生み出しました。

Izumo no Okuni is a female entertainer who founded kabuki dance.  It spread all over the country and gave birth to Kabuki, Bijinga, and Ukiyoe.

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ややこのをどり ふりよや見よや

 くには11歳のときに8歳の加賀と一緒に奈良・春日大社で「ややこ踊り」を披露して話題になります。おかっぱの幼女らが揃いのきらびやかな衣装をまとい美しい模様の扇を手に、「身は浮き草よ 根を定めなの君を待つ 去のやれ月の傾くに君を待つ」「花も紅葉も一盛り ややこのをどり ふりよや見よや」、大人の恋の流行歌を歌いながら振りを揃えて艶やかに跳ねるように踊ります。宮廷でも披露して、天皇はじめ戦国乱世で逃げ惑う人々の心を慰めます。くには出雲国の鍛冶屋の娘として生まれ、杵築大社(出雲大社)の神前巫女となります。その頃、豊臣秀吉の朝鮮出兵に伴って社領1000石(今の1億円程度)を没収され大社の財政は困窮。神職家は豊臣・徳川ら権力者に本殿の修理・造営の支援を陳情、くにはじめ下級神職らは参詣勧誘また造営費集めのために諸国勧進巡業の旅に出ます。京都に庇護者(パトロン)を得ることに成功した一座は、戦火をのがれつつ京から大和へ、駿河へ、さらに四国・九州へ各地を巡業します。駿河では駿府城の徳川家康の宴会へ呼ばれます。意表をつくように、清らかな巫女姿で荘厳な神楽舞を当世風に艶やかに踊り喝采をあびます。やがて一座に、猿楽師ほか囃子方・狂言方一行が加わります。20歳のくには豊臣家と縁の深い京都・北野天満宮の権力者・禅昌の庇護を得ることに成功、禅昌から連歌はじめ文化教養を学びながら、伏見城・公家邸・宮中の近衛殿はじめ後陽成天皇の生母・新上東門院の御所で踊りを披露します。伏見城で天下分け目の戦が勃発すると、一座は再び諸国勧進巡業の旅に出ます。くには狂げん師で鼓打ちの三十郎と結婚して二児をもうけます。

いざ かぶかん

 関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が征夷大将軍に就任、31歳のくにはじめ一座は「かぶきもの」が闊歩する京都に戻ります。くには男曲げを結い上げ鉢巻きを締め、赤地金襴羽織をまと水晶の十字架を首に掛け、黄金の刀を担いで「かぶきもの」に男装。道化役の「猿若」を従えて、一座の男が女装する茶屋女(遊女)恋の口説きのやりとりを軽妙に演じながら歌い踊ります。「茶屋のおかかに 七つの恋慕よなう 一つ二つは痴話にも めされよなう 残り五つ皆 恋慕ぢや」。みやこ人はじめ諸国の見物客ならびに大名・武士たちにも熱狂的に迎えられます。北野神社境内に一座の常設舞台をつくり、さらに江戸城の本丸・二の丸特設舞台で上演くには天下一の座を手にした女として家康と並び称されます。女芸人はじめ遊女がこぞってかぶきを名乗る中、40歳のくには華やかな公家衆・裕福な商人衆に囲まれて、なじみの女院御所で新しい歌舞伎踊りを披露します。足拍子を踏みながら、「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」。黒塗りの笠に僧衣をまとい紅の腰蓑と鐘を首にかけて打ち鳴らします。念仏に誘われ客席から現れた名古屋山三の亡霊役と問答を交わしながら歌を交えて笛・つづみに拍子を合せて飛び跳ね踊ります。豊臣方の主君の死後に浪人となった美男の「かぶきもの」名古屋山三郎の死からちょうど10回忌であることに気づいた客席は沸き上がります。「さてなにごとも打ち捨て ありし昔のひとふしをうたい いざかぶかん」舞台のくにいつのまにか僧衣を脱ぎ捨て、紫の布で面を覆いきらびやかな小袖に黄金の刀を担いだかぶき姿に早変わり。流行しはじめた浄瑠璃節に合わせて、男装また女装した踊りてと高揚した観客とが入り乱れて歌い踊って大団円に。その後もくには艶聞を噂されながら新しい芸を工夫し続けました。

-島根県立美術館 Shimane Prefectural Museum

-歌舞伎美人 Kabuki-bito

「私がします!」

" I'll do it! "


牛島國枝

Ms. Kunie Ushijima

1910 - 1999

島根県浜田市

Born in Hamada-city, Shimane-ken


牛島國枝女史は、日本初の名実ともに主婦による主婦のためのスーパーマーケットの創業者。女性株主のみで「佐賀主婦の店」をスタートさせ佐賀一番のチェーンストアに育て上げます。有害食品追放・過大表示商品を排除する食品マーク付け運動をはじめて実施して、佐賀から全国に大反響を巻き起こします。NHKテレビドラマ『おしん』のモデルの一人。

Ms. Ushijima Kunie is the founder of Japan's first supermarket for and by housewives, both in name and reality. She started the "Saga Housewives' Store" with only female shareholders and developed it into Saga's leading chain store. She initiated a food labeling movement to eliminate harmful foods and products with exaggerated claims, creating a nationwide impact starting from Saga. She is also one of the models for the NHK TV drama "Oshin."


「小説家の夢」

 國枝は旧制中学校教師の父・喜太郎と資産家の娘である母・コウのもと4人きょうだいに生まれます。9歳の時に父が急逝、母の郷里の佐賀に移り住みます。小説家を目指して佐賀高等女学校時代に『婦人公論』に短編小説を応募、2回連続で入選します。さらに東京女子高等師範代に挑戦しますが挫折。18歳で母方のいとこ牛島栄四朗と結婚。嫁ぎ先は田畑・貸家をたくさん所有する資産家で、夫の兄弟は石油業、運送業を経営。國枝は義母と折り合い悪く披露宴を拒否、夫と共に酒屋に次いでタクシー会社の経営に専念します。戦後の婦人参政権実現とともに、國枝は37歳から市会議員ならびに県会議員に立候補、それぞれ3期連続で務めあげ、主婦連合会会長の奥むねお女史また市川房枝女史と親交を結びます。さらに経営者の妻たちを中心に15人の友人を集め読書グループ「菱の実会」を結成。女性の自律的人間形成・地域社会の進展・グループリーダー養成を目標に活動を続けます。

「有閑マダムのへそくり会社」

 ある日、岐阜発「主婦の店」スーパーマーケットが繁盛している記事を見つけます。早速、國枝は友人2人で全国のスーパーマーケットを見て回ります。「これなら私たちにもできる!」。読書会のメンバーのうち8人で出資200万円、知り合いに頼み込んで佐賀市の西のはずれ西魚町にバラック小屋を建ててもらい賃借契約を結びます。店の建築が始まると、市政記者らを招いて記者会見を開きます。「主婦だけで経営する佐賀発のスーパーマーケット!安全で新鮮で良い品を安く提供して利益を社会に還元!」。ところが、翌朝の新聞では「有閑マダムのへそくり会社」と大々的に報じられます。佐賀県知事のもとに八百屋・魚屋・豆腐屋・牛乳屋はじめ生鮮食料品業者が数十人も押し寄せ、「生活に困らん女たちが商売の邪魔をするのはけしからん!」と猛反対。國枝は佐賀県下で青果はじめ魚・肉を取り扱う知人を訪ねてまわり、魚と肉と豆腐の協力店を見つけます。さらに國枝は橋を越えて久留米の青果市場に直談判、全国有数の野菜生産地である福岡県三瀬郡の新鮮で安い野菜・果物を入荷します。ようやくこぎつけた開店日には200人をこえるお客が列をつくります。

食品マーク

 生鮮食品はじめ日用品・文具・菓子を並べ、市販より1割以上安く、目玉商品はさらに安く販売。さらに、有害食品と過大表示商品を排除するために食品マーク付け運動を実施。信号になぞらえて赤「おすすめしかねます」・青「おすすめします」・黄「普通」シールを全商品に張り付けます。100種類以上の添加物を調べあげたり、チューブのワサビまた辛子を計量したり、お茶また昆布だしを飲み比べたり、主婦目線で選定すると消費者からは大好評を得るも、業者はじめマスコミから猛反発を受けます。全国的に論争を巻き起こしながら店の取り組みが話題となり、初日の売り上げ60万円から平均日売上35万円と、5年で軌道に乗ります。1割配当と商品の袋詰め、1年に1回のバス旅行、有害食品追放・省資源運動などに取り組みながら、気心の知れる女性知人を対象に株主を募って約100人で資本金1億6000万円に増資。住宅地を中心に30余りの小型店舗を拡充、市街地に深夜営業の大型店舗を建設、惣菜・もやし・カイワレ・漬物の自社工場を整備、消費者問題を扱った『主婦の店新聞』を刊行して売り上げを伸ばしながら、女性による女性のための店づくりに邁進します。

-佐賀県立佐賀城本丸歴史館 

岡山県 Okayama-Ken

人見  絹枝 女史

Ms. Kinue Hitomi

1907 - 1931

岡山県岡山市 生誕

Born in Okayama-city, Okayama-ken

「私は日本を代表したのではないのだ。人見個人としてプラハに行ったのだ」

"I did not represent Japan. I went to Prague as an individual."

人見 絹枝女史は日本人女性初のオリンピックメダリストです。第2回スウェーデン万国女子オリンピックで走り幅跳びと立ち幅跳びで優勝。第9回アムステルダム・オリンピックで800mで準優勝。第3回チェコ万国女子オリンピックで個人総合2位。日本の女子スポーツの啓蒙活動はじめ後進の育成さらに国際親善に尽力しました。

Ms. Kinue Hitomi is the first Japanese woman to win an Olympic medal. She won the 2nd Swedish Universal Women's Olympiad in the long jump and the standing long jump. She was runner-up in the 800m at the 9th Olympic Games in Amsterdam. She finished second in the individual all-around at the 3rd Czech World Women's Olympiad. She devoted herself to promoting women's sports in Japan, nurturing the next generation of athletes, and actively contributing to international goodwill efforts.

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 絹枝は岡山県御津郡福浜村福成(現・岡山市南区福成)でイネとイグサを栽培する裕福な自作農家に生まれ父・母・祖母・姉と一緒に元気いっぱいに育ちます。教育熱心な両親のもと、福浜村立福浜尋常高等小学校(現・岡山市立福浜小学校)ではクラスで級長を務め、岡山県立岡山高等女学校(現・岡山県立岡山操山高校)に進学。毎日約6 kmの道を徒歩通学します。テニスに打ち込んで遅くまで練習に励んだ後は夕日と競走して走って帰宅、ペアを組んで県の大会で優勝します。脚気を患い修学旅行に行けない状態ながら、第2回岡山県女子体育大会に女代表として選ばれ、病床から無理を押して出場。走幅跳で4m67の当時日本最高記録で優勝してしまいます。校長の勧めで二階堂体操塾に入学、塾長・二階堂トクヨから体育の指導を受け、第3回岡山県女子体育大会では三段跳で10m33の世界最高を記録。18歳で同塾を卒業して体操教師となって京都市立第一高等女学校(現・京都市立堀川高校)に赴任するも、塾長・二階堂からの要請で体操の実技講師として台湾各地を巡回、同校の専門学校認可を助けます。様々な陸上競技会に出場、50m競走・100m競走・三段跳で優勝、400m競走・走幅跳・砲丸投で日本記録を更新、三段跳で世界最高記録を更新します。その頃、大阪毎日新聞社運動課の木下東作部長から「1つの学校の先生になるのか日本の女子スポーツの先生になるのか」と説得され、スポーツ記者兼アスリートとなります。関東大震災の翌年にスウェーデンのイエーテボリで第2回国際女子競技大会が開催されると、 絹枝は出場を固辞するも木下部長はじめ大阪毎日新聞社に説得され、シベリア鉄道に乗って監督もコーチもつかずたった一人で旅立ちます。1か月かけて現地に到着すると、走幅跳を5m50の世界記録で優勝、立ち幅跳びを2m47で優勝、個人総合で最高得点を挙げ最優秀選手に選ばれます。 絹枝19歳のときでした。この遠征で初めて国外陸上競技の事情を知り、自分のトレーニングはじめ専属コーチや年間トレーニングの重要性などを著書を通じて広く後進に伝えます。その後、国内外の陸上競技大会で、50m競走・100m競走・200m競走・400m競走・立ち幅跳び・走幅跳で世界最高を記録。21歳のときに、オランダのアムステルダムオリンピックで女性の陸上競技5種目100m競走、800m競走、走高跳、円盤投、400mリレー)が初めて認められます。 絹枝は日本女子選手として初出場、100m予選は1着で通過するも準決勝で4着となりまさかの敗退。「このままでは日本に帰れない」 絹枝は、監督の反対を振り切って800m競走に出場。決勝のスタートダッシュで20mほど他選手を引き離し、ペースを落とした2周目の5位から第3コーナーで3位、第4コーナーで2位と順位を盛り返し、ラストストレートでトップのドイツのリナ・ラトケ選手にあと15mまで迫り必死に腕を振ってほとんど同時にゴールイン。2分17秒4で日本人女性初のオリンピックメダリスト(銀メダル)となります。次々と選手が倒れた「死の激走」と呼ばれ、女子800m競走は以後32年間行われません。 絹枝はチェコ・プラハの女子オリンピック大会に後進の女子選手5名と一緒に参加することを決めます。全国の女学校に募金箱を設置して寄付を募ります。記者として働きながら本を執筆したり、競技者として各地に遠征する傍ら、後進の育成・講演会・大会遠征費の工面に奔走します。 絹枝はマネージャー兼監督兼コーチとして、走幅跳で優勝、三種競技(100m競走、走高跳、やり投)で2位、やり投・60m競走で3位、400mリレーで4位、個人総合で2位、日本チームを参加18ヶ国中4位に導きます。さらに若い選手を引き連れてヨーロッパ各地を転戦、ポーランド・イギリス・ドイツ・ベルギー・フランスで女子対抗競技会で体調を崩しながらも全種目に出場します。帰途、日本での冷ややかな新聞報道や手紙などに選手達とともに深く傷つきますが、募金の御礼とスポーツ啓蒙のために、休みなく各地に講演に出かけます。まもなく病臥に伏し、アムステルダムオリンピック800m決勝の日からちょうど3年後に24歳で死去。

-岡山県遺跡&スポーツミュージアム Okayama Ruins & Spoorts Museum

-日本体育大学 Japan Women's College of Physical Education 

久原 濤子 女史
Ms.Namiko Kuhara
1906 - 1994
岡山県津山市二階町 生誕
Born in Tuyama-city, Okayama-ken

久原 濤子 女史は日本の女性彫刻家の草分けです。北村西望に入門。帝国美術院美術展覧会(帝展)に女性初入賞。文部省美術展覧会(文展)、日本美術院展(日展)などに数々の作品を発表。「長崎平和祈念像」制作に北村西望の助手の一人として参加します。
Ms. Namiko Kuhara is a pioneering female sculptor in Japan. Begins with Seibo Kitamura. Became the first woman to win an award at the Imperial Art Academy Art Exhibition (Teiten). He has exhibited numerous works at the Ministry of Education Art Exhibition (Bunten), the Japan Art Institute Exhibition (Nitten), etc. Participated in the production of the Nagasaki Peace Statue as one of Seibo Kitamura's assistants.

 濤子は、日露戦争直後に医師・久原茂良氏の4女として生まれます。久原家は代々津山藩に仕える蘭方外科の藩医で、父・茂良は地域医療の発展に貢献。濤子は大正ロマンの真っ只中、津山高等女学校を卒業。23歳の時に独り上京して北村西望氏に入門します。後の日展会長・文化勲章受章者で、当時の彫刻界を写実主義の中にも豪快な作風で牽引。濤子は門下生として二年目、帝国美術院展覧会(日展の前身)に「男の首」を出品。女性として初入選します。以後、ほぼ毎年連続して展覧会に出品。戦後、日展に「裸婦」「若い人」「あこがれ」などを日展に連続出品。旺盛な創作活動を続け、師・村西望の「長崎平和祈念像」製作に弟子助手として参加します。60代の濤子は津山に帰郷。二階町の自宅で精力的な創作活動を続け、郷里ゆかりの「箕作阮甫先生」胸像をはじめ、「わんていか(※じゃんけんの掛け声)」像・「星座」像「羽ばたき」といった子供たちの連帯感の溢れる作品群を手掛けます。これらの作品は津山市の公園や施設にプロンズやレリーフとして設置されています。

-津山郷土博物館

広島県 Hiroshima-Ken

「被爆者は世界中にいる。」
"Atomic bomb victims exist worldwide."

小倉 桂子 女史
Ms. Keiko Ogura
1937 -  
広島県広島市 生誕
Born in hiroshima-city, Hiroshima-ken

小倉桂子女史は「平和のためのヒロシマ通訳者グループ」創始者。ヒロシマ被爆者の英語通訳者・コーディネーター・英語証言者として「ヒロシマの世界化」に尽力。ヒロシマの人が自ら英語で世界に語り継ぐ取り組みを開始。
Ms. Keiko Ogura, founder of the 'Hiroshima Interpreters for Peace', dedicated herself to the global awareness of Hiroshima as an English interpreter, coordinator, and English testimonial speaker for Hiroshima survivors. She initiated efforts for people from Hiroshima to convey their stories to the world in English.

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「宝石みたいなジェリービーンズやチョコレート」
 桂子は日中戦争が始まった年に広島市横堀町(現中区榎町)で菓子問屋を営む両親のもと7人兄弟姉妹の4番目として生まれます。戦況悪化とともに7歳の時に、田園風景が広がる牛田(現東区)に引っ越します。8歳になったばかりの牛田国民学校2年生のある日、父が「何か嫌な予感がする。今日は学校に行くな」と言うので独りで自宅の北側の道で遊んでいると、桂子は突然目もくらむような閃光に包まれ凄まじい爆風により吹き飛ばされ路上に叩きつけられます。近所の藁わら屋根は瞬時に燃えだし、 家の天井や屋根瓦は吹き飛ばされ、戸や窓のガラスは数百の破片となって壁や柱に突き刺っています。すぐ後に、外に出た桂子の服をねっとりとした灰色の「黒い雨」が塗らします。近くの神社の高台に向かうと、幽霊のような列が押し寄せてきます。頭髪は焼け、すすで汚れた顔は腫れあがり、血まみれで皮膚が垂れ下がった人もいます。父は地域の世話係として毎日死体処理をする中、桂子は負傷者の傷にハエがたかり卵を産み、うじが湧く様子から目をそらすことができません。半壊の家は負傷した親戚・友人・隣人など負傷者であふれ、母や姉たちが看護に追われる家の中は、吐き気を催すような血、膿うみ、泥、焼け焦げた頭髪、汚物の臭いで充満します。広島は一晩中燃え続け、遺体を焼く煙があちこちで上がり、時折においが流れて来ます。 桂子は毎日、石段を登っては広島の街を見続けます。敗戦後、米国から届く援助物資「ララ物資」はじめ父が闇市で手に入れる「宝石みたいなジェリービーンズやチョコレート」に感動、桂子は英語を学ぶために外国人教師がいる広島女学院中高へ進学します。それから原爆に遭った女性への差別を恐れて「原爆に遭ったことは誰にも言うまい」とひそかに心に決めます。キリスト教と出合い、米兵と日本女性との間に生まれ乳児院に預けられた赤ちゃんのお世話をしたり、拘置所にいる人に聖句を書いた手紙を送って励ましたり、奉仕活動に励みます。17歳で洗礼を受け、日曜学校の先生をします。

「小倉馨とロベルト・ユンク」
 広島女学院大学2年目の佳子は、ドイツ出身のユダヤ系ジャーナリストのロベルト・ユンクに、知人を通じて英語が話せる若い被爆者として取材を受けます。広島市民球場を批判するユンクに、「広島には希望が必要です」と桂子は答えます。大学を卒業した桂子は父の知人に頼まれバス会社で、豪華な外国人専用観光バスで英語のガイドを務めます。その頃、ユンクの協力者として取材を支えていた小倉馨と結婚。桂子は家事育児に義父母の介護にと忙しくする中、夫・馨は原爆資料館長や市長室次長を歴任、アメリカ・ニューヨークの国連本部での原爆写真展を開催して「ヒロシマの世界化」に尽くします。桂子は夫に「自分だけ勉強して。私には何の能力もない」と思いの丈をぶつけては夜に泣きます。そんな中、43歳の時に夫が突然倒れ帰らぬ人となります。途方に暮れる桂子に、ロベルト・ユンクから電話がかかってきます「君は愛する人を突然失った悲しみが分かる、被爆者の苦しみも知っている」。ユンクは到着するなり桂子を知識人や平和運動家たちの前に座らせて通訳させます。桂子は海外のジャーナリスト・研究者・平和運動家・作家・アーティストなどから次から次へとくる連絡・調整はじめ通訳に追われるようになります。夫の遺品の手帳を頼りに「小倉馨の妻です」と電話すると誰もが快く応じてくれます。YMCAや専門学校で英語講師を務めながら合間に外国人を案内する生活する中で桂子は葛藤します。「自分のことは隠したまま、同じように隠したいと思っている被爆者たちに無理やり話をさせてきた。私はなんて罪深いことをしているんだ。」封印を解いた桂子は証言活動も始め、西ドイツのニュルンベルクで開かれた「反核国際模擬法廷」に核兵器を告発する証人として参加。続いてアメリカ・ニューヨークで開かれた第1回核被害者世界大会で自ら英語で被爆証言を行います。原爆投下を正当化する相手との修羅場をくぐり抜けながらも、欧米の暮らしに根差した反核運動に刺激を受けた桂子は、平和交流イベント「平和ピクニック」「ぺあせろべ」を実施したり「ヒロシマ案内人」養成講座に従事したりしながら「平和のためのヒロシマ通訳者グループ(HIP)」を設立、被爆の事実を広島の人が自ら英語で世界に語り継ぐ取り組みを開始します。

-平和のためのヒロシマ通訳者グループ Hiroshima Interpreters for Peace (HIP)
-広島平和記念資料館 Hiroshima Peace Memorial Museum
-中國新聞ヒロシマメディアセンター Chugoku News Hiroshima Peace Media Center

「諦めるな。頑張れ。光が見えるか。それに向かってはっていくんだ」

"Don't give up. Keep pushing forward. Can you see the light? Keep working towards it."

サーロー 節子 女史 

Ms. Setsuko Thurlow

 1932 - 

広島県広島市南区 生誕

Born in Hiroshima-city, Hiroshima-ken

サーロー節子女史は核兵器廃絶運動・被爆者運動の活動家です。2017年の核兵器禁止条約に貢献、同年のノーベル平和授賞式の壇上で「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)総代表として演説を行いました。

Ms. Setsuko Thurlow is an activist in the nuclear disarmament and hibakusha (atomic bomb survivors) movements. She made significant contributions to the Treaty on the Prohibition of Nuclear Weapons in 2017 and, in the same year, delivered a speech as the co-representative of the International Campaign to Abolish Nuclear Weapons (ICAN) during the Nobel Peace Prize ceremony.

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節子は広島市東荒神町に7人きょうだいの末っ子として生まれます。父・弁吉は10代の若さで米国カリフォルニア州に移民してサクラメント郊外に大きな果樹園を経営していました。日本人は土地所有が許されずドイツ人との共同経営ながら財をなして一家は広島へ戻り、節子が生まれます。広島女学院高等女学校(現広島女学院中高)に入学して英語またピアノに勤しむはずが、2年生になると学徒動員作業の毎日。農作業、軍服・群靴・たばこの製造、前線から届く暗号メッセージの解読作業に動員されます。節子13歳の8月6日、同級生約40人と一緒に木造の建物の2階に上がって作業を開始する直前、すさまじい閃光に包まれ体ごと吹き飛ばされます。「あきらめるな!光に向かってはっていけ!」と励まされた節子は、血まみれの体でがれきの下から這い出ます。級友は建物の下敷きとなって焼け死に、きょうだいは被爆して無残に息絶え、叔父叔母は無傷ながらまもなく紫斑が出て苦しみながら急死。両親と4人になったきょうだいと母方の親戚に身を寄せ、脱毛や歯肉の出血といった放射線障害の急性症状に苦しみながらトタン屋根で再会した学校に通い始めます。新制高校2年生のときに敏子は級友と「広島女学院高校新聞」を創刊。さらに敏子は広島女学院のキリスト教教育に感化され受洗、広島女学院大に進んでキリスト教女子青年会(YWCA)の原水爆禁止運動・被爆者運動に参加します。広島初の国際会議「第1回世界連邦アジア会議」で通訳を務めると、会議出席者から留学して米国で反核について伝えるよう提案されます。第五福竜丸が「死の灰」を浴びた半年後に節子はリンチバーグ大(米バージニア州)に留学。節子は社会福祉を学びながら、孤独と恐怖に屈せず学内の集会やロータリークラブで被爆体験を進んで語ります。郷里の父・弁吉が他界した年に、節子はカナダ出身の牧師ジム・サーローと結婚、カナダに移住します。子育てをしながら勉強を続け、トロント市教育委員会でソーシャルワークに従事しながら、カナダ初の原爆展、反核運動家の支援、軍縮・平和教育に奔走します。 そんななか節子は、反核医師たちを中心にオーストラリアで設立された「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)の活動家となり、世界中の若者と一緒に核兵器禁止条約を各国代表に訴えはじめます。節子85歳のとき、国連本部の条約交渉会議で「72年前に虐殺された数十万人の霊もここで見ている。彼らの死は無駄でなかったと思えるような交渉をしてほしい」と発言。122カ国・地域の賛成多数で条約が成立します。それを受けICANのノーベル平和賞受賞が決まると、節子はICAN国際運営委員の代表として受賞演説に登壇、2つの母国である日本とカナダはじめさらなる条約参加を訴えます。2023年被爆地・広島で開かれたG7サミットによる「広島ビジョン」に核兵器の非人道性や核兵器禁止条約への言及がなったことに、節子は厳しく批判しています。

-The International Campaign to Abolish Nuclear Weapons (ICAN) 

-中国新聞広島メディアセンター Chugoku News Hiroshima Media Center

-「ヒロシマへの誓い サーロー節子とともに」 "The ways to view The Vow From Hiroshima" 

「しっかり務めを全うせいや」
"Perform your duties diligently."

麻生イト(以登) 女史
Ms. Ito Aso
1876 - 1956
広島県尾道市長江 生誕
Born in Onomiti-city, Hirosima-ken

 麻生イト(以登)女史は、舎弟3000人芸子100名を率いる「男装の女親分」として名を馳せた女性実業家。明治から昭和前期に尾道市・因島で「麻生組」を興して、造船所への口入屋(=人材斡旋業)・船の解体業ならびに、船会社・造船会社の幹部はじめ政治家・文人を接待する料理旅館「麻生旅館」で財を成します。額の大きな刀傷と七三の短髪、黒い鉄砲袖の着物に角帯、夏にはパナマ帽がトレードマーク。
Ms. Ito Aso gained prominence as a female entrepreneur leading 3,000 apprentices and 100 geisha as the "Male-Attired Female Don". She emerged as a prominent figure from the Meiji to the early Showa period in Onomichi City and Innoshima, founding the "Aso Group." Specializing in brokerage for shipyards, ship dismantling, and running a catering inn called the "Aso Ryokan," she amassed wealth by entertaining executives from shipping companies, shipbuilding firms, as well as politicians and literati. Sporting a significant scar on her forehead, a distinct short hairstyle, and dressed in a black kimono with iron-hemmed sleeves and a hakama, she was recognized by her trademark Panama hat during the summer months.

「麻生組創業」
 尾道十四日町(現在の十四日元町から長江のあたり)で煙草屋・宿屋を営んでいた父・麻生林兵衛家と母ヒデの三女として誕生。小学校を卒業後、神戸に養女に出されます。その後、不明となった養母を捜し歩き、料亭の住み込み女中、トンネル工事の事務員として働きながら各地を転々として北海道まで渡ります。縁あって大阪方面に嫁いで娘を産むも、イト曰くまことにつまらない夫で別れます。27歳のイトは子供を連れて近代的な造船業で繁栄する因島へ移り住んで、小さな旅館をはじめます。旅館に出入りするたくさんの造船所関係の人達を世話をするうちに人脈を得たイトは「麻生組」を創業、大阪鉄工所(日立造船の前身)の造船下請け業務・造船所への口入屋(=人材斡旋業)・船の解体業に従事します。工場から要請が入ると、イトは組幹部を招集、資金を渡して各地へ派遣して人材を集めてこさせます。第一次世界大戦での大正バブルで島の造船業は最盛期を迎え、大阪鉄工所因島工場の造船量は全国一に、位麻生組の扱う人数は数百人に膨れあがり、イトを親分のように慕う舎弟は3千人にも及びます。背中に「イ」文字10個で丸く囲んだ中央に「鐵(くろがね)」の一文字が鮮やかに映える麻生組の法被をまとった荒くれ者達をイトはよく面倒をみながら束ねます。続いて、大阪鉄工所の初代工場長の厚い信頼を受けたイトは、島ではじめて船主らをもてなす料理旅館「麻生旅館」を開業して繁盛させます。10室以上の部屋はいつも満室、芸子は100人を超え、進水式は続き、船会社の幹部と造船所の幹部たちの宴会が続きます。手腕が広く認められ、憲政の神様と言われる尾崎行雄・人情大臣と呼ばれる望月圭介はじめ政界人、ならびに俳句革新運動を主導する河東碧梧桐・新進女流作家の林芙美子はじめ文化人達、日本海員組合創設者・濱田国太郎はじめ労働運動家など幅広く親交を育みます。大阪鉄工所の迎賓館として村上水軍の本城・長崎城跡地に城山倶楽部(現在のホテルナティーク城山)の経営も手掛けます。

「男装の女親分」
 1917年(大正6年)1月16日付『中国新聞』「女侠客殺し(未遂)」にイトの記事が出ます。ある日、監獄を出たばかりの昔の輩下がイトを訪ねてきて口論になります。電気工事の代金支払いを巡るトラブルがこじれ、油断したイトはこの元電気職工に日本刀と短刀で襲われ、頭をざっくり割られ背中と肩にも傷を負いながらひるむことなく押さえつけます。イトはこの職工のために減刑を請い、刑務所に差し入れをし、出所すると「しっかり務めを全うせいや」と身元引受人となって自分のところで使います。この職工はじめすべてのものがイトに心服、忠誠と誓って身を粉にして働きます。女の恰好では侮られると思ったイトは男装をはじめ、黒い鉄砲袖の着物に角帯、七三に分けた短髪、腰には煙草入れを差し、夏にはパナマ帽を被ります。頭には切りつけられた大きな刀傷、若い女を2・3人連れて、男の付き人に大きな土佐犬を曳かせて、時にはステッキで滅多打ちしながら現場を監督してまわり、「景気はどうの?」といって町中を挨拶してまわります。親分肌のイトの元には多くの人が集い商売は繁盛します。太平洋戦争に突入すると、因島の造船所に多数の学生が勤労動員として配置されてきます。イトは学生たちにご馳走したり面倒をよく見ます。今度は私財で、土生幼稚園(現尾道市立土生幼稚園)の開設、女子実業補習学校ならびに教育資金制度の創設、人工が急増した排水溝の整備に惜しみなく使います。そして因島の南対岸にあたる生名島に土地を買って、観音霊場・山道の整備、三秀園(現在の立石公園)の建設をして一大テーマパークをつくろうとします。晩年のイトは、身内ではなく見込んだシングルマザーに事業を譲り、自分は三秀園に移り住んで別荘の縁側でくつろいで「おじいちゃん」と声をかけてくる子供たちにお菓子・駄賃をくれてやりながら、観音菩薩への信仰と祈りの中で波乱万丈な生涯を閉じます。

—河東碧梧桐『山を水を人を』
「前額から後頭部にかけて、一文字に深い刀疵が・・・髪をジャン切りにして、筒袖に兵児帯。五尺にも足りない小柄ながら、少々四角ばった顔のイカツイ格好にそぐう目の威力が・・・(中略)ぞんざいな関西べらんめいの話しぶりにも耳をかしげる魅力がある。」

-林芙美子『小さい花』
-今東光『悪名』
-村上貢著『しまなみ人物伝』
-勝新太郎主演映画『悪名』シリーズ

-ナティーク城山
-ペーパームーン
-中国新聞

山口県 Yamaguti-Ken

「みんなちがって、みんないい」

"We are all different and all wonderful."


金子 みすゞ 女史

Ms. Misuzu Kaneko

1903 - 1930

山口県長門市仙崎 生誕

Bron in Nagato-city, Yamaguti-ken


金子みすゞ女史は女性童謡詩人の草分けです。彼女は詩作という自己表現だけでなく、彼女は幼い娘の親権を夫と争う中で、当時の家父長制度また親権制度を強い意志で拒絶しました。

Ms. Kaneko Mizusu is a pioneer among female children's song poets. Not only did she express herself through her poetry, but she also staunchly rejected the prevailing patriarchal and custody systems of her time while fighting for custody of her young daughter against her husband.

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「見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ」

 金子みすゞ、本名テルは山口県大津郡仙崎村(いまの長門市仙崎)で父・母・祖母・兄・弟の6人家族で育ちます。父・庄之助は下関の書店「上山文英堂」の清国営口支店長として中国で日本人最初の書店を切り盛りするも、みすゞが3歳のときに清国で不慮の死を遂げます。「おちゃん、おしえてよう」。兄・堅助は15歳で家督を継いで仙崎で唯一の本屋金子文英堂」をはじめ弟・正祐は、母の妹・フジの嫁ぎ先である下関の上山家に養子としてもらわれます。祖母・ウメから浄瑠璃の物語を聞かされながらテルは瀬戸崎尋常小学校1年から6年まで級長をつとめ、母・ミチと兄・堅助を手伝いながらテルは大津郡立大津高等女学校に入学。まもなく叔母・フジが病死すると母・ミチは下関の上山家の後妻となります。堅助が新刊本を持って学校まわりしている間、テルは祖母と一緒に店番に出て学校が終わって遊びに来る子どもの相手をします。「一つのものを見て、たくさんの言葉を考えるの。そして、その時その時で、一番ぴったりの言葉を見つけるの。そうすると楽しいよ」。やがて大きくなった弟・正祐が遊びに来るようになり、きょうだい3人で演劇・演奏会出かけたりラジオや蓄音機を聴きながら音楽また文学論議に花を咲かせます。兄・堅助テルの同級生・チウサと結婚すると、折り合いの悪いテルを母・ミチが下関に引き取ります。

きょうの私にさよならしましょ」

 20歳のテルは上山文英堂の支店の「商品館」の店番を任されます。関東大震災で奉公先から帰郷した弟・正祐と新劇鑑賞をしながら、競って雑誌への作品投稿を始めます。この頃、鈴木三重吉が創刊した雑誌『赤い鳥』から日本の童謡運動が興り、有名・無名の若手や児童を含む幅広い年齢層の人たちに創作の場を与えます。特に、北原白秋と西條八十が選んだ投稿者の中には作品が雑誌に連続して掲載された後に童謡集が出版され、童謡詩人としての地位を確立した人物も育ちます。テルも「金子みすゞ」というペンネームで童謡の投稿を始め百通以上の葉書を毎月のように出版社に送ります。「英のクリステイナ・ローゼツテイ女史に遜らぬ華やかな幻想」童謡作家・西條八十に絶賛され、テルの作品は次々と八十が主宰する雑誌『童話』を中心に掲載されます。テルは筆まめに八十へは勿論のこと投稿仲間にも長文の手紙を書き続けますが、やがて八十がフランスに留学するとテルの作品はあまり掲載されなくなります。落ち込んで寝込むテルを励まそうと弟・正祐は同級生を集めて「童謡の夕べ」を開催、『赤い鳥』に採用された楽曲を自ら演奏、テルに雑誌に掲載された童謡を朗読させます。一方、叔父・松蔵正祐が成人するまでの店長代理として上山文英堂の番頭格・宮本啓喜を抜擢、ゆくゆくのれん分けを約束して23歳のテルとの縁談を進めます。啓喜は継母との折り合い悪く小学校卒業前に熊本人吉から博多へ出て独学で商売を学んだ苦労人、丈夫で商才も根性もある芝居好きの飄々とした笑顔の美男子でテルも気に入ります。2人は上山文英堂の二階で新婚生活を始めます。

「明るい方へ明るい方へ」

 弟・正祐は声楽家になりたいと家出、戻ってからは遊郭に通い始め、縁談は次々と断られ、やがて映画・演劇の仕事を求めて上京。テルは映画・演劇雑誌の編集者・古川緑波に推薦状を送って弟の就職を後方援護します。夫・啓喜は商売熱心ながら、正祐を溺愛する叔父に冷遇され、まもなく上山文英堂を追われます。妊娠中のテルは夫に従って借家に移り、長女ふさえを出産。夫・啓喜は食料玩具問屋「辰巳屋」を始め、子供の駄菓子や玩具を大阪の玩具商から買い付け、警察の取り締まりの厳しいくじ付き駄菓子も扱って、山口県内はもとより九州各地の仲買に卸し、商売を軌道に乗せます。ところがテルは夫の商売を快く思わず、店を手伝うことなく家事と育児の合間に詩を作り、商品を拠点に童謡仲間と文通のやりとりを続けます。その頃、帰国した西條八十が雑誌『愛誦』を創刊、テルは再び熱心に作品を投稿し始めます。八十の強い推薦のおかげで「童謡詩人会」の入会が認められ、金子みすゞは与謝野晶子に次いで女性童謡詩人となります。さらに、ふさえをおぶって、九州へ講演に赴く西條 八十に下関駅まで会いに行き、詩集出版の協力を取り付けます。「お目にかかりたさに、山を越えてまいりました」。一方、妻の理解を得られない夫・啓喜は陰気になり遊郭通いで家に寄り付かず生活は困窮、テルは「放蕩無頼の人」と軽蔑します。テルは詩集を完成するも夫に移された淋病が悪化、27歳の時に離婚を決意してふさえを連れて上山文英堂に移ります。夫・啓喜は離婚には応じたもののふさえを引き取ってもう一度立ち上がりたいと手紙で懇願するも、テルは断固拒否して枕元に遺書3通と詩集2部を残し、睡眠薬を飲みます。夫には「あなたがふうちゃんに与えられるのはお金であって、心の糧ではありません。」ミチには「ふうちゃんのことをよろしくお願いします」、正祐には「さらば、われらの選手、勇ましくいけ」。テルの詩集は一部は西条八十に送られ、もう一部は弟・正祐に遺されます。ふさえは後々に啓喜の元から嫁ぎます。

-金子みすゞ記念館 Kaneko Misuzu memorial Museum

徳島県 Tokushima-Ken

瀬戸内 寂聴 女史

Ms. Jyakucho Setouchi

1922 - 2021

徳島県徳島市塀裏町 生誕

Born in Tokushima-city, Tokushima-ken

「あなたを応援する人も世の中にいることを知らせたい」

"I want to let you know that there are people out there who support you."

瀬戸内寂聴は日本初のベストセラー尼僧作家です。不倫・駆け落ち・三角関係の官能私小説を発表ポルノ小説家また子宮作家と批判を受けるも昭和・平成・令和の幅広い年代の女性から支持を受ける女流人気作家です

Setouchi Jyakucho is Japan's first bestselling nun-author. She has published semi-autobiographical erotic novels involving extramarital affairs, elopement, and triangular relationships. While facing criticism as a "pornography writer" and a "uterus writer," she remains a popular female writer who receives support from women across a wide range of generations spanning the Showa, Heisei, and Reiwa eras.

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 瀬戸内寂聴(本名 晴美)は徳島県徳島市塀裏町(現・幸町)の仏壇店を営む両親のもと生まれます。幼少期は体が弱い文学少女で、物語を想像して自身を楽しませます。徳島高等女学校卒業後、東京女子大学に進学。在学中20歳で同郷の国立北京大学助教授の酒井悌氏と見合い結婚、翌年北京に移り娘を出産します。終戦後、親子3人で徳島に引き揚げ、夫の教え子の文学青年と不倫、夫に打ち明けるも一家3人で上京します。26歳のとき夫と3歳の長女を棄て、不倫相手と京都で生活を始めます。大翠書院などに勤めながら、大学の女先輩を介して、初めて書いた小説「ピグマリオンの恋」を評論家の福田恆存氏に送ります。「モノになるとも言えない、ならないとも言えない」の評価になお精進します。正式に離婚、上京して本格的に小説家を目指します。『少女世界』・『ひまわり』に投稿した少女小説が掲載され、以後小学館また講談社で少女小説や童話を書きはじめます。作家の丹羽文雄氏が私費で若手作家を支える『文学者』に参加、同門下の作家で妻子持ちの小田仁二郎氏と同棲を始めます。34歳で処女作「痛い靴」を『文学者』で発表、翌年「女子大生・曲愛玲」で新潮同人雑誌賞を受賞。不倫関係また駆け落ちを描いた私小説『花芯』を講談社で発表後、ポルノ小説家また子宮作家と批判を受けてから『講談倶楽部』『婦人公論』など大衆雑誌で作品を発表。39歳のとき同人誌『無名誌』で連載した『田村俊子』で田村敏子賞受賞、新潮社に発表した不倫関係また三角関係を描いた私小説『夏の終り』で女流文学賞を受賞、作家としての地位を確立。作家で妻子持ちの井上光晴氏と不倫を始めます。51歳で出家、今春聴大僧正を師僧として中尊寺にて天台宗で得度。以後、死刑囚・麻薬中毒者・小保方晴子女史など社会から非難される人と説教的に交流、悩める人に寄り添い亡くなる直前まで法話また執筆を続けます。

-徳島県立文学書道館 Tokushima Prefectural Museum of Literature and Calligraphy

-徳島新聞 Tokushima News

香川県 Kagawa-Ken

齋賀 富美子 女史

Ms. Fumiko Saiga

日本初の国際刑事裁判所判事・女性初の国連大使

Ms. Fumiko Saiga

1943 - 2009 

香川県丸亀市 生誕

Born in Marukame-city, kagawa-ken

齋賀富美子女史は日本初の国際刑事裁判所判事・女性初の国連大使です。外交官として人権・人道・ジェンダー分野の国際法実務に携わってきた第一人者、日本の人権外交の先駆者です。

Ms. Fumiko Saiga is the first Japanese judge at the International Criminal Court and also the first female UN Ambassador. She is a leading expert in the field of human rights, humanitarian issues, and gender in international law. She is considered a pioneer in Japan's human rights diplomacy. 

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 齋賀富美子女史は東京外国語大学英米語学科卒業(文学士)。1966年外務省入省後、外交官として長年にわたり人権・人道・ジェンダー分野の業務を担当します。国連女子差別撤廃委員会(CEDAW)委員、ノルウェー兼アイスランド特命全権大使、国際連合政府代表部大使等を歴任。2005年北朝鮮による日本人拉致事件などの人権問題を専門的に扱うために新設された日本国初の「人権担当大使」に任命されます。彼女は、担当業務を通じて国際法また国際刑法・刑事訴訟法に関する知見を高めました。世界に日本の人権外交のありようを示す新しい取り組みが評価され、2007年国際刑事裁判所(ICC)裁判官補欠選挙にて5候補中トップで当選、日本人初かつアジア初の国際刑事裁判所裁判官となります。国際刑事裁判所の予審裁判部、捜査開始の可否について審査・判断、また捜査の中止を判断する部著に配属されコンゴ民主共和国での戦争犯罪の捜査を担当します。2009年国連本部で行なわれたICC裁判官通常選挙で当選し再選するも、任期半ばオランダ王国のハーグにて急な発病で65歳で死去。

-国際刑事裁判所 International Criminal Court

-外務省 Ministry of Foreign Affairs

保井 コノ 女史

Ms. Yasui Kono

1880 - 1971 

香川県東かがわ市 生誕

Born in Higashikagawa-city, Kagawa-ken

「見なくていいものは見ないでおきなさい」

"Don't look at things you don't need to see."

保井コノ女史は日本初の女性理学博士です。動物学や植物学や石炭の研究を行い、日本国内ならびに海外の専門誌に掲載される日本女性初の科学論文を発表しました。さらに細胞学専門誌『Cytologia』の創刊に携わりながら、お茶の水子大学の設立に奔走しました。

Ms. Yasui Kono is the first female Doctor of Science in Japan. She conducted research in zoology, botany, and coal studies, and published the first scientific paper by a Japanese woman in both domestic and overseas specialized journals. Furthermore, she played a role in the establishment of Ochanomizu University while being involved in the launch of the specialized journal in cell biology, "Cytologia." 

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 コノは、東京女子高等師範学校に新設された当時日本で唯一の理科に進学し、国費であった学費を返済するために教員になります。この時、高等女学校向けの物理学の教科書を執筆しましたが女性という理由で文部省の検定が許可されませんでした。母校の官費研究科に合格、岩川友太郎教授のもと最初の論文「鯉のウェーベル氏器官について」を『動物学雑誌』に発表。続いて三宅驥一教授のもと「山椒藻の生活史」をイギリスの学術雑誌『Annals of Bottany』に発表。さらに結婚しないで生涯研究を続けるという制約ならびに「家事研究」という追加目的のもと、アメリカのシカゴ大学さらにハーバード大学に留学して「柿の細胞学的研究」「日本産石炭の植物学的研究」としてまとめました。帰国後は藤井健次郎教授のもと東京帝国大学理学部植物学科遺伝学の嘱託研究員として実験を担当しました。木原均博士により文化勲章に推薦されますが、女性科学者の前例はないという理由で却下されました。彼女は、女性が教師の他にも指導者として働けるように母校を女子の国立大学として存続させるべく運動しました。

-お茶の水女子大学歴史資料館 Ochanomizu University History Museum

愛媛県  Ehime-Ken

「『お嬢さんの過ぎたる道楽』ではなく一人前の飛行家になりたいのです」

"I don't want to indulge in frivolous pursuits, but I want to become a fully-fledged aviator."


兵頭 精 女史

Ms. Tadashi Hyodo 

1899 - 1980 

愛媛県北宇和郡鬼北町 生誕

Born in Uwa-gun, Kihoku-mati, Ehime-ken

兵頭精女史は日本女性初の飛行家です。三等飛行機操縦士として飛行競技会などで活躍するも、マスコミの好奇の的となり恋愛スキャンダル記事によりまもなく引退しました。
Ms. Tadashi Hyodo is the first Japanese woman aviator. While active in flying competitions as a third-class airplane pilot, she soon became the focus of media curiosity and retired shortly after due to articles about a love scandal.
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『新しい時代を担う自由な女』
 精は10歳のときに亡くなった父親が描き残した飛行機の設計図を見つけてからパイロットを志します。父親が書き残した飛行機の研究書物を読みあさります。同郷の飛行機研究家・二宮忠八の逸話も精を勇気付けます。さらに、松山市の済美高等女学校(現・済美高等学校)在学中の1916年、来日した米国人女性パイロットのキャサリン・スティンソンの夜間飛行や宙返り、空中に黄煙で文字を書く華麗な曲芸飛行に精は夢中になります。卒業後は、嫁ぐことを断固拒否、日本飛行学校の講義録を読みあさります。困り果てた周囲から医師や教師を勧められ看護師の見習いに大阪に出ます。精は1年足らずで、民間飛行家らが集う日本初の民間飛行場のある千葉県稲毛海岸を目指して上京します。
『飛んでる女の恋愛スキャンダル』
 精は姉・カゾエに頼み込んで資金援助と同郷の弁護士・富田数男の保証人を得て、20歳のときに伊藤音次郎の飛行学校に入学を果たします。大卒初任給の4倍もの高額な訓練費用を工面するため通常半年の教習コースを3年半かけて修了します。男性に混じって飛行機の整備・学科・操縦に励みながら、滑空中の墜落事故・海上不時着水、また流産を経て、23歳のときに三等飛行機操縦士免状を取得。当時の女性が受験できる二等また三等飛行機操縦士は、自家用機で飛行場周辺の操縦を許可するものでした。精は早速、帝国飛行協会主催の三等飛行機操縦士飛行競技に参加、スピード種目15人中10位で今までの訓練費用の倍の賞金を獲得します。プロ飛行士として活躍する目前、富田数男との恋愛スキャンダルならびに飛行学校からの除名処分が報道されます。精は何より飛ぶことを優先させようとしましたが、間もなく航空界から身を引き二度と飛ぶことはありませんでした。

-愛媛県人物博物館 Ehime Prefecture People Museum 

-日本航空協会 JAPAN AERONAUTIC ASSOCIATION

「STAP細胞研究の進展がいつか正当に科学論文の最前線に戻り、私たち全員が恩恵を受けるようになること、私の心からの願いです。」
"It is my sincere wish that STAP cell progress research will someday rightfully return to the forefront of scientific publications, so that we all may benefit."

小保方 晴子 女史
Ms. Hruko Obokata
1983 -
千葉県松戸市 出身
Born in Matsudo-city, Tiba-ken

小保方晴子女史は世界で初めてSTAP細胞(STAP Cells)を発見した女性科学者です。刺激惹起性多能性獲得(Stimulus-Triggered Acquisition of Pluripotency)は世界中の研究者らを驚かせながらも、数か月のうちに論文の不正をインターネットの科学コミュニティで指摘され、のちに特に日本のマスメディアで不当にバッシングされ、十分な検証実験の機会を与えられることなく1年足らずで博士号取り消し・理化学研究所を退職に追い込まれました。
Ms. Haruko Obokata is the world's first female scientist to discover STAP cells. Her proposed Stimulus-Triggered Acquisition of Pluripotency surprised researchers around the world, but within a few months, fraud in the paper was pointed out on the Internet Science Community, and later, especially She was unfairly bashed in the Japanese mass media, and was forced to have his doctoral degree revoked and resigned from RIKEN in less than a year without being given a sufficient opportunity to conduct verification experiments.

「再生医療への道」 
 晴子は会社員の父親と心理学者の母親のもと、幼い頃から研究者を志し、特に再生医療に強い興味を持ちます。「創成入試(Admissions Office入試)」(現在の特別選抜入試)により早稲田大学理学部応用化学科に入学。「子宮を病気でなくして出産できなくなった人を救えるような技術を開発したい」再生医療研究への意欲を語ります。常田聡教授の指導のもとバクテリアを分離培養する開発方法に取り組みます。帝京平成大学学科長を務める母親を介して、組織工学の研究・事業化に取り組む大和雅之教授ならびに岡野光夫教授の知遇を得た晴子は大学院では再生医療の研究に転身。早稲田大学と東京女子医科大学による日本初の共同大学院・先端生命医科学センター(TWIns)で、患者から採取した生きた細胞を培養・増殖させてシート状にしたものを患部に貼って治療に用いる「細胞シート」の研究に従事します。岡野光夫教授が設立して代表を務める株式会社セルシードから「細胞シート」資材の提供を受けながら、大和雅之教授の指導のもと、研究論文 "Subcutaneous transplantation of autologous oral mucosal epithelial cell sheets fabricated on temperature-responsive culture dishes" をまとめ 『Journal of Biomedical Materials』誌に発表。博士課程に進学するとともに「日本学術振興会特別研究員DC1」に選ばれ、月額20万円の研究奨励金を3年間支給され、年間150万円の科研費を獲得。さらに、文科省グローバルCOEプログラムで半年の短期語学留学として渡米。大和雅之教授の手配でハーバード大学医学大学院教授であるチャールズ・ヴァカンティ医師の下で働きはじめます。

「チャールズ・ヴァカンティ氏 x 組織工学」
 チャールズ・バカンティ教授はハーバード大学病院などで麻酔医師として勤務しながら、同じ医師の兄ジョセフ・バカンティ氏と一緒にいち早くティッシュ・エンジニアリング・ソサイティを設立、人工皮膚・人工骨・人工軟骨・人工心筋シートなど生体組織工学に関するたくさんの技術・特許を発表する一方、「胞子様細胞(Spore-like cells)という生物の成体に小さなサイズのごく少数の細胞が休眠状態で多能性細胞として存在する」という仮説を提唱。すっかり魅せられた晴子は、200本を超える文献を読み、「黄金の手」と呼ばれるほど研究室のあらゆる機械と方法を習得。初期化誘導遺伝子Oct4が働くと緑色蛍光タンパク質(GFP)が発現するよう遺伝子操作した生後1週間のOct4-GFPマウスから様々な組織を採取、ガラスの極細管に通して小型細胞を分離して培養する実験に取り組みます。あるとき培養中に塊ができることに気が付き、その中から緑色に光る塊を見つけます。繊細な作業を黙々とこなすうちに、「小さい細胞を取り出す操作をすると幹細胞が現れるのに、操作しないと見られない。幹細胞を取り出しているのではなく、操作によってできている」。晴子は興奮しながら様々な細胞に様々な方法で刺激を加える実験を繰り返して幹細胞が出現するかどうかを探ります。中でも、脾臓由来のリンパ球をガラスの極細管に通して取り出し、30分ほど弱酸性のアデノシン三リン酸(ATP、通称「細胞のエネルギー通貨」)溶液に浸して刺激を与えた後で培養を続けると、多くの細胞は酸の刺激で死んでしまう中、2日後から生き残った細胞(約25%程度)のなかに緑色に光る細胞(約30%程度)が安定して現れ始めます(全体の7~9%程度)。その細胞は元のリンパ球の半分程度に小さくなってお互いにくっつきながら、7日ぐらい経過すると数10個から数1000個の塊をつくるようになり、試験管のなかで環境を整えて培養すると確認神経・筋肉・腸管上皮など三胚葉のさまざまな組織の細胞に分化するのを確認します。晴子は同僚の小島宏司医師と一緒に検証実験を行い、STAP細胞の原型を作り出すことに成功します。マウスの生体内に移植して多能性の強力な証明であるさまざまな組織を含む奇形種・テラトーマを形成させます。バカンティ医師の希望によって半年の留学期間は1年6ヶ月にも及びます。「感性が鋭く、新しいことにどんどん取り組むハルコがいなかったら、この研究は達成できなかった。」

「若山 照彦 氏 x 体細胞クローン技術 」
 帰国した晴子は、晴子は研究論文 "The potential of stem cells in adult tissues representative of the three germ layers" にまとめ上げ、2年ごしで『Tissue Engineering 誌』に発表。早稲田大学にも博士論文として提出して工学博士を取得します。晴子はSTAP細胞の万能性(多機能性)を証明するために、大和雅之教授、常田聡教授、小島宏司医師と一緒に神戸市にある理化学研究所の発生・再生科学総合研究センター(CDB)を訪ね、マイクロマニピュレータの名手で世界で初めてクローンマウスを作製した若山照彦教授に実験協力を求めます「STAP細胞由来のキメラマウスを作ってほしい」。「私はそういう不可能な実験が好きです。」それからの晴子は、アメリカのハーバード大学にポスドクとして在籍しつつ、東京の東京女子医科大学・大和研究室と神戸の理研CDB若山研究室を新幹線で往復しながら、若山研究提供のマウスからSTAP細胞を作っては、若山研究室に運びこんでキメラマウスづくりに挑戦する日々が続きます。晴子はキメラマウスづくりの技術習得を希望しますが、「嫌だ。ノウハウを教えたら僕達を頼ってくれなくなる」。約2年間、晴子は失敗すればするほどさらに膨大な実験を積み重ね失敗の原因を突き詰め、次の作戦を持って行きます。「次は絶対いけますので、実験、御願いします!」若山氏も試行錯誤しながらSTAP細胞20個ほどの小さな塊を慎重にマウス受精卵に注入、仮親マウスの子宮に移植して20日後、帝王切開すると緑色に光る胎児と胎盤に「おおっ!」みんなで歓声をあげます。胎盤組織に分化しないES細胞・iPS細胞の多機能性を超えた証明に、晴子は泣いて喜びます。しかし、あるときキメラが異常な兆候を示し晴子が分析しようとすると、若山氏は「母ネズミが子ネズミを食べたことにしましょう」と言ってそのデータを破棄します。やがて若山氏は、増殖能を備えたSTAP幹細胞(STAP─SC)の樹立が不可欠であると主張し始めます。まもなく、晴子から渡された細胞の一部を採取し特殊培養液で細胞の増殖に成功させた若山氏は、驚く晴子に幹細胞株の特許収益を51%を自分に、39%を晴子に、バカンティ氏と小島氏にそれぞれ5%を分配することを提案します。晴子は何度試してもSTAP細胞株を作成できず、自分で作り方が分からない幹細胞株の研究に抵抗しますが、若山氏は晴子にSTAP細胞株の研究の手伝いをするよう強制します。そして若山氏は晴子の指導のもとで脾臓からSTAP細胞を作る技術を習得すると、山梨大学に教授として招聘されます。

「笹井 芳樹 氏 x ES細胞(胚性幹細胞)」
 晴子は早速「ネイチャー」「セル」「サイエンス」といった科学雑誌に論文(共著者:チャールズ・バカンティ医師、マーティン・バカンティ医師、若山照彦教授、大和雅之教授、小島宏司医師など)を投稿するも、「あなたの論文は過去何百年にもわたる細胞生物学の歴史を愚弄している。」、3誌とも査読者にリジェクトされます。自信を失いつつあった晴子は、山梨大学に移動が決まった若山教授から報告を受けた理化学研究所の発生・再生科学総合研究センター(CDB)の竹市雅俊センター長ならびに西川伸一副センター長から非公式に研究ユニットリーダー(研究室主宰者)応募の打診を受けます。山中伸弥教授のノーベル賞受賞の興奮が冷めやらぬさなか、晴子はCDB人事委員会による面接に臨みます。「STAP細胞は必ず人の役に立つ技術です」。研究ユニットリーダーとして5年契約で給与とは別に総額1億円の研究予算と実験棟が与えられます。さらに晴子は、半世紀にわたる発生学の謎である神経誘導因子「コーディン」を解明し、ES細胞から神経細胞・視床下部・脳下垂体・網膜の形成を成功させた気鋭の研究者である新CDB副センター長・笹井芳樹氏との知遇を得て、論文投稿ならびに国際特許出願のためのサポートを得られることとなります。晴子の論文を読んだ笹井氏は「まるで火星人の論文だ」。笹井氏ならびに丹羽仁史プロジェクトリーダーの実験指導のもと論文を修正するため、晴子は両研究室メンバーと一緒にライブ・セル・イメージング(顕微鏡下での細胞の自動録画)を実施。分散したリンパ球から万能性遺伝子が活性化して細胞が緑に光り始め、やがて塊を作っていく様子に「おおっ!」「驚くほど高頻度に(変化する細胞が)出現し、感動的だ」歓声が上がります。「STAP細胞(刺激惹起性多能性獲得細胞)」と命名、 "Stimulus-triggered fate conversion of somatic cells into pluripotency" 、"Bidirectional developmental potential in reprogrammed cells with acquired pluripotency" にまとめネイチャー誌に再投稿します。穏やかなストレス要因であるATPをより刺激の強い塩酸に置き換えた改訂プロトコルを組み込み、若山氏の作成した幹細胞株について説明した別の論文も加えられます。続いて国際特許 ”GENERATING PLURIPOTENT CELLS DE NOVO” を出願。厳重にデータ管理しながら、ネイチャー誌からの厳しいコメントや追加データの要求をクリアするために、膨大な追加実験を積み重ねること1年弱、ようやく『ネイチャー』誌に論文が採択されます。

「山中伸弥教授 x iPS細胞(人工多能性幹細胞 )」
 2014年1月28日神戸市ポートアイランドにある理化学研究所の発生・再生科学総合研究センター(CDB)の記者会見会場に、新聞・テレビ16社から約50人の記者やカメラマンが集まります。晴子はCDB副センター長・笹井 芳樹氏教授ならびに山梨大学に移動した若山照彦教授と共に臨みます。「体細胞の分化状態の記憶を消去し初期化する原理を発⾒」「細胞外刺激による細胞ストレスが⾼効率に万能細胞を誘導」晴子は、新たな生物学的メカニズムの発見と新規の医療技術の開拓に貢献すると強調します。「細胞核の情報の自在な消去・書き換えを可能とする革新的技術。細胞の分化状態を自在に操作できるようになる」「例えば、生体内での臓器再生脳力の獲得・がんの抑制技術・細胞老化からの解放(若返り)などが可能になる」。翌日から日本のメディアは異様な盛り上がりを見せます。「万能細胞 祖母のかっぽう着姿で実験」「泣き明かした夜も STAP細胞作製の30歳女性研究者」「「間違い」と言われ夜通し泣き、デート中も研究忘れず」「論文一時は却下…かっぽう着の「リケジョ」快挙」「研究室の壁紙はピンク色・黄色、あちこちにムーミングッズ」「お風呂でもデートでも四六時中研究のことを考え」「記者会見にはヴィヴィアン・ウエストウッドの指輪」。一方、 iPS細胞(人工多能性幹細胞 )を発見した山中教授から晴子は呼び出しを受け薫陶を受けます。「iPS細胞が8年前に生まれた時、「こりゃすごい。”小学校一年生”で遠投百メートル投げるものすごい子供がいる」、今度は「”小学校一年生”で時速100キロで投げるやつがいる。また驚いた」。心から誇りに思っています。すごい素質をもった”小学生”をどう育て、どう順調に記録を伸ばしていくか。これがとても大切。」

「ストレステスト1 メディアバッシング」
 STAP論文の発表は世界中の研究者に衝撃を与え、2週間も経たないうちに科学論文のオンライン・フォーラム『PubPeer』から「論文掲載画像の重複と切り貼りがある」、他の幹細胞研究室からは「再現できない」と報告が相次ぎます。『ネイチャー』誌ならびに理化学研究所で調査が始まると、晴子はじめ日本人論文共著者らのもとに若山氏から「STAP論文撤回」を提案するメールが届き衝撃が走ります。同時にNHKのトップニュースで「研究データに重大な問題が見つかり、STAP細胞が存在するのか確信がなくなった」と若山氏が独断でインタビューに応じます。すぐに晴子は若山氏に話し合いを求めて電話をかけるも電話に出てもらえず、笹井氏も取り合ってもらえず、丹羽氏は山梨まで出向きます。「STAP細胞疑惑 理研の“勇み足”と追い込まれた「リケジョの星」」「唯一の味方ハーバード大教授も怪しい実績!捏造にリーチ!「小保方博士」は実験ノートもなかった!」「乱倫研究室」「「リケジョの星」転落全真相 小保方晴子さんを踊らせた“ケビン・コスナー上司”の寵愛」「STAP細胞「小保方晴子」高校時代は中の中でちょっとイタい子!」「一途なリケジョ”小保方晴子さんの初恋と研究」。晴子はNHK記者に突撃取材で女子トイレまで執拗に追い回され、転倒させられ全治2週間のケガまで負います。新聞社・テレビ局・週刊誌など記者らが晴子の携帯電話はじめ自宅マンションのインターホンを連日鳴らします。笹井氏のもとには「返事をしなければこのまま報じますよ」という脅迫めいた取材メールの対応に連日追われ研究ができなくなります。

「ストレステスト2 NHK偏向報道」
 理化学研究所の調査委員会の発足により、晴子はじめ笹井氏・丹羽氏はサンプルに触れることも禁じられます。一方、調査対象のサンプルを作製し保存していた若山氏本人は自由にサンプルを再解析し、山梨大学から自分の意見を社会に向けて発言し始めます。「若山研究室に保存してあるSTAP細胞株を第3者に簡易遺伝子解析したもらったところ、若山研究室がSTAP細胞を作るために小保方氏に提供したマウスとは系統が異なることが判明した。」「STAP細胞とされてきた物が別の万能細胞である「ES細胞」だと考えると説明しやすい。」まもなく『NHKスペシャル/調査報告/STAP細胞不正の深層』(2014年7月27日)に理化学研究所の遠藤高帆研究員が登場「小保方のSTAP細胞にはアクロシンGFPという遺伝子が組み込まれている。」、続いて若山氏が登場「理研にいたときに若山研究室の留学生がアクロシンGFPを組み込んだES細胞を作製していた」、そしてそのES細胞が晴子の理研研究室の冷凍庫から見つかったイメージ映像が流され、さらにその元留学生が匿名で証言「何でそれが小保方氏の研究室に在るのか考えられない。」。続いて、理化学研究所OB石川智久氏が「ES細胞を盗まれた」として晴子を兵庫県警に刑事告発します。「小保方元研究員は名声や安定した収入を得るために、STAP論文共著者の若山照彦教授の研究室からES細胞を盗み、STAP論文をねつ造改ざんした」。

「ストレステスト3 記者会見」 
 晴子は弁護士と共に反論会見を開きます。「STAP細胞は捏造」という前提に立つヒステリックな報道記者達の質問に、「論文の提示法について、不勉強で自己流にやってしまったのは申し訳ございませんとしか言いようがない。」「研究室ではES細胞のコンタミ(混入)は起こり得ない状況を確保していた。」「ライブ・セル・イメージングで光ってないものが OCT4 陽性になってくる。そして、その光が自家蛍光でないことも(研究チームで)確認している。」「現在あるSTAP幹細胞は、すべて若山先生が樹立されたもの。若山先生の理解と異なる結果を得たことの原因が、私の作為的な行為によるもののように報道されていることは残念でならない。」一週間後、笹井芳樹理研CDB副センター長の記者会見が開催されます。STAP現象の場合の反証仮説①「ES細胞の混入」と②「自家蛍光現象の見間違い」を挙げ、①「ライブ・セル・イメージング」と②「FACS」装置で検証済みであると答えます。さらに、STAP細胞はES細胞と形状も性質もが異なるので専門家が見ればその違いが分かると指摘。そのうえで「STAP現象は有力な仮説であるといえる。それを前提にしないと、説明できないことがある。有望ではあるが、仮説に戻して検証し直す必要がある。」と結論付けます。「小保方さんは、たしかに実験面での天才性と、それに不釣り合いな非実験面の未熟さ・不注意が混在したと思います。かといって、研究を良心的に進めていたことを否定するのは、アンフェアであると思います。」晴子はじめ若手研究者を育てる必要性を主張します。

「ストレステスト4 検証実験」
 調査委員会の一方的な調査結果に対して晴子は不服申し立てを行い、2014年4月1日相澤慎一特任顧問の下でSTAP細胞の検証実験が晴子を除いて実施されます。さらなる晴子の不服申し立てにより、文科省の『研究不正に関するガイドライン』が示され、7月から晴子も検証実験の参加を認められます。11月末日を期限に、あらかじめ研究不正再発防止改革推進本部が指名した者の立ち会いの下で、論文に書ききれない実験のコツ・こだわりなどについて一切認められない厳しい制約のもと実施されます。検証実験は①マウスの脾臓のリンパ球からSTAP細胞を作り、②そのSTAP細胞からSTAP幹細胞とキメラマウスを作製します。①を晴子と発生・再生科学総合研究センター(CDB)丹羽仁史チームリーダーが別々に担当、②を検証実験への参加を拒否するキメラづくりの名手・若山氏の代わりに、ライフサイエンス技術基礎研究センターユニットリーダー・清成寛研究員が代わりに担当します。晴子は、24時間のビデオ監視の下、壁にあった小さな釘穴さえも埋められた部屋で、ポケットのない服を着させられ、監視員にエプロンを毎日締めつけられ、試薬瓶を自由に手に取ることもできず、作成したSTAP細胞を自分で解析することも許されず、実験がうまくいったかどうかさえ分からず、犯罪者のように扱われながら毎日同じ作業を繰り返し行います。満足のいく結果が得られないまま数カ月が経過、健康状態も悪化していきます。【◎晴子による検証結果:弱塩酸処理を行った場合の多くにSTAP様細胞塊が形成されることを確認。出現数は論文よりも少ないものの、緑色・赤色蛍光顕微鏡・定量 PCR法・免疫染色によ多機能性マーカー遺伝子の発現を確認。◎ 丹羽氏による検証結果:酸処理を行った細胞を培養すると特異的に細胞塊が出現、FACS解析においてOct3/4-GFP 遺伝子発現に由来する特異的な緑色蛍光を発する細胞の存在をごく少数確認。肝臓由来の細胞をATP処理するとSTAP様細胞塊の出現を優位に確認、定量PCR法・免疫染色法によりOct3/4の優位な発現を確認。 ◎清成寛研究員による検証結果:STAP細胞株の樹立・ならびにキメラマウス形成は得られなかった。】

「STAP HOPE」
 2014年12月19日に情報システム研究機構理事で国立遺伝学研究所長でもある桂勲調査委員長は記者会見を開き「STAP現象を再現できなかった」「STAP幹細胞は残存試料を調べた限りでは、すべて(若山研究室が保有する)既存のES細胞に由来していた。STAP細胞からつくったキメラマウス、テラトーマ組織もその可能性が非常に高い。故意か過失か、だれが行ったかは決定できない。」検証実験の打ち切りを発表。しかしながら、ある記者の質問に桂委員長は答えます。「ES細胞からキメラマウスを作り、そこからSTAP細胞を作れば、かなり似たものができる(元のES細胞の遺伝子とほぼ一致する)。」さらに記者の質問に桂委員長が答えます。「不思議です。STAP細胞ができたというのは、小保方氏以外で操作してできたというのは、我々の確認している限りでは、この若山氏の1回だけです。」続いて2か月後、理化学研究所の野依良治理事長が記者会見で「論文の取り下げを(著者らに)勧告する」と発表します。晴子は「体細胞が多機能性マーカー遺伝子を発現する細胞に変化する現象」という未知の現象は確認され間違いがないと主張するも、STAP研究費用のうち論文投稿費用60万円のみ支払いに応じ、論文撤回に同意、理化学研究所を退所します。晴子はアメリカ『ニューズウィーク』誌のインタビューに答えます。「私はスケープゴートにされた。日本のメディアはすべて、若山先生が犠牲者で、私がまったくの極悪人と断定した。」「ほとんどの人がこの話を信じています。なぜなら、これは日本人にとって最も単純で、興味深く、楽しい話だからです。」

-文部省『研究活動における不正行為への対応等に 関するガイドライン』
-理化学研究所STAP細胞に関する情報・取り組み
-STAP HOPE PAGE

STAP論文共著者の主要インタビュー
-Interview with Dr. Teru Wakayama on STAP stem cells
-"Stress Test" The New Yorker 21th Feb.2016

STAP細胞論文
-"The potential of stem cells in adult tissues representative of the three germ layers"
(共著者:中島宏司、カレン・ウェスターマン、大和雅之、岡野光夫、常田聡、チャールズ・A・バカンティ)
-"Stimulus-triggered fate conversion of somatic cells into pluripotency" Nature vol505, p641–647 (2014)
(共著者:小島宏司、マーティン・A・バカンティ、丹羽仁史、大和雅之、マーティン・A・バカンティ)
-"Bidirectional developmental potential in reprogrammed cells with acquired pluripotency" Nature vol 505, p676–680 (2014)
(共著者:笹井芳樹、丹羽仁史、門田満隆、ムナザ・アンドラビ、高田望、野老美紀子、小島宏司、マーティン・A・バカンティ、大和雅之、寺下愉加里、米村重信 、チャールズ・A・バカンティ、若山照彦)。

STAP細胞特許
-“Generating pluripotent cells de novo WO 2013163296 A1"
(出願人:ブリガム・アンド・ウィメンズ病院 / 発明者:チャールズ・バカンティ、マーティン・バカンティ、小島宏司、小保方晴子、若山照彦、笹井芳樹、大和雅之)
-"Methods relating to pluripotent cells"
(出願人:Vセル・セラピューティック / 発明者:チャールズ・バカンティ、小島宏司)

STAP事件関連書籍
-『あの日』(小保方晴子著 / 中央公論新社2018)
-『小保方晴子日記』(小保方晴子著 / 講談社2016)

STAP細胞類似研究
-"Modified STAP conditions facilitate bivalent fate decision between pluripotency and apoptosis in Jurkat T-lymphocytes"
-"Characterization of an Injury Induced Population of Muscle-Derived Stem Cell-Like Cells"
-Kuroda, Y. et al. Unique multipotent cells in adult human mesenchymal cell populations. Proc Natl Acad Sci U S A 107, 8639-8643, (2010).
-Wakao, S. et al. Multilineage-differentiating stress-enduring (Muse) cells are a primary source of induced pluripotent stem cells in human fibroblasts. Proc Natl Acad Sci U S A 108, 9875-9880 (2011).

高知県 Kochi-Ken

田内 千鶴子 女史

Ms. Chizuko Tanume

1912 - 1968 

高知県高知市若松 生誕

Born in Kochi-city, Kochi-ken

「子供たちに笑顔を取り戻したい」

"I want to bring back smiles to the children." 

田内千鶴子は韓国で孤児救済のために生涯をかけ、日本人で初めて韓国文化勲章国民章を受章しました。

Chizuko Tauchi was awarded the National Medal of the Korean Order of Culture for Japanese Speech for the relief of orphans in South Korea.

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千鶴子は7歳のとき、朝鮮総督府官吏として先に赴いた父に呼ばれ、母と高知市の生家から木浦市に赴きます。音楽を学んで韓国の高等女学校に進むが、17歳のときに父親は病死。助産婦をする母の稼ぎで暮らし、卒業後はミッションスクールの音楽教師となります。24歳のとき、女学校の恩師・高尾益太郎に頼まれ、「乞食大将」と呼ばれた韓国人キリスト教伝道師・尹致浩(ユンチホ)さんが50人ほどの幼い孤児たちと暮らす「共生園」へ、日本語と音楽を教える奉仕に赴きます。翌年、日本人また韓国人の激しい罵倒のなかで2人は結婚式をあげます。電気もガスもなく、障子もふすまもないがらんどうの30畳ほどの部屋一つ、夜は穀物を入れる袋を敷いて雑魚寝、子供たちは服もろくになくはだし。千鶴子は毎日三度、規則正しく食事をする習慣から教え始め、食前のあいさつ、顔や手を洗うことを教えます。物乞いもして食べ物を集める傍ら、夫妻は改修の資金や食費の寄付を仰いで駆け回ります。日本の敗戦で身の危険が及ぶ中、千鶴子は独立によって復権した現地の朝鮮語を覚え、チマ・チョゴリを着て、夫の名字を取って尹千鶴子(ユンハクチャ)を名乗ります。ある日、夫の外出中に刃物や棒を持つ村人が押しかけると、園の子供たちは手に石や棒を持って「私たちのお父さんお母さんに手を出すな」と泣き叫びながら抵抗します。村人たちは圧倒され引き上げます。朝鮮戦争が勃発、北朝鮮軍がソウルから次第に南下、木浦も支配され、人民裁判の名のもと次々と村人が殺害されます。人々は町から逃げ、残っていた日本人も引き揚げます。しかし夫妻は、300人余に増えた孤児を抱えて必死に守ります。町には乳飲み子の捨て子があふれます。夫婦で片っぱしから、ひろっては育てます。翌年、夫は光州へ食料調達に1人で出掛けたきり、千鶴子の必死の捜査も空しく、行方不明になります。朝鮮戦争時に入国していた米国キリスト教団体の協力により、資金援助だけでなく内発的な活動の支援を受け、園は営農や酪農、海岸でのカキ養殖を行い、子供たちも学びながら働きます。千鶴子さんは一時帰国して日本人の有志による後援会を発足、資金カンパも積極的に求め始めます。4000人余りの子供を育て上げ、千鶴子は誕生日と同じ日に56歳で他界。葬儀は木浦市初の市民葬となり3万人の弔問客が訪れ哀悼しました。

-高知新聞 Kochi News

-社会福祉法人こころの家族 Kokoronokazoku

楠瀬 喜多 女史

Ms. Kita Yanase

1836 - 1968 

高知県高知市上町 生誕

Born in Koti-city, Koti-ken

「女に選挙権がないと言うなら私は納税しない。」

"If women don't have the right to vote, I won't pay taxes."

楠瀬喜多女史は婦人参政権運動の草分けです。高知県と県と内務省に訴え出て、日本で始めてそして世界で3番目に女性参政権を認める法令を成立させました。

Ms. Kusunose Kita is a pioneer in the women's suffrage movement. She appealed to the Kochi Prefecture and the Ministry of Home Affairs, successfully enacting the first law in Japan and the third law in the world to recognize women's suffrage.

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 楠瀬喜多女史は土佐藩で、米穀商の長女として生まれ、18歳で土佐藩の剣道指南役を勤める楠瀬実と結婚、38歳で死別、2人の間には子供がおらず楠瀬が戸主を相続します。彼女は高知立志社による演説会・討論会に欠かさず出席するようになります。傍聴人はほとんど男子の中、まわりを励まして男女同権論を唱張します。早速、区会議員の撰挙に出かけると、婦女は戸主といへども選挙権は無く、さらに証書の保証人に立つ事はできないと区長から通達されます。そこで彼女は「納税しているのに、女だからという理由で投票できないのはおかしい。権利と義務は両立するはず。投票できないなら税金も納めない。」と抗議文を高知県庁へ提出します。高知県側は要求の受け入れを拒否。彼女は内務省に意見書を提出します。これは婦人参政権運動の初めての実力行使となり、全国紙大坂日報、東京日日新聞などでも報道されます。上町町会を巻き込んだ3ヶ月にわたる抗議行動に県令もついに折れ、1880年日本で始めての女性参政権を認める法令が成立しました。 その後、隣の小高坂村でも同様の条項が実現。しかし、1884年に政府が区町村会法を改正、規則制定権を区町村会から取り上げ参政権は男性のみと規定します。彼女は、立志社の自由民権運動に参加、自ら壇上に立ち自分の意見を述べる女性民権家として弁士として各地を遊説して回ります。高知を訪れる若い民権活動家を自宅に泊めるなど女性解放運動を続け、彼女の名は「民権喜多」として知れわたります。

-高知市立自由民権記念館 Kochi Liberty and People's Rights Museum

「女性であることもバーテンダーとしての個性であり強み」
“Being a woman is also an individuality and strength as a bartender.”

高橋 直美 女史
Ms. Naomi Takahashi
? -
高知県高知市 生誕
Born in Kochi-city, Kochi-ken

高橋 直美 女史は日本女性初バーテンダー世界一。2013年チェコ・プラハ開催の国際バーテンダー協会主催「ワールドカクテルチャンピオン」の食前カクテル部門で優勝。
Ms. Naomi Takahashi is the first Japanese female bartender world champion.  She won the first place in the pre-dinner cocktail category at the 2013 World Cocktail Champion held by the International Bartenders Association in Prague, Czech Republic.

「パローネ」
 直美は高知南高校を卒業後に東京の短大へ進学。銀座でOLとして勤務し始めると、会社の上司や取引先の顧客に銀座のショットバーに連れていかれ、“バーの世界”に魅了されます。ときどき自分一人でもバーに通うようになると「お酒の知識を身に付けてみたい」。厳格な両親の手前「バーテンダーになりたい」とは言えない直美は「ホテルで働きたい」とだけ伝えて22歳の頃に帰郷。地元の高知新阪急ホテル(現 クラウンパレス新阪急高知)2階のバー「リード」の見習いバーテンダーとしてアルバイトを始めます。先輩ならびに舌の肥えた客からプロの技術と接客を学びます。3年後、晴れて専属バーテンダーとしてホテルに迎え入れられると、コンペティションにも積極的に参加し始めます。目標は日本一、日本バーテンダー協会主催「全国バーテンダー技能競技大会」の優勝。仕事を終えた後もカウンターにひとり残って、バーテンディングの技術を磨き続けます。休みの日には、四国内はじめ東京・大阪の先輩バーテンダーとメーカーや代理店を訪ね歩き、大会に勝つノウハウや新商品の情報を集めます。大会に出るたびに有名バーテンダーに自ら声をかけ、手紙をしたためて全国津々浦々に人脈をつくっていきます。バーテンディング修行10年目、オレンジフレーバーのプレミアムウォッカにパッションフルーツリキュールを加えた「プルマージュ」で総合准優勝。その翌年、洋梨フレーバーのプレミアムウォッカにピーチとあんずの香りを加えた「パローネ」で総合優勝を果たします。

「ウィステリア」 
 世界大会の切符を掴んだ直美は早速、翌年の世界大会に向けて、中国・北京での世界大会に飛んで情報を集めます。そこで世界各国のバーテンダーならびに業界関係者を紹介してもらってもうまくコミュニケーションすら取れず、世界の舞台でのパフォーマンス・雰囲気にすっかり飲み込まれます。「世界大会に向けてステップアップしたい」。直美はパレスホテル東京の皇居を望む高層階のバー「プリヴェ」に転職します。世界中を飛び回るビジネスエリートの外国人の洗練された味覚・嗜好・英語に取り組みます。ランチタイムのフロアに出て料理・スイーツについて学んだり、休みの日には東京や横浜の有名バーテンダーの店を訪ねたり、美術館やレストランに通います。「世界基準では一口目のインパクトが需要」。8か月後、ラムをベースにマスカットリキュールを加え、オレンジ・グレープフルーツの花をあしらった創作カクテル「ウィステリア」(藤の花)を完成させます。2013年チェコ・プラハでの国際バーテンダー協会主催「ワールドカクテルチャンピオン」の食前カクテル部門に出場。審査員の心をつかみ優勝します。「海外で働いてみたい」直美は禁酒法時代のシカゴの流れを受け継ぐ「BAR ガスライト」の日本再開店に参加。「毎日、何かしらドラマがある」。

-一般社団法人 日本バーテンダー協会

-International Bartenders Association (国際バーテンダー協会)

-Bar GASLIGHT 霞ヶ関・銀座・EVE・四谷

-『高知新聞』

福岡県 Fukuoka-Ken

卑弥呼 

Himiko? - 247

福岡県朝倉市甘木 *有力説

Born in Amagi of Asakura-city, Fukuoka-ken *Leading Theory

其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歷年、乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。

"In that country, they also had a male ruler for about seventy to eighty years. However, when the Wa country fell into chaos with conflicts and battles between them lasting for years, they eventually decided to crown a single woman as the ruler. Her name was Himiko."

卑弥呼は日本初の女王です。シャーマンとして国内外に政治手腕を発揮、それまで男王同士で抗争に明け暮れていた30か国を治めます。

Himiko is regarded as the first queen of Japan. As a shaman, demonstrating her political skills both domestically and internationally, she ruled over thirty countries that had previously been embroiled in conflicts among male rulers.

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卑弥呼は邪馬臺国のシャーマンとして、それまで男王同士で抗争に明け暮れていた30か国を治めます。夫を持たず千人の侍女と祭祀に仕え、軍事を司る弟と連合国をヒメ・ヒコ制と言われれる共同統治をします。さらに朝鮮半島はじめ中国大陸との先進的な外交・貿易を介して、良質な鉄資源はじめ先進文物の外交窓口を統括すべく、帯方郡の公孫氏ならびに魏国王に使者を派遣します。魏国から『親魏倭王』の金印・刀・銅鏡100枚・真珠・絹・宝石など与えられ、さらに魏の使者の倭国への訪問と詔書・印綬を受けます。卑弥呼は中国王朝に初めて認められた倭国の統一的な女王として、倭国を平和に治めました。最近の研究で卑弥呼の死の前後247年3月に北九州地域で皆既日食が観測されたことが明らかになりました。太陽は日没までにほぼ皆既日食となって真っ暗になり、古代の人々にとって世の終わりのような恐怖であったと考えられています。さらに248年9月の皆既日食でほぼ欠けた太陽が復活しながら日の出を迎える様子が観測され、「新旧女王の代替わり(卑弥呼の死去と臺與の即位)」を象徴するエピソードとして、「天の岩戸伝説」に組入れられたのではないかと考えられています。

-『三国志・魏志倭人伝』GishiWajin-den

*『從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。』『自郡至女王國、萬二千餘里。』『邪馬壹國。女王之所都』

*『其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歷年、乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食、傳辭出入。居處宮室、樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞。』

高場 乱 女史

Ms. Osamu Takaba

1831 - 1891 

福岡県福岡市博多区 生誕

Born in Fukuoka-city, Fukuoka-ken

「人間は誰にでも持って生まれた天分がある。十分に存分に発揮せねばならぬ。全ての人の天分を尊重して各自の中に神を見出すべし。」

"Every human being is born with inherent talents. These talents must be fully and completely expressed. We must respect the talents of every individual and find the divine within each person."

高場乱は近代日本を代表する男装の女性儒学者です。男装の眼科医として診療する傍ら、私塾の興志塾(通称「人参畑塾」)興して玄洋社はじめ近代日本で活躍する人材をたくさん育て上げました。Takabaran is a female cross-dressing Confucian scholarscholar representing modern Japan. While practicing medicine as an ophthalmologist in Masculine Attire, she founded a private school, Koshi Juku, and guided a large number of people to play an active role in modern Japan, such as Genyosha.

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「男装の眼科医」

 乱は代々福岡藩の藩医を務める眼科医・高場正山の末子として生まれ、利発さゆえに男子として育てられます。医学の他に男子の嗜みである漢学を学び、10歳で男性として公的に元服します。元服後は髷を結い袴をつけ腰に刀を差し牛や馬に乗って往診に出かけます。乱は父の命で16歳で結婚するも自ら離縁。「結婚なんぞつまらん。亭主なんぞ厄介至極。私はこんなことで一生を過ごすわけにはいかん。」その足で、身分性別を問わない亀井昭陽の亀井塾に入塾。3年住み込んで儒学さらに武術を習得します乱自身は生来虚弱で華奢でありながら「四天王」と呼ばれるまでに腕を上げます。20歳の時に家督を継ぎ、人に女扱いでもされようものなら、恐ろしい形相で飛び掛かって相手を蹴り倒します。従妹の野村望東尼に強い影響を受け、乱は京都に上って勤王志士として挺身しようと考えますが、一年の計画には殻物を植えるのが最もよく、十年の計画には木を植えるのが最もよく、一生の計画としては人材を育てるのが最もよい。(『管子』)」の一句に感銘を受けた乱は医業の傍ら若者の教育にも携わるようになります。

「人参畑の女傑」

 乱は42歳で眼科業の傍ら私塾興志塾(通称「人参畑塾」)を開設。乱は血気盛んな若者を好んで受け入れ寝食の面倒を見ながら、儒学の経典『論語』『孟子』のほか『史記』『三国志』『水滸伝』など英雄伝を扱い、自ら書物の人物となって泣き笑い憤って古今烈士の型にはまらない思想と行動を訴えます。塾内で連日の白熱の議論と取っ組み合いの喧嘩、乱は竹刀を手に一喝しながら教鞭を執り、塾生たちに当番制で田畑の世話・掃除・炊き出しなどを、体力づくりとして相撲またランニングをさせます。また、土佐から立志社の若者が自由民権を説きに来ると、乱は最後まで黙って聞くと放屁を一発して追い払います。乱は口先だけの雄弁家を嫌い、実践を重んじました。やがて塾は乱暴者ばかりが集まる「梁山泊」と呼ばれ、乱は「人参畑の女傑」と呼ばれるようになります。

玄洋社

 塾生たちは次々と結社を創設。なかでも頭山満はじめ平岡浩太郎、進藤喜平太、箱田六輔、武部小四郎らは福岡はじめ佐賀・熊本・山口で反乱を起こすと、政府は血眼になって弾圧に乗り出します。乱も扇動した容疑で拘束されると、「拙者の白髪頭と県令渡辺清の首を刎ねた上で、一緒に並べて頂きたい。」、無罪放免で釈放されます。塾生を含む数百の志士が死罪となるなか、乱は獄中の塾生に豚汁・牛またの里芋煮しめなど炊き出しを毎日差し入れます。生き延びた頭山らが向陽社(玄洋社の前身)を結成すると、乱は漢書の講義に出かけたり、内部の抗争を仲裁するなど、弟子たちの行く末を見守ります。来島恒喜が大隈重信へテロを仕掛けた上で自殺すると、乱は「匹夫の勇(思慮分別に欠けた、血気にはやるだけのつまらない勇気)」と酷評。翌年、乱は病床に伏し、一切の治療を拒み、弟子たちに看取られつつ59歳で逝去。墓碑銘「高場先生之墓」は勝海舟の揮毫です。

-福岡市博物館 Fukuoka Museum

末弘 ヒロ子

Ms. Hiroko Suehiro

1893 - 1963

福岡県小倉市 生誕

Born in Kokura-city, Fukuoka-ken

末弘 ヒロ子女史は日本初の美人コンテストグランプリです。日本で初めて芸妓・女優・職業モデルなどを除いて開催された淑女写真コンクールです。

Ms. Suehiro Hiroko is the first-ever winner of Japan's beauty contest. It was the first elegant lady photo contest held in Japan, excluding geisha, actresses, and professional models.


「小倉小町」

 ヒロ子は福岡県小倉市長・末弘直方の四女として生まれます。父・直方は政府側の密偵として西郷隆盛暗殺・西郷と私学校との離反工作に活躍。西南戦争政府軍参謀長として出征し、日本陸軍上層部となっていた郷里の英雄・野津道貫元帥の長男・鎮之助とヒロ子を婚約させます。ヒロ子は幼い頃から日本舞踊、茶道、華道、琴、ピアノをたしなみ、小倉小町として地元でも評判になります。やがて学習院女学部に通うために上京、姉夫婦の家に居候します。この写真家を営む義兄江崎清に頼まれヒロ子は度々モデルとなったことが後々大混乱を引き起こします

日本初のミスコンテスト」

 学習院女学部3年生の16歳のとき、ヒロ子は日本初の全国美人コンテスト第1位して時の人となります。アメリカの『シカゴ・トリビューン』紙が「ミスワールドコンテスト」を企画、打診を受けた時事新報社が日本予選として「日本美人写真募集」全国キャンペーンを展開。初めて芸妓・女優・職業モデルなど参加が禁止された淑女写真コンクールとして世間の話題を集めます。総額3千円相当の賞品を目指して7千名もの応募がある中、洋画家の岡田三郎助、彫刻家の高村光雲、歌舞伎俳優の中村芝翫など芸術界芸能界を代表する13名審査員ほぼ全員の絶賛を得て、ヒロ子は一等に推薦されます。さらにヒロ子の写真は海を渡ってアメリカの総主催『シカゴ・トリビューン』紙に送られて、アメリカでも披露され6位に入賞します

学習院退学と結婚

 学習院院長乃木希典はただちに協議会を開き、他の生徒等の取り締まりのためヒロ子を退学処分します。時事新報社は学習院長を新聞紙面で大抗議、女学部の他の女生徒たちの嫉妬説が記事で出回ったり、学習院大混乱になります。ヒロ子はあと半年で卒業を目前としながらも退学を受け入れ小倉の実家に蟄居。数百もの縁談の申込みと励ましの手紙が届きますが父に焼き捨てられます。父・直方は、西南戦争はじめ日清・日露戦争で勲功を挙げた小倉藩出身の奥保鞏元帥を引き連れ上京、乃木元帥ならびに野津元帥を訪ねます。「学習院は美人をつくる学校ではない」。「学習院なんぞ女子の祝言の衣装」。まもなくヒロ子はのちに貴族院議員となる野津鎮之助と結婚、3人の娘をもうけます。

-国立国会図書館 National Diet Library

佐賀県 Saga-Ken

黒田チカ 女史

Ms.Chika Kurota

1884 -1968 

佐賀県佐賀市松原 生誕

Born in Saga-city, Saga-ken

「すべての物に親しみをもって向かえ ば,必ずものが教えてくれて道は開けますよ」

"Greet everything with familiarity, and surely things will teach you, opening the way."

黒田チカ女史は日本の女性化学者の先駆けです。帝国大学に入学した最初の女性であり、紫根、紅花、ウニなどの天然色素の研究に従事。彼女の天然色素に関する関連資料は、日本化学会が化学遺産に認定されています。東京女子高等師範学校(今のお茶の水女子大学)初の女性教授です

Ms.Chika Kuroda is a pioneering female chemist in Japan. She was the first woman to enroll in an imperial university and conducted research on natural pigments such as purple root, safflower, and sea urchin. Her related materials on natural pigments have been recognized by the Chemical Society of Japan as chemical heritage. She was also the first female professor at Tokyo Women's Higher Normal School (now Ochanomizu University).

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チカは佐賀藩諫早邑の藩士の家に生まれます。両親は進歩的な考えのもとチカは勧興小学校から佐賀師範学校女子部へと進み、17歳の時に卒業。佐賀郡川副高等小学校の教師を1年務めた後に東京に出て女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学の前身)理科に進学。平田敏雄教授の指導を受けて化学に対する情熱を持つも、当時の女子はこの先へ学歴を積む道は閉ざされており、理科教師として福井県立女子師範学校に就職します。すると母校から保井コノ(生物学)についで第二回研究科生として推薦され、官費研究科生として母校に戻ります。2年間の研究科課程を修了し、25歳で東京女子高等師範学校の助教授となります。ならびに欧州において有機化学の第一線研究者であり、帝国大学薬科大学教授で日本薬学会会頭である長井長義の実験助手を務めます。さらに長井の推薦により東京女高師出身の黒田チカ(化学科)と牧田ラク(数学科)、日本女子師範学校出身の丹下ムメ(化学科)の3人そろって日本初の帝国大学女性理学士となります。チカは日本における有機化学の育ての親である真島利行のもと天然色素紫根の研究をはじめます。高貴な色として珍重されるも色素の正体が分からず工業生産できなかった結晶を紫根から取り出しシコニン(Shikonin)と命名。不安定なシコニンを様々な試薬と反応させて様子を観察、生成物を既知物質と比較しながら反応様式を調べます。1918年シコニンの構造について結論を得たチカは34歳で東京女子高等師範学校にわが国初の女性教授として招かれます。日本化学会主催の紫根研究の講演会はたくさんの聴衆はじめマスコミが集まります。さらに長井らの推薦を得て、英国オックスフォード大学のパーキン教授(W. H. Perkin)に留学。インドール誘導体の研究を任され、英国生活を満喫。帰国後、黒田は、紫紺と同様に結晶が得られず世界中で研究が中断していた紅花赤い色素を研究テーマに選びます。カーサミン(Carthamin)という色素の結晶を取り出し、1930年英国化学会誌『Journal of The Chemical Society』に掲載されます。この業績により黒田チカは化学分野において日本女性初の理学博士となります。さらにつゆ草の青花の色素・黒豆や茄子の色素・紫蘇の色素・ウニの棘の色素など身近な色素の研究を行い、単離した結晶性色素をそれぞれアオバニン・クロマミン・ナスニン・シソニン・スピノクロムと命名、構造を明らかにします。さらにたまねぎの皮に約2%含まれるケルセチン(Quercetin)が高血圧の治療に有効であることを示し、チカ自身で錠剤づくりまで行って高血圧治療薬「ケルチンC」として発売。第二次世界大戦後、チカを会長として日本婦人科学者の会が発足。ならびにお茶の水女子大学が発足、チカは理学部化学科の教授となって定年退官後も名誉教授として後進の指導にあたります。

-日本学会 Chemical Society of Japan

-お茶の水女子大学歴史資料館 Ochanomizu Women's Univ. Museum

「毎日笑ってもらいたい」
"I want everyone to laugh every day."

長谷川 町子 女史
Ms. Machiko Hasegawa
1920 - 1992
佐賀県多久市 生誕
Born in Taku-city, Saga-ken

長谷川 町子 女史は日本初の女性漫画家です。日本で初めて漫画のキャラクターの著作権侵害裁判を起こして勝訴しました。代表作『サザエさん』『いじわるばあさん』『エプロンおばさん』。美空ひばり女史に続いて日本女性2人目の国民栄誉賞を受賞。
Ms. Machiko Hasegawa is the first recognized female manga artist in Japan. She initiated and won the first copyright infringement lawsuit involving manga characters in Japan. Her notable works include "Sazae-san," "Mean Grandma," and "Apron Aunt." Following Ms. Hibari Misora, She became the second Japanese woman to receive the People's Honor Award.

「天才少女」
 町子は三菱炭坑の技師である父・勇吉と、政治家を兄に持つ母・貞子のもと3人姉妹として生まれます。やがて父・勇吉がワイヤーロープ事業を開業すると、家族で博多に転居してお手伝い2人を抱えて裕福な暮らしを始めます。町子は小さい頃から絵を描かせると上機嫌、学校の授業中の先生の似顔絵を描いてはクラスに回します。まもなく父・勇吉が病に倒れ逝去すると、母・貞子は家族でキリスト教に入信、国会議員の兄を頼って家族で上京します。次に母・貞子は、三姉妹の才能を伸ばそうと奔走します。姉の毬子は画家・藤島武二のもとで洋画を、妹の洋子は菊池寛のもとで文学を、町子は田河水泡のもとで漫画を学ばせます。15歳の町子は「天才少女」として『少女倶楽部』の『狸の面』で漫画家デビューします。1年に渡る住み込み見習いの後で自宅に戻って『ヒィフゥみよチャン』『仲よし手帖』を新聞・雑誌に連載します。

「サザエさん」
 戦争が激しくなると、一家は福岡に疎開します。町子は西日本新聞社に入社、報道写真の修整・ルポルタージュの挿絵を描きます。仕事の合間には道端で馬糞を集めて家庭菜園に従事しながら敗戦を迎えると、西日本新聞社から独立した夕刊フクニチの連載漫画の仕事が舞い込みます。自宅の近くの百道海岸の砂浜と松林を妹と散歩をしながら『サザエさん』はじめ磯野家の日常を描き始めます。漫画が評判になるのを見越した母・貞子は家を売って一家揃って上京、「サザエさんを出版なさい」と3姉妹に命じます。家族4人で出版社「姉妹社」を設立して翌年の『サザエさん』第1巻から全68巻を刊行します。まもなく、朝日新聞社が創刊した夕刊朝日新聞に連載の場を移し、磯野家も東京を舞台として描くようになります。

「いじわるばあさん」
 町子は家族・友人・担当記者の家庭をつぶさに観察しながら、アシスタントなしで1人で作品を書き続けます。「漫画は面白くなくては駄目なのよ」町子は毎日のアイディアを考え出すのに苦労して胃潰瘍になり手術を受けます。町子は『サザエさん』でたまったストレスを『いじわるばあさん』で発散するようにサンデー毎日で連載を開始。また、サザエ・カツオ・ワカメの三姉弟の似顔絵を観光バスの車体の両側面に無断で20年使用されたことに対し、日本で初めて漫画キャラクターの著作権侵害を提訴し5年後に勝訴しますが、自宅が放火されます。やがて財産争いで妹・洋子と絶縁。まもなく『サザエさん』を休載してそのまま再開せず、長谷川町子美術館がオープンすると「これからが私の青春よ!」と65歳の町子は大喜びします。

-長谷川町子美術館

長崎県 Nagasaki-Ken

楠本 イネ 女史

Ms. Ine Kusumoto

1823 - 1903 

長崎県長崎市銅座町 生誕

Born in Nagasaki-city, Nagasaki-ken

「女ながらも一家を興し、名を末の世に残そう」

"Create a wonderful family and leave a lasting name for future generations, even as a woman."

楠本イネ女史は日本人女性初の産科医です。父親であるドイツ人医師シーボルトの弟子達はじめオランダの最先端の医師のもとで積極的に医術を修業して宮内省御用掛の医師となりました。

Ms. Ine Kusumoto was the first Japanese female obstetrician. Disciples of her father, Dr. Philipp Franz von Siebold, a German physician, including those from the forefront of Dutch medicine, actively trained under their guidance and became physicians employed by the Imperial Household Agency.

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イネはドイツ人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと、長崎丸山町遊女たきとの間に生まれます。シーボルトはイネが2歳の時に国外追放となります。イネは男勝りで明朗快活、5歳頃から寺子屋に通いながら、13 歳まで書道や三味線、その後裁縫を習得。市井の人として世に長く生きるのを忌み嫌い、「何としても父上の家業を継いで天下晴れて立身出世して、女ながらも一家を興して名を末の世に残そう」と読書また医術に専心します。14歳からシーボルト門下を訪ねて回ります。四国宇和島藩の二宮敬作から医学の基礎を学び、岡山藩の石井宗謙から産科を学び、岩国藩の大村益次郎からオランダ語を学びます。当時の日本ではお産は汚らわしいものとして不衛生な小屋で隔離されて行われており妊婦や新生児の死亡率は高く、また男性医師の診察を受けたくないために治療が手遅れになった妊婦をたくさん診たことからイネは産科医を志します。そのようなとき、娘の様子を見に来た母たきを見送って帰る船の中で、イネは石井宗謙に強姦されて妊娠、24歳で娘たかと共に郷里に戻り阿部魯庵に産科医術を学びます。2年後たかを母たきに預け、再び二宮敬作の下で蘭学・産科・内科を学びます。29才で二宮敬作とその甥・三瀬周三と共に郷里に戻り医者として開業します。32才のとき、長男アレキサンダーを連れて再来日した父シーボルトと郷里で再会を喜びつつ同居しながら医学を学びます。その間にシーボルトは母お滝・イネが雇った家政婦シオとの間に子をもうけ、イネは深く失望して家を出ます。その間もイネは長崎奉行所西役所医学伝習所でオランダ海軍の軍医ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト、アントニウス・フランシスクス・ボードウィン、コンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルトから最新の産科・病理学を学びます。46人の男性に交じって腑分け(死体解剖実習)にただ一人の女医として臨みます。父シーボルトの帰国後、母たきが亡くなると、異母弟のシーボルト兄弟(兄アレクサンダー・フォン・シーボルト、弟ハインリヒ・フォン・シーボルト)の知己と支援で明治政府の高官や皇室にも知己を得ながら43才で東京築地で産科を開業、大評判となります。さらに福澤諭吉の口添えにより宮内省御用掛となり、明治天皇の女官・葉室光子ならびに側室・葉室光子の第一皇子の出産に立ち会います。1875年に医術開業試験が始まるも男子のみに限定され、イネは東京の医院を閉鎖して帰郷します。同年、イネの下で3年産科の実地を学んでいた福沢諭吉の義理の姉・今泉釖は三田で産婆院を開業します。1884年医術開業試験の門戸が女性にも開かれますが、イネは産婆営業のために新たに必要となった産婆免許観察願いを届け出ます。また父シーボルトの残した鳴滝塾の土地の確保と保存に尽力します。64歳でイネは東京のたかの家族と同居、77歳で永眠します。

-シーボルト記念館 Siebold Memorial Museum

-福澤諭吉旧居・福澤記念館 Yukichi Fukuzawa Memorial Museum

「神は天に在り この世はすべてよし!」 -ロバート・ブラウニング

"God's in His heaven, All's right with the world!" -Robert Browning


中山 マサ 女史

Ms. Masa Nakayama

1891 - 1976

長崎県長崎市 生誕

Born in Nagasaki-city, Nagasaki-ken


中山マサ女史は日本人女性初の大臣です(厚生大臣)。シベリア引揚げ問題の進展、高齢者施設の建設、角膜移植法の成立、アメリカ製ポリオワクチンの大量確保、ひとり親家庭への児童扶養手当法などに尽力しました。

Ms. Masa Nakayama is the first woman appointed to the Cabinet of Japan when she became Minister of Health and Welfare. She contributed to the progress of Japanese prisoners of war in the Soviet Union, the construction of facilities for the elderly, the enactment of the corneal transplantation law, the securing of a large amount of vaccines made in the United States, and the child allowance law for single-parent families.

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「祈りの子」

マサは裕福な長崎貴婦人カイとアメリカ貿易商人である父・ロドニー・H・パワーズとの間に生まれます。母・カイは産後まもなく死去、母の姉の飯田ナカによって育てられます。幼少期は病弱で何度も医師に見放されながらも、義母ナカの献身な看護と祈りで次第に丈夫に頑固に育ちます。父のいない母ひとり娘ひとりの家庭、マサは通訳になって義母を支えようと全寮制の活水女学校に入学。熱心にキリスト教を学びながら英語とラテン語を身に付けます。後の女性運動家・神近市子はじめ学友達と夜更けまで語りあいます。「自分自身の井戸を掘りなさい」創始者ラッセル女史ならびにヤング校長の薫陶を受けながら、マサは米国の名門大学オハイオ・ウエスレヤン大学に留学。アルバイトをしながら英文学・弁論学を専攻して学位を取得します。帰国後は、母校の英語教師となって喜怒哀楽むき出しで生徒と向き合います。やがて、「あなたと一緒に国の為に尽くしたいとプロポーズを受け、東京帝大出の弁護士・中山福蔵と結婚。大阪の教会に通いながら、代議士を目指す福蔵とともに、選挙のたびに大きなお腹を抱え、乳児を背負って、支持を訴えて歩きます数度の落選を経験するも、終戦前まで3回の当選を果たします。マサの応援演説は注目を浴びますが、アメリカのスパイと疑われて憲兵がつきまとい、子供たちは「非国民と言われ孤立します。

「博愛の政治家」

終戦を迎えた翌年、戦後最初の衆議院選挙が行われ、初めて女性の参政権が認められます。マサは婦人自由党を自ら結成、小型宣伝車で『アイルランドの花売り娘』を鳴らしてまわって子供たちを集めては童話を読み聞かせ、さらに集まる婦人たちに選挙演説を始めます。戦後の第一回総選挙で福蔵は落選、第二回総選挙ではマサが自ら出馬し当選します。それ以来連続4期当選して政治家の道を歩みます。異国の丘』メロディに心痛めるマサは議員2年で衆院特別委員長務めシベリア抑留者30万の引揚げ交渉の重責を負います。アメリカ進駐軍ならびにニューヨークの国連総会に出向いて協力を求め、ソ連とも直接交渉しながら、国連内に捕虜調査委員会を設置させ抑留者の早期帰国を大きく前進させます。さらに厚生政務次官となり、社会福祉に力を注ぎ、高齢者施設の建設や、角膜移植法の成立などに尽力します。そして1960年池田内閣で日本最初の女性・厚生大臣に抜擢されます。「ゆりかごから墓場までの仕事に尽力したい」。まもなく、ポリオが全国5000人超の大流行、母親を中心としたワクチン獲得運動が広がります。マサは陣頭指揮を執って、アメリカ・ソ連からワクチンを確保、ワクチン輸入業者また国内製造企業と価格交渉(輸入ワクチン70円に対する卸値また国内製造ワクチンを450円から350円、ワクチンの国内生産準備、無料検診・接種組織準備。また賃金・診療報酬の値上げを求める病院ストライキ全国で広がると、マサは医療費値上げを断固拒否。さらに貧困母子家庭への児童扶助手当支給を日本ではじめて実現します。在任期間5ヶ月で内閣は解散します。マサは女性政治家で初めて勲一等瑞宝章を、母校オハイオ・ウエスレヤン大学からは名誉法学博士の称号を授与されます。マサの後には20年以上女性大臣は現れていません。

-活水学院 Kwassui Gakuin

-首相官邸 Prime Minister's Office

「いばらの路を知りて捧げし身にしあればいかで撓(たわ)まん撓(たわ)むべきかは」

"Having known the thorny path and dedicated oneself, how should one not bend or yield?"

石井 筆子 女史
Ms. Fudeko Ishii
1861 - 1944
長崎県大村市 生誕
Born in Omura-City, Nagasaki-ken

石井 筆子女史は、知的障がい児教育の創始者です。夫・亮一とともに日本初の知的障がい児教育福祉施設として滝乃川学園の運営に尽力しながら、知的障害児童ひとりひとりの可能性を育てようと献身しました。
Ms. Fudeko Ishii is the founder of education for children with intellectual disabilities. Along with her husband, Ryoichi, she worked hard to run Takinogawa Gakuen, Japan's first educational and welfare facility for children with intellectual disabilities. She dedicated to nurturing the potential of each and every child with intellectual disabilities.
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「鹿鳴館の華」 
 筆子は、長崎県大村市に大村藩士の父・渡辺清と母・ゲンの3人きょうだいの長女として生まれます。父・清は江戸無血開城の立役者であり、明治新政府の元で福岡県令や元老院議官等を歴任。筆子11歳の時に家族そろって東京で暮らしはじめます。筆子は、日本初の官立女子校である東京女学校に第一期生として入学。貴族・華族・大金持ちの子女らと、英語はじめ生物学・物理学・化学・歴史学など当時最先端の教養を外国人教師から学びはじめるも、高額な授業料による財政難で廃校になります。向学心に燃える筆子は、勝海舟の屋敷内でアメリカ人教師・ウィリアム・ホイットニーの娘クララから英語を習います。筆子は18歳で元アメリカ大統領グラント将軍を父・清とともにもてなして華々しく外交デビュー、さらに翌年には皇后の命で津田梅子らと共に日本初の女子海外留学生として渡欧。筆子は市民革命による「自由、平等、博愛」を正式な国の標語にしたばかりのフランスで、最先端の人権思想・女子教育・慈善福祉事業などを嬉々として学びます。帰国後は華族女学校のフランス語教師として教鞭を執りながら、貧困家庭の女子を職業訓練する大日本婦人教育会付属女紅女学校の開校に従事。一方、鹿鳴館にの宴会に度々出かけ、袴をドレスにアレンジして華を添えながら英語・フランス語・オランダ語を駆使して外交人を接待します。

「鴿、足を止める処なく舟に還る」
 23歳の筆子は父の勧めで元大村藩家老の長男・小鹿島果と結婚。夫の理解のもと、華族女学校での教師を続けます。まもなく長女・幸子が生まれるも、医師から知的障がいを示唆されます。突然の不幸に打ちのめされた筆子は母子でキリスト教の洗礼を受けて幸子の成長を見守ります。やがて次女・恵子が誕生するも虚弱児で生後すぐに亡くなり、まもなく三女・康子を授かるも結核性脳膜炎にかかって知能と身体に障害が残ります。さらに翌年には夫・果が35歳の若さで逝去。31歳で2人の障害児を抱え未亡人となった筆子はますます信仰を篤くし、聖公会のミッションスクール・静修女学校の校長に就任します。昼間は華族女学校に勤め、朝夕は静修女学校で寄宿生とともに過ごします。一方、筆子の知的障害を持つ娘達は「白痴」と称され教育の対象外とされることに筆子は悩みます。生徒数名から40人以上に成長させた頃、石井亮一が講師としてやってきます。濃尾震災で孤児となった女児を保護するために「弧女学院」を設立する亮一に筆子は大いに共感、華やかな人脈を活かしたバザーを主催して寄付金を集めて経営難を助けます。その中で長く病床にあった3女・康子が死去、悲しみに暮れる筆子に亮一は知的障がい児童のための教育福祉施設の構想を打ち明けます。筆子は亮一の斬新な発想の取り組みに共感、気力を奮い立たせるようにして亮一のアメリカ留学を支援、アメリカ・デンバー市開催の婦人倶楽部万国大会に日本婦人代表として出席、亮一と一緒にアメリカの女学校はじめ孤児院・身体障がい児の学校・身体障がい者のための社会福祉施設などを見学してまわります。

「いばらの路」
 帰国した筆子は華族女学校を退官、静修女学校の校舎と生徒を津田梅子に譲り、親族の反対を押し切って42歳で亮一と再婚します。夫婦で知的障がい児のための専門教育機関・滝乃川学園を開所、2人三脚で運営・経営にあたります。 亮一は国内外での研究活動や講演活動等で不在が多く、筆子が実質的な責任者として財源確保・安定経営にあたります。はじめに筆子は、貧しい女性たちに教育を授けて自立させるため学園内に保母養成部を創設、華族女学校の教え子らと共に英語・歴史・習字・裁縫などを教え、卒業後は学園内で保母として採用します。次に、筆子は農園整備を目指して農作業部を開設、養蚕・花つくり・わさび・奈良漬けなどを製造販売したり、バザーに励みます。さらに筆子はアンデルセン童話を翻訳したり本を執筆します。筆子は寮母として熱心に園児ひとりひとりの状況を細かく理解して養護と指導にあたり、園児や保母から「お母様」と呼ばれ信頼を深めます。学園の子供たちが日々成長していく様子を驚きと喜びとともに見守る中、筆子55歳のときに長女・幸子が逝去します。筆子は気力を奮い起こして巣鴨移転にあたる最中、園児の火遊びが原因で火災が発生、炎に飛び込んで足に怪我を負いながら園児を探し求めるも、6名の生徒が焼死します。監督責任また賠償問題がのしかかり、筆子と亮一は学園の閉鎖を決意します。ところが、新聞報道されるやいなや華族女学校で筆子に学んだ貞明皇后はじめ華族・財閥ならびに全国から励ましの手紙と義援金が寄せられます。2人は学園の再興を決意、半年後には財団法人の認可を受け、理事長に渋沢栄一を据え、空気の澄んだ国立市で学園を再開します。昭和恐慌の財政難の中で夫・亮一が70歳で死去すると、筆子は脳溢血の後遺症で半身不随の身を押しながら76歳で第2代学園長に就任します。まもなく戦争による飢えまた空襲で幾人もの生徒また教職員が命を落とす中、筆子は学園の将来を案じながら83歳で死去します。「たくさんの命が手のひらからこぼれていきました。どうして守ってあげられなかったのか。どうかお許し下さい」。

-大村市 Omura city

-滝乃川学園 Takinokawa Gakuen 

大浦 慶 女史
Ms. Kei Oura
1828 - 1884
長崎県長崎市油屋町 生誕
Born in Nagasaki-city, Nagasaki-ken

大浦 慶女史は日本茶・生糸の輸出貿易を先駆けた大富商。詐欺事件に巻き込まれ巨額の負債を抱えるも、九州の実業家ならびに政治家の強固なネットワークを駆使して、横浜製鉄所を借り受け機械製造を手掛け、軍艦・高雄丸を払い下げられ受け海洋輸送に進出、最先端の事業・製品を手掛けます。
Ms. Kei Oura is  wealthy merchant who pioneered the export trade of Japanese tea and raw silk. Despite being involved in a fraud incident and incurring huge debts, she made full use of his strong network of businessmen and politicians in Kyushu, leased the Yokohama Steel Works, manufactured machinery, bought the warship Takao Maru, and expanded into ocean transportation. She bring cutting-edge businesses and products to the world.

「製茶1万斤」
 お慶は長崎屈指の油問屋「大浦屋」に誕生。父・大浦太平次と母・佐恵は、大量の輸入油に押されながらも約200年にわたり続く商家を守ります。ところが、お慶16歳のとき大火に見舞われ大浦家は大損害を受けます。お慶は大浦家再興に尽くそうと先頭に立って奮闘します。オランダ語通詞・品川藤十郎と協力、出島オランダ商館員のドイツ人テキストル(Carl Julius Textor)に佐賀・嬉野の嬉野茶の見本を託し、イギリス・アメリカ・アラビアの3ケ国へ送ります。同じ様に滋賀・彦根の生糸をイギリス・アメリカ・イタリアの3国に送ります。数年後、見本を見たイギリス商人ウィリアム・J・オルト(William John Alt)が長崎に来航、お慶に大量の茶と若干の生糸を注文します。お慶は各地に人を派遣して茶の産地を巡り1万斤(6トン)をかき集めてアメリカに輸出します。お慶は自宅の裏に製茶所・製茶工場を建設するとともに、九州各地でお茶の増産を指揮。九州はお茶の一大生産地へと発展します。ならびにお慶は近江商人を介して、西陣織りに重用される良質な曽代糸はじめ飛騨糸・前橋糸・奥州糸を英国に輸出して巨大な利益を得ます。お慶は、30代で長崎では知らぬ者のない大商人となります。

「賠償金1500両」
 各藩の代表や商人たちが競って武器弾薬・艦船の購入・物産販売ならびに各藩の動向収集のために長崎を訪れる中、志士たちがお慶のもとに集まります。坂本竜馬はお慶の屋敷を根城にして「亀山社中」「海援隊」を創設、海運業・貿易業・私設海軍を始めます。大隈重信は佐賀藩物産を海外に輸出する助言をお慶に求め、長崎裁判所はじめ横浜裁判所で外国商人に対する負債整理の海外交渉で功績を上げます。「亀山社中」の3,000両の借金の担保に竜馬に差し出された陸奥宗光は後に外交官として活躍。「海援隊」会計係・岩崎弥太郎は、お慶を介してオルト商会と親交を結んで三菱社を創設。開港と東京遷都により、次第に横浜港からの静岡産の蒸し茶の輸出が増え、九州産の釜煎り茶の輸出業に陰りが見えはじめると、お慶は新しい商品の貿易を考え始めます。そんな折、お慶の元へ熊本藩士・遠山一也と通弁詞・品川藤十郎が訪れ、オルト商会と熊本産煙草15万斤との売買契約の保証人になって欲しいと頼みこみます。お慶が保証人を引き受けると、遠山・品川はオルト商会からの手付金3000両(現在の約3億円)を持ち逃げします。お慶は熊本藩と交渉して約352両の支払いを引き受けるも、オルト商会に長崎県役所へ訴えられ、お慶は連判の罪で1,500両の賠償金を命じられます。お慶は40代で東京に出て再出発を決意します。

「製鉄所1基と軍艦1隻」
 というのも、かつて自分が世話をした大隈重信が横浜裁判所で、横須賀勢鉄所・横浜製鉄所をイギリス系銀行の融資によってフランス借款から担保解除し、横浜裁判所の管轄としたニュースを耳にして新しい事業を画策します。長崎製鉄所(三菱重工業長崎造船所の前身)の機関方(エンジニア)養成所で学んだ洋学伝習人で兵庫製鉄所(加州製鉄所)の創立者である杉山徳三郎を誘って、連名で横浜製鉄所払い下げのための意見書を提出します。お慶は「長崎出身で外国商法と製鉄所の運用に通じている」と猛アピール。大熊重信の後押しで何とか拝借願が認められたお慶は、さらに横浜港の埋め立てとガス灯・横浜瓦斯(ガス)会社の建設を手掛けた実業家・高島嘉右衛門、杉山の同期で東京築地活版製造所の創立者・平野富二、日本最初の製鉄所を完成させた佐賀藩最後の邑主・神代直宝らを引き入れ共同経営を始めます。西南戦争の特需と、鉄道・蒸気機関車の導入により多大の利益を得ると5年で政府に返納。政府財政の窮乏と極度のインフレまた銀貨暴騰の中、お慶は海運業に乗り出します。福岡の櫨蝋豪商で国立十七銀行(福岡銀行の前身)の初代頭取・佐野弥平と連名で、海軍の鉄製軍艦・高雄丸の「払い下げ願」を提出。50,000円(現在の10億円相当)のうち47,300円をお慶が出資、引き渡された高雄丸は定繋港を東京に定め博多港へ。杉山徳三郎が蒸気機関を導入して近代化につとめる筑豊炭鉱の石炭と、平野富二が設立した石川島平野造船所(現、株式会社IHI)とを結んで、お慶はかつて世話した岩崎弥太郎に対抗して時代の先端を行く事業・製品を次々と世に送り出そうとします。

-長崎歴史文化博物館 Nagasaki Museum of History and Culture
-長崎WEBマガジン
-「横浜製作所御払下ケ願趣意見込書」
『日本近代化の基礎過程 : 長崎造船所とその労資関係:1855~1900年 中』 (中西洋 著、 東京大学出版会1983.11)図書

熊本県 Kumamoto-Ken 

「自分の心の舵をしっかり保っていこう!」

"Steer your heart!"


矢嶋 楫子 女史

Ms. Kajiko Yajima

1833 - 1925 

熊本県上益城郡益城町杉堂 生誕

Born in Masuki-gun, Kumamoto-ken


矢嶋楫子女史は婦人参政権・廃娼・禁酒運動の草分けです。日米の女性の架け橋として女性の地位向上に奔走、教育者そして社会事業家として活躍しました。

Ms. Kajiko Yajima was a pioneer in the women's suffrage movement, the abolition of prostitution, and the prohibition movement. She served as a bridge between Japan and the United States, tirelessly working for the advancement of women's rights, while also excelling as an educator and a social worker.

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「仏頂面の渋柿」
 勝子は熊本有数の惣庄屋の8人兄弟姉妹に生まれ、女5人男1人のあとの望まれない女児として親から名前も付けられず、笑顔の少ない仏頂面の「渋柿」とあだ名されます。勝子は母の鶴子からは自筆の百人一首、古今和歌集、三十六歌仙などを与えられ、兄・直方からは家族で唯一の惜しみない愛情を与えられます。兄は多くの門弟を輩出する横井小楠の高弟であり、姉妹は次々と小楠の門弟に嫁し、最先端の知的な人脈を形作ります。勝子も敬愛する兄・直方のすすめで、既に2男1女を儲けていた富豪林七郎の後妻として嫁ぐも、夫の酒乱で何度も死に目にあいながら極度の疲労と衰弱で半盲状態に陥って、三人の子を連れ家を出ます。周囲の冷たい批判を受けつつ妹たちの間を転々とする間、勝子は兄の看病のために子供達を置いて上京。旅中に大きな船も小さな楫で動く様子を見て、「自分も今後この楫を以って我が生活の羅針としよう」という決意のもと、「勝子」から「楫子」へ改名。40歳の再出発です。
「我弱ければ」
 兄の看病と放漫財政を正しながら、教員伝習所に通い訓導試験に合格した楫子は芝の桜川小学校(現・港区立御成門小学校)で教員として働き始めます。ところが、楫子は妻子持ちの書生・鈴木要介との間に女児を出産、きょうだいは堕胎を迫り、書生は妾の戸籍登録を迫りますが、梶子は女児に妙子(湯浅清子の母)と名付けて練馬の農家に預けて独り下宿生活に戻ります。「女は何て弱いのだろう」。楫子はある日、米国宣教師で炎の教育者・マリア・ツルー夫人と出会います。築地居留地にある新栄女学校の教師に請われ同女学校の寄宿舎監室に移った矢先、孤独から煙草をたしなむようになっていた梶子は不注意でボヤ騒ぎを起こします。以降、梶子は煙草をきっぱりと止め、ツルー夫人と共に女子教育向上はじめ看護教育また幼児教育に力を注ぎます。さらに櫻井ちか女史から櫻井女学校を託され校主代理に就任すると、楫子は校則を作らず「あなたがたは聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい」と女生徒ら個人の尊重ならびに自治を促します。櫻井女学校と新栄女学校は合併して女子学院となり、梶子は初代院長になります。ミッションスクールで初めて皇后誕生日を「地久節」として祝日にしたり、禅僧を招いて国語や漢文の教師とします。
「天国は日本からでも、アメリカからでも、距離は同じでしょう」
 楫子は46歳のとき築地新栄教会で洗礼を受けると、婦人矯風運動(禁酒運動)に率先して参加するようになります。米国の禁酒運動家メアリー・レビット夫人来日を期に、平和・純潔・酒害防止を三大目標に掲げて東京キリスト教婦人矯風会を組織。国会開設と共に「一夫一婦制の確立」「海外醜業婦(からゆきさん)の取締・防止」を2大誓願として提出、さらに「婦人参政権」「廃娼・禁酒運動」を始めます。 東京大久保に娼妓をやめた女性の支援施設「慈愛館」を設立、婦人救済運動を起こします。60歳のとき矯風会の全国組織を結成、日本キリスト教婦人矯風会会頭となって、アメリカはじめ欧州・台湾・満州・朝鮮まで婦人福祉のために奔走します。日清・日露戦争下で楫子は、兵士を助けるよう会員に献金を勧めたり、戦地に赴いた軍人たちに慰問袋を送ったり、徴兵された家族を保護して妻を教育し職業を斡旋します。ならびに満州・朝鮮へ視察を兼ねた講演に赴き、大連・旅順・奉天・京城・仁川・平壌などに主に日本人による矯風会支部を設立。しかしながら楫子は満州・朝鮮への公娼制導入に反対の声をあげることなく、日露戦争の勝利ならび植民地化政策を支持します。一方、梶子90歳のときに日本婦人平和協会(現在の婦人国際平和自由連盟日本支部)理事長の井上秀女史とともにワシントン軍縮会議に出席、ハーディング大統領と面会し、平和を祈る日本のキリスト女性信者1万人が署名した嘆願書を手渡します。翌年、楫子は平和を求めるアメリカ女性宣教団体「戦争の原因究明と解決策創出のための全国委員会NCCCW」から日米相互理解について一致して努力することを誓う電報を日本女性代表として受け取ります。

-日本キリスト教婦人矯風会 KYOHUKAI

-四賢婦人記念館 Shiken Fujin Memoria Museum

-アメリカ大使館 U.S. Embasssy Japan

-婦人国際平和自由連盟(WILPF) Women's  International League for Peace and Freedom JAPAN Section

「海よ風よ 人の心よ 甦れ」

"Oceans, winds, human hearts, revive."


石牟礼 道子 女史 

Ms. Michiko Ishimure

 1927 - 2018

熊本県天草市 生誕

Born in Amakusa-city, Kumamoto-ken


石牟礼 道子女子は、水俣病闘争を主導した日本における環境運動の先駆者です。水俣病ならびに近代社会の苦しみを訴える『苦海浄土 わが水俣病』を刊行。ならびに水俣病患者の支援組織「水俣病を告発する会」を結成。さらに水俣病を通して近代社会の断層を記録するべく「不知火海百年の会」ならびに「不知火海総合学術調査団」を結成。

Michiko Isummure is a pioneer in the environmental activist in Japan who led the fight against Minamata disease. She published "My Minamata Disease: Paradise in the Sea of Sorrow", which served as a testimony to the suffering caused by Minamata disease and modern society. She also established the support organization for Minamata disease patients, "Minamata Disease Disclosure Society." Furthermore, to document the rifts in modern society through the lens of Minamata disease, she founded the "Firefly Sea Hundred-Year Society" and the "Firefly Sea Comprehensive Academic Research Team."

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≪じぶんの体があまりに小さくて、ばばしゃまぜんぶの気持ちが、冷たい雪の外側にはみ出すのが申し訳ないきがしました≫

道子は、道路・港湾工事を手がける石工棟梁の家に生まれます。祖父は住み込みまた通いの職人数十人ならびに妾また隠し子を抱え、祖母は発狂、父・亀太郎は経理を担って一家の放漫経営を支え、母・ハルノは祖母の世話ならびに職人集団の賄い・酒宴の支度を引き受け、道子は神経の病んだ祖母と心通わせます。

≪にじの国 -とこしえに未完のうた、-これをあなたにお返し致します≫

やがて家業が破綻、一家で水俣川河口に引っ越します。水俣町立第一小学校を卒業後は、会社勤めをしようと水俣実務学校(現 熊本県立水俣高等学校)に入学。戦時下の教員不足により、本人の抵抗も空しく、16歳で代用教員となります。軍事教育に嫌気が差した道子は登校拒否教師となりますが、生徒はじめ校長先生に支えられて終戦を迎えます。アメリカ主導の皇室排除ならびに民主主義教育が始まると、道子は亜ヒ酸で自殺未遂を起こします。さらに20歳の時に家族のためにいやいや嫁ぐも4か月で自殺未遂を起こします。

≪おもかげや 泣きなが原の 夕茜≫

夫・弘は実直で評判の教師で組合活動にも熱心ながら、道子の精神的な話相手にはなろうとしません。1年後に一人息子・道夫が生まれると、道子は水汲み・家事・炊事・洗濯・畑仕事・裁縫の休息日である雨の日に、無料の美術教室・図書館に通います。毎日新聞熊本歌壇に投稿を始めてからは、歌人・蒲池正紀主催の短歌会に参加。そこで歌友・志賀狂太と交流を深め、一緒に死のうとするも先立たれます。

≪毒死列島 身悶えしつつ 野辺の花≫

32歳の道子は、初期結核で入院する道夫と訪ねた市立病院で水俣病患者と出会い衝撃を受けます。熊本大学主宰の水俣病診療会場に出かけて患者また付き添いに紛れ込んで会話に加わって聞き書きを始め、大学の解剖台の上に運ばれて解剖されるまでじっと見続けます。発言の場を求めて、筑豊炭鉱を拠点とする文化運動「サークル村」に参加、機関紙『サークル村』にて「水俣湾漁民のルポルタージュ」を発表します。その後、渡辺京二編集『熊本風土記』にて「海と空のあいだに」を連載発表、42歳の時に『苦海浄土わが水俣病』として講談社から刊行。渡辺京二とともに「水俣病を告発する会」を結成、機関紙『告発』刊行。患者らと一緒に、厚生省水俣病補償処理委員会会場を占拠してビラを配って直訴、大阪のチッソ株主総会に乗り込んで加害責任を直接追及、東京のチッソ本社前に1年8か月座り込んで社長との直接交渉を実現します。訴訟終結後、さらに道子は「不知火海百年の会」ならびに「不知火海総合学術調査団」を結成、水俣病を通して見え始めた近代社会の断層をあらゆる角度から地域住民はじめ専門家ですくいあげ普遍化する取り組みを開始。さらに、美智子皇后に手紙をおくり、2013年天皇皇后両陛下の水俣胎児性患者との対面を後押しします。

-水俣病資料館 Minamata Disease Municipal Museum

-くまもと文学・歴史館 Kumamoto Museum of Literature and History

「女に相談してください。女は知恵がありますからどんな知恵でも出します。」
"Please consult a woman. Women have wisdom, and they will give you any wisdom."

山北 幸 (旧姓 井上 幸)女史
Ms. Sachi Yamakita / Inoue Sachi
1913 - 2013
熊本県球磨郡湯前町 生誕
Born in Yunomae-machi, Kuma-gun, Kumamoto-ken

山北幸女史は農業組合法人下村婦人会市房漬加工組合の創設者。
敗戦後の困窮する九州の農村で婦人会を発足、100%地元の素材でつくる「市房漬」で「食の安心安全」「地産地消」「女性の地位向上」の取組みを全国に拡大。
Ms. Sachi Yamakita is the founder of the Shimomura Women's Association. She established women's association in a rural village in Kyushu that was in poverty after the defeat in the war, and the efforts to promote "Safe Food",   "Local Food" and "improvement of the status of women" were expanded nationwide through "Ichihusazuke" made from 100% local ingredients.

「お金なしじゃ始まらない」
 幸は、球磨川上流の市房山ふもとの過疎の町に、地主の父・井上朋房、母・トモエの長女として生まれます。大勢の男衆・女集がいる大家族。祖父母にに可愛がられ「あるものを活かす」知恵と心を学びます。人吉高等女学校に進学。軍医・深松深を養子縁組の上で結婚、夫婦で満州に渡ります。太平洋戦争が開戦されると、子供を連れて帰国。敗戦後、耳鼻科・内科山北医院を開業。幸は看護婦・薬剤調整師・受付・経理として夫を支えます。戦後の混乱で貧しい暮らしが続く中、お金がないからといって子どもを病院につれてこない母親たちを叱り飛ばしながら、貧しい子供たちを温かく迎え入れます。闇市ででも薬を買って揃えなければならない幸は、盆また暮れにお金をいただきにまわるも、1円何十銭でも病院のお金が払えない人もあります。「お金なしじゃ始まらない」。学習用具にも事欠く子どもたちのために、幸は英語の辞書数十冊を熊本市内の緑書房や熊本書院の古本屋に求めて病院内に揃えます。

「はじまりは頼母子講」
 まもなく農地解放で農協が小作人と小地主に分裂、対立は子供たちにまで尾を引きます。幸は、地域内の和を取り戻そうと、女性達に呼びかけて毎月1日・15日に地区の公民館に集まって話し合いの場に設けます。100円・200円を持ち寄って集まったお金をくじ引きでもらい受ける「頼母子講(たのもしこう)」を始めます。次に、婦人達の話し合いの中から、生活改善資金づくりとしてモノづくりの発想が生まれます。はじめに、藁ほうき・シュロの葉のハエ叩きをつくり手分けして売って回ります。続いて、一握りの米を持ち寄った「握り米貯金」と、当番制で育てた養鶏卵を町に売りに行きます。さらに、不必要な生け垣を取り払って茶の栽培を行う一方、雑草が生い茂っていた庭を手入れして菜葉類・根菜類の栽培を開始、市房ダム建設作業員に売りさばきます。売上で、公民館の備品を揃え、子どもたちの滑り台・ブランコ・「仲よし文庫」図書館をつくります。

「市房漬」
 やがて減反政策で米作り農家は転作を強いられるも、野菜を作りたくてもかんじんの水が足りない。婦人会メンバーは野菜の収穫量を増やそうと灌漑用水路を整備。すぐに豊作貧乏で悩む中、収穫された野菜を加工しようと発想が生まれます。幸の家の物置小屋を作業場にして、ハダカムギと大豆を3升ずつ持ち寄って甕仕込み製法による味噌を造り、家庭から持ち寄った野菜を地元の焼酎と一緒に4斗樽2本に味噌漬けして町内また隣町まで売りに出かけます。町の産業祭の「ふるさとの味」コンクールに出品、審査員に素通りされ激怒した幸は役場にまで漬物を持ち込んで一等賞を獲得。リアカーを引いて隣村まで売って回ります。販売量が増加すると数年後には村から譲りうけた土地を漬物置き場に、さらに数年後には国の補助金を得て漬物加工場の建設を開始。さらに数年後には「市房漬」を商品登録します。その数年後には、熊本県と国土交通省の物産コンクールに入賞、そして第2回全国郷土特産展にて明仁皇太子・美智子妃(現上皇上皇后両陛下)が商品をお買い上げ。幸は婦人会メンバーと飛行機で飛び回って、首都圏また関西の物産展・デパートなどでの展示販売をはじめます。婦人会の収益で会員たちを専属的に雇用して給与を支払い、漬物加工施設の備品・什器を拡充、農業組合法人下村婦人会市房漬加工組合を設立します。

「食の安心安全」
 郷里出身の衆議院議員・福永一臣の夫人・美津子(斎藤美津子)の推薦により、季刊誌『暮らしの手帳』で「市房漬」の特集が組まれます。地元農家から買い取る無農薬の大根・人参・胡瓜・生姜・茄子・高菜などを地元の球磨焼酎と自家製味噌に漬け込んだ「市房漬」、平家から伝わる保存食「柚餅子」、水蜜桃の摘果された小さなモモのグラッセ「小さなモモ」など、下村婦人会の漬物は「無添加食品」「純自然食品」として注目され、デパート、スーパーマーケット、関東関西の問屋を介して全国的に販売されます。「おふくろの味」「ふるさとの味」の流行に乗って売り上げは3倍に、漬物の種類は30種類に増えます。同時に「女性主導の村おこし」として新聞・雑誌・TVなどで話題になり、漬物工場には視察団が押し寄せ、幸は全国の講演会に引っ張りだこになります。「私は漬物屋のばばあをもう50年しております。そして、何とかここであるものを全部生かしております。捨てたなんていうことはありません、本当に。そしていろんなものがまだできます。」「私たちは余って捨てるようなものまで買い取って、何かならないか工夫して考えて商品にしてきました」「私たちがつくるものは、全部下村のものばかりです。保証します。」「女に相談してください。女は知恵がありますからどんな知恵でも出します。」下村婦人会の理念が工場に掲げられています。「1.安全であること 2.ごまかしのないこと 3.味の良いこと 4.価格が妥当であること」

-下村婦人会
-『暮らしの手帖』1971年2月

「素直な気持ちで感じて素直に表現しよう」
"Feel with honesty and express with sincerity."

植田 いつ子 女史
Ms. Itsuko Ueda
1928年 - 2014
熊本県玉名市 生誕
Bron in Tamana-city, Kumamoto-ken

植田 いつ子 女史は、美智子皇太子妃殿下(現 上皇后陛下)の専属デザイナーを拝命した、日本のファッションデザイナー。オートクチュールを中心に、プレタポルテ、ジュエリーのデザイン、舞台衣装の「植田いつ子コレクション」を毎年発表。格調高く、シンプルなデザインと色調の優雅な服作りが評判となり、1976年から皇太子妃殿下(現皇后陛下)のデザイナーを勤める。
Ms. Itsuko Ueda is a Japanese fashion designer who was appointed as the exclusive designer for Crown Princess Michiko (now Empress Emerita Michiko) of Japan. Specializing in haute couture, she annually presents the "Itsuko Ueda Collection," which includes "prêt-à-porter", jewelry designs, and stage costumes. Renowned for her refined and elegant designs characterized by simplicity and graceful color schemes, she has served as the designer for the Crown Princess (now Empress) since 1976.

「美しいものを創りたい」
 いつ子は玉名市河崎の商家で6人兄弟に生まれる。しばらくして父親が自転車店を営むため玉名駅前に引っ越します。玉名町弥富小学校3年の頃に支那事変(日中戦争)、高瀬高等女学校を経て学徒動員がなかった熊本県女子師範学校に進学、「まったく色のない生活」は女学校卒の年の敗戦と共に明けます。いつ子は文化サークルに参加。早速、母親のためにへちま衿の柔らかいワンピースを手作りします。気に入った母は外出の度に来ては周りから褒められます。「美しいもの」への憧れは日に日に増します。いつ子は自分はデザイナーを目指して上京を決意。終戦後の混沌とした時代に若い娘が一人で未知なる東京に旅立たせることに両親は大反対。いつ子は父母の説得に幾度か絶望しながらも、誠心誠意上京できるように努めます。やがて兄妹も一緒に両親を説得、いつ子は東京行き鹿児島本線「霧島」に乗り込みます。

「デザイナーの2人の師」
 東京駅に着いたいつ子は、さっそく桑沢デザイン研究所・桑沢洋子先生を訪ねます。デザインの勉強したいと意気込むいつ子に、桑沢先生は「とりあえず予備の研究科に入って来年研究科に進めばすぐ追いつくでしょう」。例外的に手続を進めてくれます。色のない時代に、素晴らしい色使いをする桑沢先生はじめ講師たちは「人間が着るものとして洋服はどうあるべきなのか」いつ子に問います。いつ子は、夜は美術研究所、週末はお茶の水にある文化学院のデザイン科さらに絵画教室に通いながら、実習をこなします。1mm単位の精度を求められる仕事に絶望しかけるいつ子に、桑沢先生は銀座の高級アトリエ「銀座ビジョン」「銀座レインボー」を紹介。物資不足で生活するだけでも大変な時代に、チーフデザイナーのジョージ岡に日本人の美意識と伝統の布地の素晴らしさを学びながらドレスづくりに専念します。

「クリスチャン・ディオール」
 二人の師に出会って約8年目、いつ子は「植田いつ子アトリエ」を開設。国内外のいろんな洋服はじめ音楽・絵画などいろんな表現に触れながら、自分のフォルムを手探りしながら確立しようと格闘します。初めて日本の旧東京会館で行われたクリスチャン・ディオールのオートクチュールコレクションに衝撃を受けます。「服というものがこんなにまでも人を表現できるのか」西欧文化との揺るぎない根の深さが逆に、いつ子を奮い立たせます。「素直な気持ちで感じて素直に表現しよう」いつ子は30代で初めてヨーロッパを見て周り西洋文化・芸術に圧倒されながらも、和魂洋才の服作りに邁進します。独立して8年目、自分の表現を確立し始めてオートクチュールコレクションを発表。19年目には、ファッション界の芥川賞と呼ばれるFEC賞を受賞。パリでファッションショーを開催します。

「美智子皇太子妃専属」
 翌年、美智子皇太子妃殿下(現 上皇后陛下)の専属デザイナーを拝命します。びっくりしたいつ子は躊躇するも、東宮御所でに出向いたいつ子は美智子皇太子妃の前で素直な心情をお伝えします。「輸入文化である洋服の造形フォルムの中に、私なりの日本人の心情・美意識を取り入れていきたい」いつ子は美智子皇太子妃の日本女性の美点に花を添え、お役目を遂行されるように、心を込めて洋服をつくります。美智子皇太子妃殿下(現 上皇后陛下)はニューヨークの国際ベストドレッサー賞を3度も受賞。いつ子は、日本の文化・歴史を熱心に探求しながら、着物のデザインなど新しい挑戦を続けます。「日本の女性を美しく見せるには日本の土壌に合ったものを作らなくてはならない」

-宮内庁
-玉名市博物館
-桑沢デザイン研究所
-『新婦人』(文化実業社, 1957-05)

大分県 Oita-Ken

野上 弥生子 女史

Ms. Yaeko Nogami

1885 - 1985

大分県臼杵市 生誕

Born in Usuki-city, Oita-ken

「女性である前にまず人間であれ。」

"Before anything else, be human, regardless of being a woman."

野上弥生子女史は女性作家として初めて文化勲章を受章した小説家です。戦争そして敗戦へ向かう時代を重層的に描いている『迷路』は戦後文学の代表作とされています。彼女の生家の味噌醤油を運ぶ高吉丸の船長から聞き及んだ遭難中の恐ろしい出来事について描いている『海神丸』はカニバリズム小説の先駆けとされています。
Ms. Yoshiko Nogami is a novelist who became the first female writer to receive the Order of Culture, a prestigious honor in Japan. Her novel "Meiro (Labyrinth)" is regarded as a representative work of post-war literature, depicting the era leading up to the war and the subsequent defeat in a multi-layered manner. "Kaishinmaru (Sea God)", inspired by the horrifying events during a shipwreck that she heard from the captain of the Takayoshi-maru, a vessel transporting her family's miso and soy sauce, is considered a precursor to cannibalism literature.

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弥生子は大分県臼杵町の小手川酒造(後のフンドーキン醤油)の長女として生まれ、幼少から国文・漢文・英語を習います。東京の叔父方に身を寄せ明治女学校普通科に通います。夏目漱石門下の野上豊一郎と結婚。豊一郎を介して1m半に及ぶ巻紙の長い書簡で漱石から丁寧な添削指導を受け、『縁』を書きあげると、さらに漱石の推薦により『ホトトギス』に掲載され22歳で作家デビューを果たします。「もし文学者たらんと欲せば漫然として年をとるべからず、文学者として年をとるべし」の批評を大切に、99歳で没するまで息長く旺盛な作家活動を続けます。弥生子の母校・明治女学院の厳本善治をめぐるスキャンダルならびに校舎全焼をモデルに『放火殺人犯』を、実家に出入りする渡辺徳蔵という船乗りが遭遇した実話をもとに『海神丸』を、資本主義経済で衰退する東北の地主に嫁いだ同級生をモデルに『腐れかけた家』を、共産党員の宮本百合子をモデルに『真知子』を、長男が通う高等学校での学生ストライキをモデルに『若い息子』を書きあげます。さらに、夫や息子を戦場に送り出す女性たちのために『迷路』を書き始めますが、日中戦争が勃発。一時中断せざるを得ず、日英交換教授として渡欧した夫に同行、スペイン動乱はじめパリでのドイツ軍による開戦の報など第二次世界大戦の開戦を間近で体験、またアメリカの強大な国力や工業力に脅威を抱きます。敗戦後『迷路』を再開、戦前戦後と20年かけて完結します。夫亡き後は、法政大学女子高等学校名誉校長を務めたり、哲学者田辺元との「老年の恋」を楽しんだりしながら、明治女学校を舞台とした自伝的小説「森」の執筆を開始、完成を目前に永眠します。

-野上弥生子文学記念館 Yaeko Nogami Memorial Muesum

-フンドーキン醤油株式会社 Fundokin Shoyu Co., Ltd

「男性社会において、女性はアウトサイダー」
"In a male-dominated society, women are outsiders."

吉崎 道代 女史
Ms.Michiyo Yoshizaki
1942 -
大分県国東市 生誕
Born in Kunisaki-city, Oita-ken

吉崎 道代 女史は日本で初めて国際的に活躍した女性映画プロデューサー。「ニュー・シネマ・パラダイス」などを買い付け、アカデミー賞ノミネート作品「ハワード・エンド」「クライング・ゲーム」をプロデュース。
Ms. Michiyo Yoshizaki is the first female film producer to achieve international recognition in Japan. She acquired films such as "Cinema Paradiso" for Japan and produced Academy Award-nominated films such as "Howards End" and "The Crying Game."

「ターザンとマーロン・ブランド」
 道代は国東半島の映画館もない田舎町に、教員の父と専業主婦の母のもと7人きょうだいに生まれます。小学生のときに学校講堂『類猿人ターザン』(1932年)を観て近くの山のジャングルでターザンと猿と自分の物語を演じます。中学のときに東京に家族で上京。続いて『欲望という名の電車』(1951年)を観てマーロン・ブランドに恋焦がれます。「あの人と一夜でも過ごせたら死んでもいい」。兄姉が東大、一橋大、東京教育大(現筑波大)、お茶の水女子大と合格する中、道代は大学入試に全部落ちます。「一旗揚げるには海外に行くしかない」。道代は世界一の映画学校と言われるイタリア国立映画実験センターを目指します。拙い英語で100枚の論文を提出、19歳で日本人で3人目、女性で初めての入学許可を得ます。次に「結婚資金を留学費用として使わせてくれ」毎日毎日両親に頼み込みます。下校時に通るお寺でも「海外に行かせてください」と毎日祈願します。1年後ようやくイタリアに渡ります。

「映画漬け」
 道代は第一希望の監督コースではなくプロデューサーコースに進みます。学校の授業料は無料、ランチも無料、生活費まで支給されます。ルキノ・ビスコンティ監督、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督、ロベルト・ロッセリーニ監督から講義を受けます。「映画を志すなら年に300本以上は見なさい」道代は夕食を包んで映画館で食べて1年に400本を見ます。1年を過ぎた頃に学生ストライキが勃発、学校は10年にわたって閉鎖されます。有色人種差別で就職活動に苦しむ中、道代は「キネマ旬報」に記事を寄せていた縁で、外国映画を配給する日本ヘラルド映画の面接にミニスカートで駆け付け、社長から則採用されます。続いてヘラルド・ポニーという新会社の重役に抜擢。日本のビデオカセット市場用に、ヨーロッパの名作映画を買付けます。そしてヘラルド・ポニーと日本ヘラルド映画のヨーロッパ総代表としてイタリアに駐在。ディストリビューターとして欧州映画の配給権の買い付けに携わります。

「ニュー・シネマ・パラダイス」
 道代はイタリア・ローマでジュゼッペ・トルナトーレ監督とカジュアルレストランでコミュニケーションを重ね、「ニュー・シネマ・パラダイス」(1988年)の日本配給権を30万ドルで買取ることを決断。世界映画史のベストテンに選ばれるほどの大ヒットで、日本ベストディストリビューター賞を受賞します。続いて、道代は知り合いのイタリア人プロデューサーに観客を泣かせる映画をリクエスト。アメリカ映画「ある愛の詩」(70年)のオマージュ作品「ラストコンサート」(1976年)の製作費50万ドルを会社に出資させます。道代のプロデュース映画第1号は1500万ドル以上の利益を上げます。そして大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」(1983年)の全契約を取りまとめます。しかし、親友プロデューサーと一緒に推薦した「ラストエンペラー」(1988年)「ダンス・ウィズ・ウルブズ」(1991年)は上司に却下されます。両作品とも大ヒットしてアカデミー賞で9部門ならびに7部門を受賞します。

「ハワーズ・エンド」
 経済バブルの真っ只中、道代は、会社のイメージアップと優秀な学生の確保を訴えて住友商事・バンダイ・横浜銀行・日本ヘラルド・イマジカなど大手企業から資金を調達。NDF(日本フィルムディベロップメントアンドファイナンス)ジャパンという映画製作会社を設立します。「ハワーズ・エンド」(1992年)はオスカー9部門でノミネート。「クライング・ゲーム」(1992年)はオスカー6部門にノミネートされ脚本賞を受賞。道代は120万ドルの高揚感に浸ります。特にイギリスで評判を呼び、ロンドンにNDFインターナショナルを設立。世界の映画界で認識され始める一方、日本支社が勝手に外国プロデューサーと次々と映画を作り経営が傾きます。NDFジャパンと決別した道代はロンドンにNDFインターナショナルを設立。インディー映画会社として100%株主になって映画製作ファンドの投資家を募ります。

「ミニスカートのタフネゴシエーター」
 道代は男性優位社会の中で見下されたり侮られたりしないように、ビジネスのノウハウはじめ、プロポーションにも気を付けブランドファッションに身を包み、出資者と一緒に夕食を取りながらネットワークを広げます。1年かけて企画を練って、資金を集めて、映画をカタチにします。女性プロデューサー自体珍しく、男性と「一緒に夕食をしましょう」はセックスも含まれるという女性プロデューサーのハンディを乗り越えながら、息子をベビーシッターに預けて世界を駆け巡ります。興行収益が伸びずに120万ドルの負債を抱えたり、製作権利権を巡ってマイクロソフトから120万ドルを獲得したり。何度も銀行にお金を借り、家を抵当に入れたり戻したり。道代の代表作「クライング・ゲーム」で親しくしたミラマックスのハーベイ・ワインスタインのセクハラ行為を全然知らなかったことを悔やみながらも、道代は毎日人間観察をして、いい原作を買い取って、トリートメント(ストーリーライン)を作って、シナリオライターとコミュニケーションして、新しい映画を描き続けます。

-「嵐を呼ぶ女」(吉崎道代 キネマ旬報社刊 2021年)
-The British Independent FIlm Awards

宮崎県 Miyazaki-Ken

鳥原ツル 女史

Ms. Tsuru Torihara

1895 - 1981 

宮崎県宮崎市 生誕

Born in Miyazaki-city, Miyazaki-ken

鳥原ツル女史は日本で最初の女性小学校長です。

Ms. Tsuru Torihara is Japan's first female elementary school principal.


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ツルは宮崎県最初の訓導(正規教員)の一人である父のもと生まれます。宮崎県師範学校女子部(現在の宮崎大学)を卒業、木花小学校、大淀小学校、宮崎県師範学校附属小学校で教員となります。25歳であった1920年に、古城小学校の校長に着任。全国で初めての女性校長が誕生します。大きく新聞で報道され、全国から激励の手紙が相次ぎます。ツルは終日、運動場や教室で児童と一緒に過ごします。理科の授業の一部を家庭科で行い、図書室や炊事場を利用して家庭科の実習を行うなど、形にとらわれない実際の家庭生活の役に立つように教えています。また、校長着任の年に古城小学校併設の農業補習学校長も兼任。校区の住民に青年教育の必要を説き、自ら夜学の指導にもあたります。彼女の情熱的な指導は、児童だけでなく住民からの惜しみない協力を引き出し、運動会・学芸会などの学校行事には父母や青年団が出て進んで奉仕、古くなっていた校長住宅を青年団が山から木材を切り出し立派な瓦ぶきの住宅に建て替えます。校長在任2年で旅順高等女学校に転任。35歳で結婚して教育界から引退します。

-宮崎県教育情報通信ネットワーク Miyazaki Prefecture Education Network

「ソバはね、三角で角が大きいと身が少ない。丸いのがいっぱいつまっとっとよ。この種を切らしたくないけん、50年も60年も焼き畑をしてきたとよ。これが何千年も昔からの種。」
"Well, you see, when it comes to soba, if the grains are triangular with big corners, they're a bit light. But the round ones, they're packed tight. Been tending to these seeds for 50, maybe 60 years, working those kiln fields. This strain, it's been around for thousands of years, don't want to lose it."

椎葉 クニ子 女史
1924 - 2023
宮崎県東臼杵郡椎葉村 生誕
Born in Siba-mura, Igashiusuki-gun, Miyazaki-ken

椎葉 クニ子女史は、先祖から受け継いだ日本の伝統的焼き畑農業と在来種・固有種の種を夫婦で守りながら、著書・ドキュメンタリー・講演会・民宿経営を介して、国内外のたくさんの人々に持続的かつ循環的な有機農法を伝承しました。
Ms. Kuniko Shiiha, along with her husband, has preserved Japan's traditional fire-fallow cultivation passed down from their ancestors, as well as heirloom and indigenous seeds. Through her books, documentaries, lectures, and running a guesthouse, she has shared sustainable and cyclical organic farming methods with many people both domestically and internationally.

 「平家の落人の村」
 クニ子は熊本県境の尾根近く湧き水に恵まれた緩斜面の集落、椎葉村に生まれます。壇ノ浦の戦い敗れた平家の落人たちが移り住んで以来、田んぼが無い山を切り開いて木を焼いてヒエ・アワの雑穀を中心に育てる厳しい生活。ヒエを大人5・6人がかりで臼について脱穀する重労働から生まれたヒエつき節を聞きながら、クニ子は幼少時から、焼き畑・山仕事を手伝いながら、食べられる草・木の実、薬になる植物、生活に利用できるもの、危険なものを父母村人から教わります。「ワラビをその年に初めてみたらすぐに足に塗るとよ。ヘビもワクド(カエル)も嚙みつかん。昔、刈った草に刺さったヘビが隣に伸びてきたワラビの若芽に押し上げられて助かったんだと。」クヌギの樹木の幹に耳をあてて時期を見極めて切り倒すと、なたで傷をつけシイタケの胞子が傷に付着するのを待つ「鉈目法」でナバ(シイタケ)の原木を世話します。食糧不足時には、キツネノカミソリ・オオセといったヒガンバナ科の毒草の根を掘り出して、大変な労力と手間をかけて、炊いたり水にさらしたりを何度も繰り返して団子にして食べます。

「焼き畑農業」
 クニ子は尋常小学校を卒業してまもなく大阪の紡績工場で働き郷里を1年離れるも、もう日本全国何もない激動の時代に突入。椎葉に戻って結婚、夫・秀行と村の中心から車で1時間ほど分け入った標高900メートル・50ヘクタールの山野ならびに焼き畑を受け継ぎます。焼き畑農業は1年目はソバ、2年目からヒエ・アワ、3年目は小豆、4年目は大豆、5年目は栗を植えて自然に返し、約20年間地力の回復を待ちます。火入れに祈り「このヤボに火を入れ申す。ヘビ・ワクドウ(蛙)・虫けらども早々に立ち退きたまえ。山の神様・火の神様・お地蔵様、どうぞ火の余らぬよう、また焼き残りのないようお守りやってたもうれ。」、種まきに祈ります。「これより空き方に向かって蒔く種は、根太く、葉太く、虫けらも食わんよう、一粒万倍千俵万俵仰せつけやってたもうれ。」農薬を使わずに病害虫も焼き払った草木の灰で土の栄養価を高め、畑の作物・山菜・きのこなどの持続的な恵みをもたらす自然農法、そして先祖代々守られてきた在来種・固有種の種を守ります。50年も60年も同じことを続けているうちに、気づくとクニ子たち夫婦が全国唯一の焼き畑農家となります。

「山村のサイクル」
 やがて農学部・民族学部の研究者はじめマスコミまた観光客が頻繁に訪れるようになると、周囲から勧められて民宿「焼畑」を始めます。名物はクニ子の500種類以上の生活に密着した植物の話、それから椎葉に伝わる山村料理。焼き畑1年目につくるソバでつくったソバガキと大根・人参・里芋・干し竹の子・冬の猪また鶏の味噌仕立て「ソバわくど汁」、そば粉と手近な野菜類を塩味で煮て練り上げた「ソマゲ」。焼き畑2年目につくるヒエを米と猪と一緒にとろとろに塩見で煮込む炊きあげる「ヒエずーしー」。焼き畑3・4年目につくる大豆と平家カブの葉っぱを混ぜ込んで作る「ひきわれ」はじめ、春は桜に菜の花・夏はヤマフジ・秋は菊入りの「菜豆腐」。「芋から作るこんにゃくの刺身」、「紫蘇・野菜・果物の味噌漬け」などなど。夫・秀行も一緒にセンブリやキハダをつけこんだ自家製の焼酎を振る舞います。やがてクニ子の聞き語りが書籍化され、ドキュメンタリーに出演を果たしクニ子は、国内外のたくさんの人々に自然のサイクルの中で暮らす椎葉村の農業・営みを語り伝えるうちに、高千穂郷・椎葉山の焼き畑はじめ農林業が国連・食糧農業機関の世界重要農業遺産システムに認定されます。

-『おばあさんの植物図鑑』斉藤 政美(文)・椎葉 クニ子(語り)/ 葦書房
-『おばあさんの山里日記』佐々木 章(文)・椎葉 クニ子(語り)/ 葦書房
-『クニ子おばばと山の暮らし』椎葉 クニ子(著) / WAVE出版
-『森聞き』(2011年 日本映画)
-『千年の一滴 だし しょうゆ』(2015年 日仏合作映画)
-『NHKスペシャル クニ子おばばと不思議の森』(2011年 NHKドキュメンタリー)

-民宿「焼き畑」

-「雲仙たねをあやす会」
クニ子が守った平家大根・平家カブの種を受け継いだ人々。

-平成17年度 国土緑化推進機構「森の名手・名人100人」

鹿児島県 Kagoshima-Ken

「閑古鳥呼べば答えるものながら」

"When I call out, the silent cuckoo responds."


丹下 梅子 女史

Ms. Umeko Tanka

1873 - 1955 

鹿児島県鹿児島市 生誕

Bron in Kagoshima-city, Kagoshima-ken


丹下梅子は日本初の女子帝大生化学者で、日本女性で初めてアメリカの大学から理学博士の称号を受けました。40歳を過ぎてから78歳まで栄養学の研究に打ち込んで多くの論文を発表し、授業を続けました。

Umeko Tange was the first female biochemist at an imperial university in Japan, and the first Japanese woman to receive the title of Doctor of Science from an American university. From the age of 40 until the age of 78 she devoted herself to research in nutrition, published many papers and continued her teaching.

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「将来は学者にしてみせる

梅子は、製糖や製塩で財を成父・伊左衛門と、人づくりの名人である母・エダのもと7人きょうだいに生まれます。丹下家は鹿児島市中心部に広大な敷地といくつもの蔵を持つ裕福な商家で、梅子のきょうだいは東京の大学に進学して教鞭を執るなど優秀な成績を修めていました。3歳の時に、u目子は不慮の事故で片目を失明。責任を感じた母は娘を学者にすると誓います。幼少時から飽きっぽい梅子の小学校での成績は芳しくない、勉強よりもままごとよりも人形遊びよりも好きなことは、木の皮をせんじること、草の葉や木の実から色を取りだすこと、天びんを作って遊ぶこと。しかしながら、母ならびに姉の猛特訓のお陰で、梅子は13歳のときに最年少で師範学校に入学、ならびに首席で卒業します。17 歳で鹿児島県立女子師範学校(現在の鹿児島大学教育学部)を卒業、母校の名山小学校、技芸学校(現在の鹿児島女子高校)で10年教鞭を執ります。この頃、家業を継いだ兄が事業に失敗、丹下家は莫大な借金を抱え家屋まで失います。そこで梅子は勉強を続けるために、母方の親戚で農商務次官・貴族院議員・元老院議官を歴任した前田正名男爵の支援、さらに日本女子大学校の創設を目指す成瀬仁蔵の援助を取り付けます。28 歳で 開校したばかりの日本女子大学校家政学部に入学、寮に入って舎監として働きながら勉学に励みます。さらに「日本の薬学と有機化学の祖」長井長義教授の助手となった梅子は、文部省の化学中等教員検定試験に女性として初めて合格。40歳で東北帝国大学理科大学(現在の東北大学理学部)に入学を果たし、黒田チカ、牧田らくと共に女性初の帝大生となります。重い結核にかかり2年休学しながらも、実験の腕を見込まれて臨時の助手を務めたり、男子学生の尊敬を得ながら、45歳の時に首席で卒業。大学院に進学して真島利行教授の指導のもとで有機化学と生物化学を専攻します。

「化学の鬼・丹下梅子」

梅子は有機化学・生物化学の知識を活かして、日本であまり研究者のいない栄養学を極めるために海外留学への挑戦を決意します。前田正名男爵ならびに成瀬仁蔵相談をして、欧米の理科教育・児童栄養についての調査として、文部・内務両省の嘱託研究員して海外派遣の任命、ならびに日本大学からの研究支援を受けることに成功します。48歳でアメリカに留学、8年間に渡って4 つの大学に在学・就職します。スタンフォード大学、コロンビア大学で栄養化学を修め、54歳のときジョンズ・ホプキンス大学にてマッカラム教授の指導のもと「ステロール類のアロファン酸エステルの合成と性質」で博士号を取得。この研究は有機化合物の合成や分離精製など高度な実験技術を要するもので、研究成果は生化学分野で最も権威のある学術誌『Journalof Biological Chemistry』に発表されます。さらにマッカラム教授の推薦でオハイオ州のシンシナティ大学の助手として勤務、胆汁酸の研究に従事。8年間のアメリカ留学を終えて帰国したチカは母校・日本女子大学の生物化学担当教授として迎えられます。さらに研究への情熱が尽きない梅子は57歳からビタミン B1 研究で知られる農芸化学の大家鈴木梅太郎に師事、大学の授業を終えた後に毎日理化学研究所に通って研究を続けます。67歳で、「ビタミンB2複合体の研究」で東京大学から農学博士の学位を授与されます。梅子は博士取得後も 76 歳まで理化学研究所に通って研究を続け、78 歳で大学を退職。梅子は退職時に愛弟子・辻キヨに私財を託します。辻は「先覚者丹下先生」を著し、その売上金と合わせて学力・人物優秀者を奨励する丹下賞を創設します。

-日本女子大学資料館 Japan Women's University Museum

-鹿児島大学 Kagoshima Univ.

-東北大学 Tohoku Univ.

沖縄県 Okinawa-ken

「大人になってからも母の懐で聴いた子守歌に愛着を感じるからこそ、世界中でそれぞれの歌が歌い継がれている」

"The attachment to the lullabies we heard in our mother's arms as adults is why these songs continue to be passed down worldwide."


金井 喜久子 女史

Ms. Kikuko Kanei

1906 - 1986 

沖縄県宮古島市 生誕

Born in Miyakozima-city, Okinawa-ken


金井喜久子女史は日本女性として初めて交響曲を作曲し指揮しました。沖縄民謡に因んだ多くの作品を残すとともに、沖縄民謡を採譜した「琉球の民謡」を出版します。ならびに、ひめゆりの塔ならびに沖縄平和祈念館の建設に尽力。沖縄復帰式典では沖縄復帰式典で祝典序曲を作曲しています。

Mis. Kikuko Kanai is the first Japanese woman to compose and conduct a symphony. She left behind many works inspired by Okinawan folk songs and published "Ryukyu Folk Songs," a collection of notated Okinawan folk songs. Additionally, she dedicated her efforts to the construction of the Himeyuri Tower and the Okinawa Peace Memorial Museum. She also composed a festive overture for the Okinawa Reversion Ceremony. 

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「沖縄交響曲」

喜久子沖縄県議員の父と宮古上布の生産で財産を成した母親のもとに生まれます。幼いころから琴・琵琶・ヴァイオリンに親しみ、沖縄県立第一高等女学校を卒業後、日本音楽学校に声楽を学びます。活動写真館に職を得て日々歌い続ける中で結婚。夫の支えのもと、1933年に東京音楽学校の作曲科に女性として初めて入学します。1940年には日本女性としては初の交響曲第1番を3楽章まで作曲、同年に日比谷公会堂で自身の指揮で中央交響楽団 (現・東京フィルハーモニー交響楽団) により演奏します。この作品はドイツ・ロマン派風の作品でした。1944年には日比谷公会堂で「金井喜久子第一回発表会」を開催、「琉球舞踏組曲」、交響詩曲「宇宙の詩」を発表。指揮者が前日に赤紙で応召され、急遽喜久子自身が指揮をすると、女性指揮者の登場に聴衆は驚くとともに大歓声で大成功を収めます。

「琉球民謡から沖縄音楽へ」

終戦後、喜久子は重い録音機を担いで三味線弾きの先生のお宅へ通い、三味線パートと歌詞パートを採譜して回ります。沖縄民謡を採譜した「琉球の民謡」を出版。また、1954年にはブラジルのサンパウロで行われた第7回国際民族音楽会議に日本代表として出席、「日本音楽と沖縄音楽」を講演します。沖縄の戦後復興を描いたアメリカ映画『八月十五夜の茶屋』で音楽を担当、歌舞伎劇「唐船物語」、宝塚雪組公演『今帰仁城物語』、レコード大賞童謡賞受賞「じんじん」など、沖縄民謡を使った多くの作品を残します。さらに喜久子は国会陳情を繰り返し、ひめゆりの塔ならびに沖縄平和祈念資料館さらに沖縄芸術学院の建設に尽力、1975年の沖縄復帰式典で祝典序曲を作曲します。

-沖縄県男女参画センター Okinawa Gender Equality Center

-宮古島市総合博物館 Miyakojima Museum

-沖縄県立芸術大学 Okinawa Art University

-沖縄県平和祈念資料館 Okinawa Peace Memorial Museum 

「いつまでも差別を叫んで、ひがみ根性を持つより、自分たちの力で自分たちの仕事を開発しなければ、沖縄はいつまでたっても立ち直れません。私はその捨て石になるつもりです。」

"Rather than continuously shouting discrimination and harboring resentment, Okinawa will never recover unless we develop our own work with our own strength. I intend to be a stepping stone for that."


照屋 敏子 女史 

Ms. Toshiko Teruya

 1915 - 1984

沖縄県糸満市 生誕

Born in Itoman-city, Okinawa-ken


照屋敏子女史は、日本の先駆的女性実業家。沖縄引き揚げ者をまとめて「沖ノ島漁業団」を結成、沖縄県魚・グルクンの定価改正、沖縄珊瑚の国際入札の実施、琉球びんがた伝統工芸士の育成、沖縄の地理気候を活かしたプランクトン・マッシュルーム・クロダイ・ボラ・クルマエビ・メロン・鯛・アオウミガメ・スピルリナの栽培・養殖・培養の研究また事業展開に従事。沖縄の自立を目指して新しい産業開発に献身した糸満女性です。

Toshiko Teruya was a pioneering female entrepreneur in Japan. She formed the "Okinoshima Fishing Cooperative" to unite Okinawan repatriates. She worked on various projects aimed at promoting Okinawa's self-reliance, including the revision of prices for Okinawa's fish, Gurukun, the international bidding of Okinawan corals, the nurturing of traditional craftsmen specializing in Ryukyuan glassware, and research and business development related to the cultivation and aquaculture of plankton, mushrooms, black porgy, mullet, tiger prawns, melons, sea bream, green sea turtles, and Spirulina, all utilizing Okinawa's geographical and climatic advantages. She dedicated herself to the development of new industries to support Okinawa's self-sufficiency.


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「猛烈アタック」

敏子は糸満の漁師である両親のもと生まれます。両親はブラジル契約移民を志して2歳の敏子を祖母トクに預け出航、母は移民船中で衰弱して死去、父は憔悴しきって帰国するもまもなく死亡。照子は9歳から漁師から魚を買っては頭に載せたかごに入れて10km離れた那覇まで毎日歩いて行商に出かけます。敏子は16歳のときに妻子ある男を南洋まで追いかけ、トラック、パラオ、サイパンなどの島々を巡って工芸品売買を覚えます。恋人と破局して失意の敏子は19歳のときにパラオで糸満小学校の恩師で31歳の照屋林蔚と再会、猛烈アタックの末に結婚します。しばらくして那覇の夫の実家に移り住むと、夫は名家ゆえに徴兵を免れ召集令状を発行する仕事に嫌気が差して海軍に志願してしまいます。敏子はこれに猛反対、すぐに上京して那覇出身の海軍軍人で衆議院議員の漢那憲和に陳情、夫を日本水産那覇工場長に就任させます。まもなく那覇の10・10空襲で照屋家は全焼、漁船を借り切って一家で鹿児島県、熊本県、福岡県の博多に疎開します。ようやく終戦を迎えるとGHQの命令で帰島できず職にもつけず、同じ様に旧植民地や前線から帰還した沖縄出身者が福岡県に溢れます。

「沖ノ島漁業団の女団長」

そこで沖縄県の水産王・照屋家として夫・林蔚と敏子は、那覇市長・富山徳潤ならびに福岡県知事・野田俊作と直談判の上、沖縄引き揚げ者の援護事業として漁業団結成を承認させます。31歳の敏子は沖縄に帰れぬ漁夫300余名を集め、漁船12隻を購入、「沖ノ島漁業団」を結成。長崎県の女島男島方面で操業、網に向かって魚を追い込む糸満漁法(アギャー)で沖縄県魚グルクンを漁りますが、物価統制令で安く叩き売られます。敏子は激怒、ただちに役所に訴え、さらに毎日新聞福岡総局に乗り込んでグルクンの定価改定を勝ち取ります。日本で最大規模の漁業団に成長するも、地元の漁業団との軋轢またアギヤー漁の禁止によって3年ほどで沖ノ島漁業団は解散。40歳の敏子にフィリピンでの水産事業の話が舞い込みます。シンガポールの華僑と合弁会社を立ち上げるも、国際政治の混乱の中で出資金をだまし取られ撤退します。敏子は43歳でついに沖縄に帰る事を決断。

「沖縄産業開発の母」

シンガポールから持ち帰ったワニ革・宝石などをもとに商売を始めます。同郷出身の女実業家・金城夏子の遺産のビルを買いとって那覇の国際通りに店を構えます。敏子は沖縄製品の珊瑚の価格を守るため業界に働き掛けて国際入札を実施。またジャワ更紗・紅型などを販売しながら、首里高校染織科卒業生・屋冨祖幸子を琉球びんがた伝統工芸士・琉球びんがた事業協同組合理事長に育てあげます。さらに敏子は沖縄独立のために沖縄が自立できる産業を育てるべく家族の反対にもめげず、プランクトン・マッシュルーム・クロダイ・ボラ・クルマエビ・メロン・鯛・アオウミガメ・スピルリナの栽培・養殖・培養の研究また事業展開を進めます。大阪万博への出品をめざしてメロンの本格栽培に成功、ワシントン条約のもとアオウミガメの人工ふ化に成功、将来の食糧源としてスピルリナゴールドを発売、沖縄の自立を目指しながら68歳で逝去。

-沖縄県男女参画センター Okinawa Gender Equality Center

-沖縄TV Okinawa TV

海外 OverSeas

「私は自由です。自らに由って生きていますから」

"I am free. I live according to my own will."


篠田 桃紅 女史

Ms. Toko Shinoda

1913 - 2021

中国大連市 生誕

Born in Dalian City, China


篠田 桃紅女史は、水墨抽象画(墨象)を切り開いたアーティストです。彼女の現代的かつ先鋭的な表現は世界中の人々を多岐にわたって魅了しています。

Ms. Toko Shinoda is an artist who has pioneered the realm of ink and wash abstract art. Her contemporary and avant-garde expressions have captivated a diverse audience worldwide.


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“桃は紅、李は白、薔薇は紫 春風は一様に吹くが、花の色はそれぞれ” (漢詩『詩格』)

満州子は1913(大正2)年、父・頼治郎(当時、東亜煙草株式会社大連支店長)と母・丈子の三男四女の五子として中国の大連に生まれます。2歳になる前に帰国、日本の東京で育ちます。満州子は6歳の正月の書初めで、はじめて墨と筆を手にします。厳格な父の儒教的教育方針の下で育てられ、漢詩や和歌、書といった中国や日本の古典の素養を身に付け、父の書架から見つけた古典の名筆の法帖を手本に、臨書を重ねほぼ独学で書を学びます。満州子は父から雅号「桃紅」をつけてもらいます。

「結婚なんて簡単にしたら大変だ」

東京府立品川高等女學校(現在の東京都立八潮高等学校)に入学すると、団体行動や規則に従うことが苦手で、周囲に迎合するのが嫌いな満州子の行動は「わがまま」とされ先生にいつも叱られます。女学校を卒業すると、結婚後すぐに戦死した夫の姑に仕える女学校の友人を見て、満州子はなんとか家を出て、一人で暮らしていけるようにしなくてはと考えます。書道家・下野雪堂先生も「あなたはいつでもひとかどの書家になれますよ」と背中を押してくれ、23歳の満州子は一軒家を借りて習字を教え始めます。

「自分が感じるものを好きに表したい」

27歳のときに満州子は銀座鳩居堂で初個展を開きます。自作の歌と古歌を書いた独自の書を約20点展示すると「才気だけの根無し草」と酷評されます。翌年、東京大空襲に遭い両親と妹と共に会津広田に疎開。肺結核から療養生活を経て回復するも、まもなく父そして母と死別。戦後の自由な思潮の中、34歳から満州子は「書」の世界から踏み出し、新しい造形の探求を始めます。さらに書道美術院に所属、前衛書道家また墨象作家らと一緒に海外展にも出品します。

「アートというものが持っている範囲の広さ」

43歳の満州子は、ボストンのスエゾフ・ギャラリーから招待を受け渡米。さらに世界中のアーティストとコレクターが集まるニューヨークに移動、400以上あるギャラリーをひとつひとつ訪ねて作品を見てもらっているうち、バーサ・シェファー・ギャラリーの女主人から声がかかります。それをきっかけに、シンシナティのタフト美術館、シカゴ美術館の東洋館、ワシントンのジェファーソン・プレイス・ギャラリーなどで個展を開催。満州子は2ヵ月おきに移民局へ行ってはビザを更新。2年以上ニューヨークを拠点として活動しながら多くのアーティストと交流、水墨の現代的かつ先鋭的な造形表現を生み出して多くの人々を魅了します。

「とどめ得ぬもの 墨のいろ 心のかたち」

帰国後は、国内での個展開催はもちろん、第6回サンパウロ・ビエンナーレに招待出品、ニューヨークのベティ・パーソンズギャラリー、シンガポール国立近代美術館、ロンドンのアネリー・ジュダ・ギャラリーで個展を開催。さらに増上寺大本堂のロビー壁画・道場襖絵を制作、ワシントン駐米日本大使館公邸で壁画を制作、御所の御食堂に絵画を制作。壁画や壁書、レリーフといった建築に関わる仕事ならびに大作を仕上げる一方、リトグラフや装丁、題字、随筆を手掛けるなど、多岐にわたって活躍します。

-岐阜現代美術館 / Gifu Collection of Modern Arts

「あなたは誰のものでもない あなたはただあなたのもの」

"You belong to no one. you are simply your own."


森崎 和江 女史

Ms. Kazue Morisaki

1927 - 2022

韓国大邱市 生誕

Born in Tegu-City, South Korea


森崎 和江女史はフェミニズムまたウーマンリブの草分け的思想家です。谷川雁、上野英信・晴子夫妻ともに文学運動・サークル村を創始。さらに日本全国の辺境を訪ね歩いて、女炭坑夫・海外売春婦・海女など女性労働者はじめ、女性史について多くのノンフィクション、また詩集を刊行しています。

Ms. Kazue Morisaki is a pioneering feminist and women's liberation thinker. She, along with Mr. Kan Tanigawa and the husband-and-wife team of Hidefumi Ueno and Haruko Ueno, founded the literary movement and community known as "Sākuru Mura." Furthermore, she traveled extensively throughout Japan, visiting remote regions, and authored numerous non-fiction works and poetry collections concerning female laborers, including women coal miners, overseas prostitutes, and ama divers, making significant contributions to the field of women's history.

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「慶州は母の叫び声」

和江は、朝鮮人学校の教員に携る父・庫次と、父を追って生家を出奔した母・愛子のもと、日本支配下の朝鮮大邱に生まれます。朝は八十連隊の営所から起床ラッパが風のまにまに住宅地までとどき、レコードからは軍隊風に行進する童謡が流れ、大勢の将兵が出征するのを友達と一緒に見送ります。和江は朝鮮人の乳母また家政婦はじめたくさんのオモニに可愛がられ、朝鮮人の少女たちと一緒に歌い語り合います。そんな中、父・庫次は名士・李秀峯と協力して慶州中学校を創立、校長に就任。一家で慶州に移り住むも、まもなく母・愛子は病床につき死去。和江は下宿して大邱高等女学校に通い始めます。成長するにつれ、朝鮮人の少年また男性たちからは性的侮蔑的な無言の圧力また嫌がらせに怯えるようになります。

「わが身の罪深さが一度に照らし出された」

敗戦間近の17歳のときに、父の知り合いを頼って福岡県女子専門学校(現・福岡女子大学)に入学。まもなく一家で福岡に移り住みます。文学科も家政学科もないのでしかたなく保健科で学びます。和江は日本を郷里とするべく方言を必死で覚えます。ある日、クラスメートである炭鉱町の医者の娘から、汗にまみれて働いている人々が皆日本人だと聞かされてひどいショックを受けます。太平洋戦争下の学生動員中には、休み時間に絵を描こうとすると「非国民」とキャンバスを蹴り飛ばされます。食べるものは米粒がありやなしかの粥ですっかり食欲を失います。終戦後、結核の治療のために佐賀で療養生活を送りながら詩作をはじめます。父の郷里・久留米に移り、同人誌・『岬』、丸山豊が主宰する詩誌『母音』で作品を発表し始めます。

「女の抱き方を知らん労働者は、本質において労働者をしめ殺しよる」

敗戦後の新しい日本のもと、和江はNHK福岡放送局でラジオのエッセイや、ラジオドラマの脚本を担当。まもなく結婚、ラマーズ法を実践する産婆を探し出して長女を出産します。同時に父親が死去、妹を引き取って同居を始めると、弟が早稲田大学在学中に自死。和江は福岡県女性史の編纂に参加して、長女を抱いて博多の遊郭を訪ねたり、ボタ山が燃える炭鉱町を見て歩きます。まもなく、安保闘争・三池争議の高揚とともに、谷川雁、上野英信・晴子夫妻ともに筑豊の炭坑町・中間に転居。文化運動芸誌『サークル村』を創刊、女性交流誌『無名通信』を刊行。 職業・学歴・地域・性などによって分断された人々を結ぶ場となるはずが、労働者同士の分裂を招いて会員同士による強姦殺人事件を引き起こします。

「日本の1人の女に生まれ変わりたいと思って」

「女に関することは闘争と別と思っとろう」「たかが強姦ごときで…。大事の前の小事だ。」和江は雁とのこどもを流産します。「よかなー、一緒に泣いてくれる人のおらすばい。わしは10回も掻きだしたばってん、夫はしらんふりしとる」和江は雁と決別、ひとり炭鉱町に残って女炭坑夫の聞き語りを集めます。さらに、そのへんの草木と同じにみられていた女性の苦悩、商品として扱われていた女性の苦悩を、女性問題として社会に認めさせる運動を起こします。海外売春婦(からゆき)・海女はじめ日本列島各地の集落ではたらく女性たちを訪ねては、方言での聞き語りを集めます。


-福岡県男女共同参画センター FUKUOKA GENDER EQUALITY CENTER

-RKB毎日放送 / RKB Mainichi Broadcasting Co. 

「リスクを自分たちで予測して、自分たちで社会をつくる」

"Predict risks ourselves and build our society accordingly."


中西 準子 女史

Ms. Junko Naknishi

1938 - 

中国大連市 生誕

Born in Dailian-City, China


中西準子女史は環境リスク管理学の創始者です。化学物質による人の健康さらに生態系に与えるリスクを評価する手法を確立しました。

Ms. Jyunko Nakanishi is a pioneer in environmental risk management. She established methods for assessing the risks posed by chemical substances to human health and ecosystems.

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「どちらの考えが正しいのだろう」

準子は中国の大連で、南満州鉄道で働く父・功と、大連の図書室に勤める母・方子のもと、2人姉妹の長女として誕生。上海に引っ越してまもなく共産主義運動家の父・功はゾルゲ事件関連で検挙され東京の巣鴨拘置所に連行されます。とても豊かだった生活が一変、今まで親切にしてくれた人達から急に石を投げられる生活になります。母・方子は姉妹を連れて大連市の孤児院に身を寄せて住み込みで働こうとしますが、準子は臭いご飯にハンガーストライキをして反発。母は姉妹を連れて日本の父を追いかけます。門司港まで船で着くと、父の実家を訪ねますが戦時下の貧しさと家父長制・封建制の理不尽で陰湿な生活に逃げ出します。藤沢市鵠沼海岸に住む父の弟・三洋また富貴子夫妻の家に転がり込みます。父に死刑求刑がされる中、3人はたびたび巣鴨拘置所まで会いに行きます。敗戦を迎えようやく釈放された父が日本共産党員として凄まじい理論闘争をする現場を、準子は怖いと思いながらじっと見て育ちます。準子は小学生から広くマルクス主義の本を読みあさり、中学生で東大の大学院生が開く地域ゼミに参加、高校では社会科学研究会に所属、大学では技術革新の中身をのぞこうと横浜国立大学で化学工学を専攻します。

「多くに人にとってもファクトと思えるもの」

さらに準子は、東京大学の歴史上10番目の女性として応用化学のドクターを取得。化学工業全盛期にもかかわらず、準子につられて女性の給与が高くなることを嫌厭され就職先が見つかりません。ちょうどその頃、水俣病の工場排水を研究する宇井純博士の推薦より、東大工学部に新設されながら研究者らから嫌厭されている汚水・下水・工場排水を扱う都市工学の助手に抜擢されます。早速、準子は東京に新設された浮間排水処理場(のちの浮間水再生センター)に流入する物質毎のマスバランス(物質収支)を調査。水銀・鉛・銅・クロム・カドミウムの50%以上が汚泥に移行せず河川に流出している結果を得ます。東京水道局・大学・マスコミが発表を阻止する中、宇井純博士はじめ華山謙博士ならびに岡本雅美博士の推薦により1971年「公害研究」創刊号に調査結果を発表。準子は研究費を削減され大学・学会から村八分にされ、研究室の学生たちは進学また就職を妨害されますが、さらに小台下水処理場で焼却処理される汚泥中の重金属毎のマスバランスを調査。水銀・ヒ素・カドミウムの50%以上が灰に残存せず気化する結果を得ます。これらの調査結果は住民運動を引き起こし、浮間排水処理場は廃止され、1976年下水道法の改正により工場排水は厳しく規制されます。

「意思決定のための未来予測」

「壊し屋」と土木界から罵られる中、準子は水循環という観点から、いくつもの市町村から下水を集めて下流で一括処理する「流域下水道」に反対。不経済性指数を提案して下水道では規模が大きいほど不経済になることを証明します。さらに、人口密度に応じた下水道計画を提案、1982年に家庭毎の下水処理施設「個人下水道(現在の家庭用合併処理浄化槽)」を開発します。そして準子は水循環の一環をなす下水道をつくるために、アメリカのミシガン州立大学でリスク評価の研究手法を学びます。帰国後、日本の水道水中発がん物質のリスク評価を発表、発がんリスクは一生水道水を飲み続けると10万人あたり2~8件、リスク削減費用は1件あたり4~11億円、汚染のひどくない地域で塩素処理の代わりにオゾン処理を導入するのは不適切であり、リスク削減のコストの重要性を提起します。「人命軽視」と市民団体から批判される中、横浜国立大学環境科学研究センター教授に就任した準子は、ダイオキシン対策としてのごみ処理焼却施設の広域化・巨大化またRDF発電に反対。ダイオキシン類の発生源を追跡するために宍道湖また東京湾の底質資料を分析、さらに農家の物置を探し回って、ダイオキシンが焼却炉起源ではなく過去に製造・使用された農薬起源であることを突き止めます。新しく発足した産業技術総合研究所の化学物質リスク管理研究センター長に就任した準子は、化学物質のリスク評価書を作成、さらに化学物質の大気中濃度を排出量と気象条件から計算するソフトウェア(ADMER)を開発。リスクを自分たちで予測して、自分たちで社会をつくっていくことを呼びかけています。

-日本学士院 Japan Academy

-横浜国立大学 Yokohama National Univ.

百婆仙
(萬了(法名・戒名)、妙泰(道号)、道婆(法号)、道婆(位号))
Ms. Hyakubasen / Pekpason
(Manryo (Dharma name/preceptual name), Myotai (Dogo name), Doba (Dharma name), Doba (Initial name))
1560 - 1656
韓国慶尚南道金海市 生誕
Born in Gimhae City, Gyeongsangnam-do, South Korea

百婆仙 女史は日本初の女性陶芸家で、有田焼草創期に陶工集団を率いた女性リーダーです。文禄の役(壬辰倭乱)に夫・宗伝とともに「日本の宝」になる陶工首領として、武雄領主・後藤家信に連行され武雄の領内で陶器ならびに磁器を焼き始め、夫の死後は陶工集団を統率して有田に移住して磁器生産に取り組みました。
Ms. Pekpason was Japan's first female potter artist and a pioneering female leader who led a group of potters during the formative years of Arita ware. During the Bunroku War (Keicho Invasion), she, along with her husband Soden, was recognized as a leading potter, deemed a "national treasure," and brought to the domain of Lord Goto Ujimoto in Takeo. There, she began firing pottery and porcelain. After her husband's passing, she continued to lead the group of potters, eventually relocating to Arita to focus on porcelain production.

「女性沙器匠」
妙泰は夫・宗伝に従って朝鮮慶尚南道の金海から、文禄の役(壬辰倭乱)の引き揚げ船に同乗して日本の武雄に渡ります。秀吉の死によりようやく帰国できる諸大名は、長い間の異郷での滞陣・自領民の徴兵狩り出し・食糧財貨の供出などで苦境に陥った領財政を立て直すべく、競って高麗の優れた技術者を連行します。武雄領主・後藤家信も帰陣の際に陶工の一団を連れ帰ります。その首領が妙泰と宋伝の沙器匠夫婦です。二人は従軍僧で広福寺住職の別宗和尚に帰依、一族30人と共に日本に渡ります。広福寺の門前の宿舎に旅装を解いた一行は翌日から陶土を探し求めて武雄一体を踏査。数年後ようやく皿屋の谷に窯をつくり、最初に焼いた抹茶茶碗を領主・家信に、香炉を別宗和尚に贈ります。2人は日本姓・深海に改名。資金ならびに土地を与えられ、武内町の内田・黒牟田などに移住して窯を築構します。やがて帰化した陶工たち900人を束ねるようになります。

「女性陶工リーダー」
妙泰は夫・宗伝とともに、茶碗・土瓶・大小の皿・徳利・壺・瓶・甕・鉢はじめさまざまな作品を個性的に手掛けます。ひも状の粘土を輪積みし内側と外側から叩いて締めて蹴りろくろを回しながら成形したら(叩き技法)、表面を彫って色のちがう粘土を嵌めこんでメリハリある模様をつけたり(象嵌)、白泥をハケで塗って模様を描いたり(刷毛目)、その上から鉄また銅を原料とする釉薬(鉄釉また銅釉)を塗って含有率と焼成の具合で黄・青磁・黒・柿また緑・赤の色合いまた質感を施します。妙泰と夫・宗伝は高麗で手掛けていた精白透明な磁器の製作にも取り掛かります。武雄の土は磁器の原料となる長石・珪石の含有量が少く、うわ薬を完全に溶かし美しい磁肌をこしらえようと高温で燃焼すると、素地が炎に耐えられず変形します。反対に、素地のひずみをなくして完全な形を整えるために火加減を弱めると、うわ薬が完全に解けずに透明度が鈍くなります。

「炎の女神」
妙泰と夫・宗伝の精進20年余り過ぎた頃、有田町で鍋島直茂が朝鮮から連れ帰った焼物頭・李参平が陶石を見つけて沸き立つ中、夫・宗伝が逝去します。妙泰は動揺する陶工たちを励まし、武雄領主・茂綱と交渉し、住み慣れた武内町から有田郷の稗古場・天神森に移転します。陶工集団960人を率いて新しい土地で白磁器の焼成を指揮します。登窯を築くための山間の丘を探し、運んだ陶石を水碓(唐臼)で細かく砕くための渓流を探し、窯の構造設計と焼成技術を駆使して、温度調節・燃焼効率・温度分布・酸化還元を操り、原料成分の溶融変化を見極めます。妙泰が60歳の頃、ようやく透き通るような乳白色で、叩くと金属的な音がする白磁器の焼成に成功します。妙泰はじめ陶工達は中国原産の希少な呉須(酸化コバルトを含む鉱物)の淡い藍色調で、春風に揺らぐ柳並木・野を掛ける兎・秋の野菊・池の端にたたずむ鷺・飛び交う山鳥など、郷里の山里の風景はじめ四季折々の風物また草花・禽獣を描きます。やがて高麗の半農反工の諸職人ならびに土着の諸細工人が有田に押し寄せ、需要と供給の不調和、山林の乱伐、朝鮮陶工と土着の陶工・農民との感情対立が深刻となります。妙泰は朝鮮と日本双方の社会でリーダーシップを発揮しながら、2男7女を育て96歳で永眠。次第に陶磁器生産は男性中心の労働となる中、有田焼の生産現場では、絵付けなどを中心に女性職人が消えることはありませんでした。

-報恩寺『萬了妙泰道婆之塔』
-株式会社新海商店
-ギャラリー百婆仙
-佐賀県立 九州陶磁文化館

「わたしの一生というのは、黄色い一本の長い道なのです」

"My life is like a long yellow road."


穐吉 敏子 女史

Ms. Toshiko Akiyoshi

1929 - 

中国遼陽 生誕

Born in Liaoyang, China 


穐吉 敏子女史は、米ジャズ界における最高栄誉「ジャズマスターズ賞」を受賞している日本初のジャズピアニスト・作曲家です。日本人で初めてボストンのバークリー音楽院で学び、日本のアイデンティティをオリジナルジャズに活かしながら長年ビッグバンドを率いて世界で活躍しています。

 Ms. Toshiko Akiyoshi is the first Japanese jazz pianist and composer to receive the highest honor in the American jazz scene, the 'Jazz Masters Award. She was the first Japanese person to study at Boston's Berklee College of Music and, leveraging her Japanese identity, has led big bands for many years, making a global impact with her contributions to original jazz compositions.



『トルコ行進曲』

敏子は小学1年生のときに女学生の弾くトルコ行進曲』に魅せられます。早速、小学校の音楽の先生に頼み込んで、放課後の学校や先生の自宅で教えてもらいます。やがて大連の女学校に進学しながら同時に大連音楽学校にも通ってピアノ教師のもとで学びます。15歳のときに終戦、翌年に両親の故郷である大分県に引き揚げます。

Sweet Lorraine

物資不足で困窮する中、別府の駐留軍キャンプ「つるみダンスホール」でピアノ弾きの仕事を始めます。そこで、テディ・ウィルソンの『Sweet Lorraine』を聴いてすっかりジャズに魅せられます。18歳で上京。あちこち駐留軍キャンプまたダンスホールで夜毎に演奏をしながら腕を磨きます。敏子は最新の輸入盤が置かれているジャズ喫茶に通ってビバップと呼ばれるモダン・ジャズを手探りで学びます。

『Amazing Toshiko Akiyoshi』

「コージー・カルテット」を結成して西銀座の日本初のライブハウス「テネシー・コーヒーショップ」で演奏しているところを、来日したジャズピアニストであるオスカー・ピーターソンに認められ、彼の後押しでレコード『Amazing Toshiko Akiyoshi』を録音。米国でレコードが発売されると、日本人初のジャズピアニストとして話題になり、26歳の敏子はバークリー音楽院に奨学生として招待されます。敏子は留学生として学びながら、着物姿で激しくビバップを演奏、本場でも大きな話題を呼びます「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」はじめボストンの人気クラブ「ストーリービル」などに出演、卒業後は拠点をニューヨークに移しベース奏者チャーリー・ミンガスのバンドに参加します。

『孤軍』

34歳のときにアルト・サックス奏者チャーリー・ミリアーノと結婚するもまもなく離婚。子育てとJAZZの両立に悩み、娘を日本の姉に預け、様々な偏見や差別などに苦しみながらJAZZ活動を続けます。やがてフルートまたテナー・サックス奏者ルー・タバキンと結婚。ロサンゼルスで「秋吉敏子=ルー・タバキン・ビッグ・バンド」を結成。敏子は45歳のときに、ルバング島で発見され大ニュースになった小野田寛郎少尉を題材に、ジャズと日本古来の和楽を融合した「孤軍」を発表。夫ルーがフルートを笛のように響かせ、能で使う鼓の音色も加えます。世界中で大ヒットとなり、JAZZにおける日本人のアイデンティティを知らしめます。以降、自らの作編曲で世界中で活動を続け、グラミー賞では計14度ノミネートされるが未受賞ながらも、70歳のときに日本人唯一「国際ジャズ名誉の殿堂」入り、77歳のときにジャズ界で最高栄誉となる全米芸術基金の「ジャズ・マスター賞」を受賞現在ソロなどで活躍中。

-2007 NEA Jazz Master

-Discogs.com

「ファッションが面白い。ファッションが好きだ。ファッションって時代を表現して感動的である。」
"Fashion is fun. I love fashion. Fashion is expressive of the era and is emotional."

大内 順子 女史
Ms. Junko Ouchi
1934 - 2014
中国上海市 生誕
Born in Shanghai-city, China

大内順子女史は、日本初のファッションジャーナリストです。日本で初めて海外のファッションコレクションを直撃取材して、日本初のファッション専門テレビ番組『ファッション通信』を開設しました。
Ms. Juniko Ouchi is Japan's first fashion journalist. She conducted the first on-site coverage of overseas fashion collections in Japan and launched Japan's first fashion-focused television program, "Fashion Tsushin" (Fashion Communication).

「ファッションは楽しい!」
 順子は、生物学者の父親・大内義郎の次女として中華民国上海市で生まれます。上海の中でも特に美しいと言われたフランス租界にある上海自然科学研究所内の父の研究室を、順子は姉と一緒に度々のぞきに行きます。広大な敷地はまるで美しい公園のように芝生・並木・築山があり、大きな煉瓦造りの建物の中の冷たい石造りの長い廊下の先にある二部屋続きの部屋、研究室のドアの外にある大きな戸棚の扉を開くと、大きな大きな花のように鮮やかな色のおびただしい数の美しい蝶の標本。蝶や昆虫の採取に出かけた父からは度々順子と姉に押し花の便りが届きます。まもなく日中戦争が始まると順子は母と姉と共に帰国。神戸、大阪、岡山など疎開先を転々とし、戦後は父方の実家である福岡県八女郡白木村に移り住み、父・義郎の愛知大学創設に伴い家族で愛知県豊橋市に転居します。やがて順子は青山学院大学文学部英米文学科に入学すると、翌月には画家で舞台美術家・宮内裕に銀座でスカウトされます。順子は裕と学生結婚をする一方、『婦人画報』で雑誌やファッションショーのモデルとして活躍し始めます。まもなく「暮らしもファッションも心も美しくあれ」と世に問うた芸術家・中原淳一のお気に入りモデルとなり、雑誌『それいゆ』に『中原淳ファッションショー』に出演するようになり、順子はファッションの世界にのめりこみます。

「ファッションの感動を伝えたい!」
 あるときエジプト開催『国際コットンフェア』のショーモデルの仕事が舞い込みます。エジプトからローマに渡ってヨーロッパを周遊する中で、順子はパリで見たファッションコレクションの楽しさを日本に伝えたいと思い立ちます。その矢先の20代半ばの夏、順子は交通事故で眼窩や頬骨に大怪我を負い右目の視力を失います。モデルからファッション・ライターに転身して、大きなサングラスを着用しながら、ファッションコラムの執筆で活躍します。まもなく『家庭画報』の編集長の後押しを受け、順子は日本で初めてChanelのマドモアゼルのアパルトマンを見せてもらい、オートクチュールの仮縫シーンを撮影します。エルメスでは社長のインタビューはじめ工房、かつての王たちのために作られた乗馬服・ブーツの色見本・皮見本・王たちのサインがとじられたオーダーブックまで見せてもらいます。たちまち大反響を呼んで隔月連載になり、イタリアから北欧のショップまで取材を敢行します。次に順子はファッション動画を撮影しようと思い立ち、ソニー会長夫人の協力のもとパリのSonyから機材を借り、パリ在住のアメリカ人のカメラマンとエンジニアの二人をアルバイトで雇います。パリとミラノのコレクション取材を自前で編集、原稿を添えてNHKに持ち込み、朝30分の番組枠で紹介します。すると主婦でなく働く男女に見てもらいたい順子は、なじみのTBS女性ディレクターならびに森英恵の夫の後押しを受け『ファッション通信』を深夜枠で放映開始します。資生堂の後援を引き出し、海外コレクションのバックステージでデザイナーにマイクを突きつけながらヨーロッパの階級社会に人脈を広げ、世界各地のファッション情報を臨場感たっぷりに伝え続けます。

-ファッション通信

 「我心誰ぞ知る。こんな分からん世の中に生きたところで何になろう。」
"Who truly knows my heart? What will become of me in a world so inexplicable?"

川島 芳子(愛新覺羅顯㺭 / 東珍 / 金璧輝)女史
Ms. Yoshiko Kawashima / Aisin Gioro Xianyu /  Dongzhen / Jin Bihui
1906 - 1948
中華民国北京粛親王府 生誕
Born in Pekin, China

川島芳子女史は「男装の麗人」「満州のジャンヌ・ダルク」「東洋のマタ・ハリ」。清朝の皇族・粛親王善耆の第14王女として誕生。川島浪速の養女、蒙古族カンジュルジャブとの結婚と離婚を経て、「清朝復辟」のために上海の関東軍に身を寄せ、諜報活動・婉容皇后の天津脱出・上海事変・熱河作戦に参加しながら満州国樹立に協力。やがて暴走する関東軍の大陸政策を批判、自伝小説また手記を発表してメディアを活用しながら日中和平工作に奔走するも、太平洋戦争終結後に中国軍に反逆罪で捕えられ「エログロの権化」「漢奸」として銃殺刑に処せられます。

Ms. Yoshiko Kawashima was known as the "Beauty in male attire", "Jeanne d'Arc of Manchuria," and "Mata Hari of the East". Born as the 14th daughter of Prince Su of the Qing Dynasty, she went through marriages and divorces, including one with Mongolian prince Jinzhu. She aligned herself with the Kwantung Army in Shanghai for the restoration of the Qing Dynasty, engaging in espionage, assisting Empress Wanrong's escape to Tianjin, participating in the Shanghai Incident and the Nomonhan Incident, and supporting the establishment of Manchukuo. Later, she criticized the aggressive continental policies of the Kwantung Army, utilized media by publishing autobiographical novels and memoirs, and worked tirelessly for Sino-Japanese peace efforts. However, after the end of the Pacific War, she was captured by the Chinese military on charges of treason and executed by firing squad, labeled as "the embodiment of eroticism and gore" and a "traitor to the Han."

「父と義父」
 芳子の父は、蒙古・朝鮮・陝西・四川・山東省に遠征して満州朝廷の基礎を築いた知勇兼備の粛親王10代目の王。日清戦争以後、日本・ロシア・アメリカ・イタリア・イギリス・ドイツなど西洋列国が侵略の手を伸ばし、「扶清滅洋」の旗を掲げた義和団が各地で抗戦、西太后と光緒帝に従って北京から西安に退避、忠勤に励みます。21王子と15王女のうち芳子は14番目の王女・金壁輝として第四側妃を母として生まれます。芳子の義父・川島浪速は、東京外国語学校を中退して上海・満州に遊学して陸軍通訳官として従軍。紫禁城の無血開城の功績により紫禁城宮内家督に任命されるとともに、北城警務處ならびに警務学堂を創設して警察官吏の指揮と養成にあたります。まもなく西太后と光緒帝に従って紫禁城に戻ってきた芳子の父・粛親王と親交を結び、蒙古の喀喇沁王を加えて満蒙独立に乗り出します。

「玩具」
 西太后と光緒帝が相次いで崩御、革命軍が中華民国政府を樹立、アメリカと結んだ袁世凱により宣統帝が廃帝、ロシアの勢力を取り入れたモンゴルの王侯らは外蒙古の独立を宣言、粛親王ならびに芳子はじめ家族50人は日本軍艦で渤海湾を渡って旅順に軟禁され、2階建ての客舎の部屋に数名ずつ住み、兄弟姉妹で協力して着物・肌着をつくって室内・庭の手入れをし、父の指導のもと家族そろって大食堂で食事・勉学・体操など規律的に過ごします。「百姓のくれた一握りの麦飯と河の水で餓渇を凌いだ漢の高祖の心を各自の心として生活しなさい。」ある日、11歳の芳子は帰国させられた義父・川島浪速の住む東京に手紙と共に送り込まれます。「君に玩具を進呈する。なにとぞ可愛いがってくれ。」

「ジャンヌ・ダルク」
 芳子は、御影石の門柱に桜の木が200本と椎の大木に囲まれた広大な屋敷で、専属の家庭教師・赤羽(本多)まつ江を「赤羽のお母様」と慕います。まつ江の好物をすぐに覚えると、自分の膳にあるものでも手を付けずに「赤羽のお母様召し上がって」。芳子は豊島師範付属小学校に入学。紋綸子の着物に紫緞子の袴に大きなリボンをつけて先生を「おい君」と呼びながら、縄跳び・キャッチボールに興じ、日舞・琴・茶道・盆石・油絵・乗馬を習います。ある日学校帰りに読んだ『ジャンヌ・ダルク孤忠史談』に触発されて「私に三千人の兵隊があったら支那を取って見せる!」と宣言。いつかはジャンヌ・ダルクのように先頭に立って失われた清朝の地を回復したいと決意します。

「異邦人」 
 芳子の父・粛親王ならびに母・第四側妃が逝去。芳子は義父・川島浪速とともに旅順に駆け付け、墓守のため数か月を過ごします。清王朝腹辟の夢破れて長野松本に隠居した義父・川島浪速に従って芳子は長野松本に移り、跡見高等女学校から松本高等女学校に編入するも日本国籍がないことを理由に退学となります。芳子は聴講生として時々馬で通って授業に出ては途中で抜け出したり、苦学生の友人のために文字通りひと肌脱いでヌード写真を撮らせます。芳子はかつて言い含められた父の言葉を自分に言い聞かせます。「支那人でも日本人でもない。支那と日本を結ぶ柱石いや捨て石。」

「男装のはじめ」
 芳子は家で勉強しながら、耳が遠くなり厳格になっていく義父・川島浪速の筆談はじめ秘書を務めます。川島浪速59歳のこの頃の口癖は「粛親王は仁者。自分は勇者。この二人の後を結合させると仁勇兼備の子が誕生するだろう。」大正13年10月6日夜9時45分に芳子17歳は永遠に女を清算。日本髪に結って裾模様の着物を着てコスモスの咲く庭で記念撮影をすると、午後に床屋で頭を五丈刈りにします。「家有れども帰り得ず。涙あれども語り得ず。法あれども正しきを得ず。冤あれども誰にか訴へん。」その直後、自分に求愛する岩田愛之助から渡されたピストルで自殺未遂をおこした芳子は、病院で避妊手術を済ませ男装で日本を後にして、大連にいる兄・憲立を訪ねます。

「モンゴルの王妃」
 「あれは嫌だ」「この人は嫌いだ」結婚話を断り続けて数年後、とうとう芳子に嫌だと言わせない縁談が起こります。蒙満独立運動に駿名を謳われた蒙古王族パプチャック将軍の遺児・カンジュルジャブとの政略結婚は、関東軍元参謀長・斎藤恒の仲人により旅順のヤマトホテルで盛大に執り行われます。草原の暮らしはじめ家族になじめない芳子は数年で家出、上海公使館付武漢補佐官・田中隆吉のもとに身を寄せ、関東軍参謀・板垣征四郎の指揮下に入ります。清朝皇族の人脈と語学を活かして支那はじめ欧米の情報を引き出したり、情報提供者を保護したり、上海事変の現地工作また停戦調整に一役果たしたり、溥儀の婉容皇后を天津から旅順へ護送したりする任務に従事。満州国建国宣言が行われると、溥儀を「執政」粛親王第7王子を「内務官特使」とする「清朝復辟」とは縁遠い満洲国樹立に芳子は失望します。

「満州のジャンヌ・ダルク」
 芳子は田中隆吉を罵り始め、海軍の練磨少将と仲違いさせ襲撃させます。また時の陸軍大臣はじめ関東軍が崇める「爆弾三勇士」の実態が、自爆で突撃路を開いた英雄でなく、火縄が短すぎて起きた事故だと各国の政府要人に暴露。板垣征四郎は芳子を満州国の執政女官長に任命して上海から追い出すも芳子は1か月で舞い戻ります。東京に居を構えた兄・憲立を訪ね2千円を無心すると、その足で小説家・村松梢風を訪ね「自分は川島芳子の妹で、姉の知られざる奇しき半生を小説家して欲しい。」と訴えます。数か月寝起きを共にして完成させた小説『男装の麗人』を『婦人公論』編集部に持ち込んで連載をはじめると大ヒット、中央公論者から刊行され、舞台劇にもなります。芳子は支那通で対中穏健派の満州国軍政部最高顧問・多田俊大佐に身を寄せ、安国軍総司令官として熱河省進出に参加したり、日本人居留者数百人を監禁する東北民衆救国軍・蘇炳文との和平工作に参加、「日本に協力する清王朝王女」として盛んにマスコミに報道されます。

「東洋のマタ・ハリ」
 芳子は上海を離れ日本の麻布桜田町の満州国公使館2階に陣取り、『婦人公論』編集部に手記を渡し『動乱の蔭に 川島芳子自伝』の連載をはじめ中央公論社から刊行、『十五夜の娘』『蒙古の唄』を歌ってがコロムビア社から発売します。芳子は新聞・ラジオ・雑誌・講演会など日本のマスコミで活躍しながら公使館の自動車を走らせ銀座・赤坂・人形町などのダンスホールをまわります。新聞『国民新聞』・雑誌『日本国民』のオーナーで昭和の天一坊と騒がれる相場師・伊藤ハンニを口説いて新東洋社を結成、資産家で海軍に飛行機・飛行場を献納していた笹川良一を口説いて国粋大衆党を結成、太平洋戦争を回避するよう遊説してまわります。「外交官や軍人や特権階級流のやり方ではなく民衆レベルの握手でなくてはならぬ。」「討つ人も討たるる人も心せよ。討つも討たれるも同じ同胞。」

「東興楼の女主人」
 芳子は天津に中華料理店「東興楼」を開業、広大な屋敷に失業中の中国人百名以上を雇い入れ、庭の中庭に成吉思汗(ジンギスカン)鍋を据え、戦線に出て行ったり奥地から戻ってくる日本兵にお茶とお菓子また入浴の接待サービスを始めます。中国と日本を行き来しながら、かつて芳子の父・粛親王に死刑を減刑された国民政府重鎮の汪兆銘、芳子の義父・川島浪速とアジア連帯主義を牽引する玄洋社の頭山満、はじめ中国と日本の政界また軍部の有力者たちに日中和平会談を呼びかけます。内閣総理大臣・近衛文麿ならびに陸軍大臣・東条英機は国民政府・蒋介石との和平工作を徹底的に阻止、「大東亜共栄圏」「大東亜新秩序」を宣言して太平洋戦争を開始。芳子は抗日テロ集団ならびに関東軍の両方から命を狙われます。終戦後、芳子は「漢奸」として北京で国民党政府軍に捕らえられ、関係者の名前を一言も漏らすことなく銃殺刑で42歳の生涯を閉じます。ポケットに忍ばせた辞世の句は「我心誰ぞ知る。こんな分からん世の中に生きたところで何になろう。」

-『動乱の蔭に 私の半生記』川島芳子 著(時代社1940年)
-『男装の麗人・川島芳子伝』上坂冬子 著(文藝春秋1984年)
-『川島芳子獄中記』川島芳子 著・林杢兵衛 編 (東京一陽社1949年)

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